ネガティブボーイは逃げ出す

 一切の容赦なく太陽が降り注ぐグラウンドは、地獄のような暑さだった。練習でヘトヘトになった後のグラウンド整備に、みんな朦朧となっている。オレだって本当は、もう一歩だって動きたくない。

 止めどなく流れる汗も拭わず、せっせとトンボをかけながら、「オレは今すぐ死んだ方がいい」と考えていた。

 これまで紬ちゃんが事あるごとに「もう死ぬ」を連発していたのが理解できなかったが、今ならその気持ちがわかる。自己嫌悪が極限まで振り切った場合、人は死に逃避するしかなくなってしまうのだと初めて知った。


 一週間前の花火大会の夜のことを、オレはあまり覚えていない。あのときのオレはこの上なく浮かれていて、混乱していて、動揺していて、頭がどうかしていた。

 なんだか落ち着かなくて、三十分前に待ち合わせ場所に到着したオレは、浴衣姿の紬ちゃんを見た瞬間にフリーズした。鮮やかなピンク色の浴衣は彼女によく似合っていて、髪型もなんかよくわかんないけど凝ってて、瞼の上がキラキラしていた。清楚可憐、という今まで口にしたことのないような形容詞が頭に浮かんだ。

 いつものように「カワイイ」と褒めようと思ったけれど、うまく言葉が出てこなかった。オレ、今までよく平気な顔してカワイイ連呼できてたな……完全にチャラ男じゃん……ああ、紬ちゃんにチャラ男だと思われてたらどうしよう……。

 結局何も言えないまま歩き出したオレは、紬ちゃんの顔さえ直視できなかったというのに、あろうことか彼女は「手を繋ぎたい」と言い出した。そういうのは恋人同士がすることなのでは、と思ったが、断る理由はなかった。オレだって、好きな女の子と手を繋いで歩きたいに決まっている。

 二人並んで花火を見上げているときも、紬ちゃんが肩にそっと寄りかかってきて、オレはもう花火を見るどころではなくなってしまった。ふわふわと甘い匂いが漂ってくると、華奢な肩を抱き寄せたくて仕方なくなった。


 ――だって、絶対に瀬那くんと一緒に花火見たかったから。

 ――今日私ね、すごく楽しかった。瀬那くんにも、楽しいって、私と来てよかったって思って欲しかった。


 紬ちゃんが真っ赤な顔でそう言った瞬間、この子はなんて思わせぶりな女の子なんだろう、と思った。そんな顔でそんなことを言われると、オレみたいな単純バカな男は、好かれているのだと勘違いしてしまう……。

 のぼせあがったオレは、気付けば紬ちゃんにキスをしていた。あんまり覚えてないけれど、ふにゃっと柔らかなものが唇にぶつかったことだけはなんとなくわかった。紬ちゃんは唖然と固まっていて、オレは自分のしでかしたことに気付いて愕然とした。

 ……やってしまった。付き合ってもいない女の子に、無理やりキスするなんて最低だ。

 謝ることしかできないオレに、紬ちゃんは「大丈夫だよ」と言ってくれた。それからオレは紬ちゃんを家まで送ったけれど、帰り道は二人とも無言だった。家の前で「バイバイ」と手を振った紬ちゃんはやっぱり可愛くて、懲りもせずに「帰したくないな」だなんてことを考えてしまった。

 あれ以来オレは、紬ちゃんに連絡できずにいる。あんな最低なことをして、もう嫌われてしまったのではないか。そんなことを考えると、今まで気軽に送っていたメッセージも送れなくなってしまった。今まで何も考えずに、紬ちゃんにくだらないことで電話をかけていた過去の自分をぶん殴りたくなる。


「ああああああ……死にてえ……」

「何やってんだよ瀬那。ほんとに熱中症で死ぬぞ」


 トンボを抱えてしゃがみ込んだオレの背中を、成海が軽く蹴った。今のオレは、成海に足蹴にされても仕方がないくらいの存在だ。「もっと蹴ってくれ」と言うと、成海はゴキブリでも見るような目でオレを睨む。


「キモッ。なに? マジでMに目覚めちゃった?」

「オレはもうダメだ……ミジンコ以下だ……」

「どうしたんだよ。うざいぐらいに前向きなことだけがおまえの取り柄だろ」


 ……そうだ。紬ちゃんを好きになるまでのオレには前向きで怖いもの知らずで、「他人にどう思われるか」ということをほとんど意識したことがなかった。人を好きになるというのは恐ろしいことだ。こんなにも感情がかき乱されて、情緒がぐちゃぐちゃになってしまう。

