第11話 懐を破って

 結局、僕らは昼に集合した喫茶店へと戻ってきた。

一応確認するが、店内には昼同様に客がおらず、店主が本を読んでいるだけだった。

 昼と同じ座席に座る。飲み物が到着し、店主が奥に引っ込んだのを確認した後、杏子が口を開いた。

 様子としては恐る恐るといった具合である。

「こんなことを言える立場ではないのは重々承知ですが、でも、先ほどのはやりすぎです」

「杏子、僕は──」

「わかってます。助けようとしてくれたのは。人を呼ばずに突っかかって行ったのは自分なので、それには責任を感じています。それでも、あそこまでやってしまっては、どちらが正しいのかわからなくなる。あの男が死んでしまったらどうするんですか」

 昏倒し血を流していた男を思い出す。当たり所によっては即死もありえた。それに、あの後男がどうなったか、僕達は知らない。

 この店に戻るまでの間はお互い無言だった。想像する時間は充分にあった。また、言い訳を考える時間も。

 実際、僕はこの席に座って、杏子が口を開くまでは誤魔化そうかとも悩んでいた。決めかねていた。しかし、これほど僕の身を案じてくれている杏子に、嘘を付くことはできない。僕はそう判断した。

「あれは僕の意思じゃない──って言ったら、杏子は信じてくれるか?」

 声が震えた。

 落ち着けようとココアを飲むが、まったく味は感じなかった。

「どういう意味ですか」

 もう戻れない。一度堰を切ってしまったのだから、後は流しきるしかない。

「少し前の話をしよう。二年前、僕が弟を傷つけたときの話を」


 二年前の夏。お盆の半ばで、とても暑い日だったことを覚えている。

 その日、僕と真の兄弟はテーマパークへと足を運んだ。海沿いにあるとても大きなテーマパークで、休日ともなれば日本全国から客が押し寄せてくるような、そんな場所である。

 本当はこの日、僕達は母親と三人でキャンプに行くはずだった。しかし、前日の夜に仕事先でトラブルが発生したらしく、休日を返上で母は出勤しなければならなくなった。

 当時真は九歳。物分りのいい子ではあるが、流石に気落ちしている姿は見ていられなかった。

 だから僕は真をテーマパークへと連れて行くことにした。特急電車に乗り、中学生の僕にとっては大金だった入場料を支払い、人波に押されながら敷地内へと入った。

 真はとてもはしゃいでいた。というのも、母はこういったテーマパークのアトラクションが苦手で、連れて行ってもらえたことがなかったからだ。僕は当時の友人達と何度か足を運んだことはあったけれど。真にとっては未知の体験だった。

 はしゃぎまわる真を見て、僕は来てよかったと自分を誉めてやりたい気分だった。

 最初は少し不安だったのだ。

 家族連れの客も当然多かったから、母と子が一緒にいるのを見たりして余計寂しくなってしまうんじゃないかと危惧したりもしたのだけれど、真はそんな様子を欠片も見せなかった。

 本心はわからない。純粋に楽しんでいたのか、もしくは僕に気を使って悟らせないようにしていたのかも知れない。子供は意外とそういったところに敏感だから。

 ともあれ、満面の笑顔で笑う真を見ていたらそんなことは瑣末な心配事のように思えて、一つ二つアトラクションを体験するうちに、僕の中にいた小さな不安は吹き飛んでいった。

 可愛いのだか何だかわからないマスコットキャラクターと記念撮影をしたり、アトラクションで絶叫したりしている内に時間は過ぎて、気付けば昼食を取らないままおやつの時間が近づいていた。

 真がお腹すいたと訴え始めたので、僕達は敷地内にあるレストランへに入った。

 昼食の時間帯を過ぎても多くの人でごった返していたが、それでも何とか二人分の席を確保した。テーマパークのキャラクターを模したオムライスなんかを食べて、付け合せのブロッコリーと格闘している真を席に残して僕はトイレへと向かった。

 その途中、僕は見つけた。見つけたというか、有体に言えば見てしまったという感じだ。

 ボックス席に座る父の姿を僕は見てしまった。

 この場合父とは、勿論世間一般的な父親という意味の名詞ではなく、僕達、心道佐々部と心道真の血縁上での父親という意味だ。

 その時の僕の衝撃は結構なものだった。まったくの想定外だったからだ。

 当然だ。数年前に僕の前から姿を消した父をテーマパークで見かけることなんて、事前に予測できるはずがない。

当時の僕からすれば父が出ていったのは四年前ということになる。折に触れて思い返すことはあっても、実在する人物としてではなく、どこか遠くの空想上の生き物のように思っていた。それが今、目の届くところにいた。

