ネガティブガールはキャパオーバー
夏の夜の空気は湿気を含んで、少しじめっとしている。見慣れた景色なのに、提灯の明かりが闇の中にぼんやりと浮かんでいる様子はちょっと幻想的だ。待ち合わせ場所である公園は、大勢の人間でごった返していた。私と同じように、浴衣を着ている人もたくさんいる。
着崩れしないように、としっかり締められた帯が少し苦しい。さんざん悩んで選んだピンク色の浴衣は、お店で見たときは可愛いと思ったけれど、やっぱり私には分不相応な華やかさかもしれない。滲んだ汗を拭こうと、小さな巾着からハンカチを取り出す。
私はこれから、瀬那くんと二人で花火大会に行く。彼に会うのは、先週野球部の試合を応援しに行ったとき以来だ。あのときの彼は、本当に素敵だった。
打てば一発逆転、打てなければ一巻の終わりの場面において、バットを構えた彼は、またしても不敵に笑ってみせた。いつのまにか私は無我夢中で、「瀬那くん頑張れ」と叫んでいた。見事にホームランを打った彼は、呆然とベースを一周したあと、なんだか惚けた様子でその場に立ちすくんでいたけれど、すぐにチームメイト達にもみくちゃにされていた。
ああ、本当に瀬那くんはすごい。あんなにかっこいい人の隣に、私なんぞが並んで歩いてもいいんだろうか……。
改めて意識をすると、緊張のあまり吐きそうになってきた。スマホで時刻を確認すると、待ち合わせの時間まではまだ三十分ほどあった。そのあいだに、しっかりと気持ちを落ち着けなくては。
てのひらのホクロを見つめてから、目を閉じて三秒、それから深呼吸。神様の姿を思い浮かべ――た瞬間に、どっと汗が噴き出してきた。いやいやこれ、逆効果だ! 瀬那くんのことを考えると、余計に心臓の鼓動が早くなる。
……ああ私の神様、あなたはどうしてそんなに素敵なの。
「……紬ちゃん?」
「ヒョッ!?」
不意に声をかけられて、私はその場で飛び上がりそうになる。目を開けると、そこに立っていたのは私の神様だった。ボーダーのTシャツにカーキのハーフパンツを履いている。まだ心の準備ができてないうちに現れてしまった待ち人に、私は慌てふためいた。
「せっ、せっ、せせせせ瀬那くん、こ、こんばんは……」
「あっ、こ、こんばんは」
瀬那くんもなんだか動揺してるみたいで、勢いよくお辞儀をした私に合わせて、ぎこちなく頭を下げる。
私の頭のてっぺんからつま先までを、瀬那くんがじろじろと眺めるのがわかった。私が身構えていると、瀬那くんは頰を掻いて、何かを言おうと口を開いたけれど、そのまま固まってしまった。
「……瀬那くん?」
私が首を傾げると、瀬那くんは「あー」とか「うー」とか唸った後、ぶんぶんと激しく頭を振った。
「……な、なんでもない! 行こ、紬ちゃん」
歩き出した瀬那くんの背中を追いかけながら、私は内心がっかりしていた。
私は今日このときのために、三時間かけて浴衣を選んだ。髪は美容院でセットしてきたし、お姉ちゃんに頼んでうっすらお化粧もしてもらった。足の爪には浴衣と同じピンクのペディキュアも施してきた。……瀬那くんが「可愛い」って言ってくれるんじゃないかな、と思って。
知らず知らずのうちに、「彼に可愛いと言ってもらえるに違いない」と思い込んでいた自分が恥ずかしくて、私は下唇を噛んだ。今すぐ家に帰って着替えたくなったけれど、私はぐっと堪えた。
……ううん、こんなことで挫けてたらダメだ。私はもう、逃げないって決めたんだから。瀬那くんに選んでもらえるように、もっと頑張らなきゃ。
私たちは花火がよく見える河川敷へと向かう。思っていたよりもうんと人が多くて、彼の背中が見えなくなってしまいそう。浴衣と下駄のせいで歩きにくいし、こんなところではぐれるのは絶対にごめんだ。私が思わず瀬那くんの服の袖を掴むと、彼の肩がびくっと跳ねて、弾かれたようにこちらを振り向く。
