第4話 胡乱な作業

 鳥茅杏子と友人になってから半年後、つまるところ落ち込んだ弟を慰めるために共に入浴した翌日。

 上手く眠れなくて軋んだ体を何とか起こし、自分の部屋から這い出した。一階からはニュースの音が聞こえてくる。母は既に出勤しているはずなので、これは真が起きているということだろう。

 一階のダイニングへ入ると、予想通り真がもそもそと朝食を食べながら、未だ覚めやらぬ目でテレビを見ていた。朝が弱いのは兄弟共通である。

「おはよう、真」

「おあよう、にいひゃん」

 パンを頬張ったまま答えるものだから、何を言っているのかわからない。

 母が作ってくれた朝食を食べ、手早く着替えて身支度をすます。キッチンにある弁当に蓋をし、十分経ってもカタツムリのように動いている真の準備を手伝ってやる。

「「いってきます」」

 兄弟揃って誰もいない家に向かって言い、僕が鍵を閉めた。

朝家を出るときは必ずいってきますと言うこと。これも父が残した習慣だった。

 車庫から自転車を引き出して、弟が荷台に跨った。

 時計を見ると、いつもより五分遅い。

「ちょっと飛ばすぞ」

 普段よりもペースを上げて、弟が通う小学校の近くまで、二人乗りで送ってやる。当然、道交法にも校則にも違反しているので、大通りは避けて裏道を進んだ。

「あぁ~風が寒い~」

 十一月に入ってから気温は急に下がり始めており、今年は寒波が来るのではと僕は少し期待している。

「もっと寒くなれ!そして白く染め上げろ!」

「えぇ~嫌だよ。兄ちゃんは犬みたいにはしゃぐけど、俺あんまり雪好きじゃないし」

「子供らしくない奴だな」

「子供が皆、雪達磨作るわけじゃないんです~」

 真はいつも通りだった。昨日のことを引きずってはいないようだ。

「それじゃ、今日も一日楽しんでこい」

「兄ちゃんも勉強しろよ」

 真を下ろして、軽口を交わした後に高校へと向かう。さっきまであった温かさがなくなったからだろうか、心地よかった風が、とても冷たく感じた。

 高校の正門を潜り、駐輪場に自転車を停める。昇降口に続く道に、長い髪を一房にまとめてポニーテールにしている杏子がいた。彼女は自転車に乗るときは邪魔にならないよう髪を縛るのだ。

歩くたびに上下に跳ねるポニーテールを追いかけて、声をかける。

「おはよう、杏子」

「おあようごふぁいふぁふ、しゃしゃへしゃん」

 弟よりも酷い返事をした杏子は、コッペパンを頬一杯に入れていた。

 右手には野菜ジュース。

「何やってんの」

「あわふぉふぁんふぉ」

「あぁ、食べてからでいいから」

 杏子は手早く租借して、野菜ジュースで飲み干すと、「ぷは」と息を吐いた。

「寝坊してしまいまして。朝ごはんを食べる余裕がなかったもので。自転車漕いでる間は無理だったので、降りてから食べ始めた次第です」

「せめて教室に着くまで我慢しなよ」

 言いつつ、杏子のポニーテールを手で軽く弾く。ようやく杏子は縛ったままであることに気付き、束ねていた髪をほどいた。

「階段昇る間に倒れますね。食欲と睡眠欲には勝てません」

「だったら・・・。」

「だったら?」

「いや、何でもない。ほんとに」

 だったら性欲は?と馬鹿なことを言いかけた口を慌てて止めた。阿呆か僕は。たまに忘れそうになるが杏子も一応は女の子だ。普段あまり意識していないから、変なところで超えちゃいけないラインを越えそうになる。

 杏子の朝食はコッペパンで終わりではなかったらしく、鞄からまた別のパンを取り出した。ソースがたっぷり付いた焼きそばパンの封を空けると、甘ったるい匂いが僕の鼻をくすぐった。

 杏子は小さな口を目一杯広げて、そのパンにかぶり付く。反対側からこぼれそうになっているソースを押さえる様子は、やはりとても女子の食事風景とは思えなかった。とは言っても、食べ歩きをしていること意外は別段悪いことをしているわけではないし、何より見ていて気持ちの良い食べっぷりではある。

