ネガティブガールは怒らせる

 同世代の男の子に名前を呼ばれるのは、生まれて初めての経験だった。彼にとってはきっと、クラスメイトの女子をファーストネームで呼ぶことなんて、別に大したことじゃないんだろう。それでも、私にとっては大事件だ。

 なんだかやけにドキドキして眠れなくて、今朝はうっかり寝坊してしまった。教室に飛び込むのと同時に予鈴が鳴って、セーフ、とほっと胸を撫で下ろす。

 クーラーの効いた教室はひんやりとしていたけれど、早歩きしてきたせいでいつも以上に汗だくになってしまった。どうか汗臭くありませんようにと祈りながら、こそこそと自分の席へと向かう。


「あ、紬ちゃん! おはよー!」


 教室の真ん中でクラスメイトと喋っていた芳川くんが、私に気付いてぶんぶんと手を振った。どぎまぎしつつも「おはよう」と答えると、彼の周りの男の子にじろっと注目されて、私はひゅっと息を飲む。居た堪れなくなって、そそくさと逃げるように自席に座った。

 頬杖をついて、紬ちゃん、と呼ぶ彼の声を反芻してみる。今まで自分の名前のことを「苗字にも濁点が入ってるのに、なんで名前にまで濁点がついてるんだろう……」と思っていたけれど、芳川くんが口にした「紬ちゃん」という響きはキラキラしていて、なんだかすごく綺麗な名前に感じられた。お父さんお母さん、こんな私に素敵な名前をつけてくれてありがとう……。

 教室の窓の外にはさんさんと太陽が輝いていて、抜けるような青い空が広がっている。夏は嫌いだけれど、こうして眺める夏の景色は結構悪くない。……もちろん、あの暑さの中に飛び込んでいくのは嫌だけれど。こうやって、涼しいところから眺めているのが一番だ。

 ……芳川くんのことだって同じだ。名前を呼ばれて浮かれている場合じゃない。調子に乗って近付きすぎて、火傷をするのは絶対に嫌だ。数少ない私の長所は、己の分を弁えているところである。

 ぼんやりそんなことを考えていると、ふいに後ろから肩を叩かれた。おそるおそる振り向くと、悪戯っぽい笑顔を浮かべた芳川くんがこちらを見ている。


「紬ちゃん! リーディングの予習してきた?」

「え、あ、うん、一応……」

「オレ、なんか今日当たる気するんだよ! 悪いけど、ちょっと教えてくんない?」


 そう言って身を乗り出してきた芳川くんに、私はこくこく頷いた。ささやかながら、彼の力になれるのは嬉しい。ノートを差し出すと、「このあたり、全部訳してきたけど写す?」と尋ねる。


「助かるー! あとでジュース奢るわ!」


 私だけに向けられる太陽のような笑顔に、私の心臓はちょっと火傷しそうになってしまった。危ない、危ない。




 今日一日を大きな失敗もなく無事にやり遂げたことに安堵しながら、私は教科書をリュックに詰める。芳川くんは「紬ちゃんバイバーイ!」と明るく手を振って、さっさと部活に行ってしまった。

 芳川くんは本人の予想通り、リーディングの授業で本当に当てられた。いつもは堂々と「わかりません!」と答える彼がすらすらと答えていたので、先生にいたく驚かれていた。私がばっちり教えてあげたところだったのだ。チラリと振り向いた私に向かって、隠しもせずにピースサインをしてみせた芳川くんは、先生から「八重樫の入れ知恵か」と呆れられていた。


「ねえねえ、八重樫さん」


 リュックを背負って帰ろうとしたところで、ふいに声をかけられた。ビクッと肩を揺らした私は、おそるおそる振り返る。

 見ると、そこに立っていたのは、クラスメイトの筒井つついさんと百瀬ももせさんだった。二人ともきれいな目立つ女の子で、うちのクラスの陽キャ代表女子みたいな人たちだ。二人とも、芳川くんとも結構仲が良かった気がする。そんな殿上人が、一体私に何の用なんだろう……。


「な、なんでしょうか……」


 私は男の子も苦手だけど、イケイケキラキラ陽キャ女子もちょっと苦手だ。何もしていないのに、陰で悪口を言われているような気持ちになってしまう。きっと彼女たちは、私のことなんて気にもかけていないだろに。

 挙動不審さを悟られないよう、必死に平静を装っていると、筒井さんが好奇心に瞳を輝かせながら訊いてきた。


「八重樫さんって、瀬那と付き合ってるの?」

「えっ……え、ええ!?」


 予想だにしなかった問いかけに、額に変な汗が滲む。心臓が口から飛び出しそうになるのを飲み込みながら、私は全力で首を横に振った。


「ち、ち、ちぎゃいます!」


 勢い余って、思い切り噛んでしまった。そんな私の必死さに、筒井さんと百瀬さんは顔を見合わせて苦笑する。

 芳川くんから「成海のこと好きなの?」と言われたことといい、最近の私は誤解を招く言動が多すぎる。私の軽率な行動により神様があらぬ誤解を受けることなんて、絶対にあってはならない。


「なーんだ、違うんだあ。最近なんか、いい雰囲気だと思ってたのに」

「め、めっそうもない……ほ、ほんとに、芳川くんのような方が、私なんぞのことを気にかけてくださって、という感じで……」

「ぶっちゃけ、八重樫さんの方はどうなの? あいつ、バカだけどいい奴だし、たぶん浮気とかしないタイプだよ!」

「もし八重樫さんがいいなら、付き合っちゃいなよ!」

 

 そ、そ、そ、そんな無責任な! 私はともかく、芳川くんの意思は無視ですか!

