第16話 僕と本試験
朝の空気に驚いた。これほど多彩に香るものかと驚嘆した。目が覚めて匂いに気付いたというよりは、匂いに目を覚まされたと言ってしまったほうが正しいのかもしれない。それほどに今日の僕は鼻が効いていた。
無臭だったこの数日間を終えて。
ようやく司の使った薬品も効果が切れたということだ。まったくもって一方的に僕の嗅覚を奪ってくれて、初日は戻らなかったらどうしようかとはらはらさせられたものだが、こうして今日を迎えてみれば、なるほど効果は想像以上のものだった。
もちろん、これは一時的な揺り戻しーー数時間前まで匂いから隔絶されたが故のいわゆる錯覚だということはわかっている。しかしこれだけの錯覚ならば十二分に効力があると言えるだろう。
朝食に至ってはもはや筆舌に尽くし難いものがあった。自分は今日までこれほど美味なものを口にしていたのかと、昨日までの味との差に軽く気を失いかけた。
ともあれ、取り戻した間隔に逐一驚きと戸惑いを持ちながらも、僕は待ちに待った本試験の会場、その訓練者の列に加わっていた。
仮設された壇上で、父が本試験の概要を話している。内容は模擬試験の時と変わらない。
併走、静止、嗅覚、それぞれの試験を行うこと。天幕にいる審査員が評価を下すこと。
そしてーー、
「そして、今回は評価の総合結果により順位付けを行う。といっても全頭を一から並べる必要もあるまい。主席と次席のみ、全頭の評価後にここで発表することとする」
僕としては一番気に掛かっていたところだった。併走、静止、嗅覚とどれも結果が見える形の試験ではあるが、総合的にどの犬が最も優秀であるかは、傍目には評価が付け難いと思っていたからだ。審査員が基準以上の犬を全て一くくりに合格と扱う可能性だってあった。しかしこれなら明白に結果がわかる。白黒付けられる。
簡単な話だ。主席に選ばれれば全ての犬に勝ったことになる。これほど明確な勝利もあるまい。
「では、皆存分に励むように」
父は激励を飛ばし、壇上を後にした。壇上から降りる前に目の端で僕を捉えたようだったが、その表情に変化はなかった。
誰もいなくなった壇上を睨んでいると、後ろから巽が声を掛けてきた。
「さあ櫂季、邪魔になりますよ。天幕で待機しましょう」
「・・・ああ、そうだな」
試験を受ける順番は前回と変わらないらしい。数人の研究員兼訓練者が試験を受けた後、まずは巽、数人を挟んで僕が受けることになる。
「思ったよりも活気がありませんね」
天幕で巽が耳打ちするように小さな声でそう言った。
「なんの話だ巽?」
「周りの訓練者を見て下さいよ。今日は本試験です。社員としてこの宇宙局に在籍する彼らにとっては、業務査定と大差ないはずです。だというのにさして緊張する雰囲気もなければ高揚しているわけでもなさそうです。これはどういうことでしょうか」
「単に冷静なだけじゃないのか。仮にも一線で働く研究員だ。この程度の査定なんか怖くもないんだろうよ」
「もしくは、試験に力を注がない理由があるのかーー。」
言いさして、しかし巽は、
「考えても詮無いことでしたね」
と自ら話を遮った。
訓練場の中央では一人目がそろそろ試験の最終項目を終えようとしている。離れた正面に審査員の天幕があり、その中には当然父の姿がーー、あれ?
