第5話 好まざる客
二人合わせて百五十部を越えたあたりで休憩を入れようということになり、生徒指導室を抜け出して昇降口に設置されている自動販売機へと向かった。
終わらせなくてもいいとは言われたけれど、時間を考えると六時ぎりぎりには終わりそうだった。根性というか心構えが試されているようだ。
生徒指導室は飲食禁止であり、かといって職員室でくつろぐわけにもいかないので、二人して中庭に設置されたベンチに腰かけることにした。猫舌の僕はホットレモンティーを冷ましながら口に運ぶ。立ち上る湯気とは別に、近づいてきた冷気によって吐息が白くなる。
「コツを掴んだので、あと一時間もかからずに終わりそうですね」
時計を見つつ杏子が言う。
「本来やる必要のないことなんだけどな」
朝の一騒動がなければこんな放課後にはならなかった。
でも、もしもあの一件が起きず、今日も普通に下校していたら、僕はきっと進路の話なんて杏子とはしなかっただろう。今日の資料作成を手伝わずに来週の学年集会を迎えていたら、そもそも文理選択についてなんて話題にもあがらなかったはずだ。きっといつものように資料を斜め読みして、そして学年集会が終わった頃には頭から抜けていたと思う。
ところが実際は杏子が粗相を犯し、僕達は資料作成を手伝うことになり、そして先程の生徒会室での会話に至った。
杏子は、理系にしないかという僕の誘いに、決して明言はしなかったけれど、肯定のニュアンスを含んだ返答をしてくれた。それが、それだけのことがどれ程嬉しかったか、きっと彼女は気付いていない。
だから、悪態を吐きはしたものの、実のところ僕はこの作業をさほど嫌だとは思っていない。むしろ、良い機会をもらえたなと学年主任には感謝すらしている。
もっとも、こんな木っ恥ずかしいことを口にしたりはしないけれど。
友情を逐一口に出さなければならないような関係ではない。
とは言っても、やはりそれとは別に資料まとめの作業が面倒であることは間違いない。もう少し効率的に行えるように自分を改造でもできればいいのだけれど。
そう、昨日お風呂で真から聞いた、あれは何て名前だったか──。
「そうだ、ドクターだ」
僕がぽつりと零した言葉に杏子は反応する。
「急にどうしたんですか?」
「昨日弟から聞いた話なんだけどさ。小学生の噂話の一つで、『ドクター』って名前の、出会えば何でも願いを叶えてくれる人がいるらしい」
「何でも?」
「いや、何でもって言うと、言い過ぎだな。物欲のような願いは叶えてくれないけれど、人の行動に関することは叶えてくれる、みたいな話だった・・・はず」
「・・・・・・。」
「もしもそのドクターがいてくれれば、こんな作業ぱぱっと片付けられるのにな。手際の良い人間になりたい、とかさ。学年主任の指示を取り消して欲しい、とかでもいいな。でも後々の事を考えたら自分の能力高めた方が得だな。なあ、杏子なら──聞いてる?」
杏子は顎に手を当て、長い髪の毛を垂らしながら思案に耽っていた。
「ん?ああ。聞いてる」
「え?」
その返答は普段の杏子とは似ても似つかないような物言いで、僕の知らない誰かがそこにいるみたいだった。
強張った僕の態度を察したのか、杏子は、
「あっ、じゃなくて。すみません、もしも願い事が叶うなら、なんて荒唐無稽なことを考えてたら少しぼけっとしていたみたいです」
と、取り繕うような言葉を並べた。雰囲気はもういつもの杏子である。
「そ、そうか?ならいいんだけど」
さっき一瞬ちらりと垣間見えたものは何だったのか。臆病な僕はやはりそこには踏み込めない。
気まずい沈黙を誤魔化すようにホットレモンティーを一息に飲み込む。
「あちっ!」
忘れていた温度に舌を火傷してしまった。
それを見て杏子が笑う。
「ふふ。何やってんですか」
「笑うなよ。猫舌なんだ」
火傷した舌を出しながら、僕は苦笑した。
「ならば何故ホットを買うのですか」
「体が寒さを感じているのと猫舌なのとは別の問題だろ。この季節に外で炭酸ジュースを飲む杏子の方がずれていると思う」
「炭酸は魂の起爆剤ですから」
「魂爆発させちゃ駄目だろ」
ガソリンだったり起爆剤だったり、杏子の取り込むものは空恐ろしい。
