第7話 発熱電灯

 次の日、杏子が学校を休んだ。

 杏子が学校に来ないということは、僕の友人は一人も登校していないということであり、必然的に僕は孤独な一日を過ごすことになる。

 昨晩から降り始めた雨は正午には上がった。曇り空と湿気が作り出す陰鬱な雰囲気の中、久方ぶりに幽霊として過ごした。こうして過ごすのはいつ以来だったか。

 そんな孤独な一日の締めに僕は職員室を訪れた。

 形ばかりの一礼をした後に、部活動に行く前の担任教師へ声を掛ける。

「ちょっとお聞きしたいんですけどいいですか?」

「心道か。どうした」

 常日頃からジャージな担任は、立ち上がろうとしていた腰を下ろし、僕の話を聞いてくれる。

「今日鳥茅さんがお休みでしたが、どうされたのでしょうか」

「ああ、鳥茅か。風邪を引いて熱を出したと親御さんは言っていたな」

「風邪・・・。」

「心道も気をつけろよ。季節の変わり目だ、不意に体調が悪くなることもあるからな」

 教員らしくそう言って話をまとめ、担任は立ち上がろうとする。

 僕はそれを遮った。

「それでですね、鳥茅さんに今日の授業ノートと配布物を渡しに行きたいのですが、鳥茅さんってどこに住んでるんですか?」

「ああ、そういうことか。でもな、住所はちょっと・・・。」

 プライバシーの保護に関して五月蝿い時世である。何より教師として、規律を破るわけにはいかないのだろう。担任は回答を渋る。

 仕方がない、動機を僕から与えよう。

「友達が授業に遅れるのは心配なんです、お願いできませんか」

「そうだよなぁ」

 担任教師はクラス内で僕の友人が杏子しかいないことを知っている。そしてその逆もまた同じであるという事を知っている。

何より、輪の外側にいる亡霊の僕達に分け隔てなく接する担任ではあるが、その存在の危うさも勿論理解しているのだ。クラスに波風が立たず、正常に日々を過ごすということを主眼においた場合、単純な不良生徒や弱者よりも、僕らは別の意味で危ういということを。

「うーん・・・わかった。内緒にしてくれよ」

「ありがとうございます」

どう影響するかわからない心道佐々部と鳥茅杏子がいつも通りでいてくれるのならば、多少の特例も認めては良いのではないか。

担任教師がそう思ってくれたのかどうかはわからないけれど、僕は思惑通り、鳥茅家の住所を手に入れることができた。

真っ当に考えるのならば担任教師に確認したりせずに、それこそ直接杏子に聞けばいい。だけれど、僕はその手段を選ばなかった。

いきなりお見舞いに行って驚かせたい。

なんて華やかな気持ちではなく、僕は単純に先手を取りたかったのだ。

これから一歩、杏子に踏み込むに当たって。いつも通りでは駄目だと思った。いつも通りではいつも通りになってしまう。捉えたい物事が曖昧に霧散してしまう気がした。

不意に訪ねることによっていつもの僕らのリズムでなくなれば、現状から一歩先に進める気がする。

それがどういう一歩かは測りかねているけれど、それでも、このまま不動でいれば僕らは奇妙な友情のままで完結してしまう。それは何となく嫌だった。

「これはきっと身勝手な物言いなんだろうな」

 いつもとは反対方向へ自転車を漕ぎながら自嘲する。

 お互いに半年間保ってきた距離を一方的に狭めようとしている。その理由を確立できていないまま。

 信念もなく主義もなく、主張も持たずに身勝手に。

 きっかけが何かと考えるけれど、その答えは未だに出てこない。杏子の家を訪ねようと決心したその瞬間から、それは何故かと自分自身に問いかけてみているのだけれど、できの悪い脳みそは解答を持ち合わせてはいないらしい。証明不可能なままに結論だけを持ち出して、僕は行動を開始しているのだ。