「巽、あれ見てみろ」
審査員が並んでいる天幕を指さす。
「あれ、とは?審査員の方々ですか?」
「そうじゃない、その後ろだ」
「後ろ・・・おや。何故ここにあのロシア人が」
天幕の下、立ち並ぶ審査員の中に、数日前に見かけたロシア人達が混ざっていた。
各々が手に審査員と同じく紙と筆記具を持っており、訓練場で試験が行われている中、せわしなく何かを書き込んでいた。
「あの人達も審査員の一員なのか」
「櫂季にもそう見えますか」
「ああ。しかし何でまた客のロシア人に審査をさせるんだろう」
「考えられる理由はいくつかありますが、常識的に論ずるならば、一つしかないでしょうね。彼らは客としてここにいるのではなく、同士としてここにいるという可能性です」
「・・・共同研究か。犬の訓練成果を見に来たと、そういうことか」
「おそらくは」
なるほど、これで一年前にも彼らを見かけたことに合点がいった。あの日は訓練開始の打ち合わせでもしていたのだろう。そして一年が経って、成果の総まとめをするこの日に合わせて来日したということだ。
「巽としては一層やる気が出るところなのかな」
「んー、どうでしょうね。確かに父の故郷はロシアですから、そこの人達の前で訓練の結果をお見せすることには何なにかしらの意味を見いだせそうですが、かといってやることは変わりませんからね。どちらにせよ、彼らを気にして普段通りできないなんてことになったら、目も当てられません」
「その通りだな」
犬の訓練に、その研究にどんな共同者がいようと僕達には関係ないことだ。気にする必要もない。
そうこうしているうちに、二人目の訓練者も試験を終えた。巽は四番目、直前の訓練者が試験を受け始めたら、審査員横の天幕へ移動しなければならない。そこが控え室の代わりだ。
「それでは」
そう言って巽は今いる天幕を離れる。些か緊張した面もちだが、それは僕も同じだろう。
さしたる波乱もなく本試験は進む。
三番目の訓練者も佳境に差し掛かっていた。嗅覚試験で犬は答えに辿り付けていなかったが、訓練者はさして落ち込んでもいなかった。やはり彼らにとってはそこまで結果にこだわるようなものでもないのだろうか。僕としてはできれば拘ってもらいたいのだけれど。でなければ勝つ意義が薄れる。
三番目の訓練者がその場を離れ、続いて巽が訓練場に現れた。その顔から緊張の気配は消えていた。
纏っている空気は普段の冷静で丁寧な巽そのものだった。ここからでもわかる、巽の調子が最高だということは。
巽は訓練場の真ん中に立ち、ムドリェーツを呼んだ。待機場所から少しも軸をずらさず、一直線に、それこそ定規で線を引いたように真っ直ぐ、巽の元へムドリェーツは駆けてきた。手元に呼ぶ、それだけの動きに彼とその相棒の辿った訓練の練度が凝縮されていた。
一ヶ月前と比べると、より精密さを増したように見えるその動きに訓練者達は見とれていた。精密であり緻密である、しかし決して機械的な無機質のそれではない。信頼と恭順がありありと見て取れた。
犬は飼い主に似るという。ムドリェーツの姿が確かに巽と重なって見えた。
精巧な動きで全ての試験を終え、巽はムドリェーツと並んで審査員へ向かいお辞儀をした。初めから終わりまで、僕は悔しくも巽とムドリェーツに見入っていた。
僕は的外れなことを考えていたのかもしれない。
ムドリェーツを飼育部屋に戻し、巽が訓練者のいる天幕へと戻ってくる。その顔を見る限り、巽にも手応えは感じられたようだ。
「上手くできてたな、巽」
「完璧というには恐れ多いですが、それでも十全ではあったと自負しておりますよ」
「だろうな。少なくとも巽より前に行った訓練者達とは雲泥のさだったよ」
「櫂季がそういうのなら、そうなのでしょうね」
「ああ。最もやっかいなのが近くにいることを忘れていた。全くどうかしてる」
気概の感じられない大人達など相手にしている場合ではない。何よりも手強いやつが僕の隣にいるのだから。
「巽に勝てれば全員に勝てる」
「そこまで言い切りますか。いいでしょう、櫂季からのなによりの評価だと受け取っておきましょう」
まんざらでもなさそうに巽は笑った。
そしてようやく回ってくる。
僕とリングレットの順番が。
*
体力試験及び恭順試験がどれほど順調に進んだかを述べる必要はもうないだろう。あまりに順調すぎて自分でも怖くなるくらいだった。
