第17話 返送される重み

 エイリアンハンドシンドローム、別名他人の手症候群。

 これまでも折に触れてその不便さ、生活における弊害は語ってきたつもりだが、それだって全てを語りつくしたわけではない。いや、これまで出てきたことなんてほんの一旦だと言っても構わない。

 常に誰かを傷つけてしまう心配をしながら、いつ自分に凶行が向けられるかと怯えながら生きてきた。

 この症状の範囲が左手よりも広範囲へと拡大したら、そんな考えに囚われて眠れない夜もあった。

朝起きたら両手が、ともすれば足まで、僕の中が他人と置き換わっているかもしれない。それは考えるだけで恐ろしかった。その可能性が零でないという事実もまた同様に。

毎朝起きるたびに自分がちゃんと生きていることを確認する。右手をゆっくりと動かしたら、右足、左足の順に動きを確認する。一通り終わった後に左手の確認。正常に動くことを自分に言い聞かせ、ようやく登校の支度を始められる。

ゆっくりと慎重に。周りに目をやりながらも常に自分の感覚を確かめながら。

何年も続けていれば馴れはするけども、そんな毎日が苦にならないかと問われれば、勿論僕はこう言うだろう。

──大変に決まってる。

 毎日毎日七面倒だ。

 それもこれも僕の左手に巣食う他人の手のせいであり、これが精神症である以上その責は僕に帰結するのだと諦観していたけれど・・・。

「このエイリアンハンドを僕に与えたのがお前だと、そう言うのか『ドクター』」

 ドクターは一度目と同じように淡々と口を開く。

「そうだよ。そう言った。その左手は僕が佐々部君に与えたものだ」

「嘘を吐くならもっとましな嘘を吐けよ」

 この左手がドクターに与えられたなんてことはありえない。それは他ならぬ僕自身がはっきりと断言できることだ。

 二年前の遊園地。そこで僕らを捨てた父親によって与えられた心の傷。僕のエイリアンハンドはそれをきっかけとして発症したのだから。そこにドクターが介在する要素など皆無だ。

