ポジティブボーイは嫉妬する
夏が訪れると、何の根拠もなく「オレの季節が来た」と思う。自分の誕生日が八月のせいもあるが、梅雨が明けて蝉がうるさく鳴き始めると、無性にテンションが上がるのだ。部活でも、不思議と夏になると調子が良くなり、打率も上がってくる。
教室の窓から見上げる空はやたらと青くて、ぽっかりと浮かぶ白い雲を眺めていると、ブルーハワイのカキ氷が食べたくなってきた。そういえば、来月には花火大会もある。
昼休みの教室をぐるりと見回すと、廊下側の一番後ろの席に八重樫さんは座っていた。一緒にいるのは田村さんだ。河野さんは風邪で朝から休みで、「うるさいのがいなくてせいせいするわ」と成海が鼻で笑っていた。
八重樫さんと仲良くなってから気付いたけれど、彼女の交友関係は著しく狭い。そういえば、オレ以外の男子と会話しているところは一度も見たことがない。
――花火大会、八重樫さん誘ってみようかな。浴衣とか着てきてくれないかな。
「なあなあ瀬那! おまえは?」
「へ?」
「シライシさんとエミリちゃん、どっち派なんだよ?」
一足跳びに、八重樫さんに似合う浴衣の色に想いを馳せていたオレは、友人の声で現実に引き戻される。
オレの昼休みは、八重樫さんと音楽室で過ごすか、クラスの男子連中と馬鹿話をして過ごすかの二択だ。たまに中庭に出てフットサルをしたりもするが、最近は暑いのでほぼ教室の中で過ごしている。
今日の話題は「うちの学年で一番カワイイのは三組のシライシさんか七組のエミリちゃんか」だったらしく、ふたつの派閥に分かれて舌戦が繰り広げられていた。オレは正直、どっち派でもなかった。てか、女の子ってだいたいみんなカワイくない? なんかもう存在がカワイイ。なんか柔らかそうだし、いい匂いするし。
「うーん、二人ともめちゃくちゃカワイイけどさあ……オレはどっち派とかはないかも」
「あーそうか、瀬那はマッキーみたいなのが好みなんだもんな。ドMだから」
「ドMではない! ああいう気の強い美人から、瀬那くんダメな子ね、って優しく叱られたいだけ!」
「やっぱMじゃねーか」
呆れ混じりにそう言われて、ぱしんと頭を叩かれた。くそ、やっぱ男に叩かれても全然嬉しくないな。どうせシバかれるならマッキーがいい。
「あ。オレ、飲み物買ってくる」
「待って瀬那、俺も行くわ」
財布とスマホを手にオレが立ち上がると、成海もついてきた。
ついでにコーラ頼むわ、おれアイスティー、だなんていう悪友どもの声を無視して、オレと成海は教室を出る。購買へと歩き出したところで、ごくごく小さな「あの」という声が背後から聞こえた。オレじゃなきゃ聞き逃してしまうくらいの、消え入りそうな声。
振り向くと、やっぱりそこに立っていたのは八重樫さんだった。スカートの裾をぎゅっと握りしめながら、迷子の子どものように不安げな表情を浮かべている。
八重樫さんが他の奴がいるところで話しかけてくるなんて珍しい。どうしたの、と声をかけようとしたところで、彼女はもう一度「あのっ」と口を開いた。
「な、な、成海くん」
……成海くん?
