第18話 争う因果応報

 真という最愛の弟を僕は傷つけていた。そのこと事態は以前から自覚しているつもりだった。二年前のあの日、僕の左手に発症した他人の手によって僕は真を傷つけた。それは僕の心の傷から生み出されたもので、云わば僕の弱さの象徴みたいなものだ。だから、精神症だろうが何だろうが、結局のところ僕自身が傷つけたことに変わりはない。そう思っていたはずだった。

 しかし本当にそうだろうか。自分の責任だと、自分の弱さが元だと自覚している振りをして、その弱い心のどこかで誤魔化してはいなかっただろうか。

 そうは言っても病気のせいだと、どこか責任逃れをする気持ちが少しでもあったのではないだろうか。

 病名を聞いて安心しなかったか。

 発症する度納得している自分がいなかったか。

 本当に自分の責任だと、その罪過を悔いていただろうか。

 どれも否定することはできない。

後悔する度に、懺悔する度に、少しずつ心の重荷を左手に押し付けていたのだと、今ならば言える。この左手のおかげで、僕は重圧に潰されずに済んでいたのだ。

ドクターは言った。それは鍍金のようなものだと。

「佐々部君が弟を傷つけたとき、君の手にはまだエイリアンハンドは与えられていなかった」

 僕には訳がわからない。

「そして、仮にエイリアンハンドがあったとしても、事実は何も変わらない」

 わからない。わかりたくない。

「佐々部君、君は右利きだろう」

「そ、そうだけど・・・それが」

「なら料理中は右手に包丁を持っているのが普通だろう」

「──っ。」

 食材に向けていたはずの包丁。

 直前の状態がそうであるならば、包丁はどちらの手にあるのが正しい?

「きっと君の弟は背中にその時の傷跡があるだろう。それはどんな形でついているか、考えてみればいい」

 一緒に風呂に入るとき、着替えのとき、その度に見る真の背中。真の小さな肩の左から右脇腹へと繋がる傷跡。

 左手で袈裟懸けに切り裂いたのなら、右肩から左脇腹へと続くはず。実際の傷とは真逆だ。

「気づくためのヒントはそこら中にあったはずだ。しかし佐々部君はそれらを隠した。自分の記憶を偽って、自分自身すら騙して、全てをエイリアンハンドに押し付けた」

 まるであの物語の青年のように、真実を虚構で覆った滑稽な人間。

 そうか、それでドクターはあんなにも笑ったのか。

「そしてその隠蔽を手伝ったのが私だ。君にエイリアンハンドを与え、責任の押し付け先を産みだした。だからこの虚構は君と私の合作と言っていい」

 まるで誇るようにドクターはそう言ったのだった。

それから話を終えて、ドクターは僕の前から姿を消した。と言っても幽霊のように霞となって消えたわけではない。普通に歩いて境内から出て行った。

 一人、僕は境内に残された。その場から動く気にはなれなかった。体が重く、心は沈む。地面に落ちた影は長く伸び、日が沈みかけていることに気がついた。

 家に帰らなければならない。今日はいつも通りの時間に母が帰ってくるだろうから、夕飯の支度はする必要が無いけれど、それでも夜が更けるまで出歩いていていいわけでもない。

 家に帰れば当然、真がいる。僕なんかよりも大切な弟がいる。いつも通りおかえりと言って出迎えてくれるだろう。こんな駄目な兄に笑顔を向けてくれる。今はそれがとても恐ろしい。自分の汚さを再認識しなきゃいけなくなるから。

 傷つけて、その上でその責任から逃げ出した僕には笑顔を向けられる資格なんかない。

 それでも帰らなきゃいけない。

 目を伏せたままで一歩踏み出そうとして、長い影が増えていることに気がついた。

 数えてみると合計五本。

「・・・・・・成程」

 顔を上げると、そこには見覚えのある金色刺繍のスウェットが一人。残りの四人は見覚えがない。

「昨日よりお仲間が減ってないか」

 僕は気のない声でそう言った。

「飽きっぽい連中だからよ。今日集まったのはこれだけだ」

「あんだけやったのに、あんたは懲りないのかよ」

 横目で逃げ道を確認するが、境内から鳥居までの通路は相手が塞いでいる。周りは雑木林。外周は高さのある塀なので、逃げ込んだところですぐに捕まってしまうだろう。

 やるしかない。

「やられた分はやり返さねえと気が済まねえからな」

 そう言って、男は仲間からバットを受け取った。先日僕に凶器を奪われたことは懲りていないらしい。不利になるだけだとなぜわからない。

「ならこいよ」

 挑発するように手招きをしてやる。正直なところ、何かで発散してしまいたかったのだ。今抱えている悩みとそれらを頭の中で整理しなきゃいけない煩わしさから、一時でも解放されたかった。

「死ねやゴラァ」

 男は一人バットを構えて来る。仲間は僕の退路を塞ぐように立つのみで、手を出すつもりはないようだ。もちろん、それも今だけだろうことはわかる。一人でもやられれば全員で袋叩きにするつもりだろう。