互いに持っていた飲料が空になったところで、休憩は終了となった。重い足取りで階段を昇り、生徒指導室へと戻る。
「さて、残り二百部頑張りましょう」
「残り一時間頑張ろうか」
残り部数を言ったのが杏子で残り時間を言ったのが僕。似たような言葉ではあるが、心構えが大きく違ったりする。
しかしながら僕達は残り二百部作成することも残り一時間奮闘することもなかった。
再開して十分後もしないうちに学年主任が生徒指導室へと入ってきた。
「おう、やってるな」
「あれ?部活はどうなされたのですか?」
作業をしながら杏子は質問をする。
「それが、来週の練習試合が急に明後日の土曜日に変更されてな。疲れを溜めると支障が出るかも知れんので、今日は早めに切り上げたんだ」
「先生は確かバスケ部の顧問でしたっけ?」
「ああ。監督は別におるがな」
我が高のバスケ部は県下でも指折りの強豪である。監督は外部から指導者を招き入れており、バスケ部に入るために県外から入学した生徒もいる。練習試合とはいえ負けるわけにもいかないのだろう。
「というわけで、お前らはもう帰っていいぞ。見たところ百部はゆうに越えているようだし。うん、ご苦労様」
「折角だから最後までやりますよ」
僕の提案に学年主任は頭を振る。
「いや、どうも空を見ていると天気が崩れそうでな。それもあって部員達も早めに返したんだ。お前らも降られる前に帰った方がいい」
「そうですか。そういうことでしたら、失礼します」
鞄を手にして帰ろうと立ち上がると、
「ああ、そうだ鳥茅」
学年主任が杏子を呼び止めた。
「何でしょう?」
首を傾げる杏子へ向けて、学年主任は何かを放り投げた。流石はバスケ部の顧問と言うべきか、綺麗に杏子の胸元へと放ったものを指差して学年主任は言う。
「朝の侘びだ。それで許せ」
見ると、杏子の手元には包みに入ったコロッケパンがあった。
杏子は満面の笑みになる。
「ありがとうございます!」
「おう。気をつけて帰れ」
手を振る学年主任に頭を下げ、廊下に出た。と思ったら既に杏子はコロッケパンにかぶりついていた。
包装紙は鞄に突っ込まれている。
「ほいひぃれふ」
「反省してないだろ、一つも」
「してますよ。一応は」
あっという間に平らげた。生徒指導室から昇降口への行き道で、コロッケパンは杏子の胃袋へと納まった。
これはもはや芸だな。
呆れる僕を尻目に杏子はそそくさと外靴に履き替えた。
慌てて僕も靴を履き替える。校舎から出て空を見上げると、確かに雲が厚みを帯びていた。中庭で休憩しているときにはちっとも気付かなかった。
「さっきの話ですけど」
立ち止まって空を眺めていた僕に杏子が横から声をかける。
「さっきの?えっと・・・どの話?」
「ほら、ドクターとかいう人の」
「ああ。願いを叶えてくれるってやつな。それがどうかした?」
「小学生の噂ではどうやったら出会えるようになってるのかな、と思いまして」
「何、本気にしてんの?」
からかうように言う僕に、杏子は頬を膨らませる。
「そうじゃありません。ただ、出会うだけで願いを叶えてくれるなんてお話だから、だったら出会うまでに何か一苦労あるのかなと思っただけです」
言って、拗ねたように杏子は僕から顔を逸らした。顔はほんのりと上気しており、いかにも恥ずかしがってますといった具合だ。
これ以上からかうと怒りそうだ。それもそれで見てみたい気もするけれど。未だに僕と杏子は喧嘩をしたことがないので、ちょっと期待してしまう。ほんの少しだけだけれど。
もちろん、だからと言って、あえてそうする必要も無い。仲良きことは美しきかな。
「小学生の噂話だから、そんなちゃんとした構成のお話でもないんだよ。何かの対価で願いが叶う、とかそんなのはなかったな。もちろん弟に聞いた範囲ではだけど」
「ということは、普通に出会えるのですか?そのドクターとは」
「どうやって出会うか、みたいな話は弟からは聞かなかった・・・かな。あれ?聞いたんだっけか?」
どうにも曖昧だ。昨夜のお風呂での会話は、真の傷を見た辺りからでうろ覚えである。
もしかしたら真のドクターに関する話は続いていたかもしれない。思い出そうとしてもノイズが混じり、上手くいかない。