「朝からよく入るな」

「朝食はガソリンですからね」

 笑顔で租借しながら杏子は階段を昇る。

 上階から学年主任の教師が降りてきたが、ガソリンの補給に夢中になっていた杏子には見えなかったらしい。両手一杯に書類を抱えていた学年主任も足元が見えなかったらしく、二人は見事にぶつかった。

「おわっ!」

「あーーっ!」

「・・・・・・え?」

 息を呑んだのが学年主任、声を挙げたのが杏子だ。間の抜けた声は僕のである。

 ぶつかった拍子に杏子の口から落ちた焼きそばパンは学年主任のぶちまけた書類の上に落ち、更に二人の接触事故から離れようとした僕の足の下に滑り込んだ。結果、山のような書類の上で僕はソースたっぷりの焼きそばパンを踏み抜くこととなった。

「書類が・・・。」

「朝ごはんが・・・。」

 ゆっくりと足を上げると、上履きの裏にこびり付いたパンがペチャっと音を立てて落ちた。贔屓目に見ても書類の半分は被害を受けている。そしてもう半分はショックの余り杏子が手から落とした野菜ジュースにより浸水被害がでていた。

 気まずい沈黙がきっかり五秒。口を開いたのは学年主任だった。流石に大人は切り替えが早い。

「この書類、来週の学年集会で使う予定のものでな」

「は、はぁ」

「昨日、三人がかりで印刷してホッチキスで停めて作ったんだわ」

「えーっと」

「今日の放課後時間空いてるよな。幸い二人とも部活には入っていないだろう」

「ああ、そういう」

 流石は学年主任。生徒の部活動に関しても把握しているらしい。時間があるなら書類作成を手伝えということだろう。断る理由は即座に思い浮かばなかった。

「あの、この場合失われた朝ごはんは──」

「お前はちょっと黙ってろ」

 指に付いたソースを名残惜しそうに舐めながら、間の抜けたことを言う杏子を黙らせる。

「授業が終わったら職員室へ来なさい」

「はい。わかりました」

「あとこれ、片付けるぞ」

「そうですね」

 近くの教室からゴミ箱を持ってきて、書類とパンを詰め込む。登校中のクラスメイトに訝しげな目で見られたが、なんてことはない。もとからあった距離が一層離れただけだ。

 片づけを終えて「では放課後、忘れるなよ」と一言残して学年主任は去っていった。

「朝ごはんが・・・。」

「まだ言うか。どう考えても杏子の前方不注意だろう。教室まで我慢しなかった罰だよ」

「だったら学年主任だってそうじゃないですか」

「そりゃそうだけど、仕事でそうしてたのと、我慢できないからって食べながら歩いていたのとでは非がどちらにあるかは明白だろう」

「自分としては生きるのも仕事です」

「屁理屈を言うな。っていうか、僕も巻き添えじゃないか。放課後の時間を持ってかれた」

「いつも暇しているのですからいいでしょう」

「まぁ、そりゃそうだけど」

 空腹と面倒臭さでお互いため息を付き、教室へと入った。


 昼休みまでは杏子の腹の音が凄かったことしか覚えていない。そして昼休みを挟んで午後の授業が終わり、いつも通りに放課後となった。いつもと違うのはここからである。

 違わなくていいのに。いつも通りでよかったのに。と、あふれ出してくる面倒臭さをなんとか閉じ込めて、杏子と共に職員室へと向かった。

「おう、来たか。真面目で何より」

 コーヒーの匂いが漂う職員室に入ると、僕達を見つけた学年主任が手招きをした。

 書類で溢れ返ったデスクの中央にあるノートパソコンの画面を指差して言う。

「こっからここまでのファイルを一通り印刷して、ホッチキスで留めてくれ。場所は生徒指導室を使えばいい」

 学年主任が後ろ手に指差す。背後の扉の先が生徒指導室らしい。

「あれ?先生も一緒にやるのでは」

「俺はこれから部活に出なきゃならん。六時までに終わらないようならそのまま置いて帰っていいから。時間をみて適当に区切りの良いところまでやってくれりゃいい」

「わかりました」

「それじゃ、三百五十部の用意よろしく」