 動き出した今だって、心の片隅では制止をかける僕がいるのだから、始末に終えない。こんな状態で先手を取るだなんて、どの口が言えたものだろう。

 無駄だとわかっていながら、行き道で頭の中身をさらってみることにした。

「僕は杏子に何を求めている」

 求めるだなんてとんでもない。彷徨うしかないクラス内で、傍にいてくれるだけで十分だ。

「僕は現状に不満でもあるのか」

 友人として杏子がいる。唯一人だけれど確かにいる。僕が不満など持つ資格はない。

「僕は杏子に近づきたいのか」

 充分に近くにいる。四六時中一緒じゃないか。

「僕は杏子を独占したいのか」

 既にしている。僕には杏子しか友人がおらず、その逆もまた然りだ。

「僕は杏子に僕を理解してもらいたいのか」

 ありえない。誤解されたままでいい。そうでなければならない。

 僕は杏子に、僕は杏子を、僕は、僕は、僕は───。

 何一つ、僕の行動を正当化する答えは出ない。全てをまとめれば「現状で充分ではないか」と結論付けなくてはならなくなる。

 しかし、僕の心は騒ぐのだ。

 だったら、ざわつくままに動くしかない。僕はそれしか生き方を知らない。

 杏子の家に着く頃には、そんな開き直りとしか言えない考えに帰結していた。我ながら始末に終えない。不細工もいいところだ。

 躊躇する心と震える手を押さえつけて、インターホンを鳴らす。

「はい、どちら様ですか?」

 聞こえてきた音声は杏子のものではなかった。母親だろうか。

「はじめまして、僕は杏子さんのクラスメイトで心道と申します。杏子さんのお見舞いと、授業ノートを届けに参りました」

「そう、ちょっと待っててね」

 ばたばたと音が鳴り、玄関が開いて中年女性が顔を覗かせた。顔立ちに杏子の面影がある、いや違うか、杏子がこの人に似ているんだ。

「杏子の母です。わざわざありがとうね」

「いえ、お邪魔してもよろしいでしょうか」

「もちろん。さあ上がって」

 招かれるままに玄関に入る。

「担任の先生から杏子さんは風邪とお伺いしましたが」

「そうなのよ。あの子昨日はびしょ濡れで帰って来たの。しかも夜遅くに。寄り道していたら雨に降られたって言うし、心配かけさせるんだから。あぁでも、風邪の方はそこまで酷くはないのよ。今日は金曜日だから、大事を取って休ませただけ」

 階段を上がりながら杏子の母親は言う。

「でも、本当によかったわ。お見舞いに来てくれるようなお友達がいて。あの子少し変わってるから、学校で馴染めているか心配だったのよ」

その心配が杞憂だったといえるかどうかは微妙なところだ。少なくとも僕と杏子は学校に馴染めてはいないのだから。

言わないけれど。

杏子の母親は階段を上がって右奥の扉の前で止まった。軽く扉をノックする。

「ん、なに?」

 部屋の中からいつも聞いている声よりもいくらかノイズの混じった声で、返事が聞こえる。

 扉を開けないまま、杏子の母親は告げる。

「杏子、お友達がお見舞いに来てくれたわよ」

「へ?」

「佐々部君。授業ノートを持ってきてくれたんだって」

 あれ、僕は苗字しか名乗っていないはずだけれど。

 そんな僕の視線に気付いたのだろう、杏子の母親は僕に耳打ちする。

「いつも杏子の話に出てくる佐々部君て、あなたでしょ。杏子のことよろしくね」

「は、はい」

 急に名前で呼ばれて動揺する僕にくすりと笑いかけ、杏子の母親は階下へと降りて行った。

 一人扉の前に取り残された僕。

 何だろう、先手を取るつもりが第三者に挿し込まれたような気分だ。

 まあいい。気を取り直して杏子の部屋であろう扉へ意識を向ける。

 母親が僕の名前を継げたあとから返事が無いけれど、入ってもいいのだろうか。それとももう一度ノックして僕が現れたことを告げるべきか。

 暫し逡巡するが、何度もノックしても鬱陶しいだけだろうと思い、そのままドアを開けた。

「僕だ、入るぞ」

 扉を開いた先には、誰もいなかった。

 おや?

