ネガティブガールは土俵に上がる
「つむぎんは、芳川くんと付き合わないの?」
「え!?」
期末試験を目前に控えた昼休み。いつものように教室の隅っこでおにぎりをかじっていると、穂乃果ちゃんがそんなことを言い出した。
唐突な質問に固まっている私に、穂乃果ちゃんは長い髪をさらりと揺らして首を傾げる。
「もうそろそろ秒読みかなーって思ってたんだけど! だってこないだデートしたんでしょ!?」
「で、デートって……か、カラオケ行っただけだよ……」
「そういえば、昨日の放課後も二人で教室残ってコソコソイチャイチャしてたって、成海が言ってた」
「こ、コソコソもイチャイチャもしてない……! 二人で勉強してただけ!」
かっと上がった体温を下げるべく、ボトルに入った冷たいお茶を喉に流し込む。クラスメイトがたくさんいる昼休みの教室でこんな話をして、誰かに誤解されてしまうのは困る! キョロキョロと周囲を確認したけれど、私たちに興味を示している人は誰もいなかった。
昨日は芳川くんが「勉強を教えて欲しい」と言うので、放課後二人で試験勉強をしていただけだ。教えて欲しいと言ったわりに、彼はあんまりやる気がなくて、私の髪をいじったり私をからかったりして遊んでいた。たぶん、私のことなんて微塵も意識してないんだと思う。彼にとって、私はハムスターのどん兵衛なのだ。
「えーっ、早く付き合ってよー! わたし、Wデートしたい!」
穂乃果ちゃんは、先週野球部の桜井くんに告白されて付き合い始めたらしく、やけに浮き足立っている。つい最近までサッカー部の橋本くんに熱を上げていたというのに、すごいフットワークの軽さだ。私に残ったのは、橋本くんの無駄に膨大な情報だけ。
いつのまに桜井くんに乗り換えたのかと思っていたけれど、穂乃果ちゃんは「とりあえず付き合ってみて、合わなかったら別れればいい」と言っていた。恋愛強者の思考回路は、片想いもロクにしたことがない私にはよくわからない。
「あ、真央ちゃんがもし成海くんと付き合い始めたら、トリプルデートしようね」
「げっ。気持ち悪いこと言わないでよ……永遠にないから」
「つまんないつまんない! ヤダヤダ! 幼馴染は絶対に結ばれなきゃヤダ!」
駄々を捏ねる穂乃果ちゃんを横目に、真央ちゃんは呆れたように溜息をつくと、「恋愛脳の穂乃果はほっといて」と私の方を向く。
「成海のバカが、〝八重樫さん、絶対俺のこと好きだと思ってたのに〜〟とか言ってたから一応否定しといたよ。ほんとバカだね、あいつ」
「……こ、こちらこそご、ごめん……たぶん、私の態度に問題があるんだと思う……」
「つむぎん、いつもほっぺた真っ赤だし、モジモジしながら男子に話しかけるから、誤解されるんだよねえ。やっぱり早く芳川くんと付き合うべきだと思う!」
穂乃果ちゃんの言葉に、私はぶんぶんと首を横に振る。
「わ、私……瀬那くんと付き合いたいだなんて、そんな大それたこと考えてないよ」
「えーっ、なんでえ」
「瀬那くんは私にとって、神様みたいなものだから……抱いてる感情も尊敬とか崇拝で、恋愛感情とは種類が違うっていうか、その」
しどろもどろに説明すると、穂乃果ちゃんは不服そうに桃色の唇を尖らせた。
「なーんかそれって、尊敬って言葉盾にして予防線張ってるみたいに聞こえる。結局つむぎんは、自分が傷つきたくないから、恋愛の土俵に上がることから逃げてるだけじゃないの?」
穂乃果ちゃんの言葉が、鋭い刃となって私の胸にぐさりと突き刺さる。私が俯いたままおにぎりを食べていると、真央ちゃんがビシッと穂乃果ちゃんの頭にチョップを入れる。
「いたっ!」
「こら、穂乃果。紬には紬の気持ちがあるんだから、自分の意見を押しつけるのはやめなさい」
「うう……たしかにそうだね。ごめんねぇ、つむぎん」
私は力ない声で「ううん」と答える。正直、痛いところを突かれた、と思った。
