ポジティブボーイは目を閉じる

「はあ、どうしよう……もう死ぬしかない……」


 この世の終わりのような顔で溜息をついた紬ちゃんは、両手で持ったおにぎりをもぐもぐと頬張る。オレは紙パックに入ったフルーツオレを飲みながら、「相変わらず紬ちゃんは極端だなあ、でもそういうところがカワイイなあ」と思う。

 夏休みが終わり、二学期が始まった。九月になっても残暑は厳しく、青い空には夏の盛りのような太陽が輝いている。昼休み開始のチャイムが鳴るやいなや、紬ちゃんの手を引いて教室を飛び出したオレは、彼女と二人仲良く音楽室で昼飯を食べていた。

 オレは可愛い彼女とのランチタイムにご機嫌だったが、紬ちゃんは浮かない顔である。理由はひとつ、先ほど授業で「二学期には英語のスピーチテストを行う」とのお達しがあったからである。


「日本語ですら覚束ないのに、みんなの前で英語で喋るなんて絶対無理……」

「あんなん、大袈裟にジェスチャーでもつけとけば勢いで誤魔化せるって! 自分のことアメリカ人だと思えばいいんだよ」

「……瀬那くん、英語得意なの?」

「いや? ハローとサンキューとアイラブユーぐらいしか喋れない! 最後のは紬ちゃんにしか言わないけど!」


 オレの言葉に、紬ちゃんは「アイラブユー……」と復唱して頰を染めた。普段から何度も好きだ好きだと連呼しているつもりなのだが、そんなささいなことで照れるなんて可愛い奴め。


「じゃあ、今回も一緒に練習しようぜ。オレも将来メジャーリーガーになったら英語喋れた方がいいだろうし!」

「……うん、わかった……」


 紬ちゃんはどんよりと暗い表情のまま頷く。今にも死にそうな顔をしている紬ちゃんだが、実際のところ意外と図太いことをオレは知っている。


 ――私はビビりでヘタレで泣き虫だけど、これからもずっと、瀬那くんのこと好きでいる自信だけはあるよ。


 あの日彼女が伝えてくれた言葉は、オレにとって一生の宝物だ。自分の気持ちと向き合う勇気がなくて逃げ出したオレを、追いかけて捕まえて励ましてくれた紬ちゃんは、本当はオレなんかよりずっと前向きで根性のある女の子なのだ。

 あっという間に弁当(本日二個目)を食べ終えたオレは、窓のさんに頬杖をついて外の景色を眺める。人気の少ないテニスコートのわきに、成海と河野さんの姿を見つけた。二人で向き合って、何事かを話しているようだ。


「なーなー紬ちゃん。見て見て、あそこ。成海と河野さんがいる」

「え? あ、ほんとだ……」


 おにぎりを持ったままオレの隣にやってきた紬ちゃんも、二人の姿を見つけたらしい。

 河野さんは腕組みをして何かを言っており、成海はそれをうんざりした様子で聞いている。いつものように、お説教でもされているのだろう。そのときふと、成海が河野さんの手首を掴んで――腰を屈めると、短いキスをした。


「うわっ! キスした」

「ぎゃ、ぎゃあああ……まっ、ままま真央ちゃん……」


 河野さんは真っ赤になって、成海の顔面に見事な右ストレートを食らわせる。かなり痛そうだったが、成海はニヤニヤと嬉しそうに笑っていた。オレのことドMだなんだと言っておいて、あいつの方がよほどMだ。


「う、うわあああどうしよう……あの二人が付き合ってるなんて知らなかった……こ、この後どんな顔して真央ちゃんに会えばいいの……」


 紬ちゃんは頰を真っ赤に染めて、アワアワと慌てふためいている。動揺している紬ちゃんには悪いが、オレはもはや成海たちのことなんてどうでもよくなっていた。

 成海にあてられたわけではないが、唐突に気付いてしまったのだ。今隣にいる可愛い女の子はオレの彼女であり、キスをしてもなんら問題のない関係だということを。もちろん、彼女が嫌がることを無理やりするつもりはないが。