この二年間いつもそうだった。真の背中の傷を見ると、後から思い出そうとしても記憶が曖昧になるのだ。一度医者に相談した時は、心理的保護作用と言われた。心が強すぎる衝撃を誤魔化す為に、無意識のうちに記憶に作用しているとのことだ。
僕はそれを家族に知らせてはいない。ただでさえ大きな問題を抱えているのに、これ以上負担はかけられない。
僕以外には医者しか知らないことだ。もちろん杏子も知るはずがない。
「どっちにしても覚えてないな」
「だったら弟さんに訊いてみましょう」
「まあ、杏子が気になると言うのなら、今夜にでも訊いて、明日教えようか?」
「いえ、今から佐々部さんの家に行きましょう」
「今から?」
それはまた性急な話だ。
「別に明日でもよくないか?」
「中途半端なままでは気になってしまいます。きっと知らないままでは今夜眠りに就けないでしょう。眠れずにお肌が荒れたらどう責任を取るおつもりですか」
僕の顔を覗き、杏子は詰め寄ってくる。
「それに、いつもお話に聞く弟さんにも会ってみたいですし」
「真に?」
「はい。佐々部さんが頬を緩めて話す弟さんがどのような少年なのか。少し気になったりするのです」
杏子の意思は固そうで、覆すのは無理だと悟った。
何故かはわからないけれど、杏子はドクターの話、もしくは僕の弟である真に並々ならぬ関心があるようだ。空が曇天模様であることもきっと彼女の意思を阻害する要因にはならないのだろう。
「僕は別にいいけどさ。帰り道で濡れて風邪引いたりしないでくれよ」
「問題ありません。体は丈夫な方ですから。一応折り畳み傘も鞄に入っていますし」
「仕方ないな。そこまで気になるのなら、行こうか」
「はい、行きましょう」
駐輪場から自転車を引き抜き、二人並んで正門から出た。いつもなら門を出て最初の角を杏子は右に、僕は左に曲がる。その道を杏子は「そういえば、この道を通るのは初めてです」と言いつつ、僕とともに左折した。
ススキの群生する丘を横目に見ながら、国道からは外れた川原を二人して進む。西日が山に隠れる前なので、空は黄昏に染まっている。もっとも、厚く張った雲のせいでいつもよりは光が薄いけれど。
晴天ならば長い影が横をはしる川の水面にまで伸びる時間帯だ。
「晴れてたらよかったな。この先に橋があるんだけど、この季節は夕日が山に隠れる前に、川の表面に薄く光を伸ばすんだ。それが結構綺麗なんだよ」
「意外とロマンチックなことをおっしゃいますね」
からかう様に杏子は笑う。
「いいだろ、たまには。この通学路は高校入学したときから気に入ってるんだ。今まで誰かとこの道を通ることなんてなかったから、ちょっと嬉しいんだよ」
「そういえばこっち方面へ足を伸ばしたことはないですね」
「杏子と下校中にどっか寄り道するときはいつも駅前に行ってるもんな。方向的には真逆だ」
駅前に向かうには最初の角を右に曲がらなくてはならない。いつもは杏子と一緒に駅前方面へ行き、適当に寄り道をしてから帰っている。駅前とは逆方向、つまり僕の家へ向かう道は大部分が閑散としていて、寄り道するような場所が少ないので、一度も連れ立ってこの道を進んだことはなかった。
「だからさ、折角通るのなら、その景色を杏子にも見せたいじゃないか」
僕の言葉に杏子は困った顔をする。
「嬉しいお言葉ですけれど、茜色の空はあまり好きではなかったりします」
「え?何で?」
「何でと問われると答えるのが難しいですが、茜色の空って何だか胸がざわつくんですよ。理由はわからないんですけどね」
「そりゃ残念。僕は好きなんだけどな、あの景色」
共感できないのは寂しいけれど、人の好みなんてそんなものだ。無理に魅力を伝えてもどうしようもない。無粋なまねはよしておこう。
けれど。
そう、だけど、もしも何かが上手く転がって、その機会が訪れるなら、いつか杏子と共にあの景色を見たい。黄昏時のほんの束の間、夕日が伸ばす光の線は、川面だけでなく橋の上も赤く染め上げる。杏子の長い黒髪にも、赤い印を刻むだろう。僕はその瞬間を見てみたい。きっと綺麗だと思うから。
学校から僕の家に行くには、帰路にある二本の大きな橋を通らなければならない。二本目の橋は特に大きい。川面からの距離も近いので、あと一月も経てば気温が下がり、朝方には酷く霧が出ることになる。
