ネガティブガールは干からびる

 結局私はほとんど眠れず、目の下に大きなクマを作ったまま学校に行った。肌はガサガサだし、髪はボサボサだし、汗だくだし、最悪のコンディションだ。こんなみっともない姿を、芳川くんには見られたくない。

 教室に入ると、まだ芳川くんはいなかったのでホッとした。真央ちゃんと穂乃果ちゃんに「おはよう」と挨拶をすると、「どうしたの、ひっどい顔だよ!」と驚かれてしまった。私は曖昧に笑って、フラフラと自席に向かう。

 あと数分もすれば、芳川くんが来てしまう。ああ、会うのが怖い。昨日までは永遠に席替えをしたくないなあと思っていたのに、今は一刻も早く席替えをして欲しい。そういえば今日は水曜日だから、芳川くんと一緒にお昼ごはんを食べる約束をしているんだった。ああ、どうしよう……。


「おはよー!」

「あ、瀬那。はよー」

「おはよ! 今日くっそあちーな!」


 教室中に響き渡るほどの大きな声に、私はぎくりと身体を強張らせた。ざわざわとした教室の喧騒が、一切耳に入ってこなくなる。下を向いたまま、ぎゅっと握りしめた自分の両手だけを見つめている。

 こちらにずんずんと歩いてくる足が、ぴたりと私の前で止まった。「紬ちゃん」と名前を呼ばれて、おそるおそる顔を上げると、芳川くんがこちらを見下ろしていた。じーっとこちらを見つめる大きな目は、まるで吸い込まれそうな不思議な輝きを放っている。


「おはよう」

「お……おはよう……ございます……」

「今日、一緒に昼食うよな? ちゃんと話したいから、逃げないように!」


 びしりと人差し指を突きつけられて、私はこくこくと壊れた人形のように何度も頷く。芳川くんは満足げに「よし!」と頷いて、私の後ろの席に腰を下ろした。

 それから先生が来てショートホームルームが始まっても、その後の授業中もずっと、じりじりと焦げつくような視線が背中に刺さっていて、私は昼休みまで生きた心地がしなかった。




 昼休み開始のチャイムが鳴るなり、芳川くんはがしりと私の腕を掴んだ。狼狽えているうちに、私の腕を引いたまま、ズカズカと大股で音楽室へと歩いていく。廊下ですれ違う人たちが、なんだなんだと私たちに注目しているのが恥ずかしい。市中引き回しの刑、ってこういうのだったっけ……。


「よ、芳川くん……」

「なに?」

「その、に、逃げたりしませんから、あの……手を」


 離してください、と続けようとしたところで、ギロリと睨まれて、慌てて「なんでもないです」と言った。

 音楽室に入って扉を閉めると、しん、と重苦しい沈黙が落ちる。彼は黙ったまま、唇を不機嫌そうに「へ」の字に曲げて、じっと私のことを見つめている。これまで彼と二人きりの空間で、こんな風に気まずい静けさに包まれることがなかった。今まで芳川くんがあれこれ話してくれたからだ、と改めて気付かされる。

 しばらく膠着状態が続いていたけれど、沈黙を破ったのは芳川くんの方だった。


「紬ちゃん」

「ふぁ、ふぁい」

「オレが何で怒ってるか、わかる?」


 じりじりと距離を詰めてくる芳川くんに、私は思わず後ずさる。いつのまにか壁に背中にぶつかって、もう逃げ場はないのだと悟った。

 私はてっきり、彼は私との関係をみんなに勘違いされたから怒っているのだと思っていた。でも、昨日彼は「違う」と言った。それなら……ダメだ、てんで心当たりがない……。

 観念した私は「すみません……わかりません」と答える。芳川くんは身体を屈めて、下を向いたままの私の顔を覗き込んできた。


「……あのさあ、紬ちゃん。オレたちって、友達じゃなかったの!?」

「へ……え?」


 予想外の言葉に、私はきょとんと瞬きをする。芳川くんは不満げに腕組みをして続ける。


「なんだったら紬ちゃんのこと、一番仲良い女子くらいに思ってたんだけど! それなのに紬ちゃんの、〝相手にしてもらってる〟みたいなスタンスなに!? 別の世界の住人ってなに!?」

