ポジティブボーイは恋を知る

 照りつける真夏の太陽は、日除けのスポーツタオルを通り抜けてじりじりと頭を焼く。このままだと、皮膚が焦げついてしまいそう。こんな殺人的な炎天下の中で、平気な顔をして走っている高校球児は本当にすごい。

 私はダラダラと流れる汗を拭いながら、ボトルに入った冷たいお茶を喉に流し込んだ。内野スタンドの前方では、吹奏楽部がルパン三世のテーマを演奏している。

 夏休みが始まり、私は真央ちゃんと穂乃果ちゃんと一緒に、野球部の試合の応援に来ていた。三十人ほどいる部員の中でも、ベンチ入りできる選手は十八人。一年生の大半は、私たちのいるスタンドで声を枯らして応援している。

 瀬那くんは背番号をもらってベンチ入りしているようだけれど、彼のポジションであるセンターを守っているのは三年生の先輩で、彼の出る幕はなさそうだった。昨夜通話したときには、「紬ちゃんが応援来てくれるなら、ちょっとくらい出番回ってこないかなあ」と言っていた。


「あーあ。せっかく応援に来たけど、ヒロくんの出番なさそうだなー」


 私の隣で、穂乃果ちゃんがつまらなさそうに唇を尖らせる。穂乃果ちゃんの彼氏である桜井くんもベンチ入りしているようで、声を張り上げる瀬那くんの隣に座っていた。

 穂乃果ちゃんは「ユニフォーム姿のヒロくんかっこいい!」とはしゃいでいたけれど、私にとっては瀬那くんの方がずっと素敵に見える。彼は特別顔立ちが整っているわけではないけれど、なんだかオーラがキラキラしているのだ。


「ねえねえ真央ちゃん。今うちは勝ってるの? 負けてるの?」

「……穂乃果、今まで何見てたの? 負けてるよ」


 穂乃果ちゃんの問いに、真央ちゃんはちょっと呆れつつも答えている。

 野球のルールをほとんど知らない穂乃果ちゃんは、「ボールが遠くに飛んだらホームラン、一周回ったら一点」ぐらいの知識しかなく、試合の展開がまったくわかってないみたいだ。スタンドに入ったファールボールに対しても、「なんで今のはホームランじゃないの?」と首を捻っていた。

 試合は九回裏で、最後の攻撃が始まったところだ。現時点で、一対三で二点のリードを許している。相手の高校は昨年県大会ベスト四の実力で、「うちみたいな弱小が勝てるわけないじゃん」と観客席からもどことなく諦めのムードが漂っている。

 出てきた五番バッターはフォアボールで出塁したものの、続く六番バッターはあっけなく三振に終わり、続く七番バッターもショートゴロでツーアウト。あーあ、という落胆の溜息があちこちから聞こえてきた。

 しかし、八番バッターが打ち返したボールが、セカンドの脇を抜けた。真央ちゃんは「よっしゃ!」と叫んで立ち上がり、わあっという歓声が沸き起こる。一気に二塁まで進んだ選手は、小さなガッツポーズをした。


「え!? 打ったの!?」

「そうだよ! 一発ホームランが出たら逆転サヨナラ勝ち!」

「え? 一点入ってもまだ負けてるんじゃないの? どういうこと!?」

「今、ランナーが二人出てるでしょ? ホームラン打ったら三人ホームに帰ってくるから、三点入って逆転するでしょ」

「うーん、よくわかんないけど、みんな喜んでるから勝てるかもしれないってことはわかった!」


 突然訪れたチャンスに、スタンドには割れんばかりの歓声が沸き起こっている。次のバッターは三年の先輩だけれど、たぶん今日は一本もヒットを打っていないはずだ。真央ちゃんはまるで監督のような仕草で腕組みをした。


「たぶん、代打出すだろうね」

「そ、そうなの……? 誰が出てくるかな?」


 こんな絶好のチャンスで登場するなんて、私だったら自害するまでもなくショック死してしまう。真央ちゃんは神妙な顔で唇を湿らせたあと、「たぶん……」と呟いて、そこで言葉を切った。


「――選手の交代をお知らせします。九番レフト、中山なかやまくんに変わりまして――芳川くん」


 アナウンスされた名前を聞いて、私の心臓は止まりそうになった。





 突然訪れた一発逆転のチャンスに、ベンチはざわついていた。怖い顔で腕組みをしていた監督が立ち上がり、ゆっくりとベンチを見回すと、ピリッとした緊張が走る。

 次のバッターである中山先輩の今日の結果は、三打席連続三振。おそらく代打が出されるのだろう。誰の名前が呼ばれるのかと固唾を飲んで見守っていると、監督はゆっくりと口を開いた。