「ご、ごめんね……」
反射的に謝ると、瀬那くんは「いや、その、オレが歩くの早かったから」とオドオドしている。なんだか、今日の彼はちょっと様子がおかしい。普段の堂々としている瀬那くんは、一体どこに行ってしまったんだろう。
私は瀬那くんの袖を掴みながら、人混みの中を歩いて行く。すれ違ったカップルは、人目も憚らずべったりと腕を組んで歩いていた。とてつもなく綺麗な女の子で、歩きづらそうにしている男の子にも構わず腕にしがみついている。世の中の恋愛強者はすごい。私もあのくらい美人だったら、もっと積極的にアプローチできたんだろうか……。
……いや。自分の勇気のなさを、容姿のせいにして逃げるのはやめよう。
私はてのひらの汗を浴衣でゴシゴシと拭ってから、瀬那くんの背中に向かって「あの」と声をかける。
「……ん? どした?」
「あの、あのね瀬那くん……は、はぐれそうだから、て、ててててててっ、手! 繋いだら、ダメ……かな?」
語尾はふにゃふにゃになってしまったけど、なんとか言い切った。瀬那くんは「ヘッ!?」と目を丸くしている。
「す、すみません……あの、ダメなら……諦めます……」
「あ、いや、全然ダメじゃない! い、いいよ!」
そう言って瀬那くんは自分のシャツで掌を拭った後、おそるおそる私の手を掴む。これまでだって彼に手を握られたことは何度もあるのに、どうしてこんなにドキドキしてしまうんだろう。豆だらけの彼の手は硬くて少しかさついていて、それがなんだか心地良い。
手を繋いだまま少し歩くと、屋台がずらりと並ぶ公園に到着する。たこ焼き屋さんの隣を通過すると、ソースのいい匂いが漂ってきた。私がキョロキョロしているのに気付いたのか、瀬那くんがこちらを振り向いて尋ねる。
「つっ、紬ちゃん! えーと、なんか食う?」
「あ、う、うん……じゃあ肉巻きおにぎり」
口にしてから、しまったやけにマイナーなものをリクエストしてしまった、と後悔する。瀬那くんと一緒なら、何を食べても美味しいだろうに。
「ええ? 紬ちゃん、ほんとにおにぎり好きだね」
私の返答に、瀬那くんはアハハと声をたてて笑った。今日、彼の笑顔を見たのは初めてだ。嬉しくなった私の口からは、つい「大好き……」という言葉が漏れる。
ダメだダメだ。油断するとありとあらゆる場所から「好き」がダダ漏れになってしまう。たぶん今私の顔には、油性マジックでデカデカと「瀬那くんが好き」と書いてある。ああ、薄暗くてよかった。
「……オレも好き!」
瀬那くんはそう言うと、私の手をぎゅっと強く握ってくる。私に向けられた「好き」ではないとわかっているのに、どうしようもなく胸がときめいてしまった。私、おにぎりになりたい……。
それから私たちは屋台で肉巻きおにぎりを買って、ひとつのわたあめを二人で分け合った。レトロな瓶に入ったサイダーを買った瀬那くんは、冷たい瓶を私のほっぺたにくっつけて笑っていた。私の頰はきっと、サイダーが一瞬でぬるくなってしまうほどに熱い。
途中、二人並んで歩く成海くんと真央ちゃんの姿を見かけたけれど、瀬那くんも私も声をかけなかった。なんとなく、入り込めない空気が漂っていたからだ。瀬那くんは「成海の奴、明日部活でからかってやろ」と意地悪い笑みを浮かべる。
「あ、そろそろ花火始まりそう! 移動しようぜ」
いつのまにか普段の調子を取り戻した瀬那くんは、私の右手を軽く引く。
私は「うん」と頷いて歩き出したけれど、下駄を履いた足がヒリヒリと痛んだ。どうやら鼻緒ずれしてしまったらしい。ものすごく痛いけど、気を遣わせるのも申し訳ないし、花火見るのやめて帰ろうとか言われるのは絶対に嫌だ。あと少しの辛抱だから我慢しよう……。
