第23話 この荷物を下ろしたら

四月五日

  小学五年生になった。今日から五年生の日記を書く。去年は半分でやめてしまったので、今年は最後まで書きたい。


四月八日

  今日は学校で体育をやった。体育の時間は大好きだ。ダイもそう言っていた。学校の授業が体育だけならいいのにと思う。でもそうはいかないのだ。


四月十三日

  先生が明日は大事なお知らせがあるといっていた。何だろう。テストじゃないといい。テストじゃないはずだ。テストじゃないよな?テストかもしれない。算数の宿題はまだやってない。晩御飯の後でいいや。


四月十四日

  転校生が来た。先生が昨日言っていたのはこのことだったんだ。でも転校生は女の子だったので残念だ。男の子だったら一緒にサッカーできたのにとても大人しい子だった。初めてで緊張していたのかもしれない。トリカヤキョーコという名前。ユーコみたいに五月蝿いやつじゃないだけましか。


四月二十六日

  ダイとサッカーをやっていると転校生の帰る姿が見えた。誘ってみたけど運動は苦手だと言って断られた。体はユーコより大きいのに、勿体無いな。ダイがスライディングしてきたのでジャンプしたらボールの上に乗ってしまい、ダイと一緒に傷だらけになった。この技は封印しておこう。


五月二日

  学校の帰りに駄菓子屋に行くと転校生がいた。買い食いとかするんだと驚いた。レジでお金を払った転校生は、二歩位歩くとすぐにレジに引き返した。どうやらお釣りが多かったらしい。俺は転校生って正直な奴だなと思った。声を掛ける前に転校生は店から出て行ったので話はできなかった。


五月十日

  今日はクラスが騒がしかった。転校生とクラスの女子の二人が言い合いをしていた。話を聞くと、転校生が猫の行列を見たと言い、それを聞いた女子二人がそんなのあるわけないと声を挙げたらしい。女子二人は転校生を嘘つきと言っていた。俺は何だかムカついたので、トリカヤが嘘なんてつくわけないだろと言ったら、トリカヤと言い合いをしていた女子二人は泣き出した。声が大きすぎたかもしれない。他の女子皆から怒られた。トリカヤからも怒られた。わけがわからない。


五月十三日

  女子全員に怒られた日からトリカヤと少し話をするようになった。トリカヤはいつも本を読んでいるので、たまに内容を教えてくれる。でも俺は本を読まない。読むと眠くなるからだ。だからトリカヤが聞かせてくれる話は面白い。もっとトリカヤと話せるようになりたい。


五月二十日

  ユーコから変な話を聞いた。願いを叶えてくれる人の話だ。ドクターと言うらしい。トリカヤにもその話を教えてやると、驚いた顔をして「私が見た猫の行列はきっとそれだ」と言っていた。やっぱりトリカヤは嘘をついてはいなかったんだ。トリカヤは俺にもっとドクターの話をするようにせがんだ。いつもと逆だなと思った。俺は話をするよりは聞くほうがいいけれど、でもドクターの話を聞くときにトリカヤがまっすぐ俺を見るのでこれも悪くないなと思った。


五月二十四日

  今日もユーコやほかの女子から話を聞いてトリカヤにそれを教えた。考えてみればユーコが直接話をすればいいのだけれど、でも俺はそうしていない。何でだろう。トリカヤが話を聞いてくれている姿を見ていると、俺が話したいと思ってしまうのだ。トリカヤがすごく興味津々で聞くので、いっそドクターを探そうかと言ったら「それいいね」と喜んでいた。そして実際に探すことになった。これで放課後もトリカヤと遊べるのだから俺は嬉しい。


六月二日

  僕たちは放課後毎日ドクターを探している。キョーコに聞いてみたところ、どうやら本気でドクターに願いを叶えてもらいたいらしい。「男の子になってみたい」と言っている。理由を訊いたら、「強くなれるから」と言った。口げんかでは一度も女子に勝ったことがないので、俺は女子の方が強いんじゃないかなと思った。


