後日談
ネガティブガールと夏の終わり
夏はあんまり好きじゃないけれど、毎年夏が終わるたびに「あれもこれもしておけばよかった……」と後悔することばかりだ。
今年は花火大会や高校野球の応援には行ったけれど、それ以外はあまり夏らしいことをせず、家でゴロゴロしているだけで終わってしまった。
九月に入り、夏が終わっちゃったなあ、とちょっとしんみりしていたのだけれど、どうやらまだまだ夏を終わらせるわけにはいかないみたいだ。
「紬ちゃん、いや紬様、お願いします! オレの夏休みの宿題、手伝ってください!」
額を床に擦りつけんばかりのきれいな土下座をした彼氏を目の前にして、私はたじろぐ。私は彼のどんなところも好きだと自信を持って言えるけれど、できることなら恋人のこんな姿は見たくなかった……。
「……あ、あの、瀬那くん。つかぬことをお伺いするけど……今日は何月何日?」
「九月五日!」
「……夏休み、とっくに終わってる……よね?」
夏休みは先週終わり、もう通常授業が始まっている。今日は九月の最初の日曜日だ。
顔を上げた瀬那くんは、自信満々に鼻を鳴らして言った。
「知らねーの? 紬ちゃん。夏休みの宿題は、二学期最初の授業で提出できたらセーフなんだよ! あー、今日部活休みでよかった! オレたちの夏休みはこれからだ!」
テーブルの上に山積みになっている課題の山を横目に、私は冷や汗をかいた。もしかして瀬那くん、今日一日でこれ全部仕上げるつもりなのかな。
「……英語と数学の授業、先週あったよね……?」
「やってきたけど持ってくるの忘れた、で無理やり押し通した!」
「ええ……じゃあ全然セーフじゃないよ、もう完全にアウトだよ……絶対バレてると思う……なんでそんな後先考えないことするの……」
私、八重樫紬がクラスメイトの|芳川瀬那くんとお付き合いを始めてから、およそ一ヶ月。先日ようやく、二回目のキスをしたところだ。今までろくに恋もしたことがなかった私にとって、初めての男女交際は戸惑いと驚きの連続だけれど、それでも彼と一緒にいることが楽しくて幸せだ。
何の取り柄もない私のそばにいてくれる瀬那くんには感謝の気持ちしかないし、私にできることなら何だってしてあげたい、とも思う。それでもさすがに、この量の宿題を今日一日で終わらせられる気はしなかった。
「ぜ、絶対無理だよお……」
弱音を吐いた私の肩をがしっと掴んだ瀬那くんは、「大丈夫! オレと紬ちゃんならできる!」と根拠のないことを言い出した。いつも自信に満ち溢れてるのは彼のいいところだけれど、見通しが甘いのはちょっと考えものだ。ちなみに私は宿題がちゃんと終わるか不安すぎて、七月中に全部済ませてしまった。
「お願い紬ちゃん! こんなの彼女に頼むってすげーダサいってわかってるんだけど、オレ紬ちゃん以外に頼れる奴いないんだよ……みんなオレと似たり寄ったりのバカばっかだし……」
「うう……」
「紬ちゃんは頭良いし真面目だし、優しいし、ついでにめちゃくちゃカワイイし……」
「うううう……」
ここまで必死に頼まれると、どうにも弱い。もともと自己評価がミミズのように地を這っている私は、私なんかがそこまで頼られるなら……という気持ちになってしまった。
「……ぜ、全部はやらないからね……」
「さすがオレの紬ちゃん! 愛してる!」
「ぎょわわわわ」
がばっと勢いよく抱きつかれて、私はその場に固まってしまう。瀬那くんの豪快なスキンシップにはいつまで経っても慣れない。彼はわたしの二の腕をむにむにと触りながら「冷たくて気持ちいい……」と呟いていた。クーラーに冷やされた脂肪で涼をとるのはやめて欲しい。
「……せ、瀬那くん。わ、私の二の腕の脂肪なんかより、は、早く課題を……」
「ヤベッ! 勉強どころじゃなくなるとこだった。よっしゃ、頑張ります!」
