第26話 僕と到達

 落下している。

 そう認識した時には既に背を木に打ち付けていた。鈍い音とともに幹に沿ってずり落ち、地面に尻餅を着く。抱えていた動物もどきが腹にのしかかる形になり苦しかった。

「いったーー。」

 左手に抱えていた鳩の感覚がない。真上で葉のすれる音が聞こえたので目をやると、当の鳩が飛び立つところだった。まあいい、司には逃がしていいと言われていたのだから。

 なんとか体を起こして確認する。

 よかった、怪我は負っていないようだ。過去の時間において医者に掛かるわけにもいかない。慎重に行動しないと。

「ーー。」

 置いていた動物もどきを抱えようとした際に、近くで葉の擦れる音が聞こえた。顔を上げて辺りを見回す。

 人はいない、けれど確かに音がした。

 宇宙局の敷地に野生の獣はいないだろう、しかし猫やモグラくらいなら入り込んでいてもおかしくはない。でももしも人だったら。僕は見られたのか?

 鼓動が早くなる。

「駄目だ、そうじゃない」

 頭をはたいて思い直す。考えるよりもまず動かなければいけない。過去に戻ったらすぐに移動するよう司も言っていたじゃないか。

 未練がましくもう一度だけ周囲の確認をするがやはり人の姿はない。どちらにしろ見られてはいないだろうと判断して歩き始めた。

 記憶が正しければ、訓練場の東の端に十年前の僕と巽、それに司がいるはずだ。少なくともその三人に姿を見られるわけにはいかない。自分から身を隠すというのも甚だおかしな表現ではあるが、十年前の乾櫂季はこの時僕に会っていないのだから、パラドックスを避けるためにはそうする他ない。

 訓練場の西側は雑木林だ。隠れるには申し分ないが、ずっとここにいるわけにもいかない。リングレットを助けるための時間は二十四時間しかないのだから、常に動き続けなければ。それにそうだ、動物もどきを投棄する場所も考えないと。

 司は海にでも捨てればいいと言っていたが、海に捨てようと思ったら一度宇宙局の外に出なればならない。しかしどうやって外に出る。全ての門に二十四時間守衛はいる。手ぶらで出て行くならまだしも、こんな大荷物抱えて出入りしようものなら嫌でも目につくだろう。それに、出た後に再度宇宙局へ入る手段がない。出る分には許可証を紛失したと偽ればいけるかもしれないが、入るにはそうはいかない。許可証か職員の同行者が必要で、どちらもなければ内部の人に連絡を取って迎えに来てもらうことになる。今の僕にはそのどれも無理だ。とすれば宇宙局の中で処分するか。

動物もどきに最先端の技術はほんのわずかしか使用されていない。基盤の形状や素材、搭載しているコンデンサやトランジスタは見る人が見ればこの時代にはないものだと気づくだろうが、それがわかるのはこの宇宙局に五人といまい。宇宙局は善くも悪くも手広い。廃棄場にある動物もどきを見られたとしても、誰かがまた変なものを捨てたな、くらいの感想しか持たれないだろう。わざわざ解体まで中を検める人なんて皆無だ。

「よし、それでいこう」

 一番近い廃棄収集場所は雑木林を抜けた先、飼育小屋のある九号棟の裏手にあるが、そこはさすがに無理があるだろう。九号棟は犬の世話と研究にしか使われていない。機械部品もあるにはあるが、主な廃棄物は可燃物ばかりだ。そんなところに動物もどきを廃棄すれば目立つ。気づかれる可能性は低いとはいえ、やはり人目を引かない場所が最適だ。

「となると、鋼材の廃棄物が置いてあってここから近いのはーー第五棟裏手か」

 言葉にして思い出す。第五棟は司の実験室がある研究棟だ。やはり司に接近するのはできるだけ避けたい。だとしたらもう少しこの雑木林で時間を潰して、司がスペースに戻った頃を見計らって行くことになるか。

 時間旅行をして到着したのは六時のはず、とすると夕食までは一時間だけれど、司は自由だからな。この日は定刻通りに夕食を取っていただろうか。

 いや、待てよ。そうだ、この日はもっと大事な事をやらなくちゃならない。

「警報機を鳴らしにいかないと」

 この日は侵入者のあった日だ。研究棟の第三棟に侵入を試みた奴が警報を鳴らした日。何よりも重要なことだ。だってこの状況、侵入者は僕以外ありえないのだから。出発前から考えていた第一の行動。

 記憶にある警報機の作動場所は研究棟第三棟。ということは、第三棟に侵入しようとしてセキュリティに引っかからなければならない。

 でもこれって意味あるのか?