 そう思ったのも一瞬のこと、よくよく見れば布団が異様な盛り上がり方をしている。

「・・・・・・いや、何してんの」

「・・・。」

「わかるから、流石に無理だから」

「・・・。」

「よし、エロ本探そう」

「待って!」

「いや、そこ釣られるのはおかしいだろう」

 それは男同士で友人の部屋に訪れたときのイベントのはずだ。

 というか、

「何で隠れるんだよ」

「いや、まったく予想外のことに準備ができていなかったもので」

 そりゃそうだろう。そのために予告せずに来たのだから。

「出だしは上々」

「はい?」

「何でもない。それにしても、不思議な部屋だな」

 女性の部屋をじっくり見回すというのは余り品が良くないのかも知れないが、一通り見て、最初に出てきた感想がそれだった。

 天井に届く本棚が一つに、杏子の寝ているシングルのベッド。細長い机には教科書が散乱していて、ミニコンポと小型テレビがラックに納まっていた。傍にはいくつかのゲーム機がある。

 それぞれは部屋にあっても何らおかしなものではない。僕の部屋にだってある。そういうことではなく。

「まるで男子の部屋みたいだ」

 そう、構成というか全体の造りというか、そういったものがまるで僕や弟の部屋みたいだった。

僕の部屋にあってもおかしくないものはあるが、僕の部屋にあると不自然なものはない。入れ替えたって違和感すらないだろう。

「いやいや、佐々部さん。それは女子に幻想を抱きすぎですよ」

「そうなの?」

「例えば、女子の部屋にあるものと言われて、どんなものが思いつきます?」

「そうだな──えっと」

 言われてみれば思いつかない。

強いて言えば化粧くらいだけれど、そんなもの見えるところに転がっている方がおかしい。

「ほら、さして思いつかないでしょう」

「確かに、ふむ。そんなものか」

「ですです」

「まあいいや。大して熱があるわけでもなさそうだし、君のお母さんが言うように重症ではないみたいだ」

 布団から顔を覗かせる杏子は頬がほんのりと赤みを帯びている。布団に潜っていたから熱が篭って、というわけではもちろんないだろう。しかし普通に会話ができている辺り、そこまで辛い症状ではなさそうだった。

 もしも会話も億劫なほどの重症ならば後日改めてと思っていたが、これなら大した負担にもならないだろう。僕はそう判断して話を切り出す。

「でもさ杏子、君なんで風邪引いてるの」

 問われた杏子は僕から目を逸らす。

「それは、その、季節の変わり目ですから」

 目線を泳がせながら杏子は答える。

 その回答は、間違いじゃないが正しくもない。

「体冷やしたのが原因だろ。聞いたよ、雨に濡れて帰ってきたって。しかも、夜遅くに」

「・・・。」

「おかしいよな。昨日、雨が降り始めたのは午後九時辺りだ。七時前に心道家を出た杏子が降られる時間じゃないだろう。今日初めてこの家に訪れたけれど、心道家からここまで普通に自転車漕いでも三十分といったところだぞ。ましてや杏子の健脚ならそれ以下だと思うけど」

