内包する他人

無秋

第1話 それぞれ

 下校中に立ち寄った自宅近くの本屋で週刊誌を立ち読みしていると、ポケットに入れていた携帯電話が震えた。バイブレーションのパターンからメールではなく電話がかかってきたのだとわかる。

 個人経営のこじんまりとした店舗なので店内で電話に出るのは憚られ、持っていた週刊誌を棚に戻し、足早に店を後にする。

 取り出した携帯電話の画面表示に出た名前は、友人のものだった。

「もしもし」

「佐々部さんですか?」

 電話の相手はクラスメイトの鳥茅杏子。いつも通りのよく通る声が響いてきた。

「心道佐々部にかけたならそうだよ。何か用?杏子」

「いや、用って程のことではないんですが。暇だったら一緒にスタバでも行きませんか?」

「そりゃいい。ちょうど暖まりたかったところだ。でも、誘うなら教室出る前に言ってくれよ。スタバって、完璧に杏子の家の方じゃないか」

 高校を挟んで自宅とは真逆にあるその場所を思い出す。高校からなら自転車で十分程だが、現在地からの距離ではその三倍だ。

「今思いついたんですよ、駄目ですか?」

「いや、行くけどね」

 どうせ帰宅したところでやることもない。夕食まではまだ随分と時間がある。部活動に在籍していない僕は──加えていうなら杏子も──いつも放課後の時間を大いに持て余していた。

 三十分後に店で、と電話を切り、止めていた自転車に跨る。耳にイヤフォンを着けながら日が沈み始めた町の通学路を進み始めた。

 人通りの少ない道を僕は気持ち早めに自転車を漕ぐ。国道沿いでもない限り、この町の交通量は多くはない。特に今は下校時間から暫く間を置いた時刻である。部活動のある学生は未だ学校に残っており、帰宅部の人たちは各々帰宅を済ませている頃合だ。一般社会人の方々は残業になるか定時退社を行えるかの狭間で揺れ動いている時間でもある。夕飯の買出しにはやや早い。

 つまるところ、唯でさえ人通りの少ないこの町が更に静かになるのがこの時間だった。

 そしてそんな狭間にこそ、紛れてくるものがある。

「ん?」

 始めは猫だった。一匹のすらりとした白い猫が信号待ちをしていた僕の前を横切った。

 あれだけ毛並みの良い猫は珍しい。常日頃から弟と共に家猫を撫で続けている僕がそう思うのだから間違いない。

しかしその猫には首輪がなかった。室内飼いでないのなら、ましてやあれだけ上等な猫ならば、首輪くらい飼い主が着けそうなものだけれど。

なんとなく引っかかり、その白猫の後ろ姿を眺めていた。

 僕の前を横切った白猫は、歩道と車道の境界もない小道を進んでいく。すると横の道から別の猫が顔を出した。茶色い斑猫である。猫二匹はお互いの顔を見ることもなく、同じ方向へと進んでいく。

 不思議な光景だ。目を引くほどに綺麗な猫と、みすぼらしい猫が並んで歩いている。

 何となしに捉えていたその二匹の姿を僕は気が付けば追っていた。

 夢遊病者のようにふらふらと。

 いくつかの路地を曲がり、小道の奥へと進んでいく。回りの景色は気にならない。僕の目にはただ猫だけが映っていた。

 どれくらい進んだだろう。西日が今にも山陰に隠れようというそのときに、僕はそれを見た。

 最初は音だった。鈴の音が鳴いた。

僕がその音に引かれて視線を猫から外すと、二匹の進行方向にそれは現れた。

 ──山車。

 印象としてはそれに近い。昔、秩父の夜祭で見たものを彷彿とさせる姿だ。赤い祭壇にいくつもの提灯。車輪は漆塗りだろうか、黒に金の装飾が施してある。

 記憶と異なるのは、その山車がとても小さいことだった。僕が過去に見た山車は、前後に綱が付いていて、大人が何十人も引きながら移動をしていた。しかし今目の前にあるそれは、リアカーの上にそっと祭壇を取り付けたような、表面の華美な装飾とは真反対のこじんまりとしたものだった。

 その山車は五十メートル程先の十字路を右へと曲がっていく。

 曲がる際にそれを引く人物がちらりと見えた。長髪で白衣を着た人物。体のラインからすると男だろうか。曲がりきる前にその痩身な男性と目が合った気がした。

 曲がりきった山車を追いかけようと、先程まで押していた自転車に跨る。

僕はそれに追いついてどうするというのか。わからない。

はっきりとした目的はないが、何故かあの山車に追いつかなくてはいけないという思いが僕にはあった。

漕ぎ足に力を込めて、自転車を駆る。

十字路を曲がるが、しかしそこには山車はなかった。さっき曲がるのを見てから十秒とかかっていない。いくつもの交差がある小道だが、山車はそんなに早く移動したのだろうか。

