第8話 子を持たぬもの
それからしばらく杏子と話をし、僕は帰ることにした。
ドクター探しは体調が快復次第、再開ということになった。
「一人でやらないで下さいよ」
「言ったろ、僕は手伝いたいんだよ。一人で先走ったりはしないさ」
「ならいいです」
部屋を出かけて、「ああ、そうだ」と踵を返す。
「一応、ノートとプリントは机の上に置いておくから。大して進みはしなかったけれど、遅れても面倒だし、目は通しておけよ。僕の悪筆を解読できたらだけど」
「ありがとうございます」
ノートとプリントを部屋の隅にある机の上に置く。その際にフォトスタンドが目に入った。
子供が二人、笑顔で写真に映っている。
片方は杏子だろう。今とは違い、女の子らしい顔つきで控えめな笑顔をこちらに向けながらピースサインを作っている。もう一方の男の子は誰だろう。どことなく今の杏子に顔つきが似ている気もするけれど、杏子には兄弟がいないはずだ。親戚だろうか。杏子とは対照的に、快活に笑っている。
「・・・。」
「どうかしましたか?」
ベッドに転がる杏子からは角度的に、僕が何を見ているのかわからないのだろう。
「ああ、いや──」
この少年は誰なのかと訊こうとして、わざわざ質問することでもないなと思い直す。
「何でもない。意外に机が散らかってるなと思って」
「ああ、もう。変なところ見ないで下さいよ」
「はは、普段から整理しとかないとな」
そう言って、扉に手を掛ける。
「それじゃ、またな。ドクターの話は抜きにしても、月曜までには治せよ」
「ノートを余分に取るのも楽じゃないですしね。感謝してますよ」
「そうじゃない」
顔が見られないように、扉を閉めながら僕は言う。
「教室に一人は寂しいんだよ」
杏子が何か答える前に僕は扉を閉め切った。
一階に下りると杏子の母親がリビングから顔を覗かせていた。
「あら、もういいのかしら」
「はい。あまり長居をして杏子さんに負担をかけるわけにもいきませんし」
「大丈夫よ、あの子体だけは丈夫なんだから。風邪だって引くのは一年ぶりよ。まあ昔はそうでもなかったけれど。昔は今よりも控えめな子だったし」
懐かしむように杏子の母親は言う。
「そうだわ、佐々部君。ちょっと時間あるかしら?」
どうやら杏子の母親は僕のことを名前で呼ぶことに決めたらしい。異論はないけれど、なんだかむず痒い。
言われて時計を見る。まだ急いで帰らなければならないような時間ではなかった。
「はい、時間は大丈夫ですが」
「だったら、おばさんとお話をしましょう」
何やら嬉しそうに、杏子の母親は僕をリビングへと招いく。
お断りを申し上げようかとも思ったけれど、突然お邪魔したのは僕の方だし、無下に断るのも何だが気が引けてしまった。
少し位ならいいかと思い、おずおずとリビングへと足を踏み入れる。
どうぞ、と示されたソファへと腰を下ろすと、あまりにも座り心地が良く、純粋に驚いた。家の間取りや立地条件等から類推はしていたけれど、鳥茅家は裕福なご家庭のようだ。心道家にこのソファを置こうとしたら、僕の母は日に何時間残業しなくてはならないだろうか。
そして仕事とは無縁そうな杏子の母親は、キッチンからカップを二つ運んでくる。匂いを嗅いで、僕の体がピクリと反応した。
嗅ぎなれたこの匂い。
「杏子の話ではよく飲んでいると聞いていたのだけれど、合っているかしら」
差し出されたマグカップの中には香りを放つココアが注がれていた。
ホワイトクリームも乗せられている。なんと贅沢な。
「はい、大好きです」
単純ながら、こんなことで緊張感をほぐされてしまった。
まあそれも致し方ない。甘さは正義だ。
我慢できずに手を伸ばす。
「いただきます」
「お口に合うといいけれど」
