第12話 人質交換として
「次に目を覚ましたのは病院のベッドの上だったよ」
語り終えて、ココアを一口啜る。
「その一連の事件によって、佐々部さんは──」
「そうだ。左手が不自由になった、いや、自由になりすぎたと言うべきか」
左手を開いて閉じる。手だけを動かすのなら支障は無い。
「弟さんは大丈夫だったのですか。勿論、先日お会いしているので、ご健在なのは承知していますが」
「幸いなことに、切り傷そのものは、そこまで深くなかったらしい。といっても、縫合が必要だったことは間違いなくて、今も大きな傷跡が残ってはいる。他人が見れば驚くような傷が」
誰かに背中を流してもらえば、見せ付けるような形になる。先日の僕のように。
それを辛いと思う権利は僕にはない。
「医者は僕の症状を見て、エイリアンハンドシンドロームと言っていた」
「エイリアン・・・何ですって?」
「エイリアンハンドシンドローム。和名で言えば、他人の手症候群というところかな。まるで自分の手では無いみたいに勝手に動く。意思に反した挙動をとる。そういう病気らしい。世間的にはあまり知られて無い精神症の一種らしくて、日本での発症例も両手で足りる程しかないとか。そのせいでいくつもの病院を転々としたもんだよ」
最終的に専門医のいる病院に当たることができたけれど、もしそうでなければ、僕は今頃殺人未遂で塀の中にいるかもしれない。
実際、警察が事故として処理してくれるまで、相当な時間と資料が必要だった。
「一体何故、佐々部さんにそのような症状が出たのか、原因はわかったのですか?」
「精神症の一種だからな。心理的要因っていうことはすぐにわかった。心が何かによって大きく揺さぶられた結果だ。なら心に負担をかけたのは何だったか──決まってる、父親のこと以外ありえない」
あの日、あの時に別の家庭で父親をしているあの男を見たとき、僕の心はどうしようもなく荒らされたのだ。荒らされてかき回されて、一部が器から欠け落ちた。そして欠けた心を埋めるために生じたのが、この他人の手だ。
「偶然あんな光景を目撃したばかりに、僕はこんなものになってしまった」
「いつ手が勝手に動き出すかはわからないんですか?」
「条件は大体わかってるんだ。それもブレのある条件ではあるんだけれど、とりあえずの安全が確保できる程度には、制御できてると言っていい」
僕はココアの入ったマグカップを遠ざける。
「左手が他人の手になる条件は二つ。一つ目は何かを持つこと」
右手で杏子のティースプーンを掴む。
それを慎重に左手へと持ち替えた。
「でも、しっかりと意識していれば、それだけでは何も起きない」
ティースプーンを机に置く。情けないことに、それだけのことで冷たい汗をかいている。
「二つ目の条件は、心が落ち着いていないこと。怒っていたり、哀しんでいたり、焦っていたりすると、他人の手になりやすい。当然、喧嘩に巻き込まれたりしたら落ち着いてなんていられない。まず間違いなく他人の手が顔を出すだろう。さっきみたいに」
自分に身の危険が迫り、しかも争っていた先ほどは、完璧に他人の手を御しきれる精神状態ではなかった。
鉄材を掴んだ瞬間、他人の手が顔を出すのはわかっていた。
それでも、自分と何よりも友人の身を守ることが優先だと、そう思って左手を使う選択をしたのだけれど、結果があのざまではやはり考えてしまう──僕の判断は正しかったのだろうか。
いや、それを言い出せば、僕の判断が正しかったことなんてあったのだろうか。
「条件としてはこの二つ目が厄介なんだ。結構触れ幅のある条件で、どの程度まで大丈夫かというのがわからない。だから僕は極力左手を使わないように生活してる。かなり面倒ではあるけど」
両手が使えるというのがどれ程恵まれた状況なのか、この体になって実感した。
料理なんて、焼きそば一つ作るのも一時間以上かかってしまう始末だ。
「言われてみれば、佐々部さんが両手で何かしているのって、見たことありませんね。そっか、野球でグローブ右手にはめてたのもそれが理由なんですね」
「そういうこと。意識してボール持ったり、投げたりする分には左手でもなんとかできるけど、急に飛んできたボールを掴むのは何かが起きそうでちょっと怖い。何より、左手にグローブをはめたら、その間ずっと意識を集中しとかなきゃいけないから、無理があるんだ。それ以外でも日常生活に不都合なことは多々ある。でもまあ、曲がりなりにも日常生活を送れているというだけで、御の字だろうとは思うけれど。幸いなことに、僕にそんな症状は見られないけど、専門医に聞いた話では、他人の手による自傷行為を受ける人もいるらしいからな。他人でありながら自傷なんて滑稽な表現だけれど」
今はその症状とは無縁ではあるが、いつかその症状が僕にも現れるかもしれない。
僕の中に住む他人が僕を傷つけようと動く、そんな日がおとずれるかもしれない。それはとても怖い想像だった。
僕は一度机に置いたティースプーンを再度右手で持ち上げ、杏子に見せる。スプーン曲げを行うマジシャンのように。