オレの口は「ど」の形に開いたまま固まってしまった。成海はぱちぱちと瞬きをして、「え? 俺!?」と戸惑いの表情を浮かべている。無理もないだろう。八重樫さんが成海と話しているところなんて、入学以来一度も見たことがない。
八重樫さんは頰を真っ赤に染めて、「と、突然すみません」と頭を下げる。成海は声がよく聞こえなかったのか、「なんて?」と訊き返していた。バカやろう。八重樫さんは声が小さいんだから、耳かっぽじってよく聞いとけ。
「あ、あの……さっき真央ちゃんからLINEきて……古文のノート、成海くんに預けといてくれって……」
そう言って八重樫さんは、おずおずとノートを差し出した。成海と河野さんは幼馴染で、家が近所なのだと聞いたことがある。
「あー、俺に持って来いってことか。真央の奴、人遣い荒いな」
チッと舌打ちをした成海に、八重樫さんの肩がびくっと跳ねる。「す、すすすすみません……」と泣き出しそうな顔をした八重樫さんに、オレは「八重樫さんに怒ってるわけじゃないから」とフォローを入れた。
「ごめんなー、八重樫さん。ありがとう」
成海がノートを受け取りながら礼を言うと、八重樫さんは真っ赤な顔でふるふると首を横に振る。ぺこぺこと二回頭を下げてから、スカートを翻して教室へと戻っていった。
それを見送りながら、オレは腹の底からムカムカがこみ上げてくるのを感じる。八重樫さんが来たとき、オレは何の疑いもなく、彼女はオレに用事があるのだと思っていた。オレにはめったに話しかけてこないくせに、と理不尽に腹を立ててしまう。
「うわー、八重樫さんすげえ字きれい。ノートわかりやすっ。頭良さそうだもんなー」
ノートを開いた成海が感嘆の声をあげるのに、オレは面白くない気持ちで「当たり前だろ」と答える。
オレも何度か後ろから覗き込んだから知っているけれど、八重樫さんのノートはお手本にしたいくらい美しい。八重樫さんは真面目だし、いつも真剣に授業を聞いて、几帳面にノートをとっているのだ。
「……成海。八重樫さんと仲良いの?」
「いや、全然。真央と仲良いのは知ってたし、中学から同じだけど、ほとんど喋ったことない」
「ふーん……」
じゃあ、なんで下の名前で呼んでるんだろう。釈然としない思いを抱いていると、成海がニヤリと唇の端を上げて笑った。
「なあなあ、俺ちょっと思ったんだけど」
「なに?」
「八重樫さんって、もしかして俺のこと好きなんじゃないかなーって」
「はあ!? それはない! 絶対ない!」
成海の自惚れた発言を、オレは食い気味に否定した。こんなに力強く何かを否定したのは、オレの人生で初めてじゃないかってくらいに全力で否定した。成海は「なんでだよー」と唇を尖らせる。
「えー? だって、なんか顔赤かったしさあ……」
「八重樫さんの顔が赤いのは赤面症なだけだし、視線が合わないのはコミュ症なだけだし、モジモジしてるのは挙動不審なだけだから! そこんとこ、勘違いしないように!」
「でも、名前で呼ばれたしなー」
「うっ……」
たしかに、その点についてはオレも気になっていた。オレの知る限り、彼女が男子のことをファーストネームで呼ぶことはないはずだ。オレの苗字ですら未だに噛むくせに、なんなんだよ。八重樫さんと一番仲の良い男子は、オレだと思ってたのに。
「とにかく、ないから! 自惚れんなよ!」
念押しのようにそう言うと、オレは購買に向かって大股でズカズカと歩き出した。
その日の放課後は、およそ一ヶ月ぶりの掃除当番だった。二人で教室に残るのは、八重樫さんから「緊張しない秘訣を教えて欲しい」と言われたとき以来だ。
せっせと真面目に掃除をしている八重樫さんを横目に、オレはちょっと不機嫌だった。八重樫さんもそんなオレの様子が気になるのか、チラチラと不安げにこちらを気にしている。
「あ、あの……芳川くん」
「んー?」
「……なにか、怒ってますか……?」