一口啜った途端、香りが体の芯にまで広がった。控えめな甘さの元は勿論溶かし込んだチョコレートだ。カカオの配分が多いビターチョコを使用しているのだろう。くどくない甘さで、いくらでも飲めそうだ。足りない甘味を補うために乗せられたホワイトクリームも、程よい温度に温められたミルクと調和する形で、しかしながら確実に、喉を通る際に自己主張をする。香りの残し方に湯煎時における細心の注意が払われていることが察せられ、ココアに対する手間の掛け具合がわかろうというものだ。加えて言うならばこのカップも──。
「ふふ。本当においしそうに飲むのね」
「はっ!」
トリップしてしまっていた。
「お、美味しいです。ありがとうございます」
慌ててお礼を言う。完璧に一人の世界に飛び込んでいた。
「お代わりもあるから、好きなだけどうぞ」
「おぉ」
ここが天国か。
ということで、都合三杯僕は飲み干した。そして四杯目を所望するかどうかというところで、杏子の母親は口を開いた。
「あの子、学校ではどうかしら」
「どう、と言いますと」
「ちゃんと周りの人と上手くやれてる?」
杏子の母親の質問に、僕は直に答えられない。
来たときも考えたことだけれど、上手くやれているかどうかと言われれば、返答に困るのだ。クラスに波風は立てていないけれど、そもそも立てようがない。何せ僕らは亡霊なのだ。影響しないようにできている。
事を荒立てたり、悪影響を与えたりということはありえないけれど、この状態は決して上手くやれているとは言えない。
杏子の母親に、素直にそう伝えることも憚られるが、かといって上手い言い回しも思いつかない。
「えーっと、そうですね。絶対的に悪くはないですが、上手くもできていないといったところでしょうか。僕も、杏子さんも」
「そう、そうなの」
落胆させてしまっただろうか。親の気持ちというのは中々わからないけれども、仮に真が学校に馴染めていないと聞かされたら、僕だって気落ちするだろう。
しかし、杏子の母親は優しく笑った。
「でも、佐々部君は杏子の傍にいてくれるんでしょう。だったら何も心配することはないわ」
「そうでしょうか」
亡霊がただ二人寄り集まっているだけである。大海原で難破してしまった二人が一箇所に固まっていたとして、それが何の助けになるだろうか。すがり合ってしがみついて、どちらかが沈んでしまえば道連れにもう片方も沈んでしまう。そんな関係にも思える。
救われている部分もあるが、しかし客観的に見て良い状態だとはやはり思えないのだ。
「誰かが傍にいてくれるだけで、それだけで違うものなのよ」
それは、わからないでもないけれど。
孤独な亡霊から、寄り添った亡霊になったあの日のことを思い出す。
「昔話をしましょう。とはいっても、そんなに前の事でもないわね。十年も遡るようなお話じゃないわ」
遠くを見るようにそう言って、杏子の母親は話し始めた。
「さっきも言ったように、杏子は小学校の半ばまではとても大人しい子だったの。物静かと言うよりは、控えめな子。自己主張も全然できずに、いつも誰かの影に隠れちゃうような子」
「今とは全然違いますね」
口を突いてでたが、母親の前で言うには失礼な言葉だったかもしれない。
しかし、僕の知っている杏子は大人びてはいるが、大人しくはない。印象とあまりに違うのでこぼれてしまった言葉であることも事実だ。
「そうね。ある頃から、杏子は人が変わったように快活になったわ。親の私達も面くらう程に。でもそれは勿論、嬉しい変化だったのよ。子供は明るく元気な方がいいもの。控えめなあの子も可愛らしくて大好きだったけれどね」
「どうして、杏子さんは変わったのですか?」
大人しい少女から、活発な少女へ。
「それがわからないのよね。結局わからずじまいだったわ。私達は七年前にこの町へ引っ越してきたんだけれど、引っ越してから暫くは、相変わらず杏子は大人しい子だったのよ。でも二ヶ月ほど経って、あの子は急に変わったわ。その頃から仲良くなったお友達の影響かな、なんて夫とは話をしていたけれど」
何となく、その友達が誰なのかわかった気がした。