「・・・。」

 答えはない。杏子は黙したままだ。

 先を続ける。

「夜遅くに帰ってきたと、君のお母さんは言っていた。寄り道をして帰ってきたと。心道家に寄ったこと、だけじゃないよな。雨に濡れてまで何してたんだ」

「それは」と、杏子は口を開く。さっきとは打って変わって、僕の目をしっかりと見て。「それは、所要を済ませていただけです。大したことじゃありませんよ」

 だからそれ以上聞くな。

杏子の言葉の裏にはそんな意思が見えた。

杏子と出会ってから半年間、お互い踏み込まずにいた距離がある。そのラインに近づいたときはいつもどちらかがこんな風に話をはぐらかしてきた。

引き返すのならここだろう。

僕の心の中で警鐘が鳴り響く。

ここでそうかと頷いて、冗談の一つでも言って「じゃあゆっくり休めよ」とか口にして部屋を去れば、僕らはきっと今のままでいられる。月曜には快復した杏子が現れて、今日の事を軽く笑い話にした後に退屈な授業を受け、そして放課後は一緒に寄り道をして帰る。唯一の友人に寄りかかって、お互いに失くすのが恐いからと距離を保って、時には壁の存在を匂わせて、そうやって共に過ごしていく。

そんなもの、友情と呼べるわけない。

「所要って何?」

 ピクリと、杏子の肩が跳ねた。

 表情が変わる。落ち着いたそれから、焦りにも似た感情を含んだ表情へと。

 いつもなら退くラインを僕は越えた、決定的に。

「別に何ってほどのことでは」

 それでも、杏子はラインの外側へと僕を押し出そうとする。

「誤魔化すなよ」

 踏み込む。

「誤魔化してなんか、本当に話すほどのことではないというだけで」

「それでもいい。僕は聞きたいんだ」

 踏み込む。

「どちらかと言えばあまり話したくはないことで」

「ドクター」

「・・・っ!」

 押し切った。

「ドクターを探していたんじゃないのか。昨日あの話を真から聞いてから。ドクターの探し方を知ってから」

 そもそもそれを聞き出すために杏子は心道家を訪れたのだから。

 しかし、事実そうなのだとしたら。もしも杏子が昨夜ドクターを探し回って、びしょ濡れになるまで探し回っていたのだとしたら──。

「まさか、あんな噂話信じているわけないじゃないですか」

 杏子は笑う。

 そう、当然そういうことになる。子供の間だけで流布されているような、噂話を高校生にもなって信じているということになる。

 普通ならありえないだろう。サンタクロースの存在をいまだに信じているようなものだ。

 そう、普通ならありえない。

 何か確信めいたものが無い限りは。

「神輿は男性一人で引くのは無理がある」

「──急にどうしたのですか。というか、何の話ですか?」

 理解できないというように、首を捻る杏子。

「僕が昨日学校で杏子に話した『ドクター』に関する事柄。その中に、ドクターの性別や風貌に関する話は一切含まれていなかった」

「そうでしたっけ。いや、というか話の繋がりが見えないんですけど」

「杏子が言ったんだ。どんなサイズのものでも男性一人で引くのは無理があるって。昨日、心道家で弟がドクターの引いているものの話をした時に」

 山車を知らなかった真が、ドクターの引いているものを神輿と表現した際に、杏子は言ったのだ。『どんなサイズのものでも男性一人で引くのは無理がある』と。

 それはおかしい。辻褄が合わない。

「だって、僕も真もドクターが男性だなんて、杏子に対しては伝えていなかった」

「それは、たまたま。じゃなくって、そう、別に性別を断定したわけではなく、仮に男性でも一人で引くには無理があるという意味で発した言葉であって」

「だとしても、不可解なことはもう一つ。これは真が気付いたことだけれど、杏子は願いを叶えられた子供の話をしたときも、その対象が男の子であるということを知っていただろ。これだっておかしい。でも事前に知っていたのだとしたら何ら不思議なことじゃない。だからそう、杏子は知っていたんだ」

 どちらも些細なことだろう。ただの聞き間違いによる思い込みで発した言葉かもしれない。しかし、二度も重なって、その上で杏子の現状をみると、どう考えたってこれは一つの意味を持つ。