 学年主任は周りの教員に事の経緯を説明してから職員室を後にした。残された僕らは居心地の悪さをひしひしと感じる。

「個人情報満載のノートパソコンを生徒に預けるって・・・。」

「このいい加減さが朝の事故に繋がったんじゃないでしょうか」

 なるほど、一理ある。

「というか、最近のプリンター、ないしは複合機ってホッチキス留めも自動でやってくれなかったっけ?」

「うちの学校あまりお金なさそうですからね」

 念のためと確認をしてみるが、やはりそういった便利な機能は付いていない。人力で三百五十部、相当にハードだ。

「途方にくれてても仕方がないです、とりあえず始めましょう」

「了解。僕が運ぶから、指定されたファイルを印刷してくれ」

 五つあるファイルをそれぞれ三百五十部、つまり千七百五十枚の紙を生徒指導室へと運んだ。

 内容はどうやら進路についての指導らしい。まだ高校一年生なのでまだ先だと思っていたが、二年生に上がる際に文理選択があることを考えると、もうそういう時期にさしかかっているということなのだろう。

 二人して紙とホッチキスに悪戦苦闘しつつ、作業を進める。

「佐々部さんはもう文理の選択決めてますか?」

 配布資料を眺めつつ、杏子はそう訊いてきた。

「自分は今まで特に考えてはこなかったですけど。でもこの資料見て、もう決めなきゃいけない時期なんだなと思いまして。佐々部さんはどっちですか?」

「僕は理系にするつもり」

「ほう。意外ですね」

「そうかな?」

「だってどっちかと言うと、佐々部さんは文系科目の方が点数良くないですか?先週あった古文の小テスト、満点だったじゃないですか」

「まあ適正でいうなら文系なんだろうけどな」

「理系で何か進みたい道がある、ということでしょうか」

「うん、まあそんなところ」

 曖昧に答える僕。

「それはいいですね。目標があることはいいことです」

 ではその目標とはなんですか、と訊いてくることは無い。僕がはぐらかすような返答をしたことで、あまりしゃべりたいことではないと察したのだろう。こういうとき杏子は深く入り込んではこない。それは何も杏子に限ったことではなく、僕も杏子がはぐらかしたり、曖昧に返答したりするときはそれ以上踏み込むことはしない。

 暗黙の了解、と言うほどのことではないのかもしれないが、僕達はお互いにそんな距離感を持ち続けている。

 きっと僕達は怖いのだろう。不用意に近づいて、深い心の底まで手を伸ばそうとして、それを拒絶されるのが。広く寒い教室の中で、ようやく見つけた手を繋げる相手に、振り払われるのがとても怖いのだ。

一人きりの亡霊に戻るのは、それだけは嫌だ。

だから互いに踏み込まない。最後の一歩は残したまま、奇妙な友人関係を保っている。

「文理の選択、どっちでもいいなら杏子も理系にしないか。特に苦手科目とかもないだろ」

「そうですね。それもいいかもしれません。同じクラスになれるかはわかりませんけれど」

「例年通りの文理比例なら文系四クラスに理系が二クラスくらいだろ。だったら二分の一だ。それに教師も人間関係まるっきり無視してクラス分けしたりはしないだろうし」

「自分で言うのも何ですが、この学校で交流があるの佐々部さんしかいませんしね」

「僕も杏子しかいないからな」

「教師も鬼ではないことを祈りましょう」

「現状を考えるに優しくはなさそうだけど」

 手を付けていない資料の山に目を向ける。

 まとめた資料が百部を越えたあたりで手首が痛くなってきた。軽く背を伸ばして、固まった体をほぐす。ぱきりと乾いた音が鳴るのは運動不足ゆえだろうか。

「しかし多いな。まだ三分の一も終わってないとは」

「果たしてこの資料を真面目に読む生徒は何人いるのでしょう」

「・・・何か教師の苦労がわかった気がする」

「これも教育の一環ですかね」

 しみじみと呟く杏子を見て、今後はちゃんと配布物に目を通そうと誓った。

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