第16話 当然のように繰り返す
放課後になってすぐ、僕と司は行動に出る。
日が落ち始めてから落ちきるまでの僅かな時間しかドクターには会えないのだから、少しも無駄にすることはできない。昨日会った場所を中心に、手分けして見つけ出すことにした。考えと呼べないが、思いつくのはその程度だった。
「さて、今度は何日かかるかな」
「何年かもしれねえぜ」
そう軽口を叩いて、僕等は探索を始めた。
司が東の住宅街を探し、僕が西側の山道を探す。司にとっては住み慣れた町なので、入り組んだ住宅街も問題なく探索できるだろう。
散会する前にふと思った。
人が一日に何キロ移動できるのか、僕はその正確な数値を知りはしないけれど、しかしまったく移動しないでいられるかといえば絶対に無理だということはわかる。であるならば、昨日出会った地点を中心に探すというのは結構的外れな作戦ではないだろうか。
それを司に進言すべきか迷ったがやめておいた。代案が思いつかなかったというのも勿論あるが、それだけではなく、何となく確信があったからだ。
きっとすぐにでもドクターには会える。
根拠は何処にも無い。しかしそう確信していた。
ドクターは、あれはきっと探すとか見つけるとかそういう類のものではなくて、会うべきときに会うような、必要な流れの中に存在するものなのだ。
僕と司はきっと今その流れの中にいる。それが資格と呼ばれるものなのかは判断に困るところだけれど、きっとそうだ。
そんな風に考えて、僕は司と逆方向へ自転車を漕ぎ始めた。
住宅街から一キロ程で僕は山道へと入った。山道と言っても舗装されている道路である。県道だったか市道だったかは忘れた。国道でないことは確かだ。中途半端に落ち葉が積もっているその道を自転車の変速を切り替えて何とか昇っていく。
紅葉の盛りは越したけれど、それでもまだ色彩に染まるこの道は綺麗だった。
そもそも気楽に捉えてドクター探しをしているので、ちょっとどこかで紅葉でも楽しもうかという気分になってくる。
そろそろ黄昏時で最も綺麗な時間帯だ。さぞこの紅葉は茜色に映えるだろう。
なんて、そもそもその黄昏時にしか見つけられないものを探しに来ているのに、僕はいよいよ本質を見失いかけている。
まあでもその程度の気持ちだったのだ。他人の手のことはドクターに頼らないと決めたし、司の為に一発殴るとは言ったもののそれに関しては昨日まであったようなモチベーションでは臨めない。
つまるところ僕の心はゆるゆるだったのだ。
だから対して驚きはしなかった。
ドクターを発見したその瞬間も。
「おおう」
本当に見つけてしまった。
山頂を通り越して、下り坂を進んで山道が終わりかけたところにある小さな神社。その賽銭箱の近くにドクターはいた。
自転車を隅に置き、木の陰からドクターを見る。まだ僕の存在には気付いていないらしい。
気付いていてリアクションしていないだけかもしれないが。
とりあえず司にメールを送る。
司が今何処にいるのかはわからないけれど土地勘のあるあいつのことだ、十分もしないうちに着くだろう。
場所を伝えて、さてどうしようかと思案する。
今ここでドクターを殴り飛ばすのは何か違う気がする。いや、勿論司のことを考えれば殴ってやりたい気持ちも十二分にあるのだが、それは僕が一人でやっていいことなのだろうか。
なら司の到着を待つか?
「それも何だかなぁ・・・よし」
ぐだぐだと考えても仕方が無い。意を決して僕は立った。
木の陰から出て、何食わぬ顔で事も無げにドクターへと近づく。
と、そこでようやく気付いた。
「あれ、山車は?」
気付いたことを普通に言葉に発してしまう。
その声はドクターにも聞こえたらしい。ドクターは驚いた様子もなく、
「もう必要ないからね」
と答えた。見ればあれだけ引き連れていた猫もいない。近くにいるのは鳩だけだ。
ドクターの返事があまりにも普通で、まるで旧知の仲みたいな対応をされたものだから僕も思わず、
「猫はどうしたんだ。鳩に鞍替えか?」
と訊いてしまった。
「いやいや、この子たちはただ私のご飯を狙っているだけだよ。山車がないからね。猫は手仕舞いさ」
言いつつ、手に持ったパンを細かく千切って鳩へと投げた。
あれ、パンなんてさっき持っていたか?
