第10話 そして目を覚ます
待ち合わせには何とか間に合った。
この何とかという部分が肝心で、つまりはぎりぎり間に合ったというところだ。約束の時間の四十分前に家を出て、二十分程度で到着するはずの場所に僕は三十七分後到着した。
行き道の途中で大きな出来事があったというわけではない。但し何もなかったというわけでもない。
信号に引っかかり、小銭を撒き散らし、足が攣り、踏み切りに引っかかった。
普段の登校中でもそういったことはある。何らおかしいことではない。問題だったのはそれらが連続して一度の往路で起きたということだ。
全ての信号に引っかかって、止まるたびに足が攣って、気付けば小銭を撒き散らしていた。
ありえないことじゃない。ただ、運が悪かったというだけのこと。しかし、今日はその運がとても必要な日である。今日はというか、今日からは。
ドクターを探すに当たって、不運なままでは難しいのではないだろうか。
喫茶店に到着する直前まで、僕は罰金の恐怖におびえながらそんなことを考えていた。
何とか間に合ったけれども。
「どうかしたんですか?」
余程薄幸な顔をしていたのだろうか、挨拶もそぞろに杏子はそう僕に訊く。
「何でもない。ちょっとここに来るまでに手間取っただけだよ」
気持ちを切り替えよう。
あれだけのことがあって時間に間に合ったのだから、これはある意味幸運と言えるのかも知れない。そう無理矢理ポジティブに考えることにしよう。
喫茶店にはさして客はいなかった。というか、僕達しかいなかった。
高校に近い場所ではあるが、しかし日曜の昼間にわざわざ中心地から離れた学校近くまで足を運んで喫茶店に入るような生徒はそういない。それに、部活動に勤しむ人たちは、学校には来ているが、腹の膨れない喫茶店よりも、ソフトドリンク飲み放題の付いているファミレスへと足を運ぶ。
そういう意味では、休日に関しては他の飲食店よりもここは学生に遭遇し難い場所だった。
中に入り、ココアとホットレモン、それとサンドイッチを注文した。当然、ココアは僕のだ。
奥まった角のスペースへと腰を下ろす。カウンターからは離れており、店主には話が聞こえない位置である。
「ホットレモンは喉のため?」
「一応、ですけれどね。治りはしましたが万全ではないので。まあ気休めですよ」
別に虚勢を張っているわけではなさそうだ。杏子は病み上がりだというのに、普段よりも元気そうなくらいである。
杏子の私服は普段着ている制服とは大きく印象が異なる。杏子は制服を着用するときは、学校指定のセーラー服にカーディガンを着て、その上からダッフルコートを羽織っている。首には赤いマフラーを巻いていたはずだ。私服はそれとは対照的で、幅のあるジーパンに上は丈の長いシャツとパーカーを着て、更にその上にトレンチコートを重ねている。その姿はボーイッシュというよりは男らしいと言える位であった。
対して僕はというといつも通りの代わり映えのしない無難な格好だった。前に母からは「あんたの外着は部屋着と区別が付かない」と言われたことがあるけれど、そんなもん付ける必要はないだろう。
パジャマがわかれば充分だ。
そういえば、一昨日寝込んでいた杏子は何を着ていただろうか。まあ何にしてもズボンをはいていたのは間違いないだろう。
僕は杏子が制服以外でスカートをはいた姿を見たことがない。
杏子のスカート姿は制服時限定だ。
「私服はいつもズボンはいてるけどさ、それにはこだわりとかあるの」
「別に、着やすいから着ているだけですよ。案外スカートって面倒なものですからね。いっそ制服もスカートからスラックスに変更したいくらいです」
「下にジャージはいてる子とかもいるけど」
「だったらジャージだけでよくないですか、と。苦言を呈したいところです」
「女の杏子がそれを言うのか」
同意するけれども。
「というか、そんなことを話すために出張ってきたわけではないでしょう」
軌道修正する杏子。
「ドクターですよドクター。あいつをどう探すかを決めないと」
「あてはあるのか?」
「あったら三日前にずぶ濡れになんかなりませんよ」
杏子の方に情報はないということか。
だとしたら僕が頑張るしかない。
「一応、絞込みはやってみたけどさ」
