ポジティブボーイはモヤモヤする
放課後の教室に残る生徒はまばらで、オレと紬ちゃんは机を挟んで向かい合っている。ひとつの机は、二人分の勉強道具を広げるにはちょっと手狭だ。
スカートを履いた彼女の膝が、オレの膝にごつんとぶつかる。ふたつに結んだ髪が揺れるたびに、甘いシャンプーの匂いがする。オレはちっとも集中できずに、頬杖をついて鼻の下でシャーペンを挟んでいた。顔を上げた紬ちゃんが、こちらを見て小さく首を傾げる。
「……瀬那くん。わからないところあった?」
「え、全部!」
「そ、そんなに堂々と言うことじゃないよ……」
困ったように眉を下げた紬ちゃんが、オレの手元にある教科書を覗き込む。「今、どのあたりやってるの?」と尋ねる紬ちゃんの額と、オレの額が触れ合うほどに近付いて、オレはなんだか胸の奥がざわざわした。
歌のテストも無事終わり、オレの役目もひとまず終了ということになったのだが、オレは紬ちゃんとの関係を終わらせたくはなかった。「勉強も教えて欲しいし、たまには一緒に昼飯食べたい」と伝えると、紬ちゃんは頰を紅潮させながら「私も」と頷いてくれた。
……ああ、やっぱり紬ちゃんは思わせぶりだ。彼女はたぶん、オレのことを恋愛的な意味で好きなわけではない。
――瀬那くんに初めて会ったときからずっと、瀬那くんみたいになりたかったの。
今度こそ正真正銘の告白か、と慌てふためいたオレに、紬ちゃんは曇りのない瞳できっぱりそう言った。またしても盛大に空回りしたオレは、ちょっとどころかかなり落胆してしまった。
――もしも今紬ちゃんに告白されたら、オレはなんて答えるんだろう。紬ちゃんみたいな女の子が彼女だったら楽しいだろうな、とは思う。それでもやはり、部活に打ち込む硬派な男としては、潔く断るべきなんだろうか。
こういうのを何と言うのか、オレは知っている。たぶん、「取らぬ狸の皮算用」というやつだ。紬ちゃんは、神様(要するにオレ)のことを好きなわけではない、と否定していた。ということは、つまりそういうことなのだ。
考えても虚しいだけだからやめよう、とオレはぶんぶん頭を振って余計な煩悩を追い払う。
「……せ、瀬那くん。あの、集中してね? べ、勉強するって言ったの瀬那くんでしょ……?」
上の空のオレを見ていられなかったのか、紬ちゃんが控えめにオレを注意した。彼女にしては珍しい、まるで小さな子どもを諭すような口調に、オレはテンションが上がる。
気の強いお姉さんに叱られるのも良いが、紬ちゃんのような日頃おとなしい女の子に叱られるのもまた良いものだ。ヘラヘラしながら「はーい」と答える。
「っ! いたっ」
にやついていると、パラパラとめくっていた教科書で指を切ってしまった。裂けた皮膚からぷくりと赤い血が盛り上がってくる。それに気付いた紬ちゃんが「だ、大丈夫!?」と青ざめる。
「うん、全然ヘーキ」
「でも、血が出てる……」
オレはそんなに痛くなかったけれど、紬ちゃんはオレよりずっと痛そうな顔をしている。まるで自分が怪我をしたみたいだ。なんだかこっちが気の毒になってきた。
「わ、私、絆創膏持ってるよ」
紬ちゃんは自分のリュックから小さなポーチを出すと、そこから絆創膏を一枚取り出した。「用意いいね」と言うと、彼女は「私、すぐ怪我するから」とはにかんだ。
紬ちゃんの小さな手が、躊躇いなくオレの手を取る。ティッシュで軽く血を止めてから、丁寧な手つきで絆創膏を巻いてくれた。柔らかな手の感触が心地良くて、ちょっとぎくりとした。
うすうす気付いていたが、ここ最近、どうにも紬ちゃんの距離が近い。
オレが近付いても触ったりしても、以前のように動揺しなくなった。むしろ、こうして自分から触れることさえ厭わなくなっている。オレの話をニコニコ笑って聞いてくれるし、休み時間には振り向いて嬉しそうに話しかけてくれることだってある。
昨日は一緒に昼飯を食べた後、おなかいっぱいになって眠くなったらしい紬ちゃんは、オレの前ですやすやと寝息をたて始めた。最初はびくびくとピアノの影に隠れていた女の子が、こんなにも無防備な姿を見せてくれるようになるなんて! オレは感動すると同時に、かなり動揺した。
……いやちょっと、無防備すぎないか? 女子って、こんなに平然と男の前で寝るもん?