私の瀬那くんに対する感情が、ただの尊敬や崇拝ではないことに、私はそろそろ気付きつつある。男の子が苦手な私だけど、彼と一緒にいるのは楽しい。それに、あんなにキラキラした笑顔を毎日間近で浴びていたら、私の心なんてあっという間に溶かされてしまうに決まっている。炎天下に放り出されたアイスクリームみたいなものだ。
……それでも私は、自分の気持ちに尊敬以外の名前を付けることが怖い。
「……私はこのままで、いいの」
そう言ってクラスの中心にいる瀬那くんに視線を向けると、彼は私のことなんて目も暮れず、クラスメイトと楽しげな笑い声をたてていた。
昨日と同様、放課後残って勉強をしていた私たちは、下校のアナウンスが流れると同時に教室を出た。瀬那くんも昨日よりは集中できたようで、それなりに捗ったのではないかと思う。
「チャリ取ってくるから待ってて!」
瀬那くんはそう言って、駐輪場に向かって走っていく。まだ明るいし一人で帰れると言ったのだけど、瀬那くんは「オレが紬ちゃんと帰りたいだけ!」と言って聞かなかった。瀬那くんは優しいなあ、とうっかり胸をときめかせてしまう。
――結局つむぎんは、自分が傷つきたくないから、恋愛の土俵に上がることから逃げてるだけじゃないの?
穂乃果ちゃんの声が頭に響いて、私はしゅんと項垂れた。
できることなら、永遠に土俵に上がりたくなんてない。恋愛なんて、選ばれし光の者にだけ許された特権だと思っていた。
私は運良く瀬那くんの友達になれたけれど、たぶん彼の恋人にはなれない。瀬那くんが好きなのは牧原先生のような大人っぽい美人だし、冴えない私が瀬那くんのような素敵な人に選んでもらえるわけがない。
だったらこのまま、「仲良しの女の子」のポジションのままでいれば、瀬那くんは私に笑顔を向けてくれる。彼に他に好きな人ができる、その日までは。
「紬ちゃん?」
いつのまにか戻ってきていた瀬那くんが、心配そうに私の顔を覗き込む。「どうしたの」と問いかけられて、私は無理やり笑顔を捻り出す。
「……なんでもない、よ。帰ろう」
私が大股で歩き出すと、瀬那くんは自転車を押しながら追いかけてきた。こうやって、彼と二人で並んで歩けるだけでも幸せだと思おう。いつか瀬那くんに素敵な彼女ができたときに、笑って「おめでとう」と言う準備をしておかなければ……。
「紬ちゃん! 今日寄り道する時間ある?」
「へっ! え、あ……だ、大丈夫……」
「じゃあさ、ちょっと付き合ってよ!」
瀬那くんはそう言って、私の家とは反対方向に歩き出した。またコンビニにでも行くのかな、と思って着いていくと、彼はこじんまりとした公園の中へと入っていく。自転車を停めると、リュックの中から野球ボールを取り出した。
「磯野ー! 野球しようぜ!」
「え? 人違いです……」
「ちょっ、マジレスやめて! 紬ちゃん、キャッチボールしたことある?」
「な、ない……」
「ちょっと付き合ってよ! 部活ないから、久々にボール触りたい!」
「で、でも」
戸惑っている私に向かって、瀬那くんはぽんと山なりにボールを放った。おっかなびっくりキャッチしたボールはなんだかふにふにと柔らかい。これなら、グローブがなくてもキャッチボールができそうだ。
「それ、キャッチボール専用球だから! たまに教室で野球するときに使ってんの!」
教室で野球するのはどうなのかな……と思ったけれど、私は黙っていた。少し離れたところまで走っていった瀬那くんは、両手を上げて「ばっちこーい!」と叫ぶ。どうやら本気で、私とキャッチボールをするつもりらしい。
私が全力で投げたボールは全然彼のところまで届かなくて、ワンバウンドするとコロコロ転がっていった。瀬那くんはそれを拾い上げると、「もうちょい近付かなきゃダメかあ」と苦笑する。
瀬那くんはさすがに投げるのが上手で、たぶん普段の一割ぐらいの力しか出していないのだろうけど、ちゃんと私が取りやすい場所にボールを投げてくれる。私が投げ返したボールは、今度はノーバウンドで彼の元に届いた。