正確には、その友達がどんな顔をしていたのかわかった気がした。
「仲良くなった友達っていうのは、男の子ではないですか」
「ああ、そっか、写真を見たのね」
終始穏やかだった杏子の母親の顔に影が差した気がした。
憂うような、哀しむような、そんな顔だ。
「はい。杏子さんの机の上に立てかけてあった写真ですよね」
「そうよ。その写真の子が杏子の友達だった男の子。名前は司君」
「だった?」
過去形。その司という少年とは、今はもう親交がないということだろうか。
しかし杏子の母親の言葉は僕の予想を遥かに超えていた。
「亡くなったの。司君は。今から六年ほど前に」
「な──」
「交通事故でね。可哀想に、ご家族揃って車で移動中にトラックと衝突したらしいの。杏子が仲良くなって一年も経たないころだったかしら。知らせを聞いた時のことは、もう思い出すのも辛い程だったわ。特に杏子は落ち込んでしまってね。葬式にも出れなかったし、一度もお墓参りに行けてない。聞いているかしら。あの子ふさぎ込んでしまって、一年間ほど学校をお休みしたのよ」
「はい、それは聞いてます。休むことになった理由までは、知りませんでしたが」
その理由をまさかこんな形で知ることになろうとは思いもよらなかった。
「聞かなきゃよかったって思ってる?ごめんなさいね。きっと佐々部君くらいの年の子には受け止めるにはきつい話よね」
「いえ、大丈夫です。驚きはしましたが」
確かに軽い話ではないけれども、しかしこれを重みだとは思わない。友達の痛みを聞かなきゃよかっただなんて思うはずがあるものか。
「でも何で、そんな話を僕に」
「杏子はね、それ以来友達を作ることを止めたの。周りに対して距離を取って、一歩引いた視点から世界を見るようになって。だから本当に久しぶりなの。杏子のお友達がうちに来るのは」
それが嬉しいのだと、杏子の母親はまた優しく笑う。それは昨日、僕の母が杏子に出会ったときに見せた笑顔にそっくりで、気恥ずかしいような居心地の悪いような、何ともいえない気持ちになった。
「だから、貴方にはなるべく離れないでいて欲しいと思うのよ。これが親のエゴだっていうのはわかっているつもりよ。でも、久しぶりに受け入れた友達を失えば、あの子は前よりも一層塞ぎこむんじゃないかって、私はそれだけが心配なの。司君の話をしたのは、それを知っていてもらいたかったから。ごめんなさいね。全部押し付けよね」
「押し付けだなんて、思いませんよ」
「勿論、司君の代わりで、という意味ではもちろんないわ。貴方は貴方のままで、杏子の傍にいてあげてはもらえないかしら」
普通はいきなりこんな話を友人の親からされたら、引いてしまうのだろう。
でも僕は、この場にいる心道佐々部という男は、一般的でなく普通とは言いがたい。
一般的でなくなった子供を親がどれ程心配するか──僕はそれを嫌と言うほど知っている。身に沁みて学んでいる。それを曝け出すことの怖さも、いつも強がっている母から学んだ。
だから、杏子の母親がどれほどの勇気を振り絞っているかがわかる。優しい微笑みの裏に押しつぶされそうなほどの不安を抱えていることもわかる。
だから出てきたのだろう。
「任せてください」
そんな、普段の僕からは絶対に出ないような、力強い言葉が。
無責任にも、口をついた。
「ありがとう。そう言ってもらえて、嬉しいわ」
杏子の母親は安堵の息を漏らした。
その一言は、こんな僕でも純粋に嬉しいと思えた。
結局、合計で四杯のココアを飲み干し、僕は鳥茅家を後にした。
帰り際に杏子の母親が「またいつでも来てね」と言ってくれたので、またココアを飲みに来よう。などと、強かにそう考えたりもした。
しかし、僕と杏子がこの日の関係のままで、僕が鳥茅家を訪れるということは一度として実現されないだろうなと、何となく理解はしていた。
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