ネガティブガールは思わせぶり
期末試験を間近に控えた、水曜日の六限目。昨日も夜寝る前に「永遠に明日が来なければいい」と思っていたのに、ついに歌のテストの日がやって来てしまった。
私は朝から食欲がなくて、昼休みも瀬那くんに励まされながら、なんとかおにぎりを胃袋に詰め込んだ。いつもはみっつ食べるおにぎりも、ひとつだけしか食べられなかった。
音楽室に向かう途中も、何度も逃げ出そうかと思った。それでも、真面目しか取り柄のない私が授業をサボることなんて絶対にできない。仮病を使って休むことも考えたけれど、そんなことをしたら次回の音楽の授業で、たった一人で歌わされる羽目になる。そんなの、死んだ方がマシだ。
真央ちゃんと穂乃果ちゃんに両側から連行されるようにして音楽室に入ると、ピアノのそばで牧原先生と瀬那くんが何かを話していた。
「歌のテスト、絶対みんなの前でやんなきゃダメ? 個室でマッキーと
「気持ちはわかるけど、そもそも音楽って聴衆がいることを前提としたものだからね。聴く人がいて、初めて成り立つものなのよ」
「それじゃあ、マッキーのためだけに歌わせてよ!」
「はいはい、馬鹿なこと言ってないの」
牧原先生は丸めた楽譜でぺしりと瀬那くんの頭を叩いて、いつものように軽くあしらった。牧原先生にあしらわれている瀬那くんは、いつもちょっとだけ嬉しそうだ。なんだか胸の奥がイガイガして、私は余計に帰りたくなってしまった。
尚も牧原先生に食い下がろうとしていた瀬那くんは、どうやら私に気付いたらしく、こちらに駆け寄ってくる。私の両肩をがしりと掴んで、顔を覗き込んできた。
「うわ、紬ちゃん! 顔真っ青!」
「せ、せ、瀬那くん……」
「そんなに緊張しなくても、だいじょーぶだって! 紬ちゃん歌上手いから! 声もカワイイし!」
「あ、ありがとう……」
私が真っ赤になって俯いてると、穂乃果ちゃんが「はいはいごちそうさまー」と茶化してきた。牧原先生もなんだか微笑ましいものを見るような目で見つめてきたので、恥ずかしくなった私はそそくさと席につく。
ダメだダメだ。私は所詮ハムスターのどん兵衛。瀬那くんが好きなのは、牧原先生みたいな綺麗なお姉さんなんだから。
そのとき無情にも、授業開始のチャイムが鳴る。私は絶望に打ちひしがれながら、両手を胸の前で組み合わせた。ああ、おなかが痛くなってきた……。
「はい、じゃあ予告通り歌のテストやります。順番に名前呼ぶから、一人ずつ前に出てきて歌ってください」
どうやら名簿順でも席順でもなく、順番は完全にランダムらしい。自分の名前が呼ばれるまで、何度も死にそうな思いをしなければならない。一番最後も嫌だけど、一番最初はもっと嫌だ……せめてどうか、みんなの集中力が切れてきた、あんまり注目されない中盤あたりになりますように……。
幸い、私の名前は最初には呼ばれなかった。トップバッターは吹奏楽部の
それからどんどん順番は巡っていき、半数ほどの生徒が歌い終えた頃には、私の心臓はドキドキしすぎて擦り切れそうになっていた。真央ちゃんと穂乃果ちゃんも、既にそつなくクリアしている。ああ、どうしよう……永遠に歌いたくないけど、そろそろ名前が呼ばれて欲しい……。
ピアノに合わせて元気いっぱいに歌い終えた成海くんに、パチパチという拍手が送られる。ぐるりと音楽室を見回した牧原先生と、ぱちりと視線がかち合った。
「じゃあ次、八重樫さんお願いします」
予想していなかったわけではなかったのに、私はびくっと肩を震わせた。返事をしようとしたけれど、喉が詰まってうまく声が出ない。「八重樫さん?」ともう一度名前を呼ばれて、周りの視線が一斉に私に集中した。
……しまった。せっかくみんなの気がそぞろになっていたタイミングだったのに、変に注目を浴びてしまった。
私の頭は真っ白になって、立ち上がることもできない。どうしようどうしよう、とパニックになっていると、教室の後ろの方で「マッキー!」という声が響いた。
「はいはいマッキー! オレ、先に歌ったらダメ?」
手を上げて高らかに主張したのは、瀬那くんだった。牧原先生は呆れたように溜息をつく。
「あのねえ、芳川くん……」
「だって成海の後に歌った方が、音痴が目立たなくていいじゃん!」
「おいこらてめー瀬那! おまえだけには言われたくねえんだよ!」
成海くんがそう言い返すと、どっと笑い声が響いた。もう誰も、私には注目していなかった。牧原先生は「仕方ないわね」と肩を竦める。
「じゃあ芳川くん、先に歌って。八重樫さん、その後にお願いします」
「は、はい……」
やっとのことで絞り出した返事はか細くて、もしかすると牧原先生には聞こえなかったかもしれない。
瀬那くんは胸を張ってみんなの前に立った。牧原先生のピアノに合わせて、彼は堂々と歌い出す。調子はずれの歌声に、何人かはくすくすと声をたてて笑ったけれど、私は笑う気にはなれなかった。
そういえば、彼と二人でカラオケに行った日もそうだった。彼は本当に気持ち良さそうに歌うものだから――なんだか私まで楽しくなった。あの日は自分でもびっくりするくらいたくさん歌って、喉がカラカラになってしまった。誰かの前で歌うのが楽しい、と思えたのは、生まれて初めての経験だったのだ。