いやそんなことより、何で僕はドクターとこんな普通に会話をしているのだろう。
司が来たら一緒にこいつをぶん殴るんだろ。
自分にそう言い聞かせるが、しかしまったくもってその実感が湧かなかった。いくら自分に言い聞かせても、まるで鏡を前に敵意を抱こうと努力しているような、あるいは水面に映る影に文句を垂れているような、そんな無意味さがひしひしと伝わってくる。
「どうやら昨夜は無事だったらしいね」
僕に顔を向け、ドクターは言った。
「君は程ほどに運がいいようだ」
「ん・・・ああ、そうかもな。自分ではそう感じたことはないけれど」
「それはそうだろう。君の認識では、幸運だと感じるのは難しい」
見透かすようなその言葉に、しかし僕はわかったような口を利くなとは言えなかった。
ドクターと相対したその瞬間から何故か左手が疼くような気がして仕方がなかったからだ。心は至って落ち着いているのに、今にも他人の手に変わりそうな、そんな感覚がある。
念のため一歩、ドクターから距離を取った。他人の手が発症した際に危害を加えないためだ。
司が来たらぶん殴ると決めている相手に対してその心遣いがいいがあるのかどうかは棚上げしておく。実際殴れるかどうかもわからないことだし。とりあえずの用心だ。
「怯えなくていい」
ドクターは言う。
「少なくとも、鳥茅杏子──いや、今は伏見司か。伏見司が到着するまでは君には何も生じやしないから」
「・・・なんで」
「何で君がお友達を待っていることを知っているのか。そりゃわかるさ。君のことは何だってわかる」
見透かしたような、どころではない。正真正銘見透かされていた。
「時間繋ぎをしたいのだろう。君の認識としてはそんなところだ」
「・・・。」
会話の主導権を握られて、僕は何も言えないでいる。
もっとも、主導権がどちらにあろうが僕にはドクターに対して問うべきことも話すべきことも何もないのだ。だとすればずっと物陰で待っていればいいものを、何故僕は司の合流を待たずしてドクターに姿を見せたのか。
そのことに理由があるとするなら、司が到着するまでドクターをここに留めておくことくらいだろうか。
時間繋ぎ。
なるほど、ドクターの言うことは間違ってはいなかった。
「ふむ。沈黙はあまり好きではないから、そうだね私が勝手に喋るとしよう。何がいいかな──」
言いつつ、ドクターはおもむろに自分の服の内側を弄りだした。
「ああ、これこれ」
何処に入っていたのか、服から引き出した右手には文庫サイズの薄い本が掴まれていた。
背表紙はなく、タイトルもない。真っ白な本。もしかしたら日記帳か何かかもしれない。
「ええと、どれが合うかな・・・と、これだ」
ぺらぺらとページを捲り、中ほどで手を止めた。
そして僕の目をちらりと見た後、ページに目を落とした。
「これはとある青年の物語だ。彼の青年は恋をしていた。相手はどこにでもいるような普通の女の子だが、青年の目にはかけがえのない宝石のように映った。一目見たときに青年は恋心を抱いた。とても熱い恋、情熱的といって構わない程に。青年は幾多の苦難を乗り越えて、長い歳月を掛けてその恋を成就させた。我が人生の極みを得たりと青年は喜んだが、数多の物語がそうであるように、青年には理不尽な不幸が訪れた。恋人の乗った飛行機が墜落してしまったのだ。あまりの絶望に事故の知らせを受けて青年は三日三晩泣き続けた。しかし四日後、奇跡は起こった。恋人が帰って来たのだ。恋人の話に寄れば、それこそ天文学的幸運に恵まれなければ起こりえないような偶然の積み重ねにより、無事生還したとのこと。青年は大いに喜び、そしてまた幸せな日々を送り始めた。──と、ここで話が終わればよかったのだがそうはいかない。恋人は青年に重大な事実を隠していた。秘匿していたこととは、青年の愛した人は既にこの世を去っているということだった。事故から四日後に青年の前に姿を現した『恋人』は本物の恋人ではない。実は青年が愛した女性には青年も知らなかった双子の妹がいた。本物の恋人は双子の姉。四日目に青年の前に姿を現したのは妹の方だったのだ。あまりにも瓜二つで両親ですら区別がつけられないような姉妹だった。涙に暮れる青年のためにと妹は姉のふりをして青年の元へ現れた。そして青年は幸せな日常を取り戻した。真実に気づくまでは幸せな、そんな日常を」