忽然と姿を消したそれを探そうとし、ここに来るまで僕を先導していた二匹の猫がいないことに気付いた。

西日が山肌に隠れ、夜の帳が降りてきたが、僕は狐につままれたような心地で、しばらくその場を動けなかった。

遠くで鈴の音が鳴る。



杏子との待ち合わせ場所であるスターバックスに到着したのは、約束からゆうに三十分は遅れていた頃だった。僕としてはその前の出来事が印象強かったために、その程度かと感じたのだが、杏子としては違ったらしい。

そりゃそうだ。宣言よりも二倍時間がかかっている。

「罰金です」

 自転車の荷台に後ろ向きに腰掛けて、足を前後に揺らしながら僕を待っていた杏子は、遅れてやってきた僕を見て、開口一番そう言った。

 呼び出した手前そう強くも出られないのだろう。それ以上文句を言われることはなかったものの、この場は僕が奢ることになった。

「ごめん、色々あって」

 未だ飲み込めていない出来事を考えながら、杏子に謝罪する。

「まあ、来たからいいですけど」

 特に詮索をすることもなく、杏子はいつも通りの口調でそう言って、店内へと入る。

 平日の夕方なので店内はまばらに人がいる程度だった。せわしなくノートパソコンのキーを叩く学生を横目で見つつ、レジ前へと進む。

「何を──」

 飲む?と僕が聞く前に、杏子は呪文のような品名を挙げていた。いつも杏子が飲んでいるカフェオレとは違う品名だった。

一つの品名の中にショットとかダブルとかが複数でてきた気がしたけれど。店員への嫌がらせだろうか。

 しかし店員は別段平然とした様子で「かしこまりました」と言い、次いで僕の注文を促すので、僕はいつも通りのココアを頼む。

いつも通りでなかったのは会計だった。


「高いよ!」

 席に着いてまずそう言った。

 杏子の分だけで千円越えていたのだ。なんだありゃ、ダブル一度言うたびに値段が上乗せされる仕組みなのか?

「前から一度やってみたかったんですよね」

 口の端を吊り上げて、杏子は千円以上する飲み物を堪能する。

「自分のお金でやるには勇気がいりますし、きっと飲み終わった後の寂寥感が尋常じゃないでしょうから踏み切れなかったのですが」

 杏子の持つカップは何と言うか、既に飲料というよりはスイーツのようだった。

「遅れた僕が言うのも何だけど、ちょっとは遠慮してよ」

「女子高生の三十分はそんなに安くないですよ。これ一つで我慢したので、佐々部さんは文句を言わないように」

 三白眼の鋭い目つきで睨まれる。

「悪かったよ」

「いいですけどね。でも何で遅れたのですか?」

「それは、」

 何でと問われると難しい。何となく猫を追って、何となく小道を進んで、そして何となく山車に目を奪われていただけなのだから。何となく、何もない。

 だからそれらを説明するのは酷く難解だ。最初の猫に惹かれた感覚からして、僕自身どうしてなのかわからないのだから。ましてや山車に意識を奪われていたことなど。

 荒唐無稽さから言って、もしも事細かに説明すれば僕が恥を掻くだけなのではないだろうか。

 暫し逡巡した後、

「猫を追いかけていた、からかな」

 とりあえず導入だけを話す僕。

「馬鹿じゃないですか」

 一言で切り捨てられた。

「いや、まぁ・・・そうだな」

「佐々部さんは結構そういうの多いですよ。抜けてるっていうか。授業中もよく窓の外見てますし。それで先生に当てられてあたふたしたり。一昨日の体育なんて、右利きなのに右手にグローブはめて野球してましたよね」