 十年前に警報機が鳴ったから僕はつじつま合わせに警報機を鳴らそうと考えていたが、鳴らす意味はあるのだろうか。鳴らさなければパラドックスを引き起こすから鳴らしておく、というのは何かマッチポンプな気がするのだが。

 なんて、考えを巡らす事自体が遅きに失していた。馬鹿の考え休むに似たり。僕がそれこそ出発前に思考を巡らしておくべき事柄に、事態の方が先に追いついてきた。

 警報。

 十年前に聞いた音が響き渡る。

「どうして!」

 僕は未だ雑木林を出てもいないのに、どうして警報機が鳴動する。

 いや、考える必要はない。自明なことなのだから。僕が警報機を鳴らしたわけではないが、しかし現実に警報機は作動している。だったら、答えは一つだ。

「侵入者が他にいる」

 僕以外に、誰かがこの宇宙局に侵入している。十年前の宇宙局、そこには本当に悪意を持った侵入者がいたということだ。

 慌てて思考を整理し直す。警報機を鳴動させた侵入者がどこに行ったのかはわからない。しかし翌日、侵入者はリングレットを狙って飼育部屋のある研究棟九号棟に現れた。さっきまでは十年前にーーつまりはこの時間に、子供の頃の僕が向かい会った相手は僕自身だとばかり思っていたが、しかしそうではないのだろう。もし子供の頃の僕が立ち向かった侵入者が今の僕だったとするのなら、絶対的な矛盾が一つある。

 顔が違う。背格好も僕の記憶にある侵入者は今の僕よりも長身だったはずだ。子供の目線から見た大人の身長なんてあてにはならないけれど、それでも顔の違いだけはどうにもならない。

「そうだ、何でその事に気づけなかった」

 あれは僕じゃない。子供の頃に僕が対峙した奴は、当時の僕が思っていたとおり、本物の侵入者だったのだ。

 予想外ではあるが、しかし当初想定したシナリオよりは幾分やりやすくなった。当初は僕が自分で警報機を作動させ、警備と研究員の目から逃げながらリングレットを盗み出す必要があったのだから。それを考えれば本物の侵入者が警備の目を引きつけている間に僕が自由に動ける分、リスクが軽減されたと言える。

 そして幸いなことに、この侵入者にリングレットを盗られる可能性は皆無だ。何故なら十年前の僕が仕掛けた罠で、明日の夜、侵入者は捕らえられるのだから。

「となると、むしろこれは好都合な展開か」

 事前の制約では僕の行動はある程度以上に縛られていた。一つは警報機を作動させて警備と研究員から逃げ回らなければならないという制約。そして、明日の夜に飼育部屋のある九号棟に侵入しなきゃならないという制約。そのどちらも僕が行ったことだと仮定した上でパラドックスを回避するために自分に課していた制約なので、本物の侵入者がいるとわかった以上は無用なものだ。自縄自縛は解かれたと考えていいだろう。

 ここから先の行動はもっとシンプルにいける。

 まずやることはこの動物もどきを隠すことだ。実の所、研究棟第五棟の処理場に捨てるよりも簡単な方法を思いついた。わざわざ処理場までリスクを持ちながら運ぶ必要はない。埋めてしまえばいいのだ。幸い訓練場を均すために使う道具が、研究棟九号棟の外倉庫へ置かれている。誰でもすぐに使えるように鍵はされていないし、この雑木林からも近い。大きめのシャベルがあったはずだから、それを使って土を掘ればいいだろう。雑木林の端に埋めておけばそうそう気づかれる物でもあるまい。それに埋めるのは機械だ、動物が誤って掘り返すこともない。