六月三十日

  久しぶりに日記を書いた。毎日が楽しくて慌しい。書きたいことはいっぱいあるけといっぱい過ぎて書けない。


七月七日

  びっくりした。本当にドクターに会えた。ドクターはいた。実在した。何でも願いを叶えてくれるらしい。本人がそう言った。キョーコとは相談するまでもなかった。二人を入れ替えてくれと頼んだら「準備がいる」と言われた。今日からは今までの全部をキョーコに教えなきゃいけない。全部って、多すぎる。でもキョーコの今までを知れるのは面白そうだと思った。


七月二十一日

  ドクターと会ってからもう二週間だ。お互いに色々なことを教え合っている。キョーコが実はパンを食べられない知った。びっくりだ。給食を毎日残していたのは嫌いな食べ物を人に知られないためらしい。よくわからないプライドだと思った。俺はまだこの日記のことをキョーコに教えてない。あと二週間でドクターに会う日だ。早く言わないと。


七月二十八日

  お互いをよく知るためにキョーコとずっと一緒にいる。クラスの男子からははやし立てられたけれど気にしない。キョーコは困るとよく自分の後頭部を撫でる。多分キョーコは意識していない癖だ。これはキョーコの知らないことに入るのだろうか。でもキョーコのことだからいいのか?授業中もキョーコを見ていた。不思議と見ていて飽きない。


八月三日

  いよいよ明日だ。俺はまだこの日記のことを教えていない。これで入れ替わりが失敗したら俺のせいだ。だけど言えない。日記のことも、俺の気持ちも言えない。この一ヶ月は本当に楽しかった。明日も、明後日もそうだと嬉しい。


一月三十日

  やっと気づいた。私は私じゃない。俺だ。どうして今まで自分がキョーコだと思えていたのかわからないけれど、ようやくわかった。思い出してすぐ日記を読み返した。やっぱり俺は俺だ。伏見司のままなんだ。このことを教えてやろう。元に戻れるということを。


一月三十一日

  言えなかった。言わなきゃいけないのに、でも言えない。教えてキョーコが元に戻ったら、キョーコはきっと俺を嫌うだろう。こんなことに巻き込んだ俺を嫌いになるはずだ。今は同じ問題を抱える相手としてそばにいるけれど、そうでなくなったらきっと。だとしたらもう少しくらいこのままで、でも、


二月一日

  キョーコの顔は暗いままだ。今日も元気がなかった。ごめんと謝られた。「ドクターに願った俺が悪いんだ」と謝られた。それは俺が言わなきゃいけないことなのに。キョーコは伏見司のつもりでいるから。明日こそ伝えよう。たとえ嫌われても、大好きなキョーコがこれ以上苦しまないように、大丈夫だって伝えよう。待っててくれキョーコ、君は君だ。