最後まで歌い終えた瀬那くんは、私に向かってニコッと笑ってみせた。大丈夫だよ、とでも言いたげに。そういえば彼を初めて見たあの日も、ピッチャーマウンドの上で彼は同じような笑顔を浮かべていた。私の胸が、じいんと震える。
――ああ、私。やっぱり、あなたみたいになれたらよかった。
成海くんが「ジャイアンリサイタル終わった?」と茶化して、また笑いが起こる。牧原先生に「たいへんよく歌えました」と褒められて、瀬那くんはちょっと照れ臭そうに頰を掻いた。
私は自分のてのひらを開くと、小さなホクロをじっと見つめた。それから目を閉じて、三秒数える。
――瀬那くん、瀬那くん。どうか私に力をください。
楽しげに歌う彼の姿を思い浮かべると、みんなの前で歌うことなんてへっちゃらな気がしてきた。壊れそうに高鳴っていた心臓の音が、次第に落ち着いていく。
「じゃあ今度こそ八重樫さん」
「は、はい」
私は立ち上がると、意を決して前に立つ。みんなの視線が集まってたじろいだけれど、一番後ろに座っている瀬那くんが口パクで「がんばれ」と言ってくれたので、ふつふつと勇気が湧いてきた。よく見たら、よそ見をしている子も、机の下でスマホをつついている子もいる。
ピアノの演奏が始まると、私は大きく息を吸い込んで歌い始める。音程を外さないように慎重に。俯かないで前を向いて。腹筋に力を入れて。
歌の試験は、思っていたよりもずっと短かった。歌い終えると、牧原先生はこちらを向いて「大変お上手でした」と微笑む。ほっと胸を撫で下ろして、安堵の息を吐く。
教室後方に視線をやると、満面の笑みを浮かべた瀬那くんが、誰よりも大きな拍手をしてくれていた。
「紬ちゃん!」
授業終了のチャイムが鳴るなり、瀬那くんが猛スピードで駆け寄ってきた。両手を上げて「いえーい」と言うので、私はキョトンとして首を傾げる。瀬那くんは諦めずにもう一度「いえーい」と言った。どうやらハイタッチを求められているらしいと気付いた私は、おずおずと両手を上げて、ぱちんと重ね合わせた。そのまま瀬那くんは私の両手を取って、強引に立ち上がらせる。
「わ、わ」
「紬ちゃん、みんなの前でもちゃんと歌えてたじゃん! すげー!」
私の両手を握ったまま、瀬那くんはその場でぴょんぴょんと飛び上がる。嬉しいけれど、周りからニヤニヤと見られていてちょっと恥ずかしい。穂乃果ちゃんは「つむぎーん、先戻ってるねー」とひらひら手を振って、真央ちゃんと一緒に音楽室を出て行った。
「あ、あの……瀬那くん。さっき、助けてくれて……ありがとう」
私は彼にまっすぐ向き合うと、ぺこりと頭を下げた。
瀬那くんがいなかったら、私はきっとまともに歌うことなんてできなくて、みんなの前で大恥をかいていただろう。やっぱりこの人は、私にとっての神様だ。
「え? 全然いーよ、オレもさっさと済ませたかったからさ! むしろ早く終わってラッキー!」
「……私、いつも瀬那くんの存在に支えられてる」
「そうかあ? オレ、全然なんもしてなくない? せっかく紬ちゃんが頼ってくれたのに、結局一緒にカラオケ行っただけだったじゃん!」
「ううん、そんなことない。あの、さっきのことだけじゃなくて、これまでもずっと」
瀬那くんのごつごつとした豆だらけの手を、私はぎゅーっと強く握り返す。その瞬間、彼の目が驚いたように大きく見開かれた。繋いだ手の温度が高くて、私のてのひらもどんどん熱を持っていく。
「……あのね、私。瀬那くんに初めて会ったときから、ずっと……」
「……つ、紬ちゃん! ストップ! あの、えっと、嬉しいけど、そういうのは、もーちょい二人きりのとことかで……」
「せ、瀬那くんみたいに、なりたかったの」
「…………んん?」
何故だか慌てふためいていた瀬那くんは、私の言葉を聞いて首を傾げた。なんだか拍子抜けした顔をしている彼に構わず、私は続ける。
「本当にありがとう。あの、図々しいかもしれないけど、これからもずっと……瀬那くんのこと、神様だと思って拝ませてね」
じっと彼の顔を見つめながらそう言うと、彼は珍しく頰を染めて、「あー」とか「うー」とか歯切れの悪い返事をしている。……もしかして、気持ち悪いと思われちゃったかな。
「……ごめんね。その……嫌だった?」
「いや、全然! すげー嬉しいんだけど、あー……オレが勝手に勘違いしただけで」
「か、勘違い?」
「……紬ちゃんって、男を勘違いさせる天才だよね!」
そのときヒューヒューという口笛が響いて、私ははっと我に返る。瀬那くんは音楽室に残っている男の子たちに向かって「おいこら見せモンじゃねーぞ! 散れ散れ、おまえら!」と一喝する。
しまった。なんだかみんなのいるところで、すごく大胆なことをしてしまった気がする。慌てて瀬那くんの手を振り払おうとしたけれど、彼はしっかりと私の手を握ったまま離さなかった。
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