 よし、これでいこう。

 そう決心して研究棟九号棟の倉庫へと向かった。遠くで慌ただしく人が動き回る姿が見える。十年前、侵入者騒ぎにおいて各研究施設の警備が固められる中、九号棟においては対策が遅かった。保管している研究試料が犬だけということもあるのだろうが、唯一この九号棟だけが研究棟群から離れた場所にあることが主な理由だったのだろう。しかし今の僕にとっては好都合。その分僕は逃げ隠れしやすくなる。

 予定外はあったが、それでも順調、いや、元の予定よりも遙かに容易になったと言えるだろう。

「待ってろよ、リングレット」

 と、思わず口に出して言ってしまう程度には僕は油断していたのだろう。きっとだから、その瞬間が来たのだ。

 そう、次の瞬間ってやつだ。

 注意しながら雑木林を抜け、九号棟の外倉庫に手を掛けたその次の瞬間、

「はい、そこまで」

 という声とと共に、首筋に衝撃が走り、僕はそのまま地面へと倒れた。

「知らない人、はっけーん」

 片手に何か小箱のような物を持ちながら、十年前の司は笑った。僕の世界が白くなり、そして意識が飛んだ。


 *


 懐かしい匂いがする。薬品と油の匂い、そしてその中に仄かに混じる甘い香り。

「起きたのかな」

 司、何か声が変わってないか。

「結構強めのやったからねー、死ななくてよかったよ」

 死ななくてって、その可能性もあったのかよ。

「いい加減体起こそうよ。それとも、未来の大人は寝ぼすけなのかな」

 未来のって、まるで今の僕が他にいるみたいな言い方をーー。

 そうだ!

「あ、本当に起きた」

 横になっていた体を跳ね上げ、辺りを見回す。真っ暗な部屋には様々な機械と部品。それだけじゃない、形容しがたいものや、何色かもわからない液体が入った薬瓶。この世の混沌を煮詰めて形にしたような部屋。暗い中見える範囲でこれなのだ、目の届かないところも似た類のものが山とあるのだろう。いや、だろうなんて言い方はしないでいい。山とある。僕はそれを知っている。

 見知った場所だ。ここは司の実験室なのだから。

「おはよー」

「・・・おはよう」

 鈍い痛みが体に残っていて、それが思考の邪魔をしている。挨拶したけどよかったのか。それすらも瞬時に判断できない。跳ね上げた体は急な駆動についていけなかったのか、内側から軋む音が聞こえてきた。

「動きにくいでしょ。それなりに強力なの使っちゃったからね。でも大丈夫、三十分も待たずに痛みは引くから。手の方はまだ外せないけれど」

「手?」

 確認しようとしてようやく気づいた。後ろ手に親指同士が細い紐のようなもので縛られている。試しに力を込めてみるが、肉に食い込むばかりで外れる気がしなかった。

「っーーー。」

「無駄だよー。指を結んでるそれはこの時代で十本の指には入るくらいの堅い繊維だからさ」

「どうしてーー」

 と、言いかけて躊躇する。言葉を交わしていいものかどうか。迂闊に何かを喋ってこの時間の司に対して大きな影響を与えてしまえば、それこそパラドックを引き起こしかねない。いやそもそも、この状況がまずいのではないだろうか。わからない、何一つ理解を持たないまま過去に来てしまった。これなら司の言うことをもっと聞いておけば。理屈云々以前に司が十年前、つまりこの時間に何を経験したかを聞いておけばよかった。

 逡巡する僕をよそに、司は言葉を続ける。

「何年先から来たかはわからないけれど、お兄さん、櫂季だよね」

 その言い方は確信めいていて。質問というよりはただの確認でしかなかった。

「どうしてわかるの」

 言ってしまった。これでもう後には引けない。とぼけることもできない。

「君の知っている櫂季とは何年も離れているのに、どうしてわかるの。そもそも、どうして僕が未来から来たって気づけたの」

「わかるよー。私が櫂季を見間違えるはずないでしょやーーっていうのはまあ半分冗談で、秘密はその首輪にあるのだ」

 司は僕の首に回された首輪を指さす。出発前、今から数えて十年後の司が僕に着けたものだ。

「これ?」

「うん。二つ目の質問から先に答えると、その首輪を見たから私は貴方が未来から来た人だって判断した。というかそもそも、未来の私に聞いてないのかな。その首輪が何なのか」