 なにより、

「僕がお前に初めて会ったのはつい先日のことだ。それ以前には、僕はお前に関わったことなど一度もない」

 辻褄が一つもあわない。まったくの嘘だと断言できる。

今の僕にとって問題は何故ドクターがそんな嘘を吐くのかということだ。ひょっとして、僕を動揺させてこの場から退散しようとでもしているのだろうか。

ドクターの言葉に惑わされぬよう、僕はドクターを見据える。

「まあ、佐々部君の認識ではそうなのだろうね。実際、あの時のことを覚えているのなら、君は現状に納まっているはずがないのだから」

 ドクターは一歩僕に近づき、ゆっくりと頷いた。まるで何かを確認するかのように。

「ふむ、ふむふむ。やはりその辺りから紐解く必要があるのか」

「何を言ってるんだ」

 いよいよ限界だった。僕は別に直情型の人間というわけではないが、これ程までに不透明な言動に付き合いきれるほど気が長いわけではない。

 そして心が乱れれば左手の制御も十全ではなくなる。

 そんな僕の心を見透かすように、ドクターは言う。

「そろそろスイッチが入るか。よろしい。役者も揃ったことだし説明してあげようかな」

「役者?」

 気付けばドクターは僕を見てはいなかった。ドクターの目線は僕の後方へと向いている。

 目線につられるように振り返った先には司がいた。ようやく到着したのだ。

「佐々部、よくぞ見つけてくれた」

 嬉しそうに拳を握る司。

「一体何の話をしていたかは知らねえが、俺が到着する前に退散しなかったことを後悔させてやるぜ」

 一歩踏みしめるごとに司の威圧が増している。体は女子高生のものなのに、僕ですら背中に嫌な汗が一筋伝わった。

 そんな司にドクターは意に介した様子はない。至って普通だ。

「やあ鳥茅杏子・・・もとい、伏見司君。私と佐々部君の会話かい?何てことはないよ。ただ、彼のエイリアンハンドを治療してあげようとしていただけさ」

「え?」

 声が漏れたのは司ではなく僕だった。

 そんな話はしていなかっただろう。

「ああ、いや。まだそこまで話は進んでいなかったね。佐々部君、私としては話の結びはそこに帰結するつもりだったのだよ」

 あっけらかんとドクターはそんなことを言う。

「・・・。」

 それは、確かに一度は願おうとしていたことだった。そもそも僕がドクターを探していた理由がこのエイリアンハンドの治療である。

 けれど、それは司の話を聞いてやめたはずだ。司をこんな目に遭わせたドクターに願うことなど何もないと、思いを断ち切ったはずだ。

「佐々部」

 司は僕の横に並び立つ。その声に先ほどまでの剣はない。

「僕は・・・。」

 目の前に治療の可能性が提示されて、浅ましくも僕の心は揺れている。

 話はまったく信じてはいないけれど、もしも僕にエイリアンハンドを植え付けたのがドクターだとしたら。その治療法を知っていてもおかしくはない。

 自分で乗り越えるしかないと思っていたこの現状を誰かが打破してくれるかもしれない。それは果たして幸せなことなのだろうか。

「なあドクター」

 固まる僕の隣で司は言う。

「本当に佐々部から他人の手を取り除けるのか」

「造作も無い。それが今の佐々部君にとって幸か不幸かは別としてだけれども。そう、取り除くだけに関しては問題はない」

「だったらもう一つ」

 司の言葉の調子が変わる。より一層硬質なものに、まるで何かを決意するように。

「この体に、鳥茅杏子の魂を戻すことはできないか」

「司、それは」

「佐々部はちょっと黙っていてくれ」

 僕を手で制し、司はドクターと向き合う。

「ずっと考えていたんだ。この体で俺は生きてきちまったけど、本来なら死んでいなきゃおかしいんだって。運命なんてものがあるのかは知らないが、あの時伏見司の体が死んでしまうことが決まっていたなら、俺の魂だけが残ってるこの状況はおかしいんだ。だから」

「だからその体を鳥茅杏子に返したい、と。君はそう言うのかい」

 司は頷く。

「そうだ、この体にあるべき魂を戻す。ドクター、答えろよ。できるのかできないのか」

「魂を戻す?そんなことはできない」

 ドクターの答えは簡潔だった。

 答えを聞いて、僕は僅かながら安堵する。それが司の願いだとしても、司が消えてしまうのは嫌だと思ったからだ。

 しかしドクターの答えには続きがあった。

「できないに決まっている。何せ魂なんてものは存在しないのだから」

「は?」

 司の間抜けな声にドクターは苦笑する。

「そこの部分なんだよね。私の計算違いというのは、もっと早くにこのことに気付いて然るべきなのに、やはり片割れが消失したことは思いのほか影響が大きかったか」

 それは僕らにではなく自分自身に言い聞かせるような言葉だった。

 ひとしきり呟いた後、ドクターは司に目を向ける。

「大前提の話になるのだけれどね、伏見司君、いや鳥茅杏子さん。君たちは体の入れ代わりなんて起きてやしないんだよ。ありえないだろう。昭和の名作じゃないんだから、体の交換なんて」

「いや、だって。現に俺は杏子のこの体の中に、いて。魂は・・・ここに」

「だから、魂なんてものはないのさ。まずはそこから理解してもらわないと」

 司の動機が激しくなるのが端から見てわかった。今や肩で息をしている。しかし状況に追いつけないのは僕も同じだ。

「お前は、七年前に司の体と杏子の体を入れ換えたんじゃないのか」

「違う。そんなことはしていない。というか、できない。脳を取替えでもしない限り体の交換なんてできるはずもない。そして、現代医学では脳の交換はまだできない」

 当然のことを説明する。

 ドクターの言うことは至極もっともだった。

「私が七年前に二人に行ったのは、ただの暗示だよ。体が入れ替わったように錯覚させた。行ったのはただそれだけ」

「暗示?・・・そんな馬鹿な」

 司は頭を振りながら否定する。

「そんなわけない。だって、だって俺には七年より前の記憶がある。伏見司として生きてきた記憶がしっかり残ってる。入れ替わりがただの暗示なら、俺の記憶しているのは鳥茅杏子の記憶じゃないと辻褄が合わない」