「他人の手が持つ一番の問題点は、制御の利かなさにある。それも挙動という意味ではなくて、力の制御という意味だ。えっと、言ってることわかるかな?」
僕の問いかけに杏子は頷く。
「力加減が佐々部さんにはどうしようもないってことですよね。先ほどの・・・その・・・。」
「不良の頭に鉄材を振り抜いたように、な」
言い淀む杏子の言葉を僕が続けた。
「そう。力加減ができない。というか、常に最大の力を出してしまう。それも、人間が普段自然にかけている制限を超えて、筋肉の限界の挙動で動く。左手以外、細かく言えば左腕の肩から先以外は僕の意思で動くから、体重移動によって力が乗ることはないけれど、それでも筋力だけとはいえ、人間の限界ぎりぎりまで引き出された力だ。人に向けられていいものじゃない」
「佐々部さんは、あの時鉄材が不良に向かって振り下ろされることはわかっていたんですか?」
「絶対にそうなるとは考えていなかった。他人の手が顔を出すだろうことは予想していたけれど、その結果どういう挙動をするかは僕にはわからない。でもまあ、暴力的な挙動になることは、充分想定できていた。他人の手が顔を出すときは、大体直前の行動に引っ張られるから」
使っている途中に転がしてしまった消しゴムを無意識に左手で拾えば僕の左手は消しゴムを紙に押し付けてスライドし続ける。扉を持てば開け閉めを繰り返し、そして料理中に持てば何かを切る。
「振り下ろされた鉄材を受け止めたんだ、振り下ろし返すってことは充分に想定の範囲内だった。相手が突きをしてなくてよかったよ。突かれていたら突き返していた可能性だってある」
鉄材を渾身の力で突けば、先が尖っていなくても重体にしかねない。その分ではあの不良は幸運だったといえる。もっとも、今現在重体でないとは言いきれないけれど。
「だから、あれは僕の意思じゃないとは言ったものの、結果が予想できた上での行動だったってことになるのかな。左手で鉄材を受け止めればああいった形になるのは予想できた。それでも、僕は身を守るために左手で防ぐことを決めた」
自分の意思で振り下ろした暴力ではない。けれど、そうならない選択は確かにあった。
「でもその選択は、佐々部さんだけの身を案じたものじゃありませんよね。あの場にいた三人の身を案じての苦渋の選択というものだったのでしょう」
僕と、杏子と、そして脅されていた少年。その三人の安全と、他人の手が及ぼす結果を天秤にかけた。
「だったら、その選択を責めたりはしません。話してくれて、ありがとうございます」
「そっか、少し──」
安心した、と言おうとして、僕は口をつむぐ。
安心する権利なんて無いくせに。
今日のことだけではない。
自分の意思ではないとしても、真を傷つけた事実は変わらない。
どれ程痛かっただろう、どれ程怖かっただろう。それまでは、良い兄でいたという自負はある。あの日までは、頼れる兄でいたはずだ。
だからこそ、精神症の結果とはいえ、そんな兄に傷つけられた真の心を思うと──。
だめだ。普段押さえつけている考えが、一度想起すると止めどなく溢れてくる。
「・・・・・。」
「・・・佐々部さん?」
言い淀んで、黙りこくった僕を案じるように杏子が声をかける。
その声は暖かくて、優しかった。
結果、僕は堰を切ったように感情を吐露する。
あの日からずっと抱えていたものを友人に打ち明ける。
「怖いんだ。まだ、訊いたことがない。真にあの日の事を訊ねたことがない。僕が気を失って、次に病院で目覚めたときには回りに大人がいっぱいいた。そりゃそうだ、どう見たって事件なんだから。僕はとにかく喋った。覚えていることをありのままに喋った。訝しげな目で見られて、その後は気味の悪いものを見るような目を向けられた。何度も体や心の検査を受けて、ようやく落ち着いたのは、僕が真を傷つけてから五日も経っていた。その間に何度も真の様子を母に訊いたけど詳しいことはわからなくて、五日目の昼になってようやく、真が僕の病室に入ってきた。これは母から聞いた話だけれど、そのとき既に真は、僕の症状について医者から説明を受けていたらしい。僕の目を見て真は、『兄ちゃん大丈夫か?』って訊いたんだ。自分を傷つけた相手を気遣うようなことを、まだ十歳にも満たなかった真は言ったんだ。──恐ろしいと思った。真が僕の病室に来ると聞いて、覚悟を決めていたんだ。侮蔑される準備はできていた。怖がられる用意も、拒絶される心構えもできていた。だけど、心配されるなんて考えてもいなかった。まだ子供の真に、そんなことができるわけがない。そう思っていたのに。・・・その日から僕は真が何を考えているのかわからなくなった。あの日の事をどう捉えているのかも訊けなくなった。だから僕は、真に謝ってすらいない。謝ることすらできずに、僕はエイリアンハンドシンドロームの被害者になってしまった。でもさ、ありえないだろ。自分を傷つけた相手に、それまでと変わらず接するなんて、どんな聖人君子でも無理だ。まして小学生になんてできるわけがない。表面上はそういった対応を見せられるかもしれないが、心はどうしようもないだろう。心から赦すなんてできっこない。だから僕は怖いんだ。いつだって怖いんだ。大切で、大好きで、大事なあの弟が、今真が僕に向けてくれる笑顔は、本当の笑顔なんだろうか」
