第6話 根を張る嫉妬

 居間に掛けてある電波時計の秒針が音を鳴らす。

 時計を見るが、さっきからまったく時間が進んでいる気がしない。

「・・・。」

「・・・。」

「えっと・・・。」

 僕と杏子と真、三人がいる居間で、今最も自己主張をしているのは時計だった。

 三人もいるのに、人が機械に負けるとはどういうことだろう。まったくもって不思議だ。

 不思議といえば、もう一つ。僕と真が常用するマグカップ、そして来客用のグラスには最初、同量のジュースが注がれていたはずなのに、僕のマグカップだけ殆ど空になっている。これはどういったことだろうか。

「・・・。」

「・・・。」

「その・・・。」

 何か言おうとして、言わねばと思って口を開くが、後が続かない。

 喉が渇いたのでジュースを飲む。

 ああ、これか。僕のマグカップだけ内容物の減りが早い理由は。僕が飲むからか。そりゃそうだ。

 では何故僕の喉はこんなに渇くのだろう?

季節が変わり始めてから急に空気が乾燥しだしたので、それが影響しているのだろうか。緊張したり重苦しい空気に晒されたりしても喉は渇くけれど、この場合はどちらだろう。物理的理由か、心理的理由か。

 最も、その疑問は部屋の隅に目を向けた際に解決した。

部屋の隅に目を向けたことに特に理由はない。ただそちらを見たかっただけだ。断じて左右からの視線に耐えかねて目を逸らしたわけではない。ただ見たかったのだ。

僕が目を向けた先には加湿器があった。母が冬を前に設置していたものである。表示ランプを見ると運転中を示していたので、加湿器はちゃんと役割を果たしていることになる。

ということは、物理的理由は考えにくいということだ。

これは困った。

そうすると僕の喉が渇くのは心理的理由という結論に至るわけで、それを正解だとしてしまうと、まるで僕が現状に困窮しているように見えるではないか。あたかも僕が杏子と真、友人と弟との間で板ばさみになって困っているように捉えられてしまう。