「そのために君たちには下準備をしてもらったんだ。鳥茅杏子が自分を伏見司だと思い込むように。伏見司が自分を鳥茅杏子だと思い込むように。お互いの生活サイクルや癖、身の回りのことから趣味嗜好に至るまで報告しあってもらっただろう。生まれてからそれまでの記憶も細部に至るまで、覚えている限り話してもらったはずだ」

 一つ、お互いを教えあうこと。二つ、お互いを観察すること。七年前、ドクターに入れ代わりを願った際にドクターから司と杏子へ課せられた条件。二人はそれを一ヶ月続けていた。お互いのことを完璧に理解できるようになるまで。相手の記憶を自分の記憶と呼べるレベルまで。

「だから君は幼少期の伏見司の記憶を持っている。実際に体験したことではなくても、実際に体験したと錯覚できる状態になる程の知識として」

「だったら!だとしたら、俺は一体何なんだ。この、今この場にいる俺は!」

 その司の声は、まるで叫ぶようだった。一人ぼっちの獣が暗闇に向かって吼えるような、虚勢と恐怖の入り混じった慟哭に聞こえた。

 そしてその声に冷たい刃を振り下ろすように、ドクターは答える。

「鳥茅杏子さ。七年間、自分を伏見司と思い込んでいただけの少女だ」

「──っ!」

「君の最初の質問により正確に答えると、魂を戻すなんてことは無理だ。何度も言うが魂なんてものはない。ないものは扱いようがない。しかし鳥茅杏子の体に鳥茅杏子としての自我を戻すことは可能だ。簡単かどうかは別として、可能ではある。さあ、どうするのかな。勿論、決定権は君にある」

 司の個人で処理できる容量がすでに限界を向かえていることは端から見て充分にわかった。自分が自分でないと突きつけられて、正常でいられるわけがない。決定権がどこにあろうとも、今の司に答えなんて出せるはずがない。

 だから、それは当たり前の結論だったのだろう。

 司は、

「考える時間をくれ」

 と言って、目も合わさずにドクターとは反対方向へ歩き始めた。つまりは境内の外へ。

「司・・・。」

 僕の呼びかけに司は振り向かないまま足を止める。

「すまない。一人になりたいんだ」

「・・・。」

「それに俺が割り込んじまったけど、佐々部は佐々部でそいつと話をしなきゃならないだろ。だから、ごめん」

「──ああ」

 僕の声が聞こえたかはわからないが、そのまま司は自転車に跨って坂を下って行った。もう追いつけない。追いつけたところで何を言えばいいのかもわからない。

 そして、そう、僕にはまだここでやらなきゃいけないこともある。

「でもその前に、自分自身の前に、僕はお前に訊かなきゃいけないことができたよ。ドクター」

 精一杯の怒気を込めてその名を呼ぶ。

 もちろん、こんなことでドクターはたじろぐこともない。いなくなった司から目線を僕に戻し、ドクターは変わらずにいる。

「何かな、佐々部君が私に訊かなきゃならないこととは」

「どうしてお前は二人に、伏見司と鳥茅杏子に暗示なんて掛けたんだ」

「それはまあ、二人が望んだからね。お互いの入れ替えをこの私に望んだんだ。私はそれを実現可能な手段で実現しただけさ」

 表情を一切変えず、ドクターは答える。悪びれる様子もない。当たり前のことを当たり前に返答しているといった風だった。

 僕はしばらく待ったが、しかしドクターの言葉はそれだけだった。

「え?それだけか?理由とか、動機とか無いのか」

「佐々部君。君は私を何だと思っているのかな。私はね、『ドクター』なんだ。ただ望まれたことを実現するだけ。それ以上も以下もない。私がやることに意味なんてないんだよ。いや、意味はあるのかもしれないが、それは願った君たちが持ち寄る意味でしかない。私に主体性などなく、ただあるがままに叶えるだけだ。そこを履き違えてもらっては困る」