「絞込み?どういう意味ですか」
「ドクターの出現する可能性がある場所の絞込みだよ」
僕は鞄からノートを取り出して杏子に示す。
開いたページには略式の地図が書いてある。僕達が住んでいる市の四分の一程の範囲だ。
「まず、僕が先週ドクターを見かけた場所がここ」
ページの中央辺りに赤ペンでバツを書く。
「そして、猫を追いかけ始めた交差点がここだ」
バツをつけた地点から少し離した地点に三角を書く。
杏子は何も言わず素直に聞いている。
「ということは、このバツの地点からこの三角の地点近辺までは少なくともドクターの持つ、猫を誘引する作用が働くってことだ。効果は同心円状に広がると仮定した場合、この程度の範囲が影響下にあることになる」
バツを中心にして、バツから三角までの直線を半径とした円を画く。
「まあ正確にはドクターは移動しているだろうから、そのままこの円が有効範囲だとは言えないけれど、そこら辺は誤差として我慢しよう」
そこまで話したところで、地図を見ていた杏子は顔を上げ、目を僕に向ける。
「何となく佐々部さんのおっしゃりたいことがわかってきました。つまり、範囲分けして猫の動向を確認しろというわけですね」
「そうだ」
路地を隈なく探し回って、猫の尻を追いかけ回す必要はない。一定面積ごとに切り分けて、各ブロックの端と端で猫の動きを見れば、どこかに誘引されているのか否か程度は判別が付くだろう。これならば捜索範囲は変わらないが、捜索箇所は一気に絞れる。
「でもこれって、何処までをそうやって探すのでしょうか。今現在ドクターがどの地域に出没するのかが定かではありませんし。というか、それこそ本題では?」
杏子の疑問はもっともで、そして僕はその疑問への回答を持ち合わせている。
「ドクターが出没する範囲の予想はある程度できているんだ」
「ほほう」
僕の言葉に杏子は目を輝かせる。
「すごいですね、素晴らしいです。でもどうやって」
「真に協力してもらった」
「ほほう」
目が濁った。
置いておこう。気にしていたら先に進めない。
「真はリトルリーグに所属しているからさ、他の学区やら地域の同級生とも交流あるんだよ。そんで、その真の友人達に、ドクターの噂を知っているかを聞いてもらった」
「つまり、噂がどこまで広まっているかを確認したと、そういうことでしょうか」
「正解」
広げたノートの半分程度の面積を赤いまるで囲う。大きな円の中には先ほど書いた円も含まれている。
「大体にしてこの範囲。この数学区の小学生しかドクターの噂話は伝わってなかった。可能性としてはこの地域が高いということになるだろうな」
可能性の一つというだけのことだけれど、何も無いよりはましな根拠だと思った。
「この大きな円の範囲を、先ほど書いた小さな円の範囲で区分けすると・・・なるほど、そこそこの数になりますね」
決して少なくはないが、途方に暮れるほど多くはない。
大雑把ではあるが見える形に分けられたことで、何となく指針も見えた気がした。
「一日にある夕暮れ時の時間だけでは回りきれる範囲じゃないけれど、でも一週間もあれば確認はできるだろう」
ただしこの考え方には穴がある。わりと大きな穴が。
言おうかと思ったが、杏子は既に気付いていたようだった。
「でもこれって、ドクターが移動することをまるっきり度外視したやりかたですよね」
「そうなんだよな。ドクターが毎日の夕方、特定の一箇所に出現するっていうのならこのやり方でもそれは特定できるんだけど。もし仮にランダムだった場合、前日調べ終わった箇所に出没ってのも無い話じゃなくなる。でもって、その確立は後半になるにつれて上がっていく」
「穴だらけじゃないですか」
「一応、対策は考えてはあるけどな」
「対策とは?」
「一週間ごとにドクターの噂話が広がっていないかチェックをする。仮に範囲が広がれば、その方向に移動していることが予測として成り立つんだけれど」
しかしこれは諸刃の剣だ。なんせその確認ができるのは真だけなのだから。
昨日、真にドクターの噂話が何処まで広がっているのかを確認してもらったときだって、相当訝しがられた。それが何度も続けば、真だって感づくだろう。
僕と杏子が、本気でドクター探しをしているということに。