そんなはずはないだろう。

僕の友人と僕の弟が険悪な状況だなんて、そんなまさか。

「・・・。」

「・・・。」

「・・・。」

 どうしてこうなった。わからない。ここまでわからない事柄は高校入試でもなかった。

 わからない。わからないから、ちょっと思い出してみよう。

いやいや、決して現実逃避をしているわけではない。


 僕のマグカップが空になる十分前、僕と杏子は玄関に入った。

 案の定弟の靴だけがあったので、僕は転がっているそれを綺麗に整えて、

「ただいま」

と言った。

 僕の声が聞こえたのか、それとも玄関の開閉音に気付いたのか、

「おかえりー」

 と大きな声で真は返事をする。

 居間からはテレビの音も聞こえてきた。おそらく昨日の夜に録画したアニメを見ているのだろう。

「おじゃまします」

 杏子は軽く会釈して靴を脱ぐ。僕は先導して居間へと入った。

 居間にはソファの上で猫を抱えた真がいた。後頭部をこちらに向けて、案の定テレビに釘付けになっている。

 僕はその後頭部に話しかけた。

「真、ちょっといいか?」

 呼ばれた真は振り向こうとして、

「何兄ちゃ・・・・・・・・・・・・誰?」

 視界に杏子を捕らえて固まった。

「この人は僕の友達で鳥茅杏子さんだ。そして、これが僕の弟で心道真だ」

 互いを紹介する。

「鳥茅です。よろしく」

「・・・どうも」

 丁寧に頭を下げる杏子に対し、真は憮然とした態度で挨拶を返した。

 おや?と、僕は引っかかる。

 どうにもいつもの真らしくない。さっきまでの元気はどこへやった。

「真、どうかしたのか?」

 真は僕を見て、杏子に向けていた臍を曲げたような顔から、いつもの笑顔に戻る。

「ううん、別に何でもないよ。それで、そこの鳥茅さんは何をしに来たの?」

「ああ、実は真に話を訊きに来たんだ」

「俺に?」

 訝しげに問う真に、事のあらましを話すことにする。

「昨日、真言ってただろ。ドクターっていう小学生の間で話されている噂話のことを」

「うん。願いを叶えてくれる人のことでしょ。それがどうかした?」

「その話をもう一度──」

「詳しく教えて下さい」

 遮って杏子が言う。

 杏子の勢いに面食らっていると、真がまた顔を変えて「待って」と言う。

「俺、今兄ちゃんと話してるんだけど。入ってこないでよ」

 先程よりも更に険しい顔つきになっていた。

 初めて見る弟の顔に面食らった僕は、慌ててフォローを入れようと杏子を見て、更に面食らうことになる。

「この場にいるのは佐々部さんと君だけではないんですけど」

 険しい顔がもう一つあった。

 杏子は僕のように面食らうことなく、真正面から真の顔を見据えている。

 場の空気に置いていかれたのはどうやら僕だけのようだ。

「お、おい杏子」

 どうした、と訊ねようとした僕に真は言う。

「兄ちゃん、この人のこと名前で呼んでるの?」

「へ?」

「ええ。そりゃ当然ですよ。何たってお互いクラスで、いや、学校で一番仲が良いんですから。杏子と佐々部さんは大の仲良しさんですから」

 すかさず嘲笑するように杏子が言った。

 そりゃ他に友人がいないからお互い自動的に一番だけれども。

 真は杏子の言葉の何にそこまで怒っているのか、

「お、お前兄ちゃんのこと名前で!」

 と、口をわなわなと震わせていた。

「そうですよー。さ・さ・べさんとはお互い名前で呼び合う仲なのですよー」

 杏子の方が圧倒的に年上のはずなのに、今は真と同い年くらいに見える。というか何を張り合っているんだこの二人は。

「別にそんなの悔しくないし!俺なんか昨日兄ちゃんとお風呂入ったもんね」

 精一杯の虚勢を張る真。

「それが何ですか。そんなのやろうと思えば自分にもできますよ」

 明らかに虚勢を張る部分を間違っている杏子。

 いや、できねえよ。

 杏子と真はお互いから目を離そうとしない。このままだと喧嘩にも発展しかねない。それにごたごたと時間を掛けていると母が帰宅してくる恐れもある。

兎にも角にも二人のいがみ合いを止めようと思い、僕は間に入る。

「まあ二人とも、何でこんな状況なのかわからないけれど、とりあえずは仲良く──」

「兄ちゃんは黙ってて!」

「佐々部さんは引っ込んでて下さい!」

 重なる言葉で遮られた。

 そして険悪な空気は一層鋭くなる。

 その雰囲気にはじき出された僕は、にらみ合う二人が落ち着けるように、そして何より僕が落ち着けるように、とりあえず飲み物でも出してみようと思った。


 というのが十分前からの出来事だった。

 ああ、大体飲み込めてきた。飲み物ではなく、状況が。

「そろそろさ、話進めたいんだけど、いいかな」

 僕は探るようにようやく声を出す。

 これに沈黙が返ってくるようなら僕にできることは何もない。せいぜい母の帰りを待って状況を動かしてもらうしかないだろう。情けなく、そして恥ずかしい結末になるだろうが仕方ない。

「いいよ。何の話だっけ」

 先に口を開いたのは真だった。十六歳より先に十一歳が折れた形である。

 対して精神的十一歳の杏子はというと、

「まあいいでしょう。本題をどうぞ」

 と不遜な態度である。明らかに、自分の為に心道家を訪ねていることを失念している。どう贔屓目に見ても下手に出なければならないのは杏子のはずなのに。

杏子のいつもとは違う、言うなれば不遜な態度を取っている理由が、相手が小学生だからというわけではないだろう。彼女はそういう人間ではない。いや、そこも本当のところはわからないのかもしれないが。

今日の杏子は、今までの僕との友人関係では見せることのなかった部分を出している。その理由はわからないけれど。

「ドクターの話だよ。あの話をもう一回教えて欲しいんだ」

「昨日話したばっかりじゃん」

「まあ、そうなんだけど、いまいち覚えてなくてさ。杏子も興味があるって言うし、話してくれないか」

 杏子も、というか杏子はと言った方が正しいけれども。しかしそれだけだとこの弟は反発しそうなので、そこは伏せておく。

「兄ちゃんがそう言うなら」

 あくまで杏子の方は見ようとせず、真はドクターの噂話を始める。

「兄ちゃんがどこを忘れてるかわからないから全部話すけど、ドクターっていうのは願いを叶えてくれる人のこと。叶えてくれる願いは条件があって、何かが欲しいとかいうものは駄目。人に関する行動や能力なら望みどおりになる。あとは──」