 つまるところ『ドクター』は装置でしかないと、そういうことだろうか。ただ願いを聞いて実現するだけのもので、ドクターは何も目的としていないと、そう言っているのか。

「悪意を持って、司と杏子に暗示を掛けたわけじゃないのか」

「悪意なんて持ちようがない」

「理由があって、暗示なんていう手段を取ったわけではないのか」

「理由は願う側にしかない」

「じゃあなんでお前は、伏見司と鳥茅杏子を長期間放置したんだ。すぐに元に戻せるのなら、どうしてそれが今日なんだ。何故もっと早く元に戻してやらなかった」

 今日まで七年間、鳥茅杏子の中に伏見司は生きてきた。真実がどうであるかはこの場合別として、伏見司としての自我が鳥茅杏子の中で長期間生きてきたのは事実である。そのせいできっと今、司は思い悩んでいるはずなのだ。

 七年と言う歳月、自分をそうだと認識して生きてきたのだから。

「そこは一つの勘違いだね。私にとっては計算違いでもあるのだけれど」

「計算違いとはどういう意味だ」

「鳥茅杏子と伏見司に施した暗示は、持って一年程度のものだったんだ。早ければ半年でも解けるかもしれない。そんな類の暗示だよ。長いスパンで騙そうとするならそれ相応の作業が必要になってくる。更新作業みたいなものなのだけれど、そもそも一度だけでそのさき延々と効き続ける暗示などないということさ」

「でも現に、」

「そう。実際、鳥茅杏子は暗示に掛かり続けている。理由はきっと伏見司の死だろうね」

 伏見司は、少なくともその体は伏見司と鳥茅杏子がドクターに入れ換えを施されてから半年後に交通事故で両親諸共死亡している。

「伏見司の死が鳥茅杏子の精神に与えたダメージは大きい。恐らく鳥茅杏子の中にある司としての自我は伏見家の死を考えるたびに強固になっている。『自分の体は死んだが魂はここに残ってしまった』とね。これはある種で更新作業と言える。本来ならお互いに観察し合うことで綻びが出てくる筈だったのに、彼女は早々にその相手を失ってしまった。ゆえに、伏見司の自我が鳥茅杏子の中に残り続けている。そしてそれは私の想定外、つまり計算違いだ」

 ドクターの話が真実であるという確証はどこにもない。それがわかるのはドクターのみである。しかし僕は何故かこの話を疑うことはなかった。

「つまり、お前の想定ではもっと早くに二人は元に戻っていたと、そういうことなのか」

「そうだね。私が手を加えるまでもなく、一年以内には元に戻るはずだった。だから放置していたのだけれど、いやはや経過観察はしておかないと駄目だね」

 昨日ドクターに会ったとき、こいつは確かに驚いていた。未だに伏見司としての自我が鳥茅杏子の中にあることはドクターの思慮の外だったということはその反応からもわかる。

「昨日それに気付いて、だから元に戻してやろうとしているということなのか。それもまた身勝手な話だけれど」

「戻すというのはあまり真実を射てはいない言い回しだけれどね。あくまであの子は鳥茅杏子だよ。自分を伏見司と思い込んでいるだけの少女だ。でもまあ概ね佐々部君の言う通り。私がやり残したことは清算しておかないと、と思ってね」

 気付いたから片付けておく。ドクターにとってこれはその程度の話なのだろう。

「とは言っても、あっちは本人の意向次第というところがあるのだけれどね。彼──ではなく彼女があのままでいたいと願うのなら、私としては強制はできない」

「それもまた無責任な言い方だな」

「願いが個人のものである以上、責任も本人に帰結して当然さ。そこは甘えちゃいけない。そして、それは君も同様だよ。佐々部君」

 口調は変わらない。相変わらず抑揚のない声ではあった。しかし僕はドクターのその言葉に責められているような気がしてならなかった。

「私がやり残したことは一つじゃない。というより、元は佐々部君のエイリアンハンドを修正しようと思っていたんだよ。鳥茅杏子の件はついで、というか追加事項とでも言おうか」