「聞いてないよ。ただ、お守りとして君が、未来の君がくれたんだ」

「そっか、でも聞いてなくても櫂季なら覚えてるはずなんだけどねー。その首輪については」

 だって、と司は意地悪そうに笑って続けた。

「この時間から数えて約一年前に、櫂季はそれを着けたことがあるんだから」

「そんなこと、あったかな」

「うーん。これを見たら思い出すかな」

 そう言って司は実験室にある引き出しの一つを開き、小さな箱状のものを取り出した。薄暗くてよく見えない。司が目の前まで持ってきて、ようやくその形がわかった。

 透明なケースで覆われたスイッチ。

 確かに、見覚えのあるものだ。そして、それを自覚したと同時に嫌な汗が額からにじみ出た。

「まさかそれ、いやそれよりもこの首輪って」

「うん、爆弾だねー」

 あれは確かリングレットの訓練を始めたばかりの頃だ。起爆させられる首輪を作っていると司は言っていた。そうだ、約十一年前に僕の首に着けたあの装置も、こんな感触だった。今まで思い出せなかったなんて。

「司は完成させたのか」

「その司が未来と今のどっちを指しているかはわからないけど、今この瞬間の私はまだ完成させてないよ。起爆させる機構の小型化が上手くいってないからね。電送系統の進歩待ちってところだよ。しかしだからこそ、貴方が未来から来たってのは丸わかりになったわけだけれど。私しか知らないものが、それも未完成だったものが完成した形で使われている。これ以上の証拠はないかなー」

「・・・。」

 だとしたら、僕の首にこれを着けた司の真意は何だ。過去の自分が見れば明らかに事が露見するようなものを僕に着けておいた意味は。

「協力者になれってことなんじゃないの」

 喋ってもいない疑問に司は答える。

 サトリかお前は。

「過去の自分への言伝みたいなものかなー。私ならやりそう。しかも櫂季に黙って、ね」

「言ってくれればいいのに。こんな回りくどいことしなくても、見せてわかるなら僕から見せたさ」

「いやー、それ以前に、知ってたら櫂季はその首輪を着けなかったでしょ。だって爆弾だよ」

「だよって、作ったの司じゃん」

「未来のね」

「今の司だって、作り始めてはいただろ」

 と、そう言って、肝心の問題を棚上げしていたのを思い出した。

「ぺらぺらと喋ってはいるけれど、僕は喋ってもいいのか。この時間の司に、つまり君に未来から来たと知られた上で干渉するのはまずい事なんじゃ」

「そこは私も考えたよ。で、それなりに筋の通る考えに到着したのさ」

 人差し指を上に向け、誇るような態度で司は言う。

「仮に未来の情報を得たところで、私は何も変わらない。首輪はいずれ完成させる予定だったし、時間旅行についても理論は組み上がってた。技術の進歩を待つだけだったそれらが完成していたところで、今の私の行動は何一つ変わりようがないんだよね。だったら、そこに時間的矛盾は生じようがない」

「何を見ても、見れなくても、意志は変わらないのか」

「それが私だからね。まだ途中なだけだってことは、重々承知だよ」

 自分の成そうとしていることが、遠くない未来に成し遂げられるという確約。努力が必ず報われるという保証。それはきっととてつもない安心材料のはずなのに。そんなことも意に介さず、自身の行動には影響を及ぼさないと言い切る司。それは僕にはない、いや多くの人間が持ち得ない強い心だ。

 まあいい、司に正体を気づかれたのは予想外だけれど、考えようによっては悪いことではない。司の実験室という安全地帯を手に入れたのだ。これからどう動くにしても、避難場所があるのはありがたい。司も僕が出入りするのを渋りはしないだろう。

 ほんの少しだけ気が緩み、そして遅まきながら思い出した。

「僕の荷物は?」

「ん?あの鉄くずのこと」

 鉄くずって。頑張ったんだぞ僕も。

 司は部屋の外を指差す。

「放置しておくのも何だから、一応廃棄場に置いてきたよ。重かったなー。必要なら回収したらいいよ。どうせ明後日の夜までは回収業者は来ないし」

「いや、いい」

 元より捨てるつもりだったのだ。手間が省けたと考えよう。

「それで、今回の時間旅行の目的は?」

「ああ、実はーーーって、駄目だよ。流石に何もかもぺらぺらと喋るわけにはいかない。いくら司が未来の情報に影響を受けないとは言っても、それはあくまで自分のことに関してだけだ。やっぱりあまり多くの情報を開示するわけにはいかない」