朝から課題を始めた私たちは、途中瀬那くんのお母さんが作ってくれたチャーハンを食べながらも、必死で課題に取り組んだ。本気になった瀬那くんの集中力はかなりのもので、最初からその本気を出していれば今こんなに苦しまなくてもよかったのに……と何度も思った。おやつの時間には瀬那くんのお母さんが買ってきてくれたおいしいシュークリームを食べて、太陽が傾き始めた頃、ようやくゴールが見えてきた。
「……あー……ここまでやれば、あとは徹夜でなんとかする……紬ちゃんありがとう! マジで助かった!」
「ほ、ほんと……? お、お役に立ててよかった……」
シャーペンを置いた私は、ふうっと息をつく。数学を任されたわたしは、結局同じ課題を二回こなしたことになるけれど、休み明けの試験もあるし復習できたと思えばよかったのかもしれない。それよりも、私の答えを丸写ししただけの瀬那くんの試験結果がちょっと心配だ。
「あー、これでオレの夏休みは無事終了。お疲れ様でした!」
瀬那くんは「つっかれた」と言いながら、ごろりとベッドに横になる。時刻は十八時を回っていたけれど、そろそろお暇した方がいいだろうか。持ってきたリュックを掴もうとすると、伸びてきた手に腕を引かれた。
「紬ちゃん、こっちおいで」
隣をぽんぽん叩かれたので、おずおずとお邪魔する。ごろんとベッドに横になると、シーツから瀬那くんの匂いがした。このぐらい距離が近いことはよくあるけれど、二人とも寝転がっている体勢だとなんだかドキドキする。
こちらをじっと見つめていた瀬那くんが、ふいにこつんと額をぶつけてくる。なんだかやけに熱のこもった目つきだな、と思っていると、ふいに唇と唇が重なった。
「…………!? ほぎゃっ!」
突然の出来事に驚愕した私は、勢い余ってベッドから転がり落ちた。転がり落ちたついでに、テーブルの脚にしたたかに頭をぶつける。頭を抱えて痛みに悶えていると、瀬那くんが慌ててベッドから跳ね起きた。
「紬ちゃん!? 大丈夫!?」
「いたたたたた……だ、大丈夫……」
「キスしたくらいで、そんなにびっくりしなくても」
「び、びっくりするよ……ちゃんと予告してよお……」
「三回目だし、もういいと思ったんだけどなー……」
三回目だろうが十回目だろうが、ちゃんと心の準備をさせて欲しい。こんなことを不意打ちで何度もされては、近いうちに私の心臓が止まってしまいそうだ。
わたしを抱き寄せた瀬那くんは、打ちつけた後頭部を優しく撫でてくれる。夕暮れの空は不思議な紫色に染まっていて、なんだかやけに幻想的だ。少しずつ足早になっていく日の入りは、夏の終わりを感じさせた。
「……夏の終わりって、なんだかちょっと寂しいね」
ぽつりと呟いた私に、瀬那くんはぱちぱちと大きなつり目を瞬かせた。
「あれ。紬ちゃん、夏嫌いじゃなかったっけ?」
「うん……でも、なんか毎年やり残したことがあるような気がして……焦る」
「ふーん」
「……瀬那くんは、そういう後悔とかなさそうだね」
ポジティブで前向きな彼は、いつだってやりたいことに全力投球だ。夏休みの宿題をほったらかしてでも、悔いのない夏を送っていたに違いない。
しかし瀬那くんは、私の言葉にかぶりを振った。
「……いや。オレもあるかも。やり残したこと」
「そうなの? なあに?」
「うーん。オレ一人がやりたくてどうにかなる問題じゃないし……紬ちゃんの心の準備とかもあるだろうし……それはまた来年でいいかな!」
「う、うん……?」
私は首を傾げた。よくわからないけど、きっと瀬那くん一人ではできないことなんだろう。それがいったい何であれ、相手に私を選んでくれたことは嬉しかった。夏休みの宿題、とかじゃなければいいんだけれど……。
「じゃ。とりあえず四回目していい?」
悪戯っぽく囁かれた言葉に、私はぎゅっと目を瞑る。壊れそうに高鳴る心臓の音を聞きながら、私たちはまだぎこちない四回目のキスで、今年の夏を締めくくった。
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