「元はって何だよ。僕達がお前を探していたんだぞ。別にお前が僕達接触しようと思っていたわけじゃないだろう」

「『ドクター』に会うには条件がある、とは聞いたことがあるだろう。あれは真実だ。一つの例外を除けば、私に会えるのは私が会おうと思った人物に限られる。ゆえに鳥茅杏子は七年間私を見つけることができなかった。何分もう会う必要はないと思っていたからね」

「なんだそりゃ。なら何故今僕はお前に会うことができているんだ」

「だから言っただろう。佐々部君のエイリアンハンドを修正しようと思っていたんだよ。私は君に会う必要が会った。ゆえに君は私に今会えている。そういうふうにできているんだ」

 前に司が言っていたドクターに会うための資格。それが今ドクターの言っていることなのだろうか。

伏見司と鳥茅杏子の件はドクターの中で完結していて、入れ代わりがまだ続いていることがドクターの予想外なのだとしたら、確かにドクターから会おうとは考えないだろう。だから司は今までドクターに会うことができなかったと、そういうことなのか。

「何で、何で僕のエイリアンハンドを治療するんだ?これを僕に与えたのがお前なのだとしたら、おかしいじゃないか」

「それが君の願いを叶えるための一環だからだ。ただエイリアンハンドを与えるだけじゃ願いの半分しか叶えていないからね。全てを叶えるにはそれを治療しておかなければならない。私がやり残したこととはそれだよ。期間としては二年くらいが丁度いいと考えてね」

 わからないことが多すぎる。そもそもの話をすれば、僕のこの他人の手は僕自身の心から産み出たはずのものなのだ。そこに他者が介入しているというところから疑わしい。

 僕は言う。

「お前が何を言っているのかわかんねえよ。まったくその記憶はないけれど、なら僕は二年前お前に何を願ったんだ?何を求めてこうなった?教えてくれよ、知ってるんだろ」

 答えれるものなら答えてみろと僕は吼える。

「勿論教えるとも。そのための今だ。ただし覚悟はしておいてもらいたい。今の佐々部君には酷な話だからね」

 僕は頷く。

 ドクターは口を開く。

「二年前のあの日、とは勿論君の左手にエイリアンハンドが発現した日のことだ。私からすれば君にエイリアンハンドシンドロームを植え付けた日と言い換えることもできる。その日何が起きたのか、君は覚えているだろうか」

 ドクターの言葉で僕はあの日を思い出す。いや、忘れた日も意識しない日もないのだ、思い出すのではなく強く意識しなおしたと言うべきだろう。

二年前の夏の日。僕が弟と共に遊園地へ行き、そこでかつての父を見つけ、僕は心に傷を作った。歪な傷から漏れ出したものが僕の左手に溜まり、その産声と共に僕は真を傷つけたのだ。