特記することがあるとすれば、偽薬試験の際にロシアのお客さん達が何やらリングレットの様子をつぶさに観察していたことくらいだ。もっとも、注目されようとされまいと、リングレットはいつもの調子で偽薬を難なく飲み込んでいたので、さしたる事でもない。せいぜいリングレットの好成績に見とれてもらいたいものだ。
一通りの試験が終わり、最後に残ったのが嗅覚試験である。とうとうこのときが来たかと、僕は身構える。
そう、この場で誰よりも、リングレットよりも感覚を鋭敏に働かせなければならないのは僕なのだ。
模擬試験と同じように準備は進められた。
まず僕とリングレット、そして試験官が訓練場の中央、地面に白線で引かれた円の中に入る。その真横を三人の大人、おそらく研究員が通り、更に離れた場所に描かれている三つの円にそれぞれが入る。
三人が横を抜けていくとき、僕は深く、そして小刻みに深呼吸をした。鼻から空気を入れ、直ぐに抜く。これで準備はできたはずだ。
三人の研究員が位置に着いたところで、笛が高らかに鳴り響いた。試験開始だ。
試験管が後ろ手に隠していた布をリングレットの前に突き出す。僕はリングレットに指示を出し、それを嗅がせる。そのとき、リングレットは布に噛みつこうとした。
「おい!」
とっさに試験管は布をリングレットから引く。
「おっと」
僕は急に動いたリングレットに振り回された振りをして、試験監に体を寄せた。正確に言うならば、試験監の持つ布に顔を近づけた。
「すいません、どうもこいつには抜けない癖があるようで。匂いを嗅がせるとそれに噛みつこうとするんですよ」
「布に触れるのは禁止だぞ」
試験監が咎めるような顔をしたので、僕はなるたけ柔和な顔を作って、
「はい、勿論です。もう、大丈夫ですから」
と答えた。
大丈夫、目的は果たしている。
今嗅いだ布の匂いと、先ほど通った三人の体臭とを比較する。匂いの濃淡、距離、そして強さ、それらの誤差を修正した上での一致を図る。
この一ヶ月、こればかりを練習してきた。
隣を通過した人間のほんのわずかな香り、時間を置いた場合の匂いの変化、それらを司と巽に力を借りてひたすら研究し続けた。
犬なら用意にわかること。
僕は僕にその技能を教え込ませた。
傍らで待機するリングレットに指示を出す。巽がさっきムドリェーツに出したような、匂いの元を探せという命令ではない。特定の人物の元へ行けと、それが答えだと指示を出した。
リングレットは駆け、僕はそれを見守る。
練習では十中八九に感じていたその答えが、今日は十割だと確信が持てた。それがたとえ司にお膳立てされた自信だとしても、今頼るには充分すぎるものだ。
リングレットは三人の研究員の内、真ん中の円にいた一人の前で待機した。
僕は試験官に言う。
「僕の犬はあの人がその布の持ち主だと判断したようです」
「それが答えでいいのだな」
「はい」
僕が頷くと同時に、甲高く笛が鳴った。
「正解だ」
試験官が白い旗を挙げた。
「よし!」
思わず声が出た。言葉と共に握った拳が小さく震えている。自信はあった、でもやっぱり不安もあった。それを乗り越えた嬉しさが、僕の中に満ちていた。
審査員席を見る。その中にいる父を見る。
僕はその顔を忘れないーーあり得ないものを見たような父の間抜け面を。
どうだ、僕はやったぞ。
「それでそれで、結果は?」
司の実験室、並び立つ僕と巽に司は問う。
どうやら司は本試験の様子を見ていないらしく、どころか興味もなかったようで、あれだけ事前準備に参加していた割には僕達の試験を知らなかった。もっとも、司は僕達が事前準備に無理矢理引き込んだ面もあったのでしかたないのかもしれないがーーだとしても直前に僕の嗅覚を奪いまでしたのだ、少しくらいは気に掛けてもらいたいというのが僕の本音である。
「ま、いつものことだけどさ」
「なにが?」
「何でもないよ、司。それに、試験の結果、言わなきゃわからないか?」
「・・・櫂季が勝った」
「その通り」
隣で巽が悔しそうに歯噛みした。
だから一緒に司の実験室に行くのはやめようと言ったのに。
「僕とリングレットは文句なしの主席だったよ」
「巽は二番目だったの?」
「そうです。私とムドリェーツは次席でした。口惜しいことですが」
結果は直ぐに出た。
僕の試験順番は最後から二番目だったので、自分の試験が終わって一息つく頃には最後の訓練者が試験を終えていた。
試験の最中も審査はある程度進んでいたのだろう。最後の訓練者が試験を終えてから半時も待たずに、訓練者全員は訓練場に整列させられた。