 *


「それでは、お世話になりました」

 僕は改札を通過した後に振り向いて、司の祖父に感謝を伝えた。

 日差しはもう傾き始めている。橙色に染まった古びた駅はとても趣があって、来たときの印象を一新していた。

「来てくれてありがとうね。また気が向いた頃にでも来られ。杏子ちゃんもな」

 出会った瞬間と何一つ変わらないしわくちゃな笑い顔で、司の祖父は手を振る。

「ありがとうございます。また、きっと」

 ツカサはそう言って手を振り返した。

 名残惜しいがそろそろ時間だ。反対側のホームへ渡らなければ町へと戻れない。

「それでは」

 会釈をして僕達は反対側のホームへと歩き始めた。

「よかったのか」

 隣を歩くツカサに訊く。

「何が?」

 気づいているくせに、ツカサはとぼけた返事をした。

「多分もうこれで、お前が司として会えるのは──」

「いいんだよ。あの人たちの司は俺じゃない」


 司の祖父母宅二階で日記を読み終えた途端に、ツカサは声も漏らさずに泣き始めた。

 一人にしてほしいと言うので、僕はツカサを一人きりで二階に残し、司の祖父母がいる和室へと戻った。

 ツカサが降りてきたのはその二時間だった。その間ツカサが何をしていたのか、何を見て何を思ったのか、僕は知らない。きっとこの先訊くこともない。

 降りてきたツカサは憑き物が落ちたかのように晴れやかな顔をしていた。

 まるでただの少女のような、そんな顔だった。

 その後他愛もない話を少しして、僕達は帰路に着くこととなった。


 電車に乗り込んで、ボックス席に座る。行きと同じく僕達以外には誰も乗っていない。行きと違うのは茜色に染まった山々と風の匂い。あとはツカサが僕の隣に座っていること。窓際にツカサが座り通路側に僕が座っている。

「狭くないか?」

「狭くはないだろ。佐々部だって大きい方じゃないんだから」

「そうか」

 それ以上は何も言わず、二人して外の景色を見る。田畑は黄金色に輝いていて、ただただ綺麗だと思えた。

 電車に乗って半刻ほど経った頃、ツカサは口を開いた。

「結局さ、何から何まで自業自得だったんだよな」

「それは伏見司がってことか?それとも鳥茅杏子のことか?」

「両方だな。惚れた女を振り向かせるためにドクターなんてものに手を出した司も、最初から最後まで気づかず事態に流されるだけだった杏子も、どっちもどっちだ」

 杏子であり司でもあるツカサは、しかしそのどちらでもないように、まるで他人事のように揶揄した。

「まあ、俺が言えたこっちゃないんだろうけどよ」

「そんなことはないだろ」

「そんなことはあるんだよ、佐々部。今日一日過ごしてわかったんだから、この司としての記憶のいい加減さって奴がさ。見るもの触るもの全部初体験だ。自分の祖父母のはずなのに、あんな人たちあったことねえよ。あんな気持ちのいいお人よしなんて、初めてだ」

 僕にはそのときのツカサが泣いているように見えた。表情をよく見ようと試みたけれど、西日のせいでそれは失敗に終わった。

 目頭に軽く触れながら、ツカサは窓の外を向いている。

「しかしまあ、来てよかったよ」

 顔は外を向いたまま司は言う。

「そうか、だったらよかった。僕が無理矢理連れ出したようなもんだから、ちょっと気にはなってたんだ。迷惑だったんじゃないかって」

「ようなものっつーか、無理矢理そのものだったけどな」

「はは……。」

 曖昧な苦笑いしかできない僕。

「でも、悪くはなかった。伏見司の墓参りをしたこと、そして祖父母の家を訪ねたことには十分意味があったよ」

 ツカサは言う。

「伏見司は死んでいたんだな。ちゃんと、伏見司として」

 それは決定的な言葉だ。ツカサが伏見司の死を認めるというのは、何にもまして意味がある。

 この世から伏見司が去った事を認めるということは、つまりこの世に残されたのは鳥茅杏子であると認めるということだ。

 ドクターから聞いた鳥茅杏子の自我を引き戻す方法はツカサが自身が鳥茅杏子であることを認め、そして受け入れること。

 つまり、今のが本心からの言葉であれば、半分は既に達成していることになる。後は受け入れるだけ。

「佐々部、俺は怖いよ」

 ツカサは右手で僕の左手に触れてきた。掴んだわけじゃない、ただ指先が僕の手の甲に乗っているだけ。ただそれだけで、僕はツカサの震えがどうしようもなく伝わってきた。

「うん」

「昨日お前に言ったように、俺は消えてしまうのが怖い。何も残らず、何にもなれず、ただの勘違いの産物として処理されるのがとてつもなく怖い」

「うん」

「けど、それと同時にこうも思うんだ。杏子が生きてる。それは司として考えれば嬉しいことなんだって。消える怖さなんかよりも、忘れられる痛みなんかよりもずっとずっと嬉しいことなんだ」

