ネガティブガールのバレンタイン

 息を切らしながら部屋に飛び込んだときには、私はもう既に半泣きになっていた。

 制服のまま布団の中に潜り込むと、ぐずぐずと鼻を鳴らして、子どものようにみっともなく泣き出す。私は気分が昂るとすぐに涙が出てくるタイプで、しかも一度泣き始めると止まらなくなってしまうのだ。

 ……瀬那くんにチョコあげてたの、すごく可愛い女の子だった。私なんかより、ずっと。


「ぶええええ……」


 先ほどの光景を思い出して、心臓がぎゅうっと握りつぶされたように痛くなる。ボロボロと目から涙が溢れてきて、嗚咽が止まらなくなる。


 瀬那くんと付き合い始めてから、初めてのバレンタイン。実を言うと、私はクリスマスのデートをしているときぐらいから、「バレンタインどうしよう……」と内心やきもきしていた。

 何を隠そう、私は生まれてことかた、お父さん以外の男性にバレンタインチョコを渡したことはない。でも瀬那くんとは付き合っているのだから、渡した方がいいのかもしれない。

 でも、瀬那くん本当に私からのチョコなんて欲しいのかな。私にお菓子作りの経験はないし、手作りをしようとしてもきっと上手くできないに違いない。既製品が無難だけど、でも手作りがよかったってガッカリされたらどうしよう……。

 そんなことをぐるぐる考えていたけれど、年が明けて二月になった途端に、瀬那くんはきらきらと瞳を輝かせながら言ってきた。


 ――もうすぐバレンタインだな、紬ちゃん! オレ、楽しみにしてるから!


 びっくりしたけれど、瀬那くんが私からのチョコを欲しがってくれていることは嬉しかった。期待されるのは苦手だけれど、彼のためなら頑張ってみたい。

 自信はなかったけど、手作りがいいと彼が言うので、この二週間必死で練習をした。彼のリクエストである「フワフワのスポンジみたいなやつ」が何かわからなかったので、悩んだ挙句チョコチップマフィンにした。混ぜて焼くだけの、失敗が少ないレシピを探した。

 真央ちゃんと穂乃果ちゃんに何度も味見をしてもらいながら――穂乃果ちゃんには「太っちゃうよ!」と文句を言われつつ――完成したマフィンは、私にしてはそれなりに出来が良いのではないかと思う。少なくとも、口にした瞬間に吐き出すほど不味くはないはずだ。

 放課後に渡す約束をして、意を決して彼のところに向かった私の目に飛び込んできたのは――可愛い女の子から紙袋を受け取っている、瀬那くんの姿だった。


 ――オレ、毎年全然チョコ貰えなかったけど、今年は紬ちゃんがいるからさ! すげえ嬉しい!


 そんな彼の言葉を真に受けて、調子に乗ってしまった私は馬鹿だ。間抜けで愚かなスカポンタンだ。よく考えたら、瀬那くんはとってもかっこよくて素敵な男の子なのだから、他の女の子からチョコが貰えないはずがない。

 たぶんあの子は私よりもうんとお菓子作りが上手なんだろう。スポンジみたいなフカフカなやつってシフォンケーキのことだったのか。ああ、何で気が付かなかったんだろう。気が付いていたところで、シフォンケーキなんて絶対に作れないけど……材料さえもわからない……。

 布団に包まったままメソメソしていると、コンコン、と自室の扉がノックされた。私は嗚咽を堪えながら、「はい」と返事をする。


「紬ー? 帰ってくるなり、何してるのよ。瀬那くんが来てるんだけど」


 お母さんの声だ。きっと瀬那くんは、いきなり逃げ出した私を心配して、家まで来てくれたに違いない。私は慌てて布団から跳ね起きた。

 どうしよう。会いたくないわけじゃないけど、今はどんな顔をして会えばいいのかわからない。私は扉に向かって叫んだ。


「い、いないって言って!」

「もうここにいるわよー」

「ヒエッ!」


 なんてことだ。ああ、居留守を使おうだなんて小賢しいことを考えてごめんなさい。きっと瀬那くんは気を悪くしただろう。今すぐ消えてなくなりたい……。


「ごめんねえ瀬那くん、あの子と喧嘩でもした?」

「いえ、オレが悪いんです! すみません!」

「まあまあ、ゆっくりしてって。後でお茶持ってくるからね」


 話し声の後、階段をトントンと下りていく音がした。コンコン、と控えめなノックが再び鳴り響く。


「……ごめんな、紬ちゃん」

「…………」

「オレの顔見たくないなら、このままでいいから聞いて」


 扉の向こうから、瀬那くんの声がする。瀬那くんの顔は見たかったけれど、涙でぐちゃぐちゃになった自分の顔は見られたくない。私は毛布にくるまったまま移動すると、ぴたりと扉に耳をくっつけた。