「過去の事例みたいな話もあっただろ」

 覚えている部分を促す。

「ああ、そうそう。心の性別を逆にしてもらった子がいたらしい」

「そんな話だったな」

「その男の子はどうなったんですか?」

 杏子が口を挟む。

「・・・。」

 真は途端に目を細め、杏子を見据えた。

 しばし沈黙ができ、どうやら真が答えそうにはないので、代わりに僕が説明する。

「数日で元に戻ったらしいよ」

「そうですか・・・。」

 真の目線に耐えかねたのか、杏子は目を伏して相槌を打った。

 真は僕に視線を戻す。

「何だ、兄ちゃん覚えてるじゃん」

「聞いて思い出した。そこら辺までは何となく頭に残ってるみたいだ」

 覚えていないのは真の傷を見たあたりからだ。しかしそんな説明を僕ができるはずもない。

「それ以外で何か話してなかったっけ?」

「何かあったかな──あ、ごめん電話だ」

 机の上に転がっていた真の携帯電話が着信を告げる。着信音は真が去年からはまっているオルタナティブロックバンドの新曲だった。小学生ながらネットで音楽を購入とは、ませている。

 携帯電話を持ったまま、真は二階へと駆け上がっていった。

「一旦中断だな」

「・・・・・・。」

「杏子?」

 杏子はマグカップに注がれたジュースの表面を見ながら考え込んでいるようだった。その様子は生徒指導室でドクターの話をしたときと似ていた。

「また黙り込んでるぞ」

「へ?あ、いや、何でもないです。もしも願い事が叶うなら、なんて可笑しなことを考えてたら少しぼけっとしていたみたいです」

「それ学校でも言ってた」

「ま、まあいいじゃないですか。そんなことより」

 せわしなく手を振って話題を変える

「弟さん携帯電話持っているんですね。しかもキッズケータイとかではなくて普通のものを。私が携帯電話持ち始めたのは中学生からだったので驚きました。今の小学生って皆持っているんでしょうか」

「どうだろうな。真からの話を聞く限りではキッズケータイすら持ってない子供の方が多いらしいけれど。うちはちょっと特殊だから」

 自分で自分の家庭を特殊と言ってしまうのは、物悲しいが、しかし事実だ。他の家庭とは根本的に違うものがある。大枠でも、小枠でも。

「この際話しておくと、我が家には父親がいないんだよ」

「そう、なんですか」

 杏子の語尾が濁る。そりゃそうだろう、いきなり振られて気持ちの良い話ではない。

「まあコメントに困ることだろうとは思うけれど、別段気を使わなくていいよ。生きてはいるし。ただ、そのせいで母親が親としての心配を一手に引き受けることになったからさ、なんていうか過保護なんだ。特に弟に関しては束縛に近いくらいの手を掛けてて、携帯電話を持たせているのもその一環」

「でも、強度を考えるとキッズケータイの方がよかったのでは?」

「うん。母も最初はそうしようと思っていたんだけど、真が一般の、というか僕とお揃いの携帯電話が欲しいって強請ってさ。過保護なだけでなく甘いんだよ、僕達の母は」

「そういえば佐々部さんと同じ型式でしたね」

 普通だ。真に対して見せていた剣呑な雰囲気を今の杏子は持っていない。マグカップをくるくると回す姿はいつもの鳥茅杏子だった。では先ほどのあれは何だったのだろう。何故相対するなり真と杏子が喧嘩の一歩手前まで行ったのか。

 丁度真も席を外しているし、今なら訊けるかもしれない。

「あのさ、さっきのは何だったの?」

 訊かれて杏子は首を傾げる。

「さっきの、と申されますと?」

「いや、真と喧嘩しかけてただろ。というか殆ど口喧嘩だった。そりゃ真の態度もあまりよくなかったけど、杏子も何かおかしかったなと思ってさ」

「何のことでしょう?」

 惚けやがった。

 首を傾げる杏子は僕と目を合わそうともしない。

「いや、だからさ──」

「おまたせ。電話終わったよ」

 更に追求しようとしたところで真が戻ってきた。こうなるともう訊けない。事の真相よりも、またさっきのぶり返しになる方が余程怖い。わだかまりは十分に残っているのだろう。真はまだ杏子を見ようともしない。