仮にそうなった場合、あの弟が首を突っ込むであろうことは容易に想像できる。もしもドクターがいてくれたら、何て事を言っていた真だ。可能性があるとなれば必ず探し始めるだろう。
「できればこの範囲内で探し出せたら、とこれはただの希望だな」
考え込む僕に、しかし杏子は笑いかけてきた。
「まあ、やってみれば案外なんとかなるものですよ。何せこっちには権利を持つ佐々部さんがいらっしゃいますからね」
「本当にあるのかどうかは半信半疑だけどな」
「何はともあれやってみましょう。作戦なんてものはあくまで指針です。その都度修正すれば問題ありませんよ」
杏子の根拠の無い自信につられて、何となく僕もできる気がしてきた。
考えていても仕方が無いのは確かである。見つけられなかったからと言って何のデメリットもないのだから、ならばトライアンドエラーで模索して行くしかないだろう。
「さて、ではある程度方針も固まったところで行きましょうか」
「・・・何処へ?」
「遊びにですよ。折角の日曜なのに学校近くで夕方までだらだらと時間を潰すなんて勿体無いじゃないですか」
言って杏子は立ち上がる。僕は残っていたサンドイッチを口いっぱいに頬張ると、ココアで流し込んで、慌てて杏子に付いていく。
この時ばかりはココアを選んだことを後悔した。
二人で町に繰り出す、とは言っても、特別なことをするわけではない。手当たり次第に娯楽をして回るだけだ。
男女で休日出歩こうとも、まかり間違ってもこれはデートなどではないのだから、色気めいたことは一つもない、それを望んだことも。僕には友情だけで充分だ──充分すぎるほどに。
言葉にしたことはないけれど、きっと杏子もそう考えているに違いない。僕らは単なる友人同士なのだから。
僕は杏子を女性として見た事がない──と言うと、もしかすると杏子は怒るのかもしれないが。
しかし事実として、杏子を見るときに性別を意識したことは一度しかない。それも初めて会話を交わした時だけだ。一度親しくなると、彼女を女性としてみるのは難しくなった。
勿論、身体的には女性であることは間違いないし、身長に対して女性的記号の発育が貧相であることをからかったりもしたのだけれど。そういった事とは別にして、僕は杏子に女性らしさを見た事はなかった。
客観的に評するならば杏子は造形が整っている。しかし僕はそれに何の感慨も抱かない。
直角三角形を見てまっすぐだなと思うのと同じように、杏子を見ても整っているなとしか思えない。
一時期は僕が男として何か不具合をきたしたのかと思い、大人の参考書などで確認もしたが、ちゃんと体が反応するあたり、そうではないようだった。
もっとも、この状態で何が困るというわけでもない。むしろ性別を意識せずに接することができる分、居心地が良いくらいだ。
そして杏子の方も同様に、と言いたいところなのだけれど、杏子はおそらく違う。僕みたいに相手の事を異性として意識していないというわけではない。
と、こんな表現の仕方ではまるで僕が意識過剰なナルシストのように思えてくるけれど、そういうわけではない。断じて違う。
杏子は男に興味がないのだ。
本人に確認したことはないけれど、これは確信を持って言える。
というわけで、間違っても恋人にはならない男女二人として僕らは友情を育んでいる。現時点ではとても歪な友情だけれども。
「さて、2ゲーム目に入ったことですし、勝負をしましょう」
とりあえず時間つぶしにとビリヤードをしていたら、杏子が賭けを持ち出してきた。
「いいけど、この1ゲームを見る限り、杏子に分が悪すぎはしないか」
ボードに記入したスコアを見て僕は言う。
僕は別にビリヤードが得意というわけでもないのに、杏子には結構な差を空けて勝っていた。これは僕の能力が高いというわけではなく、杏子の能力が低いということだろう。
「ただ緊張感を持つためだけですよ。ゆるゆると打ってもつまらないじゃないですか」
「まあ、杏子がいいならいいけども」
と、あっさり了承したのがいけなかったのだろう。少なくとも掛けの内容を決めておくべきだった。
結果として僕は杏子に大敗した。どうやら彼女は1ゲーム目は調子を見るための確認作業として使っていたらしい。あとは僕がどの程度ビリヤードが上手いかを見定めていたのだろう。