「芳川」

「へっ」

「返事ィ!」

「は、はい!」


 喝を入れられ、オレは慌てて立ち上がる。監督の隣に立っていたキャプテンが、信じられないといった表情で目を見開いた。この場面で一年坊主を駆り出すなんて、普通だったらありえない。


「芳川、いけるか?」

「ハイ!」


 監督の問いかけに、オレは迷わず答えた。バッティンググローブをはめて、金属バットを掴む。バッターボックスに向かおうとするオレを、中山先輩が「瀬那!」と呼び止めた。


「頑張れ! ただ、あんま気負うなよ」


 そう言って、オレの背中ををポンと叩く。中山先輩はおっかない三年の先輩たちの中でも穏やかで優しい人で、オレたち生意気な一年のこともとても可愛がってくれている。オレの大好きな先輩だ。

 ただ、オレは気付いてしまった。中山先輩が固く握りしめた拳が小刻みに震えている。強く噛み締めた下唇は、白く色を失っていた。当然だ。この場面で代打を出されて、悔しくないはずがない。

 ――そうか。もしオレがここでアウトになれば、三年の先輩はここで引退だ。

 そう意識すると、なんだか喉がカラカラに乾いてきた。「ハイ! 頑張ります!」と答えた自分の笑顔が引き攣っているのがわかる。


「――選手の交代をお知らせします。九番レフト、中山なかやまくんに変わりまして――芳川くん」


 選手交代のアナウンスを聞きながら、オレは中三の頃に、急遽リリーフピッチャーとして登板した日のことを思い出していた。あのときのオレは自分のことを大谷翔平だと思っていたし、怖いものなんて少しもなかった。

 でも、今は違う。オレがここで失敗したら、途端に先輩たちの夏は終わる。オレが背負っているのは、部活に打ち込んだ先輩たちの三年間だ。

 ……もしオレが失敗したら、大好きな中山先輩は、オレのことを一生恨むだろうか。

 バッターボックスに立った瞬間、怒号にも似たスタンドの歓声が響き渡った。相手ピッチャーは額の汗を拭い、必死の形相でオレを睨みつけている。

 ……あれ、オレ今までどうやって構えてたっけ。バットはどのくらいの長さで持てばいいんだ? スタンス幅は狭く取った方がいいのか?

 バットを握る自分の手と、膝がガクガクと震えていることに気が付く。身体は熱くて仕方がないのに、背中を流れる汗はひやりと冷たい。自分の心臓の音がバクバクとうるさくて、周囲の音が耳に入ってこなくなる。オレは大谷翔平ではないのだと、いまさらのように気が付いてしまった。

 ああ、もしかするとオレは今、生まれて初めて――緊張、しているのか。

 オレの頭が真っ白になっているうちに、ボールがこちらに飛んできた。バットを振ることもできず突っ立っていると、ストライク、というコールが響く。

 どうしよう。これまで一度も緊張したことなんてないから、気持ちの落ち着け方がわからない。


 ――まず、自分のてのひらにあるホクロを、じーっと見つめる。それから三秒間だけ目を閉じて、深呼吸して……こういう風になりたい、と思う人の姿を思い浮かべるの。


 パニックになっているオレの頭の中に、いつか聞いた紬ちゃんの声が響く。反射的に、オレはグローブをはめたてのひらを見つめる。そして、目を閉じて、ゆっくり三秒数えてみた。

 そのときオレが思い浮かべたのは、心の底から尊敬する大谷翔平選手ではなく、ぴんと背筋を伸ばして一生懸命歌う、二つ結びの女の子の姿だった。瀬那くんみたいになりたかった、と言ってくれた彼女に、カッコ悪いところは見せたくない。

 目を開けたオレは、観客席にいるであろう紬ちゃんの姿を探す。オレの視力はばっちりA判定だ。祈るように両手を胸の前で組んでいる彼女の姿を、オレはしっかり見つけることができた。顔面蒼白で、今にも舌を噛み切って死にそうな顔をしている。

 ――そんな不安そうな顔すんなよ、紬ちゃん。絶対打ってやるから。

 彼女を安心させるように、オレは唇の端を吊り上げて笑ってやる。いつのまにか、膝の震えは止まっていた。やけに思考がクリアで、投球フォームに入ったピッチャーの姿がスローモーションのように見える。


「瀬那くん、頑張れ!!」


 信じられないことだけれど、こんなにもいろんな音が鳴り響く球場の中で、彼女の声だけがはっきりと耳に届いた。

 ――あ、そうか。オレ、紬ちゃんのこと好きなんだ。

 全力でフルスイングすると、金属バットがボールの真芯を捉えるのがわかった。カキン、という小気味良い音が響いて――白球は青い空へと高く高く打ち上がり、そのまま外野スタンドへと吸い込まれていった。

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