おそるおそる尋ねた後、八重樫さんは「あっ、やっぱりいいですっ、すみません!」と頭を下げる。敬語に逆戻りしてしまったことが悲しかったが、これはオレの自業自得だろう。オレは頭をガシガシと掻いて、「機嫌悪くてごめん」と詫びた。
「あのさあ……成海のことなんだけど」
「……成海くんの?」
またしても成海の名を口にした彼女に、苦々しい気持ちになる。このモヤモヤを吹き飛ばすべく、オレは単刀直入に問いかけた。
「八重樫さん、もしかして成海のこと好きなの!?」
「えっ……えええええええええ!」
八重樫さんは真っ赤になって、ぶんぶんとかぶりを振る。ふたつに結んだ髪が勢いよく揺れて、まるでプロペラのようだった。
「ない! ないない! ないです! いえ、私ごときがこんなに否定するのも失礼な話ですが……! あの、おかしな誤解があってはいけませんので……」
全身全霊で否定をしてくれた八重樫さんに、オレはほっと胸を撫で下ろす。しかし、まだひとつ懸念事項が残っている。
「じゃあ、なんで成海のことは名前で呼んでんの? 八重樫さん、あいつと仲良かったっけ?」
「……え? あの、成海くんの名前って……」
「斎藤成海でしょ」
オレの言葉に、八重樫さんは大きく目を見開くと真っ青になり、両手で顔を覆って「うおおおおおお……」と呻き声をあげた。かわいい見た目には似つかわしくない、地の底を這うような声に、オレはびくっとする。
「や、八重樫さん?」
「……わ、私……ずっと成海くんのこと、苗字だと思ってた……」
「へ?」
「真央ちゃんがずっと成海成海って呼ぶから、そうなのかなって……ああよく考えたら、成海くん……いえ、斎藤くんの方は真央って呼んでたもんね……ああああ私のバカ……絶対こいつ何で馴れ馴れしく名前で呼んでんだよって思われてるよぉ……死にたい……」
この世の終わりかのように打ちひしがれている八重樫さんに、オレはぽかんとする。たかだかクラスメイトの男子を名前で呼んだぐらいで、ここまで落ち込む女の子をオレは知らない。
「……えーと。そんなにヘコむこと?」
「……よく知らない女子から名前で呼ばれてたら、〝なんだこいつキモッ〟て思わない?」
「思わない! もしかするとこの子オレのこと好きなのかな? って思う!」
「うわあああああ……」
オレの返事は逆効果だったらしく、八重樫さんはますます身悶えてしまった。やっぱり彼女はちょっと変わっている。
それにしても八重樫さんは、中学からの同級生である成海のフルネームを、今の今まで知らなかったのか。どれだけ他人に興味がないんだ。このぶんだと、もしかするとオレの名前も覚えられていないのではないだろうか。
「八重樫さん、オレの名前知ってる?」
「え? うん……芳川瀬那くん、だよね」
あっさりと答えてくれた八重樫さんに、オレの気持ちはふわりと浮き上がった。やはり彼女と一番仲の良い男子はオレなのだ。成海のやつ、バカな勘違いしやがって。自分のことは棚の上に放り投げて、そんなことを考える。
「じゃあさ、これからオレのことも名前で呼んでよ!」
「えっ……ええええ!! む、無理です!」
オレの提案を、八重樫さんは全力で拒否した。たかだか下の名前を呼ぶだけなのに、何が無理なのかまったくわからない。諦めきれず、オレは食い下がる。
「なんで? 成海のことは呼んでたじゃん!」
「そ、それは苗字だと思ってたからで……」
「オレの名前も苗字みたいなもんじゃん! それにオレのことは苗字呼びなのに、他の奴を名前で呼ばれんのは嫌だ!」
「で、でも……」
「そっちが無理なら、じゃあオレはこれから名前で呼ぶ」
「え?」
オレはぐいと彼女の髪を掴んで引くと、困り果てた様子の彼女を覗き込む。ぱちぱちと瞬く黒目は、ガラス玉みたいできれいだ。オレはどんな風に呼ぼうかと少し思案してから、彼女の名前を口にした。
「紬ちゃん」
至近距離にある顔が、みるみるうちに真っ赤に染まる。その頰は成海と話しているときよりもうんと赤くて、オレは愉快な気分になった。
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