第9話 泥水を踏む勇気

 杏子から連絡が来たのは、鳥茅家を訪れた翌々日、日曜日のことだった。

 夜遅くまで弟と遊んでやっていたので、正午近くまで熟睡していた僕は、けたたましい着信音で目を覚ました。腹に重みがあると思ったら、我が家の猫が僕の上で眠っている。

 家から出したことのない心道家の猫は、野性味の欠片も無いだらしない格好で僕の上に広がっていた。

 こいつも外に出せばドクターの列に交わることもあるのだろうか。

 なんて、五秒ほど考えて、布団を思い切りめくり上げる。

 抗議の声を挙げながら、ベッドから転げ落ちた猫に謝りつつ、携帯電話を手にする。着信音からわかっていたが、杏子からだった。

「おう。おはよう」

「もうお昼前ですが、その様子ではお休み中でしたか。病人より長く寝ているなんて、怠惰ですよ」

「そうかい」

 言いつつ、杏子の声が一昨日よりもだいぶ澄んでいることに気がついた。

「大体快復しましたよ。八割方といったところですが」

「そりゃよかった。お見舞いが効いたかな」

「貴方が何をしてくれたと言うのですか」

 何もしていない。

 精神的に負担を掛けに行っただけのようなものなので、これは冗談としても不出来だった。

 しかし、杏子が普通に連絡を取ってきてくれたことは嬉しい。正直、金曜日は家に帰ってから悶々とし続けていたのだ。

 あれで正しかったのか、性急過ぎはしなかったか。

 杏子は普通に返答してくれたが、来週からぎくしゃくしたらどうしよう。

 とか、考えてじたばたしていた。

 どうやら杏子の方はそんな心配はしていなかったようだけれど。

「で、元気になったことですし、早速今日の夕方探しましょう」

 何を、とは言わない。言わずもがな、ドクター探しだろう。

「ああ、わかった何時から始める?」

「せっかくの日曜ですし、日が傾くまでは一緒に時間を潰しませんか。作戦も練りたいですし」

「了解。けどさ、病み上がりにすぐ動いたりして、体調は大丈夫なのか。無理しても続かないぞ」

 今日会えるとは限らないことだし。

 むしろ可能性は低いように思える。そう簡単に探し出せるものならば、噂話程度で収まるはずがない。

「体調については問題ありません。いつも三割で動かしてる体ですから」

「そりゃサボりすぎだ」

 僕の言葉に被せるように、電話先から何やら声が聞こえた。

 杏子の母親だろうか。

「おっと、昼食ができたようなので失礼しますね。では一時に学校横の喫茶店でお待ちしています」

「了解。今日は奢らないからな」

「猫に見蕩れてなければそうでしょう」

 杏子は皮肉を言って電話を切った。

「何時間かは猫の尻を追い回すことになるんだろうけどさ」

 一人呟くと、足元から心道家の猫が鳴き声を挙げた。

 いや、おまえじゃない。


 寝ている間も着実にお腹は空く。

 ということで、朝食をすっぽかしてしまった分、いつもよりも空っぽな胃を満たすために僕は一階に下りてキッチンへと向かう。

 一階には誰もいなかった。

 はて、今日は皆眠りこけているのだろうか。

いや、違う。そういえば昼からはリトルリーグに所属する真の試合があるのだった。真本人は勿論のこと、母も応援やら手伝いやらで動向しているのだろう。起こされた記憶が無いので長男は完璧に無視されたわけだ。

「まあ、応援とか柄じゃないけどね」

 杏子と会うことを母に言えばまたぞろ詮索されるだろうし、真は真でどうしてか不機嫌になったりもするので、ある意味好都合である。

 問題は僕の昼食を僕が用意しなくてはならない点だけれど。

 どうやら朝食に現れなかった僕のことは完全に放任することに決めたらしく、作り置きの昼食なんてものはなかった。母から弟と僕に注がれる愛の差が厳しい。

 少し考えて、冷蔵庫を開ける。ある程度の食材はあったが、どれも杏子との待ち合わせの時間を考えると厳しいレシピしか思い浮かばなかった。

「喫茶店で何か食べるか」

 確かサンドイッチくらいならあったはずだ。少々出費が痛いけれど、遅れてまたぞろ罰金となったほうが悲しい。

 結局、一時間ほど家で時間を潰して、僕は自転車に跨った。

 すきっ腹のまま体を動かすのは存外堪える。

 しかし、二日前に寝込んだのに、こんなにも早く快復するとは。杏子は華奢な方ではないが、別段体力が有り余っているというタイプでもない。治りが早いのは気力のおかげだろうか。