 ならば一人目の倒し方が肝心だ。

「丁度凶器もあるし・・・いいか」

 呟いて、振り下ろされようとしているバットに集中する。

 やりすぎなんてものは今日は気にしない。暴れるだけ暴れさせて、全部を無茶苦茶にしてやろう。先に潰した二人と合わせて、三人仲良く病院のベッドで寝てろ。

 そんな思いと共に、軸をずらしてバットをかわし、反動で一瞬硬直した隙に掴む。当然左手で。

 闘争の緊張感によって発現する条件は整っている。そして何より今は制御する気なんてさらさらない。他人の手が暴れるに身を任せてやる。

「・・・・・・あれ?」

 しかし、掴んだ後でも左手には何も起こらない。ただバットを鷲掴みにしている感触があるのみだった。

「何ぼさっとしてやがる」

 掴んだ状態のまま何も起こらないことに呆気に取られていた僕は、相手の蹴りをまともに喰らった。わき腹に鈍い痛みが響く。

 条件は整っている。蹴られたことで焦燥にも駆られている。だというのに、左手は未だ思惑を無視して思い通りに動いている。他人の手は顔を出さない。そして通常の僕の筋力では、柄を握り締めている相手から凶器を力任せに奪うことはできなかった。

「ぐっ!」

 更に一撃、空いている方の手で拳を叩き込まれた。水月に入ったその一撃で胃が逆流しそうになる。

 やばい、と感じたときには既に遅かった。

 くの字に曲げた体は痛みを堪えるのに必死で、次の一撃に備えられないでいる。最悪なことに左手は力を失い、バットは手から剥がれた。

 空気を裂く音。振り上げられたバットが今まさに振り下ろされんとする音だった。

 頭に喰らえば死ぬ。とっさに判断して体を丸める。俗に言う亀の状態。背中に尋常ではない鈍痛が走る。

「かっ、は──っ」

 無理矢理酸素が押し出され、呼吸を整える間もなく何度も追撃が振り下ろされる。既に勝負は決していた。

 気がついたら腹を蹴られていた。いつから蹴りに変わったのかももうわからない。

 痛みが少しずつ薄らいで行き、程なく僕の意識は飛んだ。


 頬に触れる柔らかな感触で僕は目を覚ました。

「ここは・・・。」

 目を覚ましたということは僕は眠っていたのだろうか。どう考えてもこの感触は地べたに直接転がっているようで、しかも周囲は真っ暗である。

「痛っ、畜生」

 体を起こそうとして鈍い痛みがいたるところから伝わってきた。そして痛みと共に思い出す。

 そうだ、僕は喧嘩に負けたのだった。

 ゆっくりと体を起こしながら節々を調べる。動かすたびに痛みはあるものの、どうやら骨折や脱臼はしていないらしい。状況と相手の心情を鑑みればこれは僥倖と言って差し支えない。

 正直、殺されてもおかしくないと思っていた。

 確認してみたが財布等の貴重品を盗まれてもいない。ただ僕を痛めつけただけで満足して帰ったらしい。

「しかし不幸中の幸い、とは言えないなこりゃ」

 体を確認するがあちこち痣だらけだ。今夜辺り熱が出ることは請け合いだろう。手の届く部分だけでも冷やしながら帰った方がようさそうだ。

 何で冷やそうか・・・あれ?

 そういえば僕を目覚めさせたあの雫は何だったのだろう。顔を上げてみたが、目の前に広がるのは星空のみで、今は雨が降っていない。

 少しずつ境内の暗闇に慣れてきて、よくよく目を凝らしてみればそこには猫がいた。

 人なれしているのだろう、僕と目が合っても身構えたりしない。

「お前が起こしてくれたのか」

 先ほど頬に触れたのは肉球か?

 僕が一向に食べ物を与える気配がないからか、猫は一声にゃーと鳴くと、そのまま雑木林へと消えていった。

 目で追いつつ、また思い出す。猫を引き連れて歩いていたあの男、ドクターのことを。そして僕の左手のことも。

 意識を失う直前のことなのでうろ覚えだけれど、一つ忘れようもないことがあった。

 あの不良との喧嘩中、他人の手が発現しなかった。

 発現する条件は充分に満たしていたはずだ。経験上、あの状況で出てこない方がおかしい。意識的に利用しようと試みたからだろうか。

「そんなはずはない」

 自問し即座に自答する。

他人の手には僕の意図など関係ないのだ。条件が整っていればどれだけ注視していても制御できない、だからこそのエイリアンハンドシンドローム。

なら何故発現しなかったのか。

僕はその答えに気付いている。気付いているくせに、またも目を逸らそうと必死なのだ。

今までそうして生きてきたように、この二年間自分を欺き続けてきたように。今もまだ自分を騙そうと必死に抵抗している。

そんな卑怯で醜く卑しい僕は、しかしもう欺き続けることはできない。

そりゃそうだ。だってそのための道具を僕は失ったのだから。

今まで僕が僕を騙すために使っていた道具。

エイリアンハンドシンドロームはもう。

「治療されたのか」

 そうだ。他人の手が発現しないというのはそういうことだ。

 ドクターは僕の前から姿を消した。やり残したことを行うために、この左手のエイリアンハンドシンドロームを治療するために僕に会おうとしていたドクターが僕の前から去った。やり残していたことをやりきったから。

