第25話 僕と跳躍
司に本を渡された。装丁も何もなく、ただ真っ白な表紙と真っ白い用紙が組合わさっただけの何も書かれていない本だった。挟まれている用紙の枚数だけはとても多く、ちょっとした辞典ほどの大きさがある。
司の命令は、その用紙に十年前のことを記録せよ、ということだった。何でも時間旅行において当時の記録を事前に付けておくことは重要らしい。当時起こったこと、そして起こらなかったことを明確にしておく。ただ認識したことなのか、それとも確定した事実として生じたことなのか、その境界線を定めておく。そうすることでパラドックスの壁に当たる可能性を減らすことができるということだった。
しかし僕は渡された白紙の本を白紙のまま鞄にしまい込んだ。
今更思い出すまでもない。十年前のことを忘れたことなんて一度もないのだから。全てを鮮明に、明確に思い出せる。あの日何があったのか、あの時何が起こったのか。忘れた日はない。
だから僕が移動中にーー島に向かう長い船旅の中でーー考えるのは別のことだった。
これから僕が挑むことになる時間旅行、その時間について、僕は考えていた。時間とその積み重ねである人生について。
思えば島を離れるまでは一度も主体的に考え行動したことはなかったように思う。父の用意した所に所属し、あてがわれた役目を果たす。リングレットの訓練だってそうだ。面倒毎を流していたらその精算として面倒毎を任されるようになった。もっとも、それは途中から僕の望む方向へと姿を変えたけれど。訓練の終了も、その結末も、誰かの作った流れの中で動いただけで、僕は自分から何かを成したわけではない。一つだけ、侵入者の撃退だけは僕の功績として数えてもいいだろう。あれだけは自主的に行ったことだ。
リングレットを守りたかったのだ。
その例外を除けば、島を出るまで僕は何も考えることができてやしなかったのだ。
もちろん、主体がなかったからといってその道中が苦しいものだったと言うわけではない。本人に直接言いはしないが、司の実験に巻き込まれるのだって悪い気はしていなかったのだから。
主体的に動いたかどうか、僕にとってそれは選び取ったか与えられたかの違いだけ。そのものに善し悪しなどありようもない。
しかし、だからこそ思うのだ。
僕がもう少し考えて行動できていたのなら、わずかでも自分の意志で選んでいたのならば、結末はあのような形にはならなかったのではないかと。
今の僕はどうだろう。
司の言葉に乗せられただけの能動態か。それとも、提案を選んだ結果の主体なのか。
答えは出ない。
それでも僕は考える。考えなかったあの日にもう一度行けるのだから。今度は考えて行動しなくちゃならないのだから。
*
十年ぶりに島へと戻ってきた。潮の匂いと風の音は嫌になるくらい十年前と変わっていない。宇宙局の施設は少しばかり広くなっていた。
そういえば、僕は許可証のようなものを何一つ持っていないけれど、宇宙局の敷地に入ることができるのだろうか。司のお客さんということで通してもらえるか?
「櫂季が何考えてるか当てようか」
島に着いて最初に司はそう言った。
「サトリの化け物か、司は」
「まだ当ててないけどね。でも大丈夫だよー、櫂季の籍は一応この宇宙局に残っているから。許可証も私の予備で問題ないし」
当たってるし。
「・・・あれ?僕ってまだ宇宙局に所属してるの?」
「一応はねー。宇宙局って言うよりはスペースにだけどね。櫂季の代で未だに教育課程修了してないの櫂季だけだよ。いい加減に中等部を卒業したら?」
驚いたというか、些か恥ずかしいのだけれど。
僕まだ義務教育を終えていなかったのか。そういえば島から出る際のどさくさに紛れて高等学校入学試験の受験資格を手に入れたので、僕は中学に入り直すということをしていなかった。
「記録上ではもしかして初等部卒業で止まってるのか」
もちろん高等学校は卒業したので、この場合は二重に籍を置いていることになるのだが。大学で学びながらも中等部を修了していないなんて、とてもじゃないが人には知られたくない。
「まあ私にはばれちゃってるんだからいいじゃないのさ」
と、また覚ったような口振りで司は僕の背を叩いた。
「そんなことより、はいこれ」
司が差し出したのは見覚えのあるカードだった。通過許可証、いくらか形は変わっているようだが、基本の様式に変更はない。十年程度ではさして進歩もしないということだろうか。もしくは、既にあの時の宇宙局は十年先を見据えていたということか。
何にせよ、またこの許可証を手にするとは、数奇と言っても差し支えない人生だ。
「それで、司の実験室は今だにあの研究棟にあるのか?」
「うん、まあ間違ってはいないかなー」
見覚えのある研究棟を指さして司は言う。
「研究棟に実験室があるって言うか、研究棟が実験室になったーーみたいな」
言われた事がわからず暫し研究棟を見上げる。
実験室になった・・・。
「まさか、これ一棟が司の実験室ってこと?」
「まあねー。私もこの十年でそこそこの成果を挙げてるからねー。待遇改善はされてますよ」
ごもっともだ。時間旅行なんて可能にしてたら報酬もあるだろう。
「あ、ちなみに時間旅行は誰にも報告してないから」
「え?」
「悪用されたら嫌っしょ」
「嫌っしょ、って」
自己顕示欲というものはないのだろうか。ノーベル賞どころの話ではない。それこそ世界を変える発明であるのに。いや、変えたら駄目なのだったか。
「この先も公表するつもりはないの?」
「ないねー。悪用されたくないってのももちろんだけど、それは一番の理由じゃなくて、本当はなくならないように閉じこめてるのさ」
「閉じこめるってどういうこと」
「うーんとね、ちょいと感覚的なことになっちゃうんだけどーー」
いつものことだ、とは言わない。
「この技術は秘匿されてるから技術として成り立つことができてる。できてるというか、許可されてる。いやいや、これも違うよーな・・・そう、見逃してもらっている気がするのね」
「見逃してもらってるって、誰に?」
「時間と世界」
「また時間か、よく出てくるな」
「本土でも少し話したことだけど、時間旅行が可能であるのは、タイムパラドックスを起こさない限りにおいてっていう制約があると思うの。個人で持っている間は私が扱いを気を付ければいいんだけど、複数人に広げれば抑制が効かなくなる。誰かがパラドックスを生じさせた瞬間、たぶんこの技術は世界から消えるーーと、思うのよ」
「ごめん、よくわかんないな」
「いいよー。私だって本当の所はわかってないんだから」
しかし司が時間旅行の技術を秘匿しているというのなら、この待遇向上はそれ以外の功績で得たということになる。司の才能は底なしなのか。
「ちなみに、宇宙局へ成果報告しているのはどういう研究なの?」
「主に宇宙理論だよ。時間旅行も言うなればその副産物みたいなものだし。時間と空間、宇宙はそれにつきるからね。無限だから尽きないけれど」
司の後に続いて研究棟へと足を踏み入れる。玄関口にすら許可証を用いた施錠が施されていた。十年前よりも安全対策は向上しているようだ。
懐かしくもある建物に一歩踏み入れる。
「代わり映えしないなここは」
内壁や廊下の造りは何一つ変わってやしなかった。しかしそれもそうだ。僕が在籍していた頃が宇宙局が始まって数年というところだったのだから。まだこの研究棟は築二十年にも届いていない。しかし、やはりというか案の定、十年前とは変わった光景も見受けられる。
「司、相変わらず片づけできないんだな」
「えへへ