「そっか」

 左手を動かす。僕の意思で動く左手で僕はツカサの右手を握った。

「こんな状況で、ひどい言葉になるかもしれないけど、一応言っておく。僕はツカサが望むならツカサのままでもいいと思ってる。伏見司の死は認めた上で、君は君として生きていけばいいと本気で思ってる」

 ただ惑わすだけのような言葉。僕が言い終わる前に、左手が強く握り締められた。

「ああ、知ってる。お前俺のこと大好きだもんな」

「大事な友達だ」

「はは、でもさ」

 と、そこでツカサは意地悪そうに笑った。

「俺が鳥茅杏子の自我を取り戻したら、お前は恋人ができるかもしれないぜ。何せこんなに俺を引っ張ってくれてるんだ。女だったら惚れてるぜ。それでも俺はツカサのままでいいのか?」

「い…いいよ」

「ちょっと迷ったろ」

 片方の眉を吊り上げて呆れたようにツカサは言った。

「でもさ、そういう風に何かしらの楽しみを見出してくれよ。俺がいなくなった場合にも佐々部が喜んでくれるような何かがあって欲しいから」

「っ……。」

 言葉にならなかった。何か喋ればそれはそのまま涙になってしまいそうだったから。口を開けば、引き止める言葉が出てきてしまいそうだったから。

 僕にだってわかっている。これが、今が、別れの挨拶だってことくらい。

「佐々部、俺はこの七年間本当に辛かったし大変だったんだ。女の振りして生きることも杏子の振りして笑うことも。でも、お前と会えて話せて、少しの間だったけど俺が俺として振舞えて、楽しかった。それは、それだけはドクターに感謝してもいいと思ってる」

「ツカサ……。」

 僕がツカサと話ができたのはほんの少しの間だけだ。不良に追われて、校舎に隠れたあの夕暮れから今までのほんの僅かな時間。

 それがどれだけ楽しかったか、それがどれほど心踊ったか。

「僕こそ、僕こそだツカサ」

 精一杯左手を握り締める。

 君と出会えて、僕は変わったのだと力の限り伝える。

 ツカサはとても優しく笑った。黄金色に輝く山々を背にして笑った。

「朝から動き回って疲れたな。佐々部、俺寝るわ」

 涙を欠伸のせいにしてツカサは言った。

「──ああ、お休み」

 声が震えないように注意して、僕は応えた。

「じゃあな」

「ばいばい」

 またね、とは言えなかった。


 太陽が完全に沈み、夜の帳が幕を下ろした頃に僕達を乗せた電車はようやく到着駅に近づいていた。

 目的地まで残すところ二駅というところで僕の横で寝ていた女の子が目を覚ました。

 薄く開いた目を擦りながらもぞもぞと体を動かすその子に僕は声をかける。

「おはよう鳥茅杏子さん。どうもはじめまして、でいいのかな」


 *


 翌朝──にまで時間を飛ばせたらよかったのだけれどその前にひと悶着あった。

家に帰って玄関を開けると、母が鬼の形相で仁王立ちしていた。杏子の母親にはデートという理由で話を通していたけれど、自分の親に対する配慮を忘れていたことにこのとき気づいた。どうやら僕が登校しなかったので、学校から母に連絡があったらしい。