「なあ。杏子は何か知っているんじゃないか。噂話としてではないドクターの何かを」

「事前に、噂を聞いていただけかも知れませんよ」

 それはどう見ても悪あがきだった。

 形の上での抵抗でしかない。

「兄弟姉妹のいない杏子が、誰から子供の間だけで話されている噂を知るんだ。いや、仮にドクターの話が高校生の間でも知られているとしても、僕らはお互いにクラスメイトとすらろくに喋れないじゃないか」

 噂話を知りえるルートは何処にもない。

「随分悲しい根拠に基づいた推理ですね」

ため息をつくように言い、

「しかしまあ、隙を見せてしまったという感覚は否めませんね。そうです。仰る通り、ドクターのことを知っています」

 その言葉にもう嘘はなかった。

「知っているというのは、つまり──」

「ええ。ドクターは存在するという事を知っている、ということです。噂話としてではなく、確固たる存在として、歴然とドクターはいます」

「どうして、断言できるんだ」

「七年前に一度、会ったことがあるからです」

 忌々しそうに、吐き捨てるように杏子は言った。

 杏子は今、七年前のその時の事を思い出しているのだろう。ドクターと会ったというその日のことを。

一体、彼女に何があったのか。

一体、彼女は何に会ったのか。

「杏子、君は──」

「七年前にドクターに会い、その後二年間はドクターを探し続けていました。結局、見つけることはできませんでしたが」

 機先を制するように杏子は喋る。

「二年間探し続けて見つけられず、ドクターはこの町を去ったのだと結論付けました。その頃には誰もドクターの噂をする人はいませんでしたし、覚えている人すら少ない状態でしたから。中学生になる頃には完璧に諦めていたんです、でも」

 ドクターの噂は戻ってきた。

 それがいつからかは不明だが、真達小学生の間では現在進行形で流布されている。

「噂が戻ってきたということは、ドクターが戻ってきたということかもしれない。そう思ってドクター探しを再開したらこの有様です」

 杏子は横になったまま自嘲するように笑った。

「真に話を聞きに来たのは、確認のためか」

「はい。現在広まってる噂話が過去のものと同一かどうか、確認しようと思いまして。といっても、自分自身がその噂をうろ覚えだったのですけれどね」

 僕が生徒指導室でドクターの話をしたことで、杏子は現在の小学生の間に噂話が広まっていることを知り、結果として風邪を引くまで探し回った、と。そういうことになるのだろうか。

 だとすると、杏子が寝込んでいる現状は僕にも若干の責任があることになる。

「うん、まあわかった。昨日の杏子がなぜ急に心道家にやってきたのか。その理由が凄く引っかかっていたから、そこはすっきりとした。それでさ、一つ提案を出していいか」

「提案とは」

「その話をする前に、まず確認しておきたいんだけれど、杏子はドクターに会いたいんだよな。探していたってのはそういうことでいいんだよな」

 それ以外ありえないだろうとは思うけれど、一応確認は取っておかなければならない。今後の為に大切なことだ。

 杏子は頷く。

「はい、そうです。もう一度会うために探していました」

「よし。だったら僕も一緒に探す」

「は?」

「僕も杏子と一緒にドクターを探すよ。会ってみたいんだ、ドクターに。だから杏子がドクターを探すのを手伝わせてくれ。そういう提案だ」

「・・・・・・。」

 杏子は暫し押し黙る。僕の真意を測りかねているのだろうか。

「手伝うと言いましても、探し方は昨日の話の通りですから、ご助力を請うまでもないかと思いますが」

 まあそう答えるだろうことは予想できていた。

「そこで、いい話が二つある」

 人差し指と中指を立て、杏子に見せる。

「聞きましょう」

「一つはドクターを探す方法。これはきっと杏子が忘れている話なんだろうけど、昨日再度真に確認したところ、どうやら唯単純に時間を掛けて探し回ればいいというものではないらしい。ドクターと会うには時間帯が関係しているという話だ。黄昏時、夕焼け空が広がった時のみドクターを見つけることはできるらしい」