花火が見えやすい場所はどこも人がいっぱいで、私たちはウロウロした挙句、比較的空いている場所に落ち着いた。花火はちょっと建物の影に隠れてしまうけれど、それでも充分よく見える。そもそも、私の隣には太陽のように眩い男の子が立っているのだから、どちらにせよ花火を見るどころではないのだ。
どーん、どーんという音を立てて、色とりどりの花火が夜空に打ち上がる。私の隣にいる瀬那くんは口をぽかんと開けて、花火を見上げていた。
気付かれないようにこっそり、私は彼の肩にそっと頭を寄せてみる。ボーダーのTシャツから、ほのかに柔軟剤の匂いがする。花火の音よりも、私の心臓の音の方がよほどうるさい。
花火が終わって、周りの人たちが一斉に帰り始めてからも、瀬那くんはぼんやりと暗い空を見上げたまま、そこから動かなかった。私が肩を叩いて「瀬那くん」と呼びかけると、はっと我に返ったように目を見開く。
「う、わっ! あ、え、花火終わってる!?」
「終わったよ……き、きれいだったね」
「え、あ、う、ウン!」
「そ、そろそろ帰ろうか……」
そう言って歩き出そうとすると、ずきりと鼻緒ずれが痛んで、私は思わず「いたっ」と眉を顰める。私の声を聞いた瀬那くんは、慌てたように私の顔を覗き込んできた。
「どうしたの、紬ちゃん! 大丈夫?」
「う、うん……ちょっと鼻緒ずれで足が……」
「そこにベンチあるから、いったん座ろう!」
瀬那くんは私の手を引いて、近くにあったベンチに座らせる。下駄を脱いで見ると、皮がえぐれて真っ赤になっていた。我慢してたけど、やっぱりすごく痛い。
私はモタモタと巾着から絆創膏を出すと、赤くなっている部分にぺたりと貼った。家までは歩いて帰らなければいけないけれど、これでなんとかなるだろうか。
私が涙目になっていると、瀬那くんは怒ったように「もー、何で早く言わねえの」と言った。ベンチに座っている私の前にしゃがみこんで、唇を尖らせる。
「オレに遠慮してたのかもしれないけど、紬ちゃんが我慢してる方が嫌だよ。……でも、オレも全然気付かなくてごめん」
「ううん……」
私はふるふると首を横に振る。髪に飾った簪が揺れて、しゃらんと音をたてた。
「……だ、だって。ぜ、絶対に瀬那くんと一緒に花火見たかったから……」
「え?」
「きょ、今日私ね、すごく楽しかった。あと瀬那くんにも、た、楽しいって、私と来てよかったって思って欲しかった。足痛いって言ったら、帰ろうって言われるかもとか思って、だから黙ってて……ご、ごめんなさい」
早口で謝った私に、瀬那くんは何も言わず唇を引き結んでいた。真剣な表情をしているときの彼は、なんだかちょっと怖い。瀬那くんの手が伸びてきて、私の頰をそっと撫でた。
「……紬ちゃんて、ほんっと思わせぶり……」
「へ」
いつのまにか周りに人はほとんどいなくなっていて、ざわめきが遠くに聞こえる。薄明かりに照らされた瀬那くんの大きな目は、不思議な色をしている。
瀬那くんの顔がだんだん近づいてきて――ほんの一瞬だけ、唇が重なる。
私は目を見開いたまま、少しも動くことができなかった。至近距離で瞬きをした瀬那くんは、なんだか私よりも驚いてぽかんとしていた。
「……紬ちゃん。オレ、今なにした?」
「へっ、あっ、ええ……な、なんでしょうか……」
「……っ、ご、ごごごごめん! ほんとにごめん! オレ、最低すぎる……!」
飛び上がるように立ち上がった瀬那くんは、頭を抱えて「うわああああ」と唸り声をあげている。
……私の認識が正しければ。この人、今、私にキスした?
あまりの急展開に、脳の情報処理がちっとも追いつかない。己のキャパシティを超えてしまった私は、オーバーヒートしたロボットのように、その場で完全停止してしまった。
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