「え、いや、あ、あの……」

「あのさあ、自分の立場に置き換えてみてよ! もし紬ちゃんが河野さんとか田村さんにそういう態度取られたら嫌じゃない?」

「い、嫌、です……」

「あんなはっきり、仲良くない、とか言われたら、さすがのオレだって、ちょっと……いや、結構傷つくし!」


 そこで言葉を切った芳川くんは、ややふてくされた表情のまま、ポリポリと指で頰を掻いた。


「……でも、まあ……紬ちゃんがオレのこと苦手にしてるなら、それはしょーがないかなとも思う。オレ、強引なところあるから……ゴメン」


 そう言って芳川くんは、綺麗な体育会系のお辞儀をする。私は無言のまま、ふるふると首を横に振った。今口を開くと、泣いてしまいそうだった。

 ――私は、彼にどれだけ失礼な振る舞いをしてしまったんだろう。どうせ私なんてと自分を卑下するあまり、彼のことを傷つけてしまった。彼は私のことを、ちゃんと友達だと思ってくれていたのに。


「……ごめんなさい。ごめんね……」


 絞り出した声はみっともなく震えている。涙が溢れてしまわないように必死で顔面に力を入れていると、芳川くんがぎょっとしたように目を見開いた。


「つ、紬ちゃん。表に出ちゃいけない顔になってる」

「も、元からこんな顔です……」

「そんなことないよ! 普段はもっとカワイイよ!」

「い、今優しい言葉かけないで……さ、最後の砦が崩されそうなんです……」


 芳川くんは「なにそれ?」と呆れたような笑みを浮かべる。やっと彼が笑ってくれたことにほっとして、うっかり気持ちが緩んでしまった。ぽろりと涙が頰を流れ落ちた途端に、涙腺が決壊する。突然だばだばと泣き出した私に、芳川くんは慌てたような声を出す。


「うわ、つ、紬ちゃん! ほんとごめん! オレ、言い過ぎた!」

「す、ずびばぜん……る、涙腺がフルオートなもので……」


 芳川くんの指が私の頰に触れて、とめどなく流れる涙を拭ってくれる。当然そんなものじゃ全然追いつかなくて、芳川くんの手はすぐにびしょびしょになってしまった。


「ふぐ……ぐす、お、お手数かけます……」

「泣かしといてなんだけど、紬ちゃんすんごい泣き方すんね。なんか干からびそう」


 それから数分ほど、芳川くんは私の涙が止まるまで根気よく待ってくれた。しばらく経ってようやく落ち着いた私は、ティッシュで鼻をかみ、持っていたハンカチで顔を拭って、深々と頭を下げる。


「お見苦しいものをお見せして申し訳ありません……」

「大丈夫? 干からびてない? お茶飲む?」

「も、問題ないです……」


 私は大きく息を吸い込むと、「あの」と芳川くんの目を見つめる。いつだって彼はまっすぐに私のことを見ていてくれたのに、私はオドオドと視線を逸らすばかりで、彼と真正面から向き合ったことがなかった。


「あの、私……芳川くんのこと、本当にすごい人だなあって尊敬してて……だから、その、今こうしてお話できるのも、畏れ多いけど、嬉しいです」


 彼のことを神様のように尊敬する気持ちは、今も変わらない。私なんかが彼のそばにいるなんて、という気持ちだって消えない。

 それでも、もう少しだけ、勇気を出して彼に近付いてみたくなった。翼が溶けてなくなってしまっても、イカロスは太陽に焦がれずにはいられないのだ。


「わ、私も、よしかわく……えと、せ、瀬那、くんのこと、い、一番仲良しの男の子だと……思っても、いい?」


 どきどきとうるさい心臓を押さえながら、私はやっとのことでそう言えた。私の言葉を聞いた瀬那くんは、ぱっと明るく表情を輝かせる。がしりと両手を握られて、私の口からは「ふぎゃ」という声が漏れた。


「当たり前じゃん!」

「え、あ、よ、よかった……」

「そうだ紬ちゃん、来月花火大会あるじゃん? よかったら一緒に行かない? 二人で!」

「え、え、えええええ?」


 あまりにも急なお誘いに、私の頭がついていけない。あれ、一般的な異性の友達同士って、二人きりで花火大会とか行くものなの? そういうのって、恋人同士がすることでは? 私が知らないだけで、陽キャ達の世界ではそうなの?

 そんな私の困惑をよそに、瀬那くんは「紬ちゃんの浴衣見たい、浴衣」と無邪気に笑っている。私は頰を引き攣らせながら、「ま、前向きに検討します……」と答えるのが精一杯だった。

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