 ……なんて、この私がキラキラ女子相手に言い返せるわけもない。しかしここでしっかり否定しておかないと、芳川くんに迷惑がかかってしまう。それは絶対に嫌だ。彼は私にとって、大事な大事な神様なのだ。


「……あ、あの。ほ、本当にそういうのじゃないんです! 芳川くんが私のこと、とか絶対にありえないので……」

「そうかなー? 瀬那、絶対八重樫さん狙いだと思うんだけど」

「あ、ありえないです……あんな人が、私みたいな最下層の人間のことなんて好きになるはずが……」

「でも仲良いよね?」

「そんなことないです! わ、私と芳川くんは、別の世界の住人ですから!」


 私にしては、そこそこ大きな声が出たと思う。言い切った、という満足感に浸っていると、私の後ろを見た百瀬さんが目を丸くした。


「あれ、瀬那。どーしたの?」


 ぎくりと身体が強張った。ギギギ、と音でも出そうなぐらいにぎこちなく振り向くと、芳川くんが立っていた。眉間に皺を寄せて、ちょっと怒ったような顔をしている。成海のこと好きなの? と訊かれたときと、同じような表情。

 彼の顔を見た瞬間、私は全身の血の気が引いていくのを感じた。どうしよう、もしかして聞かれてしまったのだろうか。しかも、なんだか怒っていらっしゃる。気分を害するのも当然だ、私なんかとの関係を勘違いされてしまったのだから。もう死んでお詫びをするしか……。


「忘れ物取りに来たんだよ。おまえら、紬ちゃんのこといじめんなよなー」


 フリーズしている私をよそに、芳川くんは机にひっかけていたスパイクケースを手に取る。筒井さんが「いじめてないっての!」と芳川くんの背中を軽く叩いた。


「八重樫さんと恋バナしてただけだよねー」

「瀬那、絶対ないって言われてたよー。あははフラれてる、ウケる」

「うるせー」

「あ、あの……よ、芳川くん」


 私がオロオロと声をかけると、芳川くんはむすっとした表情のまま「じゃーまた明日!」と去って行った。走って教室を出て行った彼の背中は、すぐに見えなくなってしまう。どうしよう、絶対不快にさせちゃった……。


「あいつ、なんであんな怒ってんの?」

「感じ悪ぅ。八重樫さん、なんかごめんねー」

「い、いえ……お二人は悪くないです……」


 元はと言えば、周囲に誤解を招くような振る舞いをした私が悪いのだ。名前で呼ばれて、ウキウキしている場合じゃなかった。このバカ。浮かれポンチ。身の程を知ることにかけては、一人前だと思っていたのに……。

 今朝までの幸せな気持ちはどこへやら、私の心はずーんと一気に地の底まで落ちてしまった。もう二度と、彼は私のことを「紬ちゃん」と呼んでくれないかもしれない。そんなことを考えながら、私はなんだか泣きたくなってきた。




 打ちひしがれつつも帰宅した私は、とにかく彼に謝罪をすることにした。

 明日学校で謝ろう、とも思ったのだけれど、もうみんなのいるところで話しかけるのは嫌がられるかもしれない。電話をかけるのは迷惑だろうし、そもそもアポなしでかけるなんて緊張しすぎて無理だ。

 悩んだ挙句、私は彼にメッセージを送ることにした。これなら目を通してくれるだろうし、それほど負担にはならないはずだ。

 私は三時間ほどかけて、彼へのお詫び文書を考えた。完成した後も送信する勇気がなかなか出てこなくて、やっとのことで送信ボタンをタップしたときには、もう夜の十時を過ぎていた。


 ――部活動でお疲れのところ恐れ入ります。今日は私の言動により、不愉快な思いをさせてしまって申し訳ありませんでした。以後、余計な勘違いをされぬよう立ち振る舞いには充分気をつける所存です。


 よくよく考えると、今この状態が私にとって分不相応すぎたのだ。あんなキラキラした男の子と、一緒にお昼ごはんを食べたり、二人で寄り道をしたりするなんて。高校時代の思い出として、一生胸に抱いて生きていこう。……私の高校生活、まだ序盤もいいとこだけど。

 送ったものの反応が怖くて、私はスマホをベッドの上に伏せる。そのまま正座をしていると、数分もしないうちにスマホが震えた。私はこわごわ画面を表返して、彼からの返事を確認する。


 ――紬ちゃん、オレが何で怒ってんのかわかってる?


 短い文字列を見た瞬間、震えが止まらなくなってしまった。怖い。なんかもう、文面から滲み出る空気が怖い。いつも明るい人が怒ると、どうしてこうも恐怖を感じるんだろう。

 私は三十分くらいかけて、「私との関係を誤解されたからですよね?」と送信した。既読がついて数秒で、「違うよ!」と返ってくる。「じゃあどうしてですか?」と尋ねると、そこから彼のメッセージはぴたりと途絶えてしまった。

 ……どうしよう。好かれたいだなんて思っているわけじゃないけれど、大事な大事な神様に嫌われるのは辛い。

 お近づきになりたいだなんて図々しいことは願わないから、せめて遠くから祈りを捧げることくらいは許して欲しい。私は枕に顔を埋めると、キリキリと痛む胃を抱えて「ううう」と呻いた。

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