「あぁ、うん。言葉も無い」

 自分としてはその事柄それぞれに理由はあるのだけれど、他人から見れば一貫して間抜けな姿としか思われないだろう。

 ストローを使ってココアをかき混ぜながら、苦笑する。

「待ち始めて二十分が過ぎたあたりからは事故にでもあったんじゃないかって、ちょっと心配しました。ちょっとだけですが」

「大丈夫。僕はそれなりに頑丈だから、車程度には負けない自信がある。何なら今からお見せしようか」

 なんて、僕としては軽口として言ったのだけれど、杏子は無表情のまま顔を下に向けて、

「やめて下さい」

 と、言った。

 その言葉は決して大きくはなかったが、しかしはっきりと、強い意志を含む口調だった。

「冗談でもそんなこと言わないで下さい」

「わかった。ごめん」

 気おされた僕は謝るしかない。杏子は目線を落としたままだ。

 それほど気に障ることを言ってしまったのだろうか。確かに些か不謹慎ではあったけれど。

 沈黙が生まれ、それに気付いた杏子が慌てて顔を上げる。

「そ、それにしてもアレですね。佐々部さんは本当に一貫してココアしか飲みませんね」

 僕の手元にあるカップを見て言う。

「言ってなかったっけ?僕、コーヒー飲めないんだよ。だから喫茶店とかに来たときは基本、紅茶かココアしか飲んでない」

「コーヒーの味はお嫌いですか?」

「というより、シロップ入れたり砂糖混ぜたりするのが億劫なんだ。そもそも甘いものが好きだから、ブラックでは飲めないし」

「甘いものばかりだと逆に喉渇きますよ」

「案外そうでもない。夏場にはわざとココアをホットにして上からソフトクリームを落としたりすると最高」

「うへぇ」

 僕の言葉を想像したのか、杏子は口をへのじにしてそんな声を漏らす。

「何だか聞いてたらこっちが喉渇いてきました。これ、おかわりしていいですか?」

「二杯目は自分で払えよ」

 これ以上は僕の財布がもたない。

「ならいいです。水だけ貰ってきます」

 カウンターへ行き、水を二つ持って戻ってくる。こういうところ、杏子は気が利く。本人に言いはしないけれど。

 杏子はカップを一つ僕の前に置き、若干気色ばんだ顔を寄せてくる。

「今レジ前の椅子に座ってる人見ましたが、すっごい美人です。あれモデルさんか何かじゃないかと」

 聞かれないようにという配慮だろう、顔を寄せて囁くように言う杏子に不覚にも少し顔が熱くなる。

 こういうところは気が利かない。

 悟られないように杏子の言うレジ前の席へと顔を向けると、なるほど、確かに美人がいた。

「ほんとだ、足長いなぁ」

「それより胸ですよ胸。服の上からでもあれほどとは!」

「何で杏子の方がそっちへ食いつくんだよ」

 あえて言及を避けたのに。

 杏子のそれは、かの美人とは対極的だから言わなかったのに。

「失礼なこと考えてません?」

 僕の視線に気付いたのか、杏子の目がまた鋭くなる。

「考えてない」

「本当に?」

「本当だ」

「嘘吐きません?」

「嘘なんて吐いたことない」

「やっぱり嘘じゃないですか」

 頭をはたかれた。

 でも僕は知っている。気にするような言葉こそ吐きはするけれど、きっと杏子は実際のところそんなものはどうだっていいと考えているのだ。彼女の言動は、「一応気にする素振りを見せておいたほうがいいのだろうな」という計算の元、行われているような気がする。

 杏子にはそういう場面が多々あった。

 まるでらしさと言うものを追求するように、実質的な心が伴わないままに行動しているように見えることがよくあるのだ。

 これが猫を被るというものなのだろうか。別段、普段の彼女がキャラクターを作っているようには見えないけれど、たまにふと感じるのだ。白々しさというか、わかっていてやっている、という気配を。

 わざわざそんなことを問い質しはしないけれど。

 僕なんかが他人のスタンスにどうこう言えるはずもない。

 学期末のテスト対策についてや上手い体育のサボり方なんかを話しているうちに、夜の帳もすっかり降りて、外は真っ暗になった。

 そろそろ帰ろうか、どちらからともなくそう言い、店を後にする。

 分かれ道がすぐに来たので、それじゃあと手を振り、杏子と別れた。

 家まで送ったりはしない。別に僕と杏子は恋仲ではないし、何より彼女はそういった行動を嫌う。女扱いされることを酷く嫌うのだ。

 それが僕に対してだけそうなのか、それとも誰に対しても嫌がるのかはわからないけれど、そこについて深く考えるといつも心が傾いで軋む。だからあまり頭を働かせないようにする。

 好きな音楽を頭の中で反芻しながら、夜風に当たって取り留めの無い思考を振り払うように自転車を走らせる。

 帰りにちらと小道を見たが、やはり山車の姿は見あたらなかった。

 

 *

 