「覚えているとも。忘れるはずがない」

 僕の、僕だけの抱える記憶──のはずだったのだが。

「そうだろう。佐々部君がかつての父上との予期せぬ再会を果たした日だ。忘れることは難しい。忘れられたら楽だったのだろうけど」

「何で──。」

「何故私がそれを知っているのか。それは勿論聞いたからさ。仔細違わず聞き取ったからだ」

「誰からだよ」

 僕以外にあの日のことを知っているのは真だけだ。その真ですらあの日、あの場所に父がいたことは気付いていない。だから、父のことを知っているのは僕だけだ。

「当然、佐々部君から聞いた」

 瞬間、僕は固まる。

「嘘だ。僕はお前にそんな話をした覚えはない。いや、それ以前に何度も言うように、僕はついこの間までお前と出会ったことなんかないはずなんだ」

「それは君の記憶ではそうなのだろう。しかし、事実はそうではない。私と君は出会っている。それも二年前のあの日に」

 知らない。僕にそんな記憶はない。なのにどうして、その言葉を聞くだけでこの体は震えているのだろう。

「佐々部君が私に何を願ったか、という話をまずしておいて方がよさそうだな」

「言ってみろよ。出会ってないはずのあの日、僕はお前に何を願った?」

「救済と免責だ」

 それは全く予想もしていない言葉だった。

「君は私にそれを願った。弟を傷つけた罪から自分を救って欲しい、あの日の夜、君はそう言ったのさ」

「夜・・・?」

「あの日の夜、佐々部君と真君が帰宅してから何が起こったのか、君の記憶している通りに話してみてくれないか」

 それは先生が答え合わせの為に生徒に回答させるようなニュアンスだった。僕に答えさせることが目的の促し。

 慎重に回想しながら僕は言う。

「家に帰って、母の帰りが遅いことはわかっていたから夕食の準備をしようとしたんだ。真はリビングにいたけど、僕が台所に立っていたら近くに寄ってきて・・・それで」

「それで?」

 いい淀む僕をドクターは促す。何故かはわからないが知っている癖に。

「手が、勝手に動いて。食材に向けていたはずの包丁がいつのまにか真に向かって振り下ろされていて、僕は、僕が、真を傷つけて──。」

「続けて」

「そこで一度意識が飛んだ。気がついたら家の前で倒れていて、家に駆け込んだら真が血を流して倒れていたから救急車を呼んで、その後でもう一度意識を失った。目を覚ましたのは翌日だ」

 思い返してみたが、やはりドクターと会ってはいない。

「やはり記憶に、不鮮明な部分があるか」

 ひとりごちるようにドクターが呟いた。

「佐々部君が私と出会ったのはまさにそこだ」

「そこ、とは?」

「佐々部君の意識が飛んだ部分さ。一度目、弟の真君を切りつけた後、君の意識は一度飛び、そして何故か屋外にいた。その間で私と君は出会った」

 ドクターは自身と僕を交互に指差す。

「不思議に思わなかったのか?自分が勝手に移動してしまっているその出来事を。何故もっと深く考えようとは思わなかった」

「手が勝手に動いたんだ。体も勝手に動いたと」

「それは都合のいい解釈だ。違うだろう。佐々部君はそこに意識を向けるのが怖かったんだ。覚えていたくなかったから、記憶を自ら消した。違和感すらも捨て置いた。二度目に意識が飛んだのは君の許容量を超えたとかそんな問題ではない。一度目を際立たせないために自ら意識を飛ばしたのさ。何かしらの理由があれば意識くらい飛ぶだろう、深く考えることではないと自分自身に暗示をかけるためにね」

 聞きたくない。単純にそう思った。これ以上ドクターの話を聞くことを体が拒否している。意識しては駄目なのだ。気にかけてはいけないのだ。

 誤魔化すために僕は言う。

「辻褄が合わないじゃないか」

 酷くかすれた声だった。自分のものだとは思えないような。

「僕がそこでお前に出会ったのだとして、救済やら免責やらを願ったのだとして、その結果としてお前が僕にエイリアンハンドを植え付けたのだと言うのなら、時系列が成り立たない。それとも僕はその段階から間違えているのか」

「成り立たない時系列とは何かな」

「お前の言うとおりなら、僕が真を傷つけた後に僕とお前が出会っていることになる。でも真を傷つけたのはエイリアンハンドだ。この他人の手が傷つけたんだ。お前と出会う前にだ。エイリアンハンドがお前によって植え付けられたのだとしたら、順番がおかしいじゃないか」

 自分でも何を言いたいのかわからなくなってきた。だってそうだ、もしもこのエイリアンハンドシンドロームがドクターに発症させられたものだとすれば、真を傷つけたのはドクターのせいだということになる。そういうことにできる。ならばドクターの言うとおり、エイリアンハンドは自ら発症させたものではないとした方が僕にとっては都合がいいはずなのだ。

 はずなのに。

 僕の心は頑なにドクターの話を拒否しようとしている。否定しようともがいている。

「そこまでくればもう答えの一歩手前なんだけれど」

 その時のドクターの顔は脳裏に焼きついている。哀れみながら呆れている、とても形容しがたい面持ちで、死刑宣告をするように言った。

「佐々部君の弟を傷つけたのはエイリアンハンドではない。君自身が、君自身の意思で傷つけたのさ」

 救済と免責、僕が望んだ二つの願い。

 ああ、聞くんじゃなかった。

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