「ふーん、そっかー・・・ぽちっと」

 司が手にしていたスイッチの箱。その側面に付いていた別のスイッチを押し込んだ。

 途端、僕の首筋が千本の針に貫かれたような感覚。

「がっーーー。」

 感覚は一瞬だった。しかし心臓は早鐘を打ち、首から上には嫌な汗が止めどなく吹き出した。

 衝撃の発生源は考えずともわかった、首輪だ。

「今、何したの」

「首輪の補助的な装置を機動したの。その首輪が設計通りに作成されているなら、発電素子が埋め込まれてるはずだからね。装置名、孫悟空。電気で一時的に行動を制限する装置だよ」

「爆弾以外にそんなものまで仕込んであるのか」

「説明したはずだよ。それは人に命令を聞かせるための装置なんだから。疑いもせず着けた櫂季が悪い」

「忘れてたんだよ、そんな首輪があったってこと。それに、司がそんな悪魔じみたことするなんて想像できるか」

「私をのけ者にしようとした罰」

「別にそういうわけじゃ、でも実際話すわけにはいかないから。わかるだろ、君が作った時間旅行なんだから」

「今度はゆっくりいこうかなー」

 司が手元のスイッチを少しずつ押し込んでいく。

「え、あ、ちょっとまって。なんかちくちくしてきた。首周り、刺さってる刺さってる。いっ、ちょっと、痺れ、はしっーーがっ!」

「はい終了だよ。どう、やっぱり話さないの。リングレットをさらいに来たって」

「絶対に話さない。僕の為じゃない、僕たち皆のた・・・め・・・ん?今なんて言った?」

「リングレットをさらいに来たこと喋りなよーって、言った」

「・・・。」

 こいつ知ってた。ばれてた。でもどうして。

「どうしてって顔してるけど、私からしたら当たり前。順序が逆だもん」

「逆?」

「時間旅行の鍵となる花火、それを偶然にもリングレットが宇宙に飛ばされる前日に打ち上げたーーなんて、そんなことあると思うのかい」

「お前ーー」

 大人げない。

 それがみっともない行為だということは動く前に理解していた。だけど僕の体は理性とは裏腹に司の胸ぐらを掴んでいた。大人なのに、相手は司とは言え女の子だというのに。

「知っていたのか。リングレットが実験の試料として殺されることを」

「うん、知ってる」

 当の司は胸ぐらを捕まれていることなど気にもとめない様子だ。

「正確には知ったって言った方が正しいねー。昨日なんだよね、ようやくその情報を掴んだのは。でも、二日間じゃ流石に手の打ちようがなかったからさ、未来に預けることにした」

「この時間の僕に伝えてくれていれば、僕が無理矢理にでもやめさせたのに」

「無理でしょ。一介の学徒にどうこうできる時点はおもう過ぎてる。リングレットが主席に選ばれる前ならいざしらず、打ち上げ候補の最有力として扱われてる今、そんなことはできない。やったら退学になるとか、逮捕されるとかそんな問題じゃなく、できない。研究の発注元は日本じゃないのだから。相手は戦勝国だよ」

「だから未来に託したってことか」

 冷静になり、掴んでいた司を離す。

「事をやり終えた後、この時間から逃げられるから」

「そういうことだよー。だから櫂季が、ううん、櫂季じゃなくても、時間旅行でこの時間に人が来る目的は明白なのよ。さっきのはただの確認」

「そうか」

「まああまりパラドックスの事は気にしなくてもいいと思うよ。私も深く関わる気はないから。というか、深く関わったら未来に託した意味がなくなるしさ。せいぜい未来の櫂季へ居場所を提供するくらいですよ」

「それで充分だよ」

 にへへと笑って、司は立ち上がる。

「それじゃ私はスペースに戻るから。頑張ってね」

 大人な僕よりも大人の態度を示す司に歯がゆい思いをしながら、僕は頷いた。

「ああ、ありがとう」

 さて、ここからだ。

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