オレは小学一年生の頃に出会った、ハムスターのどん兵衛に想いを馳せる。あいつも最初は臆病な奴で、オレが近付いても逃げるばかりで、ふしゃーっと威嚇され、何度指を噛まれたかわからない。それでも次第にオレに懐いてくれて、いつしか名前を呼ぶとすっ飛んできて、オレに擦り寄ってくるようになった。紬ちゃんもそんな感じだ。リラックスした表情で、オレのてのひらの上でゴロゴロ転がってる。
よく考えると紬ちゃんは河野さんと田村さんにも常にべったりだし、たぶん一度心を許した相手にはひたすらに懐くタイプなんだろう。……嬉しいけれど、ほんの少しだけ物足りなく感じる。
「瀬那ぁー! イチャイチャしてないでちゃんと勉強しろよ! 赤点取ったら公式戦ベンチ入りさせないって、監督が言ってたぞー」
たまたま教室に残っていたらしい成海が、こちらに向かってそう叫んだ。オレは「マジ!? やべー!」と頭を抱える。
「てか、じゃあ成海もやばいじゃん! 遊んでねーで勉強しろよ!」
「……俺は家帰ったら真央に教えてもらうんだよ……あいつ頭良いしわかりやすいけど、怖いんだよな……バカバカ言われるし」
「えーっ、幼馴染に〝もうバカ!〟って言ってもらえるの最高じゃん! オレも言われたい!」
「出たよ、このドM! アイツの〝バカ〟は殺意百パーセントの〝バカ〟なんだって! あ、俺も八重樫さんに教えてもらおうかな。どう? 八重樫さん」
成海に笑いかけられて、紬ちゃんは「ひえっ」と小さな声をあげると縮こまった。やはり、まだあがり症が治った訳ではないらしい。
顔を真っ赤にしてもじもじしている紬ちゃんを見ていると、オレにはもう赤くなってくれないのか、とくだらないことを考えてしまう。なんとなく腹立たしくなってきて、オレは「しっしっ」と成海を追い払った。成海は「じゃあ真央にシバかれてくるかー」と肩を落として帰っていく。
「……紬ちゃん、まだあがり症治らねーの?」
「うう……そ、そんなに簡単には……」
「だって、もうオレとは普通に喋れてるじゃん!」
「そ、それは瀬那くんだから……」
紬ちゃんがオレに心を許してくれることは、本来ならば喜ばしいことのはずなのに、何故だか素直に喜べない。オレは机に突っ伏して、「ふーん」と答えた。
「……どうかした?」
心配そうに瞬きをした紬ちゃんが、身体を傾けてオレの顔を覗き込んでくる。ふたつ結びの髪が垂れて、鼻先を軽くくすぐる。ああ、やっぱり顔が近い。
黒くてさらさらの髪に触れると、「なあに?」と彼女は柔らかく微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、なんだか胸の奥がぎゅっと握りつぶされたような気持ちになる。
指で髪の毛をくるくると弄んでいると、紬ちゃんがやや戸惑ったように瞬きをした。チラリと時計に視線をやった後、オレの肩を軽く揺する。
「……ねえ。ほんとに、そろそろ勉強しないと」
「紬ちゃんが〝もう瀬那くん、ちゃんとしなさい!〟って叱ってくれたらやる気出るかも……」
「……え? も、もう、瀬那くん、ちゃんとしなさい……」
「あっ、もっと幼稚園の先生みたいな感じでお願い!」
「……も、もう……瀬那くん……! ……む、無茶振りしないで!」
どうやら紬ちゃんにはハードルが高かったらしく、顔を両手で覆ってしまった。黒髪から覗く耳が真っ赤になっているのを見て、オレは嬉しくなった。懐いてくれるのは嬉しいけれど、やっぱりたまには照れているところも見たい。
オレがにやにやしていると、紬ちゃんは指の隙間から、拗ねたようにこっちを睨んでいた。正直、カワイイばかりで全然怖くない。「〝もうバカ!〟って幼馴染みたいな感じで言ってみて」とからかうと、紬ちゃんは「む、無理だよ……!」と泣きそうな声をあげた。
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