「母さんからか?」

「ううん。友達からだった。土曜に遊ぶ約束しててさ、何時に何処で会うかって決めてた。あいつ携帯電話持ってないし」

「そっか。それで、話戻すけど、ドクターの話は他に何かあったか?」

 僕の質問に真は大きく頷いた。

「電話してて二つ思い出した」

 真は両手の人差し指をそれぞれ立て、僕に示す。

「一つは、ドクターに会える人は権利のある人だってこと」

「権利?・・・いまいちわからないな」

 それはドクターに願いを叶えてもらえる権利ということだろうか。

「これは二つ目に関わってくることなんだけど、ドクターに会う方法っていうのがあるんだ」

「・・・!」

 今日の核心部分を告げる真の言葉に、杏子は肩を揺らすが、声を出すことはなかった。おそらく自分が訊けば、真がまた臍を曲げると考えたのだ。

「でも権利のない人はどんだけその方法を試しても会うことはできないんだってさ」

 逆に言えば、権利のある人はその方法で必ず会えるということになるのだろうか。

「その権利ってのはどうやって得るんだ?」

 いや、そもそも真の言う権利とは得るものなのだろうか。個々人が元より持つ素養か何かを示すのであれば、それは最初から決まっていることになるのか。

 いやいやいや、こんなのはただの噂話だ。何を真剣に考える必要がある。

「権利ってのがどんなのかは俺も知らない」

「そうか。それで、二つ目のドクターに会う方法っていうのはどんなのなんだ」

 きっとこれが杏子の一番気にかかっていた部分だ。それさえ聞ければ満足して帰ってくれるだろう。時計を見るともうそろそろ母が帰宅してもおかしくない時間に差し掛かっていた。

「あのね、ドクターに会いたかったら、猫を追いかけるんだ」

「猫?猫ってあのニャーニャー鳴く猫のことか?」

「そう、その猫だよ。何でもドクターは猫の行列を引き連れていて、付近の猫は自然とその列に加わるらしいんだよね」

「それはまた異様な光景だな」

 猫を引き連れるドクター。マタタビの匂いでも振り撒いているのだろうか。

「えーっと、確か、そのドクターが引いてる神輿・・・・だったかな?それが呼び寄せているだとか何とか聞いた様な・・・うーん」

 真は腕を組み頭を捻る。細部について忘れてしまっているのだろう。聞いたのは一週間ほど前らしいし、それも仕方の無いことだ。

「神輿って引けたっけ?」

「あれは担ぐものだったと記憶していますが。それに、どんなサイズのものでも男性一人で引くのは無理があるかと」

 真に聞こえないように杏子と耳打ちをする。

 そうだ、神輿は担ぎ上げるものだ。話を聞く限りドクターは複数の集団ではなく単独の個人として噂されているので、それが神輿を持ち歩くというのはおかしい。であれば別の何かだろうか。一般に引くと言えば荷車とかになるけれど。神輿と言い間違えるのならもっと違う──。と、そこまで考えて思い至った。

「そうか、山車か」

 ぽつりと零した言葉に真が反応する。

「あ!そう、そのダシってやつ。ドクターが引いてるのはその・・・ダシって何?」

 言いさして疑問に思ったのだろう。真が首を捻った。まあ小学生が知らなくても無理はない。大方、ドクターの話をしていた真のクラスメイトも神輿と山車の違いを知らなかったのだろう。

「山の車って書いて山車って読むんだけど、言うなれば色々な装飾が施された催し物のことだよ。祭でよく見かけるやつだ。特徴としては車輪がついてて、人や車が引いたりすることができる。サイズも一人で引けるものもあれば何十人と掛かって引き回すものもある」