 オレは今、紬ちゃんに嫌われることが何より怖い。


「八重樫さんとなんかあった?」


 紬ちゃんの名前を聞くだけで、オレの心臓はどきりと跳ねる。こんな状態で紬ちゃんの顔を見てしまったら、オレの心臓はその瞬間に停止してしまうんじゃないだろうか。


「……もしかして、河野さんからなんか聞いてる?」

「いや、なんも。というか、聞いてても俺には言わんだろうな。あいつは口の堅い女だぜ」

「そっか……」


 もし紬ちゃんが河野さんや田村さんあたりに「アイツキモイサイテー」とか言ってたら死ねる。いや、紬ちゃんはそんなこと言わない……と思いたい。

 ちょうど田村さんの彼氏である桜井が通りかかったので、「なあなあ」と呼び止めた。


「桜井、田村さんから紬ちゃんの話聞いてない?」

「……」


 オレの問いに、桜井は無言のまま項垂れた。成海が慌てたように、オレと桜井のあいだに割り込む。


「おいおい瀬那、やめてやれよ。桜井、おととい田村さんにフラれたんだぞ」

「え、もう!? はや! 付き合ってまだ一ヶ月も経ってねーじゃん!」

「そうだよ! 三週間だよ!」

「おまえら、揃いも揃って傷口に塩塗り込むなよなー……」


 桜井は端正な顔を歪ませると、「はあああ」と深い溜息をついた。ほんの数日前までは幸せオーラが全開だったのに、見る影もなく陰鬱な空気に包まれている。この世の終わりを目前に迎えた人間は、きっとこんな顔をしているだろう。


「いきなり〝ヒロくん、彼氏としてはやっぱりなんか違うの。友達でいよう〟って言われてもさー……なんか違うってなんだよ……友達でいようって、いられるわけないだろ……」


 桜井の話を聞きながら、オレは頰を引き攣らせた。田村さん、カワイイ顔して結構きついことを言う。自分の立場に置き換えて想像すると身投げしたくなる。なんか違うってなんだよ。もう少し具体的に、問題点と改善点を述べてくれないか。

 ……もし幸運なことに、オレが紬ちゃんと付き合える日がきたとしても、桜井のように紬ちゃんにあっさり捨てられてしまうかもしれない。そうしたら、もう友達には戻れない。そんなことを考えて、このクソ暑いのに身震いした。

 誰かを好きになって付き合うって別れるとか、みんなほんとにそんなしんどいことやってんの? すごすぎる。オレもう、たかだか二週間足らずでズタボロなんだけど……。こんなの、オリハルコン並のメンタルがないとやってられない。


「オレ、絶対誰かと恋愛するなんて無理……」

「俺ももう、女の子なんて懲り懲りだよ……」

「あーもう、うざっ。おまえら二人ともウジウジしてるから、湿度が上がる!」


 成海はそう言って、オレと桜井に順番にチョップをかます。痛い。もっとだ、もっと強くやってくれ。

 ジメジメとした空気にうんざりしたらしい成海が、「しゃーないからアイス奢ってやる」と言ってくれたので、三人揃ってコンビニに行くことにした。汗と泥でドロドロになった練習着から、制服へと着替える。

 夕方になってほんの少しだけ日が傾いたけど、まだまだ暑さは最高潮だ。青い空にはソフトクリームみたいな入道雲が浮かんでいて、ジリジリと蝉の声がうるさく鳴り響いている。

 成海と桜井と並んで校門へと向かうと、制服を着た女子生徒が一人立っているのが見えた。このオレが見間違えるはずもない、肩にかかるくらいのふたつ結び。

 オレがぴたりと足を止めると、彼女の大きな黒目がこちらを向いた。相変わらず頰を赤く染めて、スカートをもじもじと握りしめて、それでも彼女ははっきりと、可愛らしい声でオレの名前を呼ぶ。


「せ、瀬那くん」


 ――ああ、どうしよう。やっぱり顔を見るだけで、声を聞くだけで、心臓が止まりそうだ。

 その瞬間、オレは――回れ右して全力で彼女から逃げ出していた。

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