「ああ、ありましたねそんな条件。完璧に忘れてました」

 布団の中で杏子は肩を落とす。「っていうか真君、それ言っとけよ」と呟いた声は聞こえなかったことにする。

 杏子が探していたのは昨夜、日が完全に沈んでからだ。真の話が正しければ雨に濡れていた時間はまったくの無為ということになる。

「それで、二つ目のいい話とは」

「最近ドクターに会った人がいる」

「それは、誰ですか!」

 驚いて起き上がろうとする杏子を手で制しながら、僕は人差し指を自分に向けた。

「僕だよ。僕は最近、というか一昨日の放課後にドクターと出会っている」

「・・・まじですか?」

「うん。まあ出会ったといっても話をしたわけじゃない。視線を交わした程度だ。しかもそれに気づいたのは昨夜になってからといった有様だし」

「というか一昨日の放課後って、スタバに行った日じゃ──」

 そう、一昨日の放課後は、本屋で立ち読みしているところを杏子に呼び出されて、一緒にスタバへ行った。遅れて到着した僕は杏子に値の貼るコーヒーを奢ったりもしたのだけれど。

「その遅れた理由っていうのが、ドクターとの遭遇だったんだ。まあその時はドクターの噂話を真から聞いてはいなかったから、山車を引くその人物がドクターだなんて意識はしていなかった」

 ただ単純に変わった人がいるものだと思っただけだ。その後忽然と姿を消したので、幾ばくかの奇妙さは残ったけれど。

 そして僕がドクターと出会った理由は簡単だ。追いかけたから。

「猫を追いかけて遅れたって、佐々部さん行ってましたね」

「そう、知らないうちに条件を満たしていたわけだ。黄昏時に猫を追う、そんな条件を」

スタバに行く途中、ちぐはぐな猫のコンビを見つけて追いかけた。思えば随分と追い回した気がする。

「真が言っていただろ、ドクターに会えるのは権利を持つ人だけだって。杏子は七年前に会ってはいるけれど、その後二年間探しても会えなかったんだろ。ともすれば現在の杏子は権利のない側の人間かもしれない。けど、つい先日出会った僕は、高い確率で権利を持つ側の人間ってことだ。これはドクターを探す上で必要不可欠な要因で、必要不可欠な要員だと思うけれど、どうかな」

 未だにその権利というものが何なのかはわからない。ただの噂話として聞いていた昨日も、ドクターの話を聞きなおして一昨日遭遇した男が件のドクターだと気付いた後も、ずっと考えてはいたが、思い当たる節はなかった。

 しかしそれでも、一昨日の僕と今の僕がそうかけ離れているとは思えない。ならばきっと、僕には権利があるのだろう。

「どうかなと言いますか、こうなるとこちらからお願いする状況になってしまうではありませんか。心道佐々部は必要不可欠な要員ですが、鳥茅杏子は権利のない不必要な要員ということになるんですから」

 天井を見て、力なく笑う。

「ちなみに杏子は知っているのか?権利ってのが何なのか」

「いえ、知りません。いい加減記憶力も散々なので、七年前にそんな話があったかも定かではありませんが」

「だったら」

「はい。一緒に探しましょう」

 そう言って杏子は右手を僕に向けた。手のひらではない、握った拳である。

 僕はそれに自分の右拳を軽く当てる。

「ああ。ドクターを捕まえよう」

 同じ目的を共有し、同じ時間を過ごす。僕個人としてもドクターに会いたい理由はあるが、それと同じ位、僕は杏子と何かを成したいと思ったのだ。

 踏み込んだ一歩が受け入れられたのかは未だわからないけれど、鳥茅家を尋ねる前に僕を襲っていた心のざわつきは静まっていた。

 今はそれだけで充分だと思えた。

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