 一般的な聞きかじった知識でしかないが、僕が知っているのはそんなところだ。

「へぇーさすが兄ちゃん物知りだね」

 関心の眼差しを向けてくる弟のことを、しかし僕は見ていなかった。そんなことよりも、今は考えなくてはならないことがあったからだ。

 ドクターに会うには猫を追いかければいい。そして追いかけた先には猫を引き連れたドクターがいる。更に、そのドクターとやらは山車を引いている。

 僕は最近それに類似しているものを見ていなかっただろうか。いや、類似しているというよりも、むしろそのままのような。

 直感が僕の胸の中で音を立てたその時、玄関が開く音がした。

「たっだいまー。帰ったぞ息子達よ。今日はお母さんが晩御飯作るからねー。真は何が食べた・・・誰?」

 当然だけれど、玄関から元気よく入って来たのは僕達の母である。勢いよく居間の扉を開けた母は、部屋の中央、僕と並んでソファに座る杏子を見てフリーズした。リアクションが真とほぼ一緒だったのはさすが親子だと言える。

「えっと、こちらは友達の鳥茅杏子さん。で、この人はわかると思うけど僕達の母親」

 不本意ながら、と言うと杏子には失礼だが、当初の予定にはなかった紹介をする。

 杏子は母の登場に怯むことなく、

「お邪魔しております。鳥茅杏子と申します。日頃佐々部さんにはお世話になっております」

 と、丁寧に挨拶をした。

 それを受けて母は、口の端を盛大に緩める。嫌らしいほどにニヤついた笑い顔になった。

「これはこれはご丁寧にどうも。佐々部の母です。もー何よあんた、こんな子いるんならもっと早く連れて来なさいよ」

 言って、僕の肩を叩く。

「いやいやいや、母さん、きっと今凄い勘違いをしてる。そういうのじゃないから」

 否定する僕の声を聞きもせず、母は杏子へと近寄る。

「やだもー。可愛い子じゃない。お母さん本当は娘も欲しかったのよ。どう、杏子ちゃん、気は早いけどうちの子にならないかしら」

 駄目だ、気が遠くなってきた。ふと横を見ると真が既に涙ぐんでいる。母を取られた恨みと杏子が受け入れられている悔しさで一杯なのだろう。とりあえず頭を撫でてやる。

一方で、とんでもない事を口にしている母に、しかし杏子は動じていなかった。

「はは、面白いお母さんですね」

 と、そつなく受け流している。

「さて、折角お会いできた所恐縮ですけれど、そろそろ夕飯時ですので、これで失礼させていただきますね」

 母が現れたから、ではないだろうが、杏子は帰り支度を始める。

「それなら夕飯食べて行かない?今日はおばさん頑張っちゃうわよ」

「折角ですけれど、家ではうちの母が夕食を用意しておりますので。是非今度機会があれば、そのときにお願いします」

 社交辞令の定例文のような言葉を並べて、杏子は荷物を持ち上げる。

 外を見るとまだ雨は降っていないようだった。いつ振り出すかわからないことを考えれば、帰るのは早いに越したことはない。

「そっか、話はもういいか?」

「ええ、気になっていたことは聞けましたし。ありがとうね、真君」

「ふん、早く帰ったら?」

「こら、真」

 真の態度を母が嗜める。僕達の母は、甘くはあるけれど教育に関しては別だ。間違いは間違いだとちゃんと指摘する。飴もでかいが鞭もでかい。

「いえ、いいんです。さっき自分が意地悪しちゃったんで」

 困った顔を作りながら、杏子は言う。

 あれを意地悪と言う杏子の根性も中々だ。そんなお姉さん目線の出来事ではなく、あれは単なる喧嘩だと僕は思うのだけれど。

杏子の上手い点は、この物言いをすることで、大人な対応を彼女がとったことを暗に示し、言うなれば事の非が真の方にこそあるのだと母に認識させたことだった。意外と狡猾な奴だ。

