第13話 空振りする熱意
ちりん、と音が鳴った。
杏子が何かを語ろうとしたその時である。
窓の外、黄昏に染められた世界からそれは聞こえてきた。
窓から外を見ると、猫が一匹、視界を横切った。少し間を置いて二匹目が、そのまた後に三匹目が横切る。
「これは・・・。」
「どうかしましたか」
僕の視線を追うように、杏子も窓の外を見た。
数匹の猫が連れ立って歩く。まったく同じ方向へと、不揃いな猫達が歩いている。
僕は、この光景を数日前に見たことがある。放課後、杏子との待ち合わせ場所に向かう途中に、それを見たはずだ。
数匹の猫が走っていくその先、辛うじて一車線分の幅を持つ住宅街の十字路、その交差する部分。
二人同時に見つける。
赤い祭壇にいくつもの提灯が釣り下がっている。黄昏時の空の下、茜色が支配する世界にそれはいた。
「山車だ」
そう言ったのは僕だったか、杏子だったか。二人同時に言ったのかもしれない。わからない。そんなことに思考を巡らせている場合ではない。
山車を引いている人物は見えない。十字路を左へ曲がろうとしている山車の後ろ半分が顔を覗かせているだけだ。それも今や隠れようとしている。
僕よりも先に、杏子が駆け出す。喫茶店のドアに殆どタックルするような勢いだ。
僕も後に続こうとして、ギリギリで理性がブレーキを掛けた。
そうだ、支払いを済ませていない。
「マスター、ここにお金置いときますんで!」
そう叫んで財布から千円札を引っ張り出し、カウンターに載せた。
踵を返して店から出る。
十字路に目をやるが、既に山車の姿はない。もちろん杏子の姿も。全力で走りながら十字路を左に曲がる。
「杏子!」
言いつつ、僕は安堵する。どうやら見失わずに済んだようだ、曲がった先で、杏子が白衣の男の進路を塞いでいた。
長髪で、白衣を着ている。見るからに細身で、不健康な程痩身だった。背は高く、手足は長い。何となく蟷螂のようだと僕は思った。蟷螂との相違点はその目だろうか、とても細く、開いているのか閉じているのかわからない程だった。
数日前よりもはっきりとその姿を捉えた。
この男こそが彼の『ドクター』なのだと、妙な確信が僕の中にあった。
ドクターは通せんぼをする杏子と、声を張り上げた僕を交互に見る。そしてゆっくりと口を開き、
「おや、懐かしい女と久しぶりの男のそろい踏みだね」
と言った。
久しぶり、ということは、どうやら数日前に見かけたときは相手からも僕のことが見えていたらしい。まああれだけ呆けて見ていたのだ、相手もそりゃわかるだろう。
ドクターは懐かしい女、つまりは杏子を見やる。
「何だろうね、君のその行動から察するに、どうやら私に何か用なのだろうけど。さて、今の君に会うとはどういうことなのだろう」
君、と言いながらも自問自答をするような口調であった。
対して杏子はというと、下を向いて何か小さく呟いていた。ここからでは距離があって聞こえない。
「しかしながら、鳥茅杏子、君の隣にいるのがこの男だとは意外だな。あの子はどうしたんだろう、寄り添うように隣にいたあの男の子は」
抑揚の無いドクターの声に、杏子は刺激されたらしい。
肩が跳ねた。
「お前がそれを言うのかよ」
怒気の篭った声でそう言ったのは僕ではない。
杏子だ。首はうな垂れたまま、目だけはドクターを見据えていた。
僕は聞き慣れない杏子の口調に、今喋ったのは本当に杏子かと耳を疑う。いつもの馬鹿丁寧な様子は微塵も感じられなかった。
猛々しく、荒々しかった。
怒気の篭った、どころではない。杏子は完全に怒っていた。憤怒と言ってもいいくらいに。
杏子の言葉に、ドクターは興味深そうに更に目を細めた。
「おや?」
「探したぜ藪医者。七年間あんたを忘れたことはねえ」
今や僕の知っている杏子の雰囲気など微塵も残っていなかった。誰だこいつは──ただそう思った。
得体の知れないドクターよりも、より一層わからない。知らない人間を理解できていないことよりも、既知の人間を理解できないことの異常さが大きい。目の前で怒りを撒き散らしている女子は本当に杏子なのだろうか。
「うん。ふむふむ、ああ、なるほど」
現状についていけない僕を尻目に、ドクターは杏子をまじまじと見つめ、合点がいったと頷く。