気付いたときには杏子のスコアはほぼ満点。というか、僕の手番は一度しか回ってこなかった。
「騙したな」
恨み言の一つもでる。
「別に、ビリヤードが下手だなんて一言も言ってないですよ」
杏子は賭けの賞品として勝ち取った特大ポップコーンを頬張りながら、僕を見て笑う。
「勝手に自分が有利だと判断したのは佐々部さんです。その時点で負けていたんですよ」
「というか、毎回高くないか。杏子が賭けやら罰金やらで要求するものって」
「賭けの詳細を事前に決めなかったのも落ち度ですね」
そう言われると、言葉もない。
むしゃむしゃと大味なポップコーンを口いっぱいに含む杏子を恨めしげに見やり、ため息をついた。
「もういいや。実力で負けてる奴が何言ったって、負け惜しみにしかならないしさ」
その後もレースゲームや音楽ゲームなどで杏子と張り合った。
ビリヤード以外は以前にも一緒にやったことがあるので、もう不意を付かれるということはなかったけれど、勝率はあまり良いほうではなかった。というか普通に負けた。
ひとしきりゲームを終えると、時間は三時を回っていた。この季節の日の入は早い。
四時頃には最初の探索範囲に入っておきたいので、僕と杏子はゲームセンターから出ることにした。
「さてと、気持ちを切り替えて行きますよ。浮ついた気持ちでは見落としもありえますからね」
「僕が先週猫を追いかけたときは頭空っぽだったけどな」
「佐々部さんは常にそうでしょ」
「あのな──」
言いつつ、自動ドアを潜り、駐輪場に向かおうと右に曲がったところで、見かけてしまった。
「ストップ。杏子、あれ」
「ん?何ですか」
僕が指差した先、ゲームセンターと隣接する映画館のほんの僅かな通路、おそらくは従業員しか使用しないであろうその通路の途中に、人がいた。
四人いる内の三人は派手な頭に、金の刺繍が入ったスウェットを来た男達。残りの一人はどこにでもいそうな少年。三人は一人の少年を囲っており、少年は明らかに震えていた。
とてもわかりやすい構図だ。
正直な話、係わり合いになりたくはないと思ったが、それでも仮にあの少年が真だったとしたら。
「杏子はここで──」
待ってろ、と僕が言う前に、僕がわずかばかり躊躇している間に、杏子は既に動き出していた。
怒鳴りながら。
「何やってんだお前ら!」
杏子は手に抱えていた特大ポップコーンを三人目掛けて投げつけた。
僕はと言うと恥ずかしいことに杏子の聞いたこともない怒声に驚いてしまい、その場に立ち尽くしていた。
僕がようやく動けたのは、ポップコーンの雨を浴びた三人が状況を理解して色めき立ったあたりからである。
「何しやがんだこのクソ女ァ!」
「ぶち殺すぞおら」
など等、威嚇を始めた三人の内の一人に、杏子は蹴りを放った。
見蕩れる程に綺麗な軌跡を画いた半月蹴りは、一番手前にいた男のわき腹に突き刺さった。
「がっ・・・」
息を漏らして前かがみになった男の股間に、杏子は追撃を加える。
半月蹴りを放った動きのまま体重移動で繋げた順突きが男の下腹部に突き刺さったのを見て、状況抜きにして同情した。あれは痛い。
杏子の目もくらむコンビネーションを喰らった男は前かがみに倒れた。もはやうめき声も出ていない。
倒れた男を尻目に、唖然としている後ろの二人に掛かろうとしたところで、杏子にとって予想外のことがおきた。
「助けてください」
と、震えていた少年が杏子にしがみついたのである。
「ちょ、ちょっと離れて」
前のめりになっていた体に巻きつくようにしがみ付く少年を振り払おうとするが、少年も必死のようで、上手く剥がせなかった。
そこに残った二人の男が踊りかかる。
近くに転がっていたのだろうか、片方の男は鉄材のようなものを振りかざした。
「あ──」
目前に迫る危機とどうしようも無い状況に、杏子は覚悟を決める。
一人ならそれでお終いだっただろうが、当然この場には僕がいる。
振り下ろされた鉄材を右手で受け止め、そのまま押しやり、距離を取る。狭い通路なので、鉄材を持った男が邪魔で、もう一人も前へ出て来れない。
「どうかな。ここらで手打ちにしないか」
ものは試しにと和解を持ちかけるが、
「誰が許すかぼけ」