ドクターは白い本を閉じた。
「佐々部君はこの青年が幸せだと思うかい?」
「・・・僕には滑稽としか思えないけれど」
黙っているのもばつが悪いので、素直に感想を言った。
「滑稽か。君にはこの青年が道化にでも見えたと」
「ああ、真実に気づけよと思ったよ」
「しかし気付かなければこの青年は幸せだよ。愛する人が傍にいてくれる。青年が気付きさえしなければ彼を囲む世界は概ね正常に回る」
「でもそれは、周りの理解があってこそだろう。理解と言うよりも負担だな。周りが苦労して舞台を整えてくれてこそ回る世界だ。そんなものが正常と言えるはずがない」
「そうだね」
乾いた声で僕を見ながらドクターは頷く。
「でもね、私はこの話を読む度に思うんだ。青年は本当に真実に気付いていないのだろうかと。普通気付かないだろうか、いや気付くはずだ。長年恋焦がれてようやく心通じた女性とその妹。違いなんて探すまでもなく次々と現れるに決まっている。いくら妹が姉の振りをしようとも、必ず差異は現れる。なのに何故青年は気付かないのか。佐々部君にはわかるかな」
「何故も何も、そういうお話なんだろ、その物語は。青年の滑稽さとかそういったものを強調するための」
「違う。そうじゃないんだよ」
僕の言をはっきりとドクターは否定する。
「この青年は真実に気付かないのではなく、真実に気付いていない振りをしているだけだ。実のところは恋人の真実に気付いている」
「じゃあなんで──」
「そう何故、青年は騙されている振りをしているのか。簡単さ、騙されていたいからだよ。認識してしまうのが怖いんだ。恋人の死を自分の現状を理解してしまうのが怖い。だから自分で自分の認識を誤魔化している。自己暗示で自分で自分を騙し、認識を別のものにすり替えている。騙されているという事実すら騙して隠す。そうしている間は、恋人は生きているということになるから。この物語はね、誰もが優しくそして嘘つきな物語なのさ」
ともすれば青年だけでなく、双子の妹や両親すらも青年の恋人の死を受け入れることができずにいて、そのために青年をそして何より己を騙しているのかもしれない。
認識をずらしている。
それはとても、そうとても・・・。
「気持ち悪いな」
誰も彼もが死んだ人間を生きているかのように振舞って、虚構で現実を塗りつぶしている。
「まあそれが素直な反応だろうね。第三者の視点としては」
先程よりもより強く、ドクターは僕の目を見据えていた。
左腕の疼きはまだ収まらない。
「でも知っているかい、人は誰だって現実を歪曲して生きているんだ。プラシーボ効果というものは知っているかな」
「思い込みが肉体に作用するっていうあれか」
医者に薬だと言われて飲んだものが実はただのビタミン剤であっても薬としての効果が現れる、とかそんな話だったはず。
「そう。思い込みと言うよりは認識だね。一度こうと理解してしまえばそうとしか捉えられなくなる。プラシーボ効果は実際に何か変化があるというわけではない。変化したつもりになるというだけなんだ。脳の働きによって肉体から送られてくる信号を無視する。当然さ、最終的に信号を処理するのもまた脳なのだから。これだって現実を否定し虚構を受け入れていると言える」
「まぁ、そうだな」
一体ドクターが何を言わんとしているのか僕にはわからない。青年の話と偽薬効果の話が根本的に一緒ということがどうかしたのだろうか。
「佐々部君は偽薬に対して嫌悪感を抱くかい?それを処方する医師に対して敵愾心を持つだろうか?もしくは偽薬を服用して健康に向かう人間を滑稽だと感じるだろうか」
「いや、そんなこと──」
僕は口ごもりながらも否定する。
「おかしいよね」
ドクターは言う。
「佐々部君はさっき青年の話は滑稽だと言った。私の解釈を聞いた後は気持ち悪いとも言っただろう。理解しがたいと思ったのだろう。だとしたら根本の部分で似通っている偽薬に対しても君は気持ち悪いと感じるべきなのではないかな。騙される人間を滑稽だと嘲るべきではないのか。真実を捻じ曲げて認識を誤らせていることはどちらも一緒なのだから」
──なるほど。