 家に帰ると夕飯時ぎりぎりだった。

 心道家はいつも夕飯は家族全員で食べるようにしているので、帰宅時間が七時を回ってしまうと叱られる。父がいつもそうするようにと僕達兄弟に言いつけていたからだ。

 その習慣は父がいなくなってからも続いている。

「ただいま」

 玄関に入り靴を脱いでいると、

「おかえり兄ちゃん!」

 と、リビングから飛び出して、六歳年下の弟が元気よく出迎えてくれた。

 それだけで自転車を余分にこいだ疲れも消し飛ぶ。

「おう。真、母さんはもう帰ってるか?」

「ううん、まだだよ。今日は会議のある日だからって、今朝言ってたじゃん」

「あぁ、そうだった」

 ということはこんな遅くまで弟を一人で待たしていたのか。気付いていたら杏子との話はもっと早く切り上げていたのに。

 母は結婚する前も、女手一つで僕達を育てるようになってからも、ずっと熱心に仕事を続けている。よくはわからないがそれなりに融通の利くポストに就いているらしく、いつもは定時に退社して、夕方には家に帰っているのだが、月に数回は二時間ほど残業を課される会議が入る。

 そういった日は事前にわかるので、なるべく早く帰宅するようにしているのだけれど、帰りに本屋に寄ったことと、その後に見た不可解なもののインパクトですっかり頭から抜け落ちていた。

「腹減ったろ、ご飯つくるよ」

 母の帰りが遅い日は、僕が家事当番になる。といっても月に数回やる程度、ろくなものは作れない。

 せいぜいパスタや焼きそば、後は冷蔵庫の中から適当に見繕ってサラダを作るのが関の山だ。

「と、その前に洗濯物取り込まなきゃ」

「それなら俺がやっといたよ」

 得意げな顔で報告する真。僕はその頭を撫でてやる。こうすると真は嬉しそうに、恥ずかしそうに笑うのだ。

「よし、ならすぐに作れるぞ。味付けは何がいい?」

「塩!」

 僕のレパートリーがそう多くないことは真も知っている。この場合、味付けで塩というのは塩焼きそばのことだ。真は数ヶ月前に海の家で食べた塩焼きそばに感銘を受けたらしく、機会を見ては僕や母に要求してくる。よって現在、我が家の冷蔵庫には塩焼きそばの素が常備されているのだった。

 ちなみにケチャップと答えればナポリタンで、ソースと言うと普通の焼きそばになる。変化球としてうどんなんかもあるが、その場合真は「讃岐!」と言う。いつか訂正してやろうと思っている。

 適当な部屋着に着替えて、料理をしていると母が帰宅してきた。時計を見ると七時半。どうやら今日の会議は滞りなく進んだらしい。

「おかえり、もうすぐご飯できる」

「あぁ~、ただいま息子達。母はもう限界よ──それ何?」

「塩焼きそば」

 思い返せば今週二度目の塩焼きそばだけれども、一度目は母が自分で作ったのだから、そこは我慢していただきたい。

「ありがとう、あんたは良い子だね。でも無理しないでよ」

「大丈夫、気をつけてやってるから」

「お母さん、俺も!俺、洗濯物入れたよ!」

 兄だけ誉められるのが悔しいのか、真は自分の功績をアピールする。

 母はそんな真の頭を掴むと、

「ありがとー。もちろん真も良い子だよ」

 と、力の限り真の頭を撫でた。満面の笑みである、母が。

 基本、僕と母は真に甘い。

 母が着替えて化粧を落としている間に、料理開始から一時間、何とか夕飯の支度を終えた。

 揃って「いただきます」と手を合わせ、食事を始める。お世辞にも美味いとは言えないけれども、それでも真が焼きそばをかきこむのを見ると、少しだけ達成感はあった。

 夕食の間はだいたい真のお話がメインになる。今日学校で何があった、どの先生の授業は好き、クラスではこんなことが流行っている、など等。母はその全てを興味深そうに聞き、末っ子が健やかに育っていることに安心しているように笑う。

