第2話 接する回廊

 二人でごちそうさまを言い、母の言うとおり残り物にラップをかけて冷蔵庫へと入れる。皿洗いを終えたところで、電子音が風呂の湯張り完了を告げた。

 とうとう、その時間か。

 顔に付着した洗剤をふき取りながら、一人腹を括る。

「兄ちゃん、アヒル何個浮かべていい?」

「狭くなるから一個までだ」

「はーい」

 真は籠に入れていたアヒルからお気に入りの一つを取り出す。僕には笑うそのアヒルの顔が、底意地の悪いもののように見えた。

 わかっている。これは被害妄想だ。いや、そうじゃないな。

『被害』なんて──。

 取り留めのない思考の底に落ちようとしていた僕を、真が引き戻す。

「どうしたの兄ちゃん?入らないの?」

「ん?あ、あぁ、入るよ。ちょっと兄ちゃんも何か浮かべようかなと考えてたんだ。例えば、ピーマンとか」

「えー、何でピーマン。やめてよぉ」

「風呂につけてりゃ温野菜として食べられるんじゃないかと思って」

「勘弁してよ」

 ピーマン嫌いの真は本気で嫌そうな顔をする。

「なんてな、冗談だよ」

 しかし弟よ、お前は気付いていない。さっきの塩焼きそばにも細かく砕いたピーマンが忍ばせてあったことを。

 真と二人で脱衣所に入る。

今のところ真は二次成長を迎える前なので、僕と二人入っても問題ないが、仮に中学を過ぎた後も一緒に入るようにせがまれたらどうしよう。個人的に拒否する理由を差し引いても、男二人でこの脱衣所と風呂を使うのは些か厳しい。その頃には流石に兄離れを迎えてくれていると嬉しいが。

いや、少し寂しいか?

 そそくさと服を脱いで、上着を脱ぐのにもたつく真を尻目に、風呂場へと入る。

 髪を洗っていると真が入ってきた。

「ちゃんとかけ湯してから入れよ」

「はーい」

 水面を跳ねる音が聞こえた。アヒルを放り投げたのだろう。

「ふぅー・・・気持ちいい」

 髪を洗い終えた時には、真は肩まで浸かり、アヒルを沈めたり飛ばしたりと遊んでいた。

スポンジを泡立てて体を洗い始めた頃に、真はぽつりと呟いた。

「どうにかならないのかな」

 言葉の意味を図りかね、真を見る。俯いた顔に合点がいった。

 母のことだ。

「どうにかなるかもしれないし、ならないのかもしれない。どちらにせよ、僕達がどうにかすることは無理だ。母さんが自分で納得する他ない」

「納得なんて・・・・・・。」

「できるわけない。僕もそう思う。でも、時間が経てば、事実は変わらなくとも薄れてはいくんじゃないかな。憐憫も後悔も怨みも、そして愛情も」

「・・・・・・。」

 そう言ってはみたものの、真には理解できないかもしれない。

 当時、五歳だった真にはわからないかもしれないが、この六年間で僕が父に持っていた感情はどんどんと薄れていっている。克服したのではなく、乗り越えたわけでもなく、ただ膨大な時間と情報の中で濃度を下げている。その実感が僕にはある。

 翻って、真はどうなのだろう。父は離婚の暫く前から家を頻繁に空けていた。そのせいで断片的にしか父に対する記憶を真は持っていない。薄れるも何もないのだろう。

だからこそ、父の教えが残り、母の傷が見えるこの状態は真にとって飲み込むことができない不安定さがあるのではないだろうか。

実感がなく、事実だけがある。そんな触れることのできない怪物が真の心に巣食っているのかもしれない。

「・・・噂、聞いたんだ」

 黙りこんでいた真が視線を天井に移して言う。

「クラスの女子が喋ってたのをたまたま聞いたんだけど、何かね、『ドクター』っていう名前の、願いを叶えてくれる人がいるんだって」

「願い・・・ね」

「そう。でも条件があって、何かが欲しいっていうお願いは駄目らしいんだ。自分を変えたいとか、誰かに何かをして欲しいっていうお願いだけに限定されてるらしい」

「そりゃまた随分と融通の利かない話だな」

「そのドクターは男、らしい。背格好とかはわからないけど。話してたクラスの女子の、従姉妹の友達が会ったんだってさ」

 都市伝説なんかによくあるパターンだ。友達の友達が遭遇したというお話。探ってみても更にその友達へとリンクが広がるだけで、当事者というものは何処にも存在しない。僕も小学生の頃はよくそんな話を聞いたりした。小学生ですら携帯端末を持ち歩くこのご時勢になっても、そういった風習はなくならないらしい。

 唯一つ気にかかるのは、真がこの話を単なる面白みのある噂話として持ち出しているのではなさそうに、僕には思えたことだ。

「それで、真はそのドクターの噂話を信じているのか?」

「いや、信じちゃいないよ。ただ、もしいてくれたらなと思っただけ。そしたらお母さんの苦しみを無くせるかもしれないじゃないか」

 現実的な対処法が思い浮かばないから、非現実的な方法を模索する。心の逃避と言ってしまえばそれだけかもしれないけれど、そうやって真は自分を支えているのかもしれない。

 だったら、荒唐無稽な話でも付き合ってやるのが兄というものだ。

「それで、そのドクターの話は、他にどんなものがあるんだ?」

「ん?」

「願いを叶えてくれる。ただし限定条件付。それだけじゃないだろ?普通こういう噂話ってのは実体験とかが付くものじゃないか。ほら、その女の子の従姉妹の友達・・・だっけ?がどういう願い事をした、とかさ」