 情けないことに当時の僕はその状況に対して、まったく動けずにいた。

 気付かなかったふりをすることも、父に近づくこともできずに、その場で立ち尽くしてしまった。

 唯一幸いだったのは、父の側は僕達の存在に気付かなかったということだろう。それだけは本当にそう思える。

 少しして、ガラス張りの壁面から外を眺めていた父の隣に、小さな女の子が座った。そして机を挟んで向かい側には、若い女性が持ってきたトレイを置きつつ腰を下ろす。

 僕の体は固まったままだったが、脳は働いていたようだ。直にわかった。あれが父の再婚相手だと。

 ということは、父の隣に座る女の子は腹違いの兄妹に当たるのだろうか。

 関西に住んでいるはずの父とその再婚相手が何故ここに──と思いもしたが、よくよく考えれば何の不思議もない。何せ僕がいたのは全国から客が押し寄せるほどのテーマパークだ。夏季の連休に家族サービスとして訪れただけだろう。

 ──そう、家族として。

 笑っていた。

 父の隣に座る小さな女の子が。父の向かいに座る女性が。そして何より父自身が。

 幸せそうに笑っていた。

幸せなのだろう。

 限界だった。怒りに燃えたわけではない。悲しみに暮れたわけでもない。ただ、単純に心の容量が何かで一杯になったのだ。虚しさ、が一番近いように思う。そして溢れたものが、僕に弊害をもたらす事になった。

 といっても、その時は大きな変化は感じなかった。少し左手が軋んだ気がしたくらいだ。そしてそれ自体も今思い返せば、という程度のことでしかない。

 何せ、その時の僕は空虚さに囚われていたのだから。

 いっそのこと全て壊してやろうかとも思った。

 あの女の子の笑顔も、女性の微笑みも。よくも笑えるなと問いただしてやれば、少しは胸がすくだろうかと本気で考えた。

 でもできなかった。物怖じしたからではない。僕が行動を起こさずに済んだのは、真がいてくれたからだ。

僕の戻りが遅くて不安になったのだろう。真が気付けば僕の手を引いていた。

 どうしたの、と訊ねる真は、どうやら父の存在には気付いていないようだった。

 気付かせてはならないと思った。母に甘えられない寂しさを抑えているこの弟に、これ以上の負荷をかけてはいけないと。自分の感じる空虚さなんてどうでもよくなった。

 そして僕は真の手を引いて、父の座るボックス席とは反対方向の扉から出て行った。

 去り際に振り返ったが、最後まで父はかつての家族とニアミスしたことを知らないまま今の家族と笑っていた。

 その後のテーマパークでのことはあまり覚えていない。茫然自失とまではいかないまでも、いささか自動的に行動していたように思う。

その間ずっと、真の手から伝わる温もりだけを感じていた。

 ともあれ、日が落ちきる前にはテーマパークを離れて家に帰っていた。夜間に予定されていたパレードは見なかった。気が乗らなかったとかそういった理由ではなく、元より夕飯は家で食べることにしていたからだ。

 帰宅する直前に、母から電話があった。少し遅くなるので夕飯の準備をしていて欲しいとのことだった。

 母親には内緒でテーマパークへ連れて行ったので、遊びつかれているとも言えなかった。鍋料理くらいなら切るだけでなんとかなるか、と安易に献立を決めて、まな板に向かった。

 包丁たてに置いていた万能包丁を手にし、まな板に向いていざ切ろうとしたところで、それは起こった。

僕の左手が僕の意思に反して動き始めた。感覚が切り離された気がした。

最悪なことに、その場には真がいた。料理を始めた僕の傍に、いつも通りまとわり付いていた。

止める暇はなかった。というより、その時の僕には何が起こったかわからず、恐慌状態で、ただ混乱していただけだった。

でも一つだけはっきりと認識できた。

真の、何よりも大切な弟の背中を袈裟懸けに切りつけた感触だけは──実感した。

そこで一度僕の記憶は飛ぶ。

 意識が戻ったとき、僕は路上に倒れていた。

 路上だ。我が家の台所からいつのまにか僕は飛び出していたことになる。

 包丁は握っていない。そう認識して、僕は酷く安心した。

 アスファルトから身を起こし、左手が僕の意思どおりに動くことを確かめた。どうやら大丈夫そうだと考えたあたりで、ようやく家の中にいる真に意識が向いた。

 実際、酷い話だとは思う。薄情なことに、僕は自分の体に起きた不具合にばかり目が行って、本当ならばいの一番に気にかけるべき弟のことを失念していたのだから。

 慌てて玄関から家に入り、土足のまま台所へと踏み込んだ僕が見たのは、背中から血を流して呻いている真の姿だった。

 救急車を呼ぼうと119番に電話を掛け、オペレーターが言う到着までの応急処置を施した後に、僕の意識はまたも飛びそうになる。

 一度目の理由はわからないけれど、二度目に気を失った理由は何となくわかった。自分の中で処理が限界を超えたのだろう。真を傷つけたこと、左手が勝手に動いたことそれらの衝撃に耐えるだけの心が、僕の中にはなかった。

 真の為にと何とか繋ぎとめていた意識だけれど、救急車のサイレンが聞こえ、同時に母親の悲鳴が聞こえた辺りで僕は繋ぎとめるのを諦めた。

 ゆっくりと、血の滲む真の背中へと倒れこんだ。

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