この状況は杏子と別れた後に知った。伏見司の家に着いたあたりから鞄に入れっぱなしだった携帯電話を見てみると、数え切れない程の着信履歴があったからだ。

「学校を無断で休むわ親に連絡なしでこんな時間まで遊びまわるわで、何か言い訳はあるのかしら」

 青筋立った顔に明らかに疲れが見えた。きっと、いや間違いなく、母を心配させてしまった。

「あー…その、ごめんなさい」

 釈明はせず、ただ頭を下げた。

 母はそれをみて一つため息をついた。

「いいわよもう。早く手を洗って晩御飯食べなさい」

 言い訳はあるのかと言いながらも、母は僕に理由を追及しようとはしなかった。

 それはきっと母親としての優しさで、そして強さなのだろう。

 玄関で靴を脱ぎながら、一つ言い忘れていたことを思い出した。

「そうだ、母さん。重大発表」

「──何?」

 身構える母に言う。

「左手、治ったから」

「───。」

 五秒ほどの沈黙の後、

「よかった」

 母はそう言って僕を抱きしめた。

「母さん、さすがに恥ずかしい」

「五月蝿い。心配かけた罰よ」

 声が震えていた。言葉通り山ほど心配させていたのだろう。気苦労を負わせていたのだろう。だから僕は一度文句を言っただけで、あとはされるがままに任せた。

 そんなこんながあってようやく翌日。

 母はいつもどおり僕と真よりも早く家を出る。いつもなら母が家を出た後に起きるのだけれど、今日は母の出発よりも早く起きた。

「おはよう母さん」

洗面所でまさに出発の身支度をしていた母に朝の挨拶をする。

「あら、佐々部おはよう。今日は早いのね」

 鏡を見ながら身支度をする母はそれこそ仕事ができる女性といった感じだ

「そういえば左手のこと病院の先生には話したの?」

「まだだよ。学校帰りにでも病院によってみる」

「そう。なるべく早くしなさいよ。それと正式に診断結果が下りるまでは油断しないこと」

「はいはい」

 生返事をしつつ、僕は言う。

「母さん、一つ質問」

「何よあらたまって」

「父さんのこと、どう思ってる?」

「っ──。」

 それは心道家では禁句の事柄。母の息を呑む音が聞こえた。

それでも僕は引かない。

「嫌い?憎い?」

「どうしてそんなことを訊くの?」

「知っておきたいんだ」

 左手が治った以上、僕はもう父に関して心を煩わされることはないだろう。僕の中から父へのわだかまりや拘りなんてものはなくなった。だからこそ、全て捨てる前に知っておきたい。

 これはきっと母には理解できないだろう。説明したって意味がわからないはずだ。だから僕は事細かく言いはしなかった。

「ただ、知りたい」

「そうね、正直なところどうでもいいわ、あんな人。嫌いとか憎いとか、そんな感情もないわけではないけれどそれ以上にどうでもいい。そんなところよ」

「そっか」

 母の言葉が嘘だというのは考えるまでもなくわかる。数日前だってお酒が入っていたとはいえ、それで狼狽していたのだから。だからこれはただの強がりだ。きっと、僕と真のための強がりだ。母さんは強い。弱い部分を補えるほどに強い心を持っている。