 脇の下を泡立てたスポンジで擦りながら、訊いてみる。

「・・・。」

 しかし真は、僕を見るだけで何も言わない。物珍しげに僕を見ているだけだ。

「どうした?無いのか、続き。それで終わり?」

「いやそうじゃなくて、珍しいと思って」

 真はほんの少し嬉しげである。

「何が?」

「兄ちゃんが、この手の話しに食いついてくることがだよ。いつもなら『ふ~ん、僕のときもあったな。そんな話』とかで流すのに」

 言われてみて、ああそうだなと自分でも納得する。僕は真の話を聞くし、感想も言ったりはするが、あまり先を促すようなことはない。うっかり、それで?何て訊いてしまうと、真は延々と喋り続けてしまうので、いつもはただ受け手となっているだけだ。

「たまには、そういう日もある」

 弟の慰めになるなら、とは言わない。

「へー。ま、いいや。それでね、その女子の従姉妹の友達っていうのは男子で、ドクターに願って女の子にしてもらったんだってさ」

「え、何、ドクターってそういう事?お医者さん的な意味なの?」

「いやいや、別にその男子がちんちん切られたとかそんな話じゃないよ。体じゃなくて、心を女の子にしてもらったっていう話」

 真は自分で言って想像したのか股間を押さえていた。

「心を女に?それもそれで奇特な話だな」

「その男子がどうして女の子になりたかったかはわからないけどね」

 唯一の女友達である鳥茅杏子の行動を思えば、たまに女心はわからないと頭を抱えることもあるけれど、かといって心理的とはいえ女性になってまでそれを知りたいとは思わない。

「真は、女の子になってみたい、とか思ったことあるか?」

 男の象徴を洗いながら訊くには、何とも微妙な話だけれど。

「俺?そうだな、うん、あるよ。女の子になってみたいって思ったこと。だけどそれはこの話とは違うかな」

 喋りながら考えをまとめる真は、腕を組みながら頷いている。

「俺は、心は心道真のままで女の子になってみたい。女の子の体ってのがどういうものなのかを知ってみたいって感じ・・・多分」

「まぁ、普通そうだろう」

 僕だってそうだ。いや、きっと真と僕とでは若干ニュアンスが違うかもしれないけれど。

 二次成長の前と後。深くは考えないでおこう。

「心の性別を変えたって、どう考えてもただ苦労を背負い込むだけだよな」

 認識とのズレに心が疲弊しそうだ。

「その男子も、数日の内に元に戻ったらしいけど」

「・・・えらく中途半端な話なんだな」

「中途半端かな?」

「ほら、普通こういう話って、願ったことによってどうなった、みたいな結びが付くものだろ。願いが悪いように作用して望まぬ結果に至った、とか。もしくはホラーテイストなオチが付いてたりとかさ。願って叶って元通りというだけじゃ、都市伝説として印象に欠ける気がするな」

 人の間に流布する話というのは、語られるだけの要素を持っているものだ。人の心に訴えかける要素を持っている。そうでなくては語ろうという気にならないし、そも記憶に残らない。恐怖や憧憬、ないしは疑問。そういったものを要素として持ち合わせる話だからこそ、廃れることなく人々の中に語り継がれているものである。

 僕の印象では、どうもこのドクターの話はそういった要素が欠けているように思う。端的に言えば語られるだけの面白みが無い。

真のような、どうしようもない願いを持つ子供にとっては、ともすれば興味を引かれる話かもしれないが。

「確かに、言われてみればそうかも。でも俺も話の頭から全部聞いてたわけじゃないからさ。もしかしたら聞き漏らした部分に兄ちゃんが言うところの、印象ってのが含まれてるのかも」

「かもな」

 言いはしたが、深く考える程のことでもない。所詮は噂話。子供のおしゃべりの一環だ。

 泡だらけの体をシャワーで流す。

「兄ちゃん洗い終わったんなら俺の髪洗ってよ」

「自分でできるだろ」

 立ち上がり湯船に浸かろうとする僕を真は阻む。

「兄ちゃんに洗ってもらった方が綺麗になる気がするんだよ」

 言って、真は湯船から出て、僕の座っていた浴室椅子に腰掛けた。

 仕方がない。一緒に風呂に入ると決めた時点で、覚悟していたことだ。

「リンスまではやらないぞ」

 不承不承、真の後ろに腰かけ、シャワーヘッドを手に取る。

 そして僕は見る。

「そう言えばドクターの話で、忘れてたことがあった」

 真が思い出したように言うことを僕は聞いていない。耳に入ってはいるが、頭に入ってこない。

「ドクターに会う方法なんだけど──」

 真の頭にお湯を掛ける。

 流れたお湯は艶のある黒髪を伝い、肩に流れ落ちる。

 水滴が伝う。

「──を追いかければいいんだってさ」

 肩から背中へ、お湯は降りていく。その途中でお湯の流れが変わる。

 真の小さな肩の左から右脇腹へと繋がる傷跡により歪な流れでお湯が落ちる。

 見たくはなかった。覚悟は決めていたが、砂を噛むような気持ちで僕はそう思った。

 ニ年前、僕が真に付けた切り傷がそこにあるからだ。

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