「それでは、失礼します。佐々部さん、また明日学校で」

「ああ。もう十分に暗いから気をつけて」

 杏子が開けた玄関から見えた外は、既に日が落ちきっていた。夕日に映える杏子の髪も、この暗さではとけ込むだけだ。

 車庫に停めていた自転車を出し、軽快に跨ると、再度「それでは」と言い、帰路についた。

 杏子の自転車の明かりが見えなくなるまで目で見送り、家へと戻る。

「あの子、送らなくてよかったの?」

 玄関で母が僕に訊く。

「いいんだよ。本当に杏子とはそういう関係じゃないし、それに、彼女はそういう扱いを嫌がるんだよ。理由はわかんないけど」

「そういう扱い?」

「女の子扱いってこと。それよりお腹が空いた。杏子がいなくてもおばさん頑張ってよ」

「おばさん言うな」

 結構な力ではたかれた。自分で言ったくせに。

 僕の頭をはたき終えると、おばさんもとい母は、台所へと消えた。

 居間に戻ると、真は早々にテレビに見入っていた。

 その背中に声を掛ける。

「真、どうして杏子にあんな態度取ったんだよ。彼女戸惑ってたぞ」

 振り返った真は、口を尖らせてあからさまに拗ねていた。

「だって、兄ちゃんが急に連れてくるから」

「僕のせいなのか?」

「兄ちゃん、あんまり友達連れてきたことないじゃん」

 ここ数年は友達いなかったからな。

 悲しいことに。

「それに、あいつも──」

「あいつ、とか言うな。ちゃんと紹介しただろう」

「鳥茅さんも、嫌な感じだったし」

 嫌々ながらもさん付けで呼ぶ辺り、真は良い子だと思う。

 確かに、杏子は僕の見たこともない一面を持っていた。意地悪というか、幼稚と表現されるような、まるで悪ガキとでも称されるような態度だった。

 殊更に僕との友好について真に説いていたけれど。──実のところ、二人の諍いを棚に上げれば、結構嬉しい発言だったりはする。杏子も僕のことを仲の良い友人だと言ってくれたのだ。

「それにあの人、何かおかしいし」

「おかしいって・・・何が?」

「あの人、知ってたよ。多分だけどさ」

「何を?」

「ドクターのこと」

「そりゃ、僕が一度学校で話をしたからな」

 それで興味を持って、わざわざ我が家まで話を聞きに来たのだから。

「兄ちゃんさ、学校でどんな風にドクターの話をしたの?」

 覗き込むような目つきで、真は僕に訊いた。

「どんな風にって・・・、ドクターっていう願いを叶えてくれる人が、小学生の噂話になってる、とかそんな程度だよ」

 あまり覚えていなかったから、その程度しか話せなかった。

「他には何も教えてない?」

「物欲は叶えてくれる願いに含まれない、って話はした気がするな」

「本当にそれだけ?」

「それだけだよ。どうした?」

「だとすると、うん、やっぱりおかしい」

 まるで、答えあわせを終えて数式のミスを搾り出したような、確認を終えたというように真は頷く。

「ごめん、真。お前が何を言いたいのか全然わからない。わかるように言ってくれないか」

「鳥茅さんは何で、『その男の子』って言ったのかな」

「いつの話だ?」

「ドクターの叶えた願いの話をしたときだよ。俺が、心の性別を逆にしてもらった子がいた、と言ったのに対して、あの人は、その男の子はどうなったのかって訊いてきた」

「何かおかしいか、それ」

 変な願いを叶えてもらった人物が、その後どうなったかというのは気にしてもおかしいくはない、というか普通のことじゃないだろうか。

「おかしいよ。だって、俺はその子が男だとも女だとも言ってないんだよ」

「・・・・・・あっ。いや、でもそれは、たまたま意識せずに言った事が正解だったというだけの話かもしれないし」

「本当にそう思う?」

 思わない。

 しかしだとするとどうなる。知っていて知らないふりをして、通常下校から遥かに離れた僕の家まで来たことには、一体どんな理由があったのか。

 わからない。

 そもそも僕は鳥茅杏子という人物を深くは知らない。それは交友を持ち始めてから期間が浅いということもあるが、何より僕らは互いに不可侵すぎるのだ。

 一年間の留年を経験する前の僕が持っていた友人関係を鑑みるに、現状の僕と杏子は友人としておかしいのだろう。

 そんな僕が、杏子の何がわかると言うのか。分析できても解析はできない。表に見えるものは捉えられても、内に秘めたものには手を伸ばせない。

「わからない」

 それを真への回答として口にしたのか、それとも心が内から零れ落ちたのか。

 僕にはそれすらわからない。

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