「どうなると思う」
僕は問い。
「ムドリェーツかリングレットが主席でしょう。その自負は充分にあります」
巽が答えた。
果たして、結果は僕達の予想通りだった。
大人達の試験成績は僕達の一段下であり、実質僕と巽の一騎打ちだったと言っても過言ではない。先に次席として巽とムドリェーツの名が呼ばれ。そして主席として僕とリングレットの名が呼ばれた。
周りの訓練者も自覚はあったのか、その結果にさして驚いている風でもなかった。むしろ順当な結果だと安堵しているような、奇妙な表情を皆一様に浮かべ得ていた。
結果に悔しがっていたのは巽くらいのものである。
正直、勝つことは目的であり、それは充分に果たしたと言えるのだが、それと同時に見ることになると思っていた大人達の悔しがる顔が見えないのは、些か物足りないと思ってしまう。
本当、性格が悪いな僕は。
ともあれ、そのようにして本試験は大方僕の望み通りに終了した。順当すぎて怖いくらいに。
「私にとっては不服の結果ですけどね」
「櫂季と巽、二人の差違は何だったのかね?」
司が問う。
しかし、僕と巽はどちらもその問いに対する答えを持ち合わせてはいなかった。
「実はそれが」
「わからないのです」
試験それぞれに細かな点数による採点基準が設けられていたと言うわけではない。百点が満点という点数法を用いた評価基準ではなかったらしい。
実際、勝ちはしたが僕もいまいち結果発表に納得はできていなかった。理由も効かされず、あなたは一位ですよと言われても、すんなりと飲み込むことはできない。
ともすれば父による依怙贔屓と周りから揶揄される可能性だってあるのだ。だから僕と巽は、試験の閉会式が終わった後に審査員のいた天幕へと足を運んだ。
審査員席に例のロシア人達はもう居らず、幾人かの審査員と父が残っているだけだった。
「櫂季の御父上がいらっしゃいますよ。丁度いい、審査の基準について訊いてみましょう」
「んー・・・そうだな、でも父さんじゃなくてもいいんじゃないか?」
「何を言っているのですか。身内の方が詳細も聞けるでしょうし、なにより櫂季の御父上は今回の責任者でしょう。訊くには一番良い相手、というより御父上をおいて他にないはずです」
いや、まあそれはごもっともなのだけれど。
しかし個人的な都合により今は父に話しかけ難い。顔を合わせるのも気まずい。
試験としては僕が大成功を納めているわけでーー基準は今だ不明だがーー父に話しかけるのに何も気後れする必要はないはずなのだけれど、そうは言ってもである。
喧嘩、というか僕が一方的に怒ってそれきりなのだ。僕の方から話しかけるのはまるで父にすり寄っているようでいまいち決まりが悪い。であれば巽に話しかけて貰えばそれも解決するのだが、巽は巽で礼儀正しく、身内より先に声を掛けるようなことをせず、僕の言葉を待っていた。
しかたがない。変に天幕の近くでまごついていても悪目立ちするだけだ。
そう思い、意を決して声を掛けようとした僕の前に、助け船が現れた。
あまり上等な船ではないが。
「種元先生、ここで何をされているのですか?」
天幕の隅で書類を整理していた種元先生を見つけ、僕は声を掛けた。
いつもの白衣とは違う黒の正装をしており、鼈甲の眼鏡なんかをしていたので、天幕に近づくまでは種元先生とは気付かなかった。
「おう、乾櫂季にグラフ巽か。何をと言われても、見てのとおり片づけだ。何せ審査員の中では下っ端なものでな。そうだ、丁度良い、お前達も手伝え。それとも、主席と次席殿はこんな雑用は嫌かな」
「いや、勿論やれと言われればやりますが」
そう言って乱雑に積まれている椅子に手を伸ばし掛けて、待てと止まる。
同じように停止して、先に問いを投げたのは巽だった。
「先生、今審査員とおっしゃいましたか?」
「ああ、そうだよ。模擬試験の時もそうだったが。それがどうした?」
「どうしたもこうしたも、何故黙ってたんですか。僕や巽にとって何よりも重要な事じゃないですか」
「別に俺が審査員だからといって、二人に何かしてやれるわけではないのだから、言う必要はないだろう。むしろ試験に関しては、何かしてやったら越権行為として処罰されかねんしな」
「それは確かに、一理ありますね」
「というか、お前達は模擬試験の段階で気付いてなかったのか、俺が審査員として参加していることに」
「流石にそんな変装されちゃわからないですよ。普段の白衣でいてもらわないと」