「なめとったら痛い目見さすぞ」
「ふざけた事言ってんじゃねぇ」
と、罵倒が三つ返ってきた。
最後の一つは杏子だ。どっちの味方だお前。
チラリと振り返ると、杏子はまだ少年を引き剥がすのに四苦八苦していた。
実質一対ニである。
鉄材を受け止めて痺れた右手を庇いながらでは難しい。何とか穏便に済ませる方法はないかと考えている内に、鉄材を持った男が飛び掛ってきた。
「おるぁ」
盛大に声を挙げながら振り下ろされた鉄材を軸をずらして避ける。横薙ぎに振るうスペースがない以上、鉄材の軌道は限定されるので避けるのは容易だった。
かわし際に一発、右拳を叩き込む。
もう一度距離を取ろうとバックステップをするが、
「佐々部さん!」
と、杏子の声が聞こえたときには遅かった。
最初に杏子に倒された一人が意識を取り戻し、地面に這ったまま僕の右足を捉えた。
「うわっ」
「やれぇ。ぶち殺せ」
渾身の力でしがみ付いてくる男を左足で踏みつけたときには、コンクリートブロックが眼前に迫っていた。後ろに控えていた男が投げたものだと理解はしたが、体を移動させてかわす余裕はなかった。
とっさに右腕を振り上げて頭への直撃を避ける。
「いっ!」
右腕に鈍い痛みが走る。感覚を確かめるが、上手く動かせない。
コンクリートブロックを防いだ直後に、本命の鉄材が振り下ろされる。
そしてその時僕は躊躇した。集中力が増して、コマ送りのように見える風景の中で確かに躊躇した。
時間にして一秒にも満たないその間で、しかし迷いながら意を決し、振り下ろされる鉄材を左手で掴んだ。
掴む前に僕は叫んでいた。
「離れろ!」
誰にそう叫んだのかは、自分でもよくわからない。対峙する三人の不良に対してなのか、それとも杏子と傍に居る少年に対してなのか。もしくは僕自身に対してかもしれない。
鉄材を掴んだ左手は、そのまま相手の手から鉄材を引き抜く。
相手の男も取られまいと力を込めていたようだが、そんなものは意味がない。筋量は対して差がないだろうが、出力方式が違う。
そしてそのまま、鉄材は元の持ち主の即頭部へと振り下ろされた。
「ぐあっ」
一度。血が飛ぶ。
「うぅ」
二度。鈍い音がする。
「や、やめ・・・」
鉄材が歪む。
加減はなかっただろう。これはそういう調整が効くものじゃない。
二度目で相手が倒れ、そして次の標的が地面に這っていた男に移った。
「お、おい。やめろ!」
鉄材を見上げた男が言う。
その声を耳にしながら、しかしそれでも左腕が振り下ろされる。
そこで僕は自分の左腕を何とか右手で押さえ込んだ。
「消えろ。どこでもいいから早く行け!」
僕の怒鳴り声に呆然と立ちつくしていた後方の男が我に帰る。
「う、うわぁぁぁぁ」
あられもなく叫びながら、倒れている二人を残して男は路地の反対側へと逃げていった。
残った二人のうち、一人は頭から血を流して昏倒し、もう一人は両手で頭を抱えてうずくまっている。震えながら小さく「許してくれ」と繰り返しているのが聞こえた。
「佐々部さん」
声に振り返ると、青い顔をした杏子が僕を見ていた。
見られちゃったか、と何だか他人事のように思った。
周りを見るが、先ほどまでいた少年の姿は何処にもなかった。
「あの子は──」
「逃げました」
「・・・だろうな」
言いつつ、僕は左手から鉄材を引き剥がした。
アスファルトに落ちた鉄材の音で、うずくまっていた男の背中が小さく跳ねた。
「逃げよう、流石にやばい」
「わかってます、早く」
応える杏子の声も硬かった。彼女も恐怖している。
この惨状に。僕が生みだした現状に。
駐輪場から自転車を引っ張り出し飛び乗った。振り返らずに全力で漕ぎ出す。
未だに鈍痛の残る右腕が煩わしい。
「あの、佐々部さん」
「後で説明する」
おずおずと口を開いた杏子を制する。
「説明って・・・。」
言い淀んだが、離れることが先決だと判断したのだろう。開きかけた口を閉ざして、杏子は僕の後ろに黙って付いた。
日が傾き始めていたが、そんなことを気にしている状況ではなかった。
朝感じたことをもっと意識しておくべきだった。やはり今日は運が悪い。
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