 僕はそれ以上何も言わなかった。

「それじゃ、私はもう出るけど真起こしてやってね。あと、今日はちゃんと学校行きなさいよ」

「はいはい」

 本日二度目の生返事。

 玄関を出る直前に母が振り向く。僕の顔を見て、

「昨日は訊かなかったけど、あんたその顔どうしたの?」

 と言った。

 僕はシップを張った左頬をなでる。

「まあ、ちょっと。青春してきた」

「あらそう。行ってきます」

 昨夜同様深くは追求せず、母は玄関を出る。

「いってらっしゃい」

 僕は手を振って見送った。

 その後はいつものように真と一緒に登校する。昨日は送ってやれなかったので若干すねていたが、学校に近づく頃にはいつもの真に戻っていた。

 そして僕は学校へ向かう。

 駐輪場に自転車を置き、昇降口へ向かっていると先を歩く杏子を見つけた。右手には菓子パン、左手には野菜ジュース。いつぞやの光景と被った。

 足早に近づいて、僕は声をかける。

「おはよう杏子」

「ん、ああ、おはよう佐々部君」

 いつぞやと違うのは僕の呼び方と杏子の髪の長さ。杏子の髪はロングからボーイッシュなショートカットになっていた。

「髪、昨日帰った後に切ったのか」

「まあね。心機一転かな。あれ、佐々部君その顔どうしたの」

 杏子はわざとらしく僕の左頬を見る。

「お前がやったんだろ」

 それは昨日の電車でのこと。


「おはよう鳥茅杏子さん。どうもはじめまして、でいいのかな」

 と、僕が言い終わるかどうかといったところで、杏子の拳が僕の左頬に突き刺さっていた。

「がっ……な、何」

「何じゃないわよこの馬鹿!」

 振りぬいた拳で僕の襟首を掴んで杏子は叫んだ。

 いや、これ本当に杏子か?ひょっとしてツカサのままなんだろうか。だとしたら多分に恥ずかしい台詞を口走ったことになるけれど。

「ツカサ?」

「私は杏子だよ。今まで杏子の自我って呼んでいたやつよ」

 僕の襟首を離して座席に押し付ける。

「えっと、何で僕殴られたんだ?」

 左頬をさすりながら涙目で訴える。やばい感覚が薄い。

「腑抜けたこと言うからよ。はじめまして、なんて」

「いや、だって杏子と話をするのはこれが始めてじゃ──」

「あのね、別に自我を認識したからってそれまでの記憶がなくなるわけでも抜け落ちるわけでもないの。自分を司と認識していた時の記憶だってちゃんと持っているのよ。さんざん言ったでしょ認識の違いだって。認識が変わったからって人格が変わるわけじゃない。ただ気づくだけよ」

 心底不愉快だというように、杏子は僕にまくし立てる。

「いや、だってさっき別れの挨拶みたいなのしてたじゃん」

「そりゃあの瞬間はそういう気持ちになっちゃうわよ。私が私だと認識したらどういう変化が起きるのかわからないんだから。でもだからといってこの私をまるで初対面の赤の他人みたいに扱うのは別の話でしょって言ってんの」

「ええー……それはあまりに理不尽じゃ……。」

「うるさい」

 言葉とともに頭をはたかれた。

「っていうか、その口調」

「何よ、佐々部君が私に文句あるの」

「文句っていうか、その口調、ツカサが杏子の振りしてたときと似ても似つかないんだけど」

 むしろツカサに近い。

 僕に対して杏子は深くため息をつき言う。

「佐々部君が言ってるのはツカサが模倣した杏子でしょ。あれは女性としての振る舞いがわからないという認識のもとにツカサが作り上げたものだから、この私とは違って当然なの。それともなに、あんなふうに丁寧語でしゃべった方がお好みですか」

 嫌味っぽくそんな言い方をする。

 僕は苦笑いしつつ、

「いや、今のままでいい。えっと、あのさ、だから僕にはいまいち杏子が怒っている理由がわからないんだけど」

「友達に他人のような態度されて怒らずにいられるか!」

 同じ場所にもう一発拳が突き刺さった。


「今思い出してもやっぱり理不尽だよね」

 昇降口で靴を履き替えながら杏子に言う。

「うん、まあ私も起き抜けで混乱してたってところはあるかな」

 菓子パンの袋を廊下のゴミ箱に捨てながら杏子は顔の前で手を合わせた。

「ごめんね」

 端正な顔立ちでしおらしく僕に謝る。

 しかし騙されないぞ。

「杏子お前、自分が女だってこと自覚的に使ってるだろ」

「ふふ、ばれた?」

「わからいでか」

「でもこれはいい武器だと思うのよ。男としての趣味思考なんかも今までの七年間で勉強できたわけだし。せっかくならどんどん使っていかないと」

 その発想はとても前向きで、とてもよく知る友人と姿が被った。

「杏子、君は」

「私は私だよ。もう自分をツカサだとは思っていない。私は杏子だと認識してる」

 機先を制するように杏子は言い切る。そしてその上で彼女は笑う。

「でも、ツカサが消えたわけじゃない。ツカサとして認識していた時間、その間に見たもの感じたものはちゃんと私の中で生きてる。これも紛れもなく私なんだから。──だからあんまり考え込むなよ佐々部」

 最後の言葉は、それこそツカサそのものだった。

 どちらでも受け入れるといいながらもツカサの名残を探してしまうような僕。

 中途半端で曖昧模糊で嘘吐きで優柔不断でそれでも前向きに進むしかない僕達は、今日も二人で教室に入る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

内包する他人 無秋 @chocomike

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る