 この手の治療は終わっていた。

 僕のエイリアンハンドシンドロームは僕が自身の罪から逃げるためにドクターに願ったものだ。真を傷つけたという重責を押し付けるためのそれらしい理由がエイリアンハンドシンドロームだった。罪から逃げるために自分の記憶すら改竄して、認識すら捻じ曲げて、そうすることでこの左手にエイリアンが宿っていたのだとしたら、僕が真実に気付いてしまった以上は続けることなど不可能なのだ。

 虚構は消え、真実が顔を出した。

 エイリアンハンドシンドロームなんてものは元の僕にはなく、この左手は僕の意思で動いて当然なのだから。

 ドクターは言っていた。治療するだけなら造作もない、と。

 そうだろうとも。何せただ僕に真実を突きつけるだけでいいのだ。それだけで僕は自分を騙し続けられなくなる。エイリアンハンドに責任を押し付けられなくなる。

 僕とドクターの会話が終わった時点で、僕は治療を終えられていた。

 残ったのは真実だけだ。

「ははは、はは。ははははははは──。」

 僕が僕自身を嘲る。あまりにも滑稽な僕を。

 ドクターの言った事が本当か嘘かなんて確かめる必要すらない。

 だって僕はもう思い出してしまったのだから。二年前のあの日、何があったのかを。

 あの日の夕方、晩御飯の準備をしていると真が僕に近づいてきた。

「兄ちゃん、今日は何作るの?」

「炒飯だよ。今日は特別に焼き豚も付けてやる」

 ネギを切りながら僕は言った。

 焼き豚も炒飯も真の大好物だ。

「やったー」

 腰にまとわりつきながら真は喜んで跳ねる。

 何故だろう、その笑顔が昼間に見たあの子の笑顔と重なったのだ。父の前で僕の知らない奥さんと一緒にご飯を食べていたあの女の子の笑顔と。無邪気で何も知らないあの笑顔と重なった。

 重なったのはあの女の子だけじゃない。父の正面に座っていた女性の姿も、そこには見えて。

 人の親を盗っておいて、何も知らないで幸せそうにしやがって。

 その子が背中を向けた。その女が背を向けた。僕に無防備な姿を晒している。

 衝動に駆られて僕は動いた。振り上げて、振り下ろす。やったのはそれだけで、そしてそれで。

「──ぐっ!」

 その子が倒れる。倒れる際に頭を打ち、気を失っていた。

「あ、あ、あ、ああ」

 倒れたその横顔はもう昼間の女の子ではなかった。あの女性でもなかった。

──真だ、僕の弟だ!

 気付いた瞬間にはもう逃げ出していた。包丁を投げ出し、這うようにして玄関に向かう。靴も履かずに飛び出した。

 そうして飛び出した先で僕は出会ったのだ。日が落ちる直前、夜の帳のその手前に僕は大量の猫を引き連れたドクターと出会った。

 僕は願い、そして聞き届けられた。

 自ら意識を断ち、記憶を書き換え、すぐに目を覚まして家へと引き返した。後の記憶は覚えている通り。

 あの日の記憶を呼び戻すことがドクターの治療だったのだ。二年間の執行猶予の後に僕に罪を突きつけることがあいつの役割。

 街灯のない境内の中、ポケットが振動した。携帯電話の着信音、見ると母からの電話である。時間は午後八時、門限はとっくに過ぎていた。僕が連絡無しでこの時間まで外出していたことはない。

 電話には出ずに立ち上がり、重い体を引きずりながら自転車に跨った。

 とりあえずは家に帰らなきゃいけない。そう思い自転車を漕ぎ出す。

 これほど心と体に厳しい帰宅は初めてだった。


「今何時だと思ってるのよ」

 玄関を開けていの一番、母に叱られた。

「あんまり細かいこと言うつもりはないけどさ、遅くなるなら連絡くらい──って、あんたどうしたのその顔」

「え?」

 玄関の姿見を見ると、見事なまでに顔が腫れていた。

 顔もやられてたのか。

「それに制服も汚れてるし。あんたまさか虐めにでもあってるんじゃ」

「あ、や、違うんだ。そう違う。ただ単に不良に絡まれて喧嘩みたいになっちゃって。でも大丈夫、もう決着はついたから」

 僕は慌てて取り繕う。

 母は暫く僕を見ていたが、やがて、

「ま、男の子なんだから喧嘩の一つもするか」

 と言ってこの件にはこれ以上口出しをしなかった。

「とりあえずお風呂入ってらっしゃい。ご飯温めとくから」

「うん。そうする──真は?」

 いつもならば帰宅と同時に飛びついてくる真が今日は来ない。

「小学校は明日休みだから、今日は友達の家でお泊り会よ。朝言ったでしょ」

 そう言って母は台所に入っていった。

 汚れを落として夕飯を食べた。風呂もご飯も温かかった。涙が出そうになったがベッドに入るまでは我慢した。

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