僕と巽は合わせて苦笑いする。実際近づくまでは種元先生だとわからなかったのだ。試験中の緊張した中で気づけるはずもない。
「変装ではなく正装だ。無礼だなお前達は」
「申し訳ありません。櫂季が失礼を」
「おい」
「ところで、審査員として参加されていたとのことですが、今回の試験は結局の所どういった基準で評価されたのでしょうか」
巽の質問に種元先生は顔に疑問符を浮かべた。
「どういった、とはどういうことだ?二人とも試験を受けていたのだろう。であれば何を試されたかは火を見るより明らかかと思うが」
「いや、何を試されたかはわかっているつもりですが、そうではなく、何を評価されたのかを僕と巽は知りたいんです」
「何を評価されたか・・・・・・なるほど、自分達がどうして主席と次席なのか、それを知りたいということか。更に言うならばーー何故リングレットがムドリェーツよりも評価されているのか」
「そう、まさにそうです。私達は納得したいのです。それぞれの結果に」
巽の言葉に僕も深く同意する。
種元先生は少し考えるそぶりを見せた後に言った、
「そうだな、あまり詳細を語るわけにもいかないが。強いて言うならば完成度の高さ、加えて試験への貢献度を考慮している」
「まだ何も貢献していないですよ」
「これからの話さ。今後の期待値と言い換えてもいい」
「期待値・・・。」
「そう期待値だ。リングレットとムドリェーツの差はそこでついたと言っても過言ではないな。いっそ・・・・・・いや、これ以上は流石にまずいか」
「え?」
「すまない、話せる内情としてはこの程度だ。片づけも粗方終わったことだし、お前達は寮に戻りなさい」
話は以上と言わんばかりに、そそくさと書類をまとめて種元先生は天幕を去っていった。
気付けば、父の姿も天幕からは消えていた。
消化不良のものを抱えたまま、僕と巽は司の実験室に足を運んだのだった。
「それ、肝心の中身が不在じゃん」
「ああ、司の言うとおりだ。まあわかんなかったものはしょうがない。結果は一応出ているわけだしな」
「それに関しては文句を言うつもりはありませんよ」
「そのわりには悔しそうな顔してるじゃないか」
「不平不満を感じるか否かと、悔しいかどうかは別問題です。櫂季とリングレットの次席であることは純粋に悔しい」
その言葉に僕は嬉しくなる。
露悪的な意味ではない。ただ、巽が真剣に僕に向かっていたのが嬉しかったのだ。あれだけ気を張ったにも関わらず、大人達は試験そのものに意気込みを持っていなかった。試験結果を訊いた時など、試験が終了したのが嬉しいのか、安堵の声を漏らす訓練者もいたほどだ。そんな暖簾に腕押しとも思えるあの場所で、しかし巽という真剣に競える相手がいたことは、そしてそれが双方同じ気持ちだったことが、僕は嬉しい。
「ありがとう巽」
「急にどうしたのですか。櫂季にここでお礼を言われるのは一層悔しさが増すのみですが」
「そうじゃない、この十一ヶ月間のことだ。巽がどう思っているかはわからないけれど、僕はお前がいてくれてよかった」
「恥ずかしいことを」
「たまにはいいだろ」
照れ隠しにそっぽを向いて巽は頭を掻く。僕の顔もやや上気していた。
自分で口にしておきながら何とも言えない空気になってしまったので、話題を変えようとした僕より早く、
「ところでところで」
と、司が口を挟む。
「櫂季と巽はこれからどうするの?」
「軽く祝勝会でも開こうかと思ってるよ。というか、それに司を誘うために僕たちはこの実験室まで来たんだけどな」
「櫂季と二人きりで祝勝会というのもなんですし。司さんには色々と対策も講じていただいたことですし、是非にと思いまして」
「いや、そういうことじゃなくって、犬のことだよ。本試験が終わった、評価もわかった。それで、この後は?」
巽と顔を見合わせる。
お互いこの後どうなるのかなんて、わかってはいなかった。本試験の前は訓練の終わりを意識してはいたけれど、訓練が終わって、そしてどうなるのだろうか。
「櫂季とリングレットが主席で、巽とムドリェーツが次席。席次って、卒業に際して言われるものだけれどねー」
卒業したのだろうか。
何を?訓練だろうか。それともこれから卒業するのか。
わからない。僕たちはその日、結果以外は結局何もわからなかったのだ。
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