「……オレ、他の女の子からチョコ貰って浮かれて……紬ちゃんの前で無神経だったよな。ほんとにごめん」


 私は反射的に首を横に振ったあと、そういえば扉があるから見えないんだった、と気付く。瀬那くんは珍しく落ち込んだ口調のまま、続けた。


「信じてほしいんだけど、オレ別に誰からチョコ貰っても嬉しいわけじゃなくて……そりゃあ嬉しくないことはないんだけど……いや、つまり何が言いたいかっていうと」


 彼らしくなくモゴモゴと口籠ったあと、扉の向こうに沈黙が落ちる。どうしたのかなと思っているうちに、大きな声が響いた。


「紬ちゃん、好きだ!!」

「ギョエエ」

「オレやっぱり、好きな女の子からの本命チョコが一番欲しい! 紬ちゃんから毎年チョコ貰えるなら、もうこれからの人生他の誰からも貰えなくてもいい!」

「せっ、せ、瀬那く」

「オレ、紬ちゃんのことが、紬ちゃんのことだけが世界で一番好きだよ!」


 私は慌てた。階下にはお母さんもいるのに、絶対聞こえてるに違いないのに、なんて大胆な告白なんだろうか。やっぱり彼の心臓には毛が生えている。

 でも、嬉しかった。さっきまでの胸の痛みはどこへやら、ぽかぽかと温かくてなんだかくすぐったいような感情がこみ上げてくる。

 おそるおそる扉を開けると、驚くべきことに瀬那くんは廊下で土下座をしていた。彼の土下座を見たのは一度や二度ではないけれど、さすがにぎょっとする。


「せ、瀬那くん! か、顔上げて、中入って」

「はい……」


 ようやく面を上げた瀬那くんは、私に手を引かれるがまま、すごすごと部屋に入ってくる。カーペットの上に腰を下ろすと、瀬那くんは私の正面で正座をした。


「……ほんとにごめん。オレ、デリカシーなくて……成海にも怒られた」

「う、ううん……私も、逃げたりしてごめんなさい」


 毛布に包まったまま、私もぺこりと頭を下げる。瀬那くんは手を伸ばしてきて、涙の跡が残った頰をそっと撫でてくれた。


「……紬ちゃん、もしかして泣いてた?」

「うう……は、はい。なんか勝手にショック受けちゃって……か、可愛い女の子だったし……それに、シフォンケーキも……すみません、お見苦しい顔を……」

「いや、紬ちゃんはいつでもカワイイよ!」


 瀬那くんは少しの躊躇いもなく、きっぱりとそう答えた。恥ずかしくなった私は、モゾモゾと毛布に包まって顔を隠してしまう。それを見た瀬那くんは「なんか新手の妖怪みたい」と笑った。


「……ごめんね。私、ヤキモチ妬いたの。瀬那くんのこと、他の女の子に取られたくないって、思っちゃった……」

「謝らなくてもいいよ! オレ、紬ちゃんにヤキモチ妬かれるの嬉しいし! いや、不安にさせるようなことすんなって話なんだけどさ……」


 瀬那くんはそう言って、気まずそうに頬を掻いた。私は意を決して、鞄の中からマフィンの入った包みを取り出す。


「あ、あの瀬那くん……これ、どうぞ」


 妖怪のように毛布から手だけを出して、マフィンを瀬那くんに差し出した。するといきなり手首を掴まれて、毛布ごと抱きすくめられてしまう。


「ヒッ! せ、せ、せ、瀬那くん……!」

「あー、すげえ嬉しい! オレ、今なら死んでもいい! ありがとう紬ちゃん愛してるー!」

「う、せなくん、く、苦しい……」


 ぎゅっと強く抱きしめられて、息ができない。やっとのことで毛布から顔を出すと、驚くほど間近に瀬那くんの顔があった。太陽みたいな彼の満面の笑みは、至近距離で浴びるには眩しすぎて、目がチカチカする。


「ほんとにありがとう、紬ちゃん! オレ、家帰ったらちゃんと神棚作って飾るから!」

「い、いいよそんなことしなくても……た、食べてくれた方が嬉しい……かな。お、美味しいかどうか……保証はできませんが……」

「いや、絶対美味いって! オレにはわかる!」


 そう言って瀬那くんは、「隙あり!」と言って、私の唇を素早く奪った。ちゅっ、と柔らかい感触がぶつかる。突然のことにオロオロしているわたしを見て、彼は楽しそうな笑い声をたてた。


「来年も期待してるから、よろしく!」

「ギョエエ……」


 昔から、誰かに期待されるのは苦手だった。期待に応えられなかったときに、ガッカリされるのが怖いから。

 でも、瀬那くんに期待されるのは嫌じゃない。もっともっと、彼が喜ぶ顔を見るために頑張りたいと思う。


「あ、お返しも期待しててね!」


 瀬那くんは悪戯っぽく笑うと、再び私にキスをしてくる。私は真っ赤になった顔を毛布で隠しながら、来年までにシフォンケーキを作る練習をしておこう、と心に決めたのだった。

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ポジティブボーイとネガティブガール 織島かのこ @kanoco

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