 いつもの食卓の風景だ。

「今ね、クラスの中でお笑いが熱いんだ」

「お笑い?芸人さんとか?」

「そうそう。皆誰かのギャグやったりしてさ。俺が今やってるのは、関西の芸人で──」

「・・・・・・!」

 関西という単語に、母が肩を揺らす。

 しまった。

 それに気付いた僕が、

「おい、真」

 と、小さく声をかけるが、話していて興奮したのか、僕の言葉に気付かない。

「東京の芸人も面白いけど、やっぱり関西の芸人は味わいが違うよ。大阪ってあんな人ばっかりなの」

「真!」

「え?・・・あっ!」

 諌める僕の言葉に、ようやく真は気付き、口を噤む。

 しかし遅かった。

見ると、母は塩焼きそばを箸で持ち上げたまま、一点を見つめてぶつぶつと呟いていた。

「そうよねー。大阪はきっと愉しいでしょうね。東京みたいに張り詰めてないでしょうし、笑顔が絶えないんでしょうねー」

 その姿はまるで幽鬼のようで、言葉の裏には呪詛が響いている。

「か、母さん?」

「お母さん?」

 心配し、二人して顔をのぞく。苦笑いのような今にも泣きそうな、酷く不安定な顔をしていた。僕達がかける声にも気付かない。

呪詛の声は続く。

「それに比べて私は、笑顔が似合わないし後輩からは煙たがれるし、こんなんだから佐々部が」

「母さん!しっかりしてよ」

 右手で肩を掴んでゆすると、母は強張っていた体を緩め、ようやく僕達を見た。

 陥っていた深みからゆっくりと顔を出した母は、心配そうに見つめる息子二人にぎこちなく笑顔を向ける。

「ごめんね、母さんちょっと疲れてるみたい。早いけれど、もう休むわ。残りは明日の朝食べるから、悪いんだけど冷蔵庫に入れておいて」

 立ち上がり、ふらふらとした足取りで食卓を後にした。自身の不甲斐なさと、息子達への罪悪感、寂寥感といったどうしようもない感情を引きずっているのは、僕にも十分わかった。

 後には静寂だけが残る。

「俺、やっちゃった・・・。」

 耐え切れなくなった真が、声を漏らす。

 心道家に父親はいない。真がまだ小学生になる前に、両親は離婚をしている。

六年前、僕が小学五年生だったころに父は僕達兄弟と母を捨てた。

事の発端は浮気だと聞いている。真面目一辺倒だった父に何があったのか、どういう経緯で母以外の女性に気が移ったのかは全として知れないが、真面目一辺倒だからこそ、心変わりしてからの行動は早かった。父は浮気を隠すこともなく、むしろ自分から開示する形で母に継げた。相手は一回りも年下の女性らしい。大阪へ長期出張した際に出会ったと、後に母から説明された。

その後夫婦の間でどんな話し合いが行われたかは、当時小学生だった僕には知らされなかった。

結果として母に残ったのは、家の権利と息子達の親権、そして養育費と言う名の手切れ金だけだった。

そうして僕達は三人家族になった。

それ以来、母は関西圏へ足を運ぶことを拒否している。いや、訪れるだけではなく、TVや会話の中でそういった要素が含まれることも拒絶している。母にとってそれは憎しみの象徴でしかないのだろう。

 僕達兄弟も気をつけてはいるが、たまに今日のようにうっかりと、会話の中に含めてしまうことはある。

「ちゃんと覚えてたはずなのに、俺、俺・・・。」

 俯き、顔を歪める真の手をとる。

 小さな手は、罪悪感で震えていた。

「真は悪くない。母さんだってそう言うさ」

 だけど何が悪いのだろう。

父か?

けれど、父を悪と決め付けることも僕には難しいのだ。

別れ際まで父は僕達を──少なくとも僕の主観では、愛していた。いや、きっと母のことだって愛していたに違いない。ただその優先順位が変わっただけなのだ。今まで一番にいた母や僕達の順位が、一つ繰り下げられただけ。

 理不尽に憤りもするし、母の姿を見れば父を怨みもする。けれど、父の全てが悪だったかといえば、そうではないと否定する僕がいる。

 家族揃って食卓を囲めるように配慮する程度には、僕達の中に父の教えが残っている。

 だからこそ難解になる。戦う相手さえわからないのに、理不尽に痛む人がいるという事実。僕達兄弟は六年間、ずっとそれと共に生きている。

「兄ちゃん、一緒に風呂入ろう?」

 消えそうな声でそう言ってきた。

 真は誰かと一緒に風呂に入るのが大好きだ。数年前まではいつも母と入っていたが、小学校低学年を超えてからは流石に恥ずかしくなったのか、その相手を僕に変えてきた。

 しかし、僕は余程のことがない限り真と一緒に入浴はしていない。いつも誘ってきても、何かしら理由をつけて断っていた。一身上の都合により、僕は真との入浴を避けてきた。

 けれど、今日くらいは優しくしてやろう。

拒否しようとする心を抑えて、そう決心した。

「・・・あぁ、いいよ」

「ホントに?やった」

 泣きそうだった顔を何とか笑顔に変えて、真は残りの塩焼きそばをかき込んだ。

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