頭の隅に追いやろうとしても、その思考が淀んで溜まる。事ある毎に滲み出して、真と共に過ごす僕の邪魔をする。謝罪も贖罪も行っていない加害者が、のうのうと被害者の傍にいるなんて──僕の中の淀みがそう告げる。
「先日お会いした限りでは、それこそ心から佐々部さんを慕っているように見受けられましたが」
「ああ、僕にだってそう見える。だけど、本当にそうかはわからない。わからないから確かめなくちゃいけないのに──」
何をすべきかはわかっている。わかってるはずだ。この淀みを流しきるには、真にあの日の事を謝るしかない。
例え精神症に起因したことだとしても、そんなこと真からすれば大差ないだろう。
だから僕は、誠心誠意謝るべきなのだ。地べたにはいつくばって、床に頭を打ち付けて、謝って謝って謝るべきなんだ。
「でも僕はあの日からずっと、何もできないでいる」
謝ることも、確かめることも怖くてできない。
今の平穏を壊すなんて、真の笑顔を消すなんて──。
「僕は最低なんだ。とりあえずの現状維持でずるずると場を繋いで、ひょっとしたら僕の見えない、いや、見ようとしない裏側では真は苦しんでいるかもしれないのに、向き合おうともしないでいる。真が幸せでいることより、幸せそうに見える真といる自分を大切に守ってる。それが僕なんだ。それでもせめて、同じ事を繰り返さないようにと、『ドクター』にこの精神症を治してもらおうと思ったんだけど・・・。今日もまた人を傷つけた。本当にどうしようもないな、僕は」
自嘲して笑う。とても歪な顔になっていることは、鏡を見なくてもわかった。
「佐々部さんは最低なんかじゃありませんよ」
杏子が言う。
こんな人間にも慰めの言葉をかけてくれるのか。
良い奴なんだな。本当、僕なんかの友人にするには勿体無い。
「とても自分を卑下した顔をしてらっしゃいますけど、別に良い奴だからこんなことを言っているのではありませんよ」
コーヒーを一口啜り、杏子は僕を見据える。
「自分が見る限り、真君は心から佐々部さんのことを慕っています。でなければ、兄が友人と称して女性を家に連れて来ただけで、あそこまで嫉妬するはずないでしょう。異常と言うならあのブラコンっぷりの方が異常です」
「いや、でもそれは確証がないし。それに、そのことを確かめられない僕の不甲斐なさを──」
「はあ、まったく」
鬱々と僕が吐く言葉をため息と共に杏子は遮る。
「確証とか何とか、そんなもの必要ですか」
「そりゃ、必要だよ。必要に決まってる」
「じゃあ二年前の夏まではそれがあったんですか。身近に、確認できる形で、明確に鮮明に。弟さんから佐々部さんへの信頼を見て取ることができていたのですか」
「いや・・・でも」
「無理ですよ。好意や信頼に対する確証なんてものはありません。自分以外がどんな気持ちでいるかなんて確かめようがないでしょう。疑いたければ好きなだけ疑うことができますよ。信じることもまた同じです。人の中身が本当はどうなっているかなんて、腹を掻っ捌いたってわかりゃしないんです」
「そうかもしれないけど、でも、だからって、僕は真の振る舞いを見ても、その裏を考えてしまうんだ」
「いいじゃないですか。疑ったって。単純に表層だけ見て知った顔をされるよりは何倍もましです。疑うってことは悪じゃない。言葉や行動を鵜呑みにして、その人の奥にあるものへ無関心でいるほうがずっと悪質です。疑った上で知ろうとすればいいんですよ」
杏子はそう言って、「つまり」と僕を指差す。
「疑うことは悪いことじゃありません。悪いのは疑うだけで止まってしまっていること。つまり今の佐々部さんの状態です。疑って、でも怖くて二の足を踏んでいるこの状態が悪い」
・・・あれ?
「さっきは最低じゃないって言ってくれなかったか?」
「最低でないとは言いましたが、悪くないとは言っていません。そりゃ真っ当に考えて、現状、佐々部さんの人間としての価値は低いです」
どうやら慰めてくれているのではないらしいと、僕はここでようやく気付いた。
良い奴だけど、優しくない。
「それでも、最も低いってことはないんですよ」
「どうしてそう言えるんだ」
「だって、佐々部さんはまだ人を殺したりはしてないじゃないですか。だったら佐々部さんは大丈夫ですよ」
「・・・。」
佐々部さん「は」?
文法としては間違っていない。でも、何だろう、とても引っかかる言い回しだった。
それだとまるで、別の誰かは既に人を殺してしまっているような、そんな言い方ではないか。
杏子は続ける。
「最低なのは自分です」
いつも通りの杏子の声。顔も、背格好も、匂いも何も違わない、なのに。
知らない誰かがそこにいるみたいだった。
そして目の前の誰かは言う。
「貴方が傷を見せてくれたように。こちらも傷をお見せします」
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