「おっ! 紬ちゃん、意外と上手い!」
「あ、ありがとう……」
私の体育の成績は決して良くない。チームワークを必要とする球技ではいつも隅っこの方でじっとしているし、平均台や跳び箱などの実技テストは緊張してボロボロだ。しかし、実際のところ運動神経に問題があるわけではないし、長距離マラソンのタイムなんかはそんなに悪くないのだ。ボールを受けて投げるぐらいのことなら、私にだってなんとかできる。
綺麗なフォームでボールを投げる瀬那くんは、ニコニコご機嫌な笑顔を浮かべながら、私に向かって叫ぶ。
「オレさー! もし彼女ができたら、彼女とキャッチボールすんのが夢だったんだよね!」
「え……えっ!?」
瀬那くんの言葉に動揺した私は、うっかりボールを取り落としてしまった。慌てて拾って投げ返したけれど、ボールはあさっての方向へと飛んでいく。
ボールを拾いに走る瀬那くんの背中を見ながら、私はいつか彼とキャッチボールをするかもしれない、可愛くて綺麗な女の子のことを想像してみる。
「いくよー、紬ちゃん!」
片手を挙げた瀬那くんは、さっきよりもずいぶん遠くから、ボールを投げた。
私よりもずっと遠くまでボールを飛ばせる、力強い肩。こんがり日焼けした逞しい腕。夏の太陽みたいな、眩しくてキラキラした笑顔。瀬那くんのすべてを独り占めできる女の子が、この世界のどこかにいるのかもしれないと思うと、その子のことが羨ましくて妬ましくて、胸がぎゅうっと痛くなる。
ぽーんと空に浮かんだボールが、私に向かって落ちてくる。両手でぱしんとキャッチすると、瀬那くんはニカッと白い歯を見せて「ナイスキャッチ!」と笑った。
――ああ。瀬那くんが他の女の子と、こんな風にキャッチボールするの嫌だな。
私は永遠に瀬那くんの恋人にはなれない。恋愛の土俵に上がらないというのは、そういうことなのだ。私は本当に、彼が他の女の子を好きになったときに、素直に応援できるんだろうか?
「……そんなの、無理だよ……」
ぽつりと呟いた声は瀬那くんには届かなかったらしく、耳に手を当てて「なにー!?」と叫んでいる。私は大きく息を吸い込んでから、「瀬那くんっ」と呼びかける。
「……ま、真央ちゃんから聞いたんだけど、もうすぐ野球部の試合あるんだよね」
「うん! 都道府県大会の三回戦な! これに勝ったらベスト十六!」
「……それ、わ、私も応援行ったらダメかな……?」」
私が投げたへなちょこボールを、瀬那くんは見事に背面キャッチする。ぱっと表情を輝かせて「いいに決まってんじゃん!」と答えてくれた。返ってきたボールを、私はなんとか受け止める。
「あ、あと、それから……は、花火大会のこと、なんだけど……」
「うん!」
「その……もう他の誰かと、行く約束しちゃった?」
「してない! オレ、紬ちゃんに一緒に行こうって言ったじゃん!」
夕暮れの蝉の声に負けないくらいに、心臓がバクバクとうるさく高鳴っている。私の顔は、きっと夕焼けの色よりもずっと赤くなっていることだろう。
――根性見せろ、八重樫紬。ここで言えなきゃ、私は一生傍観者のままだ。
てのひらのホクロを見つめて、深呼吸して、目を閉じて三秒数える。
私はかつてマウンドに立っていた神様の姿をイメージしながら、大きく振りかぶってみた。
今まで私はいろんなことから逃げてばっかりだったけれど、今回ばかりは逃げたくない。傷ついてもいい、後悔だけはしたくない。
――神様神様、お願いします。どうか、この気持ちが届きますように。
「わ、私……! せ、瀬那くんと二人で花火大会に行きたいっ!」
……きっと他人から見るとささやかなことだけれど、私にとっては偉大な第一歩だった。
力いっぱい投げたボールを、瀬那くんはしっかり受け止めてくれる。「まじ!? やったね!」とはしゃぐ彼の笑顔は、少なくとも今は私だけに向けられたものだった。
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