と、思ってしまった。ドクターの言うことがそれなりの筋を通しているように感じてしまった。だが違う。
「確かに偽薬を効能のある薬だと思い込んで、認識して、そして狙い通りの結果に繋がるのを見れば、ある種の馬鹿馬鹿しさを感じることは否定しない。僕はきっと偽薬をそういうものとして感じるだろう。もちろん人がそれで健康になれば感心するだろうし、それが知人であれば処方者には感謝もするだろう。けれどその過程に関しては幾ばくかの滑稽さを感じるだろうということは否定しない──けれど」
そう、けれども、だ。
「青年の話を、その解釈を気持ち悪いと思ったのは、それが騙される側の意思も含まれているからだ」
自身のために、自分の心の安寧のために、自分自身に嘘を付く。虚偽を是とし、真を否定する。大切な人の事実に対してすら目を閉じるようなその姿勢。僕はそれを気持ち悪いと思ったのだ。
「真実は厳しいものであったとしても、心を痛めるようなことだとしても、虚偽で自身を庇うような真似をするのは間違っている。それは相手と、そして何よりも自分への冒涜だ。僕はそれが気持ち悪いと言ったんだ」
そう言って、ふと気付く。これはただの雑談で、ただ単に司が到着するまでの時間稼ぎなのに。何故僕はこんなにも真剣に喋っているのだろう。
何故こうも左手が疼くのだろう。
「なるほど、難儀な性格をしているのだね佐々部君は」
見間違いだろうけれど、その時のドクターの目には哀れむような光が宿っているように僕には見えた。
「間違っているとまで言うとはね。それが佐々部君の基準に近いものなのかな。自分への冒涜、成程、やはり君たちは興味深い。一体全体どうしてこのような状況になるまで放置しておかれたのかはとんと検討はつかないけれど・・・」
ぶつぶつと自分の世界に入り込んでドクターは独り言を呟き始めた。
僕がそれを気持ち悪いと思っていると、不意にドクターは顔を地面に向ける。体を前傾させ、痛みを堪えるように片手でわき腹を抑えだした。
何事かと身構えたが、直後にドクターは勢いよく顔を上げ、笑い始めた。
「はは、ははははは、はははははははは」
大口を開けて、山に響かせるように大声で笑う。
「何が──」
何がそんなに可笑しいのか。ドクターは笑い続ける。
「ははははは、──はーっ、はーっ、く、ふふ」
暫し笑った後、ドクターは息を整え、こみ上げてくる笑いを何とか押さえつけたようだった。
「あー、すまない。いや本当に申し訳ない。こんなに笑うつもりはなかったのだけれど。あまりにもあんまりな状況に私も我慢が限界だったみたいだ」
「で、何がそんなに可笑しかったんだ」
「大したことでは無いけれどね。ただ佐々部君の左手だって同じだということに、君が気付いていないのが面白くてね」
僕の左手を指差してドクターは言う。先ほどから疼いてしかたがないこの左手を。
「え?」
「実際に肉体に変化が起きたわけじゃない。脳からの信号も腕を通る指令も、全て正常だ。しかしそれを認識できていない。異常であると思い込んでしまっている。だからこそ、その手は佐々部君の制御を外れて、制御不能であって欲しいという思い通りに動く」
「何を言ってるんだ」
「佐々部君の左手がおかしいわけじゃない。不具合をきたしているのは君の認識さ。自身の発した指令がわかっていない。その左手は本当のところ、君の考えで動いているんだよ」
僕は右手で自分の左手を掴む。暴走してしまう前に抑えておく。
認識だの異常だのと色々言われはしたが、しかし僕はドクターの話を一遍たりとも飲み込んでいない。理解する前に、特大の疑問が、最大級の気付きがあったからだ。
「何でお前が僕の左手のことを知っているんだ?」
何をおいても訊かなければならないことだった。
僕が笑われた理由とか、エイリアンハンドが実際どうなのかとかそれ以前の問題として、僕はこれを問い詰めなければならない。
しかしそれに対するドクターの解答は明快だった。
ドクターは特に引っ張ることもなく、普通に口をひらき、事も無げに言った。
「当たり前だろう。それは私が君に与えたものなのだから」
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