 だとしたらどういう要因で気力を高めたのか、と僕は考える。考えるまでもないけれど。

 つまるところ、杏子は木曜の夜にドクター探しが空振りになったことで気が滅入って寝込み、そしてつい数日前に会ったという僕の証言を聞いてやる気を出して快復したと、そういうことなのだろう。

 人間の体がそこまで単純に推移するかはわからないけれど、プラシーボと言うものは案外馬鹿にできないらしいし、この推論もあながち外れではない気がする。

 特に杏子は、思い込みが強そうなタイプなので、感情に体が左右されることもあるだろう。

 つまり、杏子はそこまで感情を揺さぶられるほどドクターに会うことを願っているということだ。

 昔、ドクターに会ったことがあると杏子は言った。

 杏子の言う会ったとは、数日前に僕が知らずに遭遇して見失ったように、見かけたという意味ではないだろう。あの言い方から察するに、昔の杏子はドクターをどういうものか理解して見つけ出したのだ。

 その時に杏子は何かを願ったのだろうか。

 願っただろう。願うに決まっている。

七年前──僕らは一年留年しているので、七年前は小学四年生だ──その当時の杏子がドクターに何を願ったのか。

金曜日の放課後に杏子の部屋で話をした後から、ずっとそのことは気になっていた。

しかし訊くことはできなかった。

あの日勇気を振り絞って、杏子との関係をより良くするためにと一歩を踏み出していた僕でさえも躊躇するほどに、その話をしている時の杏子には、形容しがたい意思があった。

話を掘り下げようとすれば、間違いなく拒絶の言葉を返される。それが僕にはありありと見て取れた。いつもの僕達の間にあった真綿を挟んだような気遣いとは違う、明確な意思を僕はそこに見た。

だからそう、寝起きに杏子との電話の途中で考えたような心配はある意味無意味だったのだろう。

僕は確かに金曜日の放課後、今までの境界線を一歩踏み越えたが、それが何だと言うのか。僕と杏子の距離は一歩どころでは埋めきれないほどに開いているのだ。

関係が壊れる心配などする必要はなかった。

間に溝は無いけれど、しかし確実に距離はある。一般的な友人関係では考えられないような距離が。

「それでも、気にせずにはいられないよな」

 意思を固めるために口に出して言った。

 杏子が何を願ったのか。そして、七年後の、つまりは現在の杏子はドクターに出会って何を叶えてもらうつもりなのか。

 この二つが関係ないと思うほど僕は馬鹿ではない。

 知りたいと思う。それを知らなければ、僕は杏子との距離を縮め切れないだろうから。

 その行為に、例えどれほどのリスクがあろうとも。

 この場合リスクとは、僕がドクターに会ってどうしたいのか、それを杏子に知られることのリスクである。当然だ、杏子の願いを知ろうとすれば、杏子も当然僕の願いを知ろうとするだろう。

 これは等価交換とかギブアンドテイクとかではなく、人として当然のことだ。

 そして僕はそれが怖い。

 ただ単純に、杏子の触れられたくない部分に僕が踏み込んでしまい、結果杏子から拒絶されるのならばまだ納得できる。後悔はするし修正も試みるだろうが、それでも納得はできる。しかし、僕自身の問題を知られる事によって、杏子から拒絶をされてしまったら。

 想像するだに恐ろしい。

それが僕の抱えるリスク。受け入れられない恐怖──それを僕は克服しなければならない。

杏子の事を今以上に知ろうとするのならば。

彼女と真っ当な友人になりたいのならば。

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