数式を説き終わったような顔。
「これは驚いた。驚愕と言って差し支えないね。まさか君、まだそうなのかい」
さっきまでとは違い、杏子に対しての明確な質問。
興味があるのか、本当はないのか、抑揚のないただ無機質な質問の仕方だった。
僕には意味のわからない質問だったけれど、杏子には充分に伝わったのだろう。彼女は、
「だから、お前が、それを、言うな」
怒りをかみ殺すように、一節ずつ言葉にする。
「七年だ、七年も、俺は──っ」
興奮しすぎて、後半は言葉になっていなかった。そして猛る態度とは裏腹に、杏子の顔は青白くやつれているように見えた。どう見たって普通ではない。
対してドクターは、出会ったときからまったくの変化が見られない。我を忘れて怒る杏子を見ても、先ほどと何も変わらず、ただ淡々と言葉を並べる。
「やはりそうか。しかし奇妙だな、そうなると辻褄が合わない。いや、ともすればここにいないというのがそのまま答えなのか。なあ、君──いや、こう言おう」
ドクターはそこで、杏子の顔を覗き込むようにして問う。
「司君。鳥茅杏子はどこにいるんだい?」
「っ──!」
状況をまったく理解できていない僕にも、ドクターが決定的な引き金を引いてしまったことはわかった。
直後、杏子はドクターに右拳を振りぬいた。
音はなく、ただドクターが後ろへと仰け反る。
流石にこのまま傍観者となっているわけにはいかない。そう思い、僕は杏子とドクターの間に割って入る。
「待て、落ち着け。状況はまったくわからないけれど、とりあえず落ち着け」
「わかんねえなら黙っとけ。俺は今からこいつを殺す」
突き進もうとする杏子を体を使って止める。
殺す?杏子が言ったのか。いや、もう本当に誰なんだよこいつは。今僕の目の前にいるのは間違いなく杏子のはずだけれど、しかしどう考えたって杏子はこんなことは言わない。
司君──誰だそりゃ。
名前の響きに覚えがあるような気はしたが、こんな状況では考えることもままならない
何はともあれ杏子を落ち着かせるのが最優先だと思い、ドクターに背を向けたまま、僕は左手で触れないように注意しつつ、杏子の肩を押さえる。
触れた杏子の体はとても熱かった。ともすれば風邪がぶり返しているのかもしれない。
ドクターの方はというと、顔面を殴られたにも関わらず、意にも介していないようだった。こいつもこいつで普通じゃない。
ああもう、何から処理すりゃいいんだ。
「とにかく、事情はわからないし、状況もまったくわからないけれど、今こいつを殺されるのは僕としては困る」
前提はそこだ。そう、僕はドクターに他人の手を消して貰いたくて捜していたのだから。だから、杏子の言葉が怒りに任せてのものか本心からかはわからないが、少なくとも今、ドクターがいなくなるのは看過できない。
「ほんと、マジで。少しでいいから落ち着いてくれ」
僕の言葉が通じたのか、杏子は呼吸を深くし、荒げていた気持ちを静めようとする。
どうにかなっただろうか。
「興味深いな。うん、非常に興味深いや。私としても見識の足りない部分が多様にあったということなのだろうけれども」
ドクターがそんな事を言う。
声が届くと同時に、杏子の肩にまた熱が篭った。
くそ、少し黙っててくれ。
僕の願いも虚しく、ドクターは続けて言う。
「しかし時間はここまでのようだね」
杏子の更に向こう側を見たドクターは、残念そうな顔をした。表情の変化に乏しいので、それが本当に残念そうな顔なのかどうかはいまいちわからなかったが。僕の基準からすればそう見えたとうことだ。
「それはどういう──」
言いさして絶句した。杏子にばかり意識を向けていたが、ドクターの見ている先、人通りの無い路地の奥、そこに見るからにガラの悪そうな男達がいた。
明らかにこちらを見ている。その理由がドクターの引く山車に注目して、なんてことだったら問題はないのだけれど、どう考えても違う。
なぜなら、彼らの目には敵意があり、そして何より、見覚えのある顔がその中にいたからだ。
派手な頭に金の刺繍が入ったスウェット、ゲームセンターで恐喝をしていた男の一人だ。
仲間を連れてきたのか。
本格的にまずい。杏子は感情を抑えるのに必死で、背後の状況に気付いてもいない。