ふと思いついたことがあり、杏子に訊く。自転車時限定ポニーテールを指差して。
「そういえば、霧の出る日ってその髪どうしてんの?」
「どうしてる、とは?」
「いや、水分吸って大変だろうなと思って。僕の髪の長さですら、霧の日は鬱陶しく感じるくらいだから、長い人はどうしてるのかなと」
半年前までは腰まで届こうかという長さだったが、今や腰を通り過ぎてしまっていた。座ったら床とお尻の間に挟みそうな長さである。
「霧に関して言えば、特にこれといって対策はしていませんね。強いて言うならタオルを一枚鞄に詰めているくらいです。自転車降りてからふき取るために」
「そうなんだ。でも、それだけ髪が長いと色々と手間がかかりそうに見えるよ」
「実際手間はかかりますよ。シャンプーはもちろんのこと、乾かしたりとかしたりするのだって相応の時間が必要ですし。どこかに引っかかることもたまにありますね。正直面倒です」
「それでも長いままってことは、何かこだわりでもあるの?」
「そうですね・・・。小さい頃から長かったので、変えずにそままずるずると続けてきたというところでしょうか。自分としては、こだわりと言うほどのものでもないです」
「じゃあもしも、仮に例えばの話として僕が『ショートカットの方が似合うんじゃないの』って言ったらどうす──」
「ぶん殴りますね」
即答だった。僕が言葉を言いきる前に回答が出た。
「それはある意味、鳥茅杏子に対する否定ですから。この髪の長さも含めて鳥茅杏子なので、もしもそれを否定されるのでしたら佐々部さんでもぶん殴ります」
顔色一つ変えず、そう言った。
「ま、まあ例え話だからね。あはは」
「そうですよね。ふふふ」
「そうだよ。は、はは」
下手なことを口にせずにいてよかった。
なにせ第一印象では、杏子の中性的な顔立ちにロングは似合わないのではないかと思っていたのだから。本音がそのまま漏れていたら、半年前に友情を築くことは不可能だったかもしれない。
しかし、こだわりはないけれど否定されたら怒るというのは、それは結局こだわっているということじゃないのか。それもまた、顔立ちと髪の長さの関係のような、鳥茅杏子におけるバランスの悪い部分の一つということだろうか。
二本目の橋を渡り終え、住宅地の奥に進んだ場所に僕の家がある。
母と兄弟三人で住む我が家。居間から光が漏れているので、すでに真が帰っているのがわかる。車庫に車がない。ということは、母はまだ帰宅していないようだ。
父がいたころは車を二台停めていた車庫は、離婚と共に一つの空きスペースができた。といっても、父が一台持って行ったというわけではない。
離婚にあたって父は一切の権利と貯金の半分を母に渡して出て行ったので、父が出て行った後もしばらくは二台の車があったのだが、母は「仕事用の一台あれば十分」と言って、片方を売り払った。あえて高級車を手放したのは、車をいじるのが好きだった父への意趣返しだと、僕は思っている。
そんな車庫が空であることに、正直ほっとした。
杏子と僕の家族は面識がなく、また会話の中で彼女の話をしたこともないので、きっと母が杏子を見たらとても困る勘違いをしてしまいそうだと思っていたからだ。
口さがない我が母は、僕が杏子のことを唯の友人だと言っても、きっとからかうだろうから。
杏子と僕の自転車を車庫の空きスペースと停める。
杏子は自分の自転車よりも一回り小さな弟の自転車があることに気付き、
「弟さんの自転車ですか」
と訊いてきた。
「そうだよ。どうやら家にいるみたいだ」
腕時計を見ると六時手前だった。真の門限は五時半なので、母の言いつけを守っているようだ。感心々々。
「それじゃすぐにでも弟にドクターの話を聞こうか。杏子が訊きたいことを知っているかどうかはわからないけどさ」
「知らなければ知らないということでいいんですよ。曖昧な状態が嫌なだけですから」
お肌が荒れないためにも、と杏子は嘯く。
「話に聞く弟さんも見れますし。どんな子でしょう」
「人懐こい弟だよ。だから、きっと杏子ともすぐに仲良くなるんじゃないかな」
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