 夏祭りの夜に一度だけ触れた、柔らかくて甘い唇の感触を思い出す。夏休みもオレは部活で忙しく、デートもまともにできなかったので、彼女と二人きりになる機会はほとんどなかった。言うなれば、今は絶好のチャンスというわけである。この機を逃すつもりはない。

 オレは紬ちゃんの薄いピンク色の唇をじっと見つめる。胸の前で持ったおにぎりがちょっと邪魔だ。


「……紬ちゃん。ちょっといったん、おにぎりしまって」

「え、あ、はい」


 オレの言葉に、紬ちゃんは残ったおにぎりをもぐもぐと頬張った。いや、口の中にしまってほしいわけじゃなかったんだけど……と思いながら、オレは紬ちゃんがおにぎりを飲み込むのを辛抱強く待った。

 紬ちゃんがおにぎりを食べ終わったところで、オレは彼女の両肩をがしりと掴む。じっと見つめると、ただでさえ赤らんでいた頰がよりいっそう赤く染まった。


「紬ちゃんとキスしたい」

「ヒイッ」


 手加減のないオレの直球ストレート(球速百五十キロ)に、紬ちゃんは色気のない悲鳴をあげた。そのままじりじりと距離を詰めていくと、「ま、待って」と軽く胸を押される。


「ダメ?」


 堪え性のないオレの声は、思っていたよりも余裕がなかった。紬ちゃんはびくびくと身体を震わせながら、オレたち以外誰もいない音楽室をキョロキョロと見回している。


「こ、こ、ここっ、ここここでするんですか?」

「二人きりだし、チャンスかなーと思って」

「ま、牧原先生に怒られるよお……」


 紬ちゃんは落ち着きなく視線を彷徨わせる。

 たしかにマッキーには「変なことをするな」と釘を刺されたが、これぐらいならセーフ……だよな? ギロリと睨みつけてくる脳内のマッキーに、心の中でゴメンと謝っておく。


「お、おにぎり食べたのに、は、歯磨きしてない……」

「大丈夫だって。別にいきなり舌入れたりしないから!」

「ギョエッ! ま、ま、待って! リップ塗ってない……」

「別にいいよ、そんなん」

「でも、でも……」

「……オレはしたいけど、紬ちゃんが嫌ならやんないよ」

「…………嫌、では、ない、です……えっと、してほしい……」


 消え入りそうな声で囁かれた紬ちゃんの返事に、オレは内心ホッとする。「じゃあ、する」と宣言すると、紬ちゃんは観念したようにこくんと頷いた。嬉しくなって、彼女の身体を引き寄せ抱きしめた。

 冷房に甘やかされた二の腕が、ひんやりとしていて心地良い。窓の外でうるさく鳴く蝉の声も耳に入らず、オレたちはただ互いの鼓動だけを聞いている。


「……目、閉じて」


 オレの言葉に、紬ちゃんがぎゅっと固く目を閉じた。彼女の頰にぎこちなく触れる、自分の手が震えている。そこで初めて、どうやらオレは緊張しているらしい、と気付く。

 こんな気持ちが自分に潜んでいるなんて、紬ちゃんに出逢うまで知らなかった。恋というのは恐ろしいものだ。彼女と一緒にいると、オレの感情はぐちゃぐちゃに掻き乱されてしまう。

 ただ今は、この弱気で後ろ向きで案外図太い女の子に、振り回されてみるのも悪くないな、と思っている。ああ、やっぱりオレも成海に負けないくらいのMなのかもしれない!

 ――さて、二度目のキスは失敗せずにできるだろうか。

 ひとまずオレは、壊れそうなほどに高鳴っている心臓を落ち着けるべく深呼吸をして――ゆっくりと、目を閉じた。




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