「杏子、ゆっくりと後ろを見ろ」
焦りが伝わらないよう、押し殺した声で言う。
杏子は一応は素直に僕のいう事を聞いて、振り返った。
「──。面倒な」
焦燥を抱える僕とは違い、明確に敵意の篭った声。
状況から鑑みるとこれもまずい。
「君たちは色々と抱えているけれど、まずはこの危機を乗り越えた方がよさそうだね。勿論、無関係の私は退散させていただくことにする。佐々部君への用事はまた次の機会に持ち越すことにしよう」
ドクターは男達に気をとられている僕と杏子に耳打ちする。
僕が振り向いた時には、すでにドクターの影も形もなかった。
「どこへ・・・いや、それよりも」
残念ながら優先すべきはドクターではない。こちらに近づいてくる男達をまずはどうにかしなければ。
この場合勝てるかどうかを考えるのは馬鹿のすることだ。十人相手に二人では、凌ぎきれるはずもない。加えて、杏子は今や心身ともに普通じゃない。
逃げるのは大前提。
その上でどう逃げるかを考えなければならない。
近くに交番はあるのだけれど、駆け込むという選択は微妙だ。警官が巡回に行って留守にしている可能性も危惧されるが、それ以前の問題として、この状況で僕らに正義はないからだ。
ゲームセンターで僕はやり過ぎた。明らかに正当防衛の範囲を逸脱して、過剰防衛の域に及んでしまっている。
仮に今交番に駆け込んで、警官に事の経緯を話したら、不良達だけでなく、僕や杏子まで捕まりかねない。そしてそのリスクは多分にある。
いっそのこと三人とも再起不能にしておくべきだったか。
「杏子、とりあえず走るぞ」
「──。」
言葉はないが、杏子は首肯した。
「いくぞ・・・せー、のっ!」
「ちっ、待てゴラァ!」
掛け声と共に駆け出した僕達を見て、男は声を荒げる。声の調子を聞く限り、先ほど感じた恐怖からは脱却してしまったのだろう。それとも、仲間から引き離せばまた逃げ出すだろうか。
自転車は喫茶店に駐輪したままだ。取りに戻るのも難しい。
せめて人通りの多い場所に出たいけれど、この時間帯、町の中心から離れた高校の近くに人がいるほうが珍しい。
「っと、そうか」
ようやく気付く。
頭から抜け落ちていたが、高校があるじゃないか。休日とはいえ、運動部は練習中だ。門は開いているのだから、そこに駆け込めばいい。
「高校まで走れるか?」
不良との距離を見つつ、併走する杏子に訊く。
「大丈夫」
ある程度の余裕を見せながら杏子は応えた。
直線的に高校へは向かわず、住宅地をわざと右左折を繰り返しながら駆け抜ける。
十度目の左折をした辺りで、完全に追っ手の姿は見えなくなっていた。
振り切ったのかもしれない。
しかし万全を期すべきだろう。僕と杏子は周囲に誰もいないことを確認しつつ、土手に面した裏門から高校の敷地内へと入った。
体育倉庫と塀の間に腰を降ろし、呼吸を整える。
「何とか、なったか」
「どうにか、まけた、ようですね」
息も絶え絶え、杏子は応えた。
「口調、戻ったな」
荒々しい別人のような喋り方から、いつもの鳥茅杏子のものに戻っていた。
「・・・・・・。」
杏子はばつが悪そうに視線を逸らす。
「何があったかは訊かない・・・とは言わないぞ。これは勘だけど、喫茶店を飛び出す前に杏子が言おうとしてたのは、このことに関係するんじゃないのか?」
──こちらも傷をお見せします。
杏子はそう言ったのだ。僕の無様な独白の後に、確かにそう言った。
「お見通しって感じですね」
深呼吸なのか、それともため息なのか、どちらともつかない吐息を漏らして、杏子は言った。
声の中に諦観したような響きがあって、覚悟を決めたことがわかった。
「まあ、どちらにせよ、日が暮れるまではここで隠れていた方がいいでしょうし、そうですね」
杏子は立ち上がって、向かい合わせに座りなおす。
「鳥茅杏子の話をしましょうか。聞き終わっても、佐々部さんが・・・いや、佐々部が変わらずいてくれることを願う。俺を前にしても、そうあってくれることを願う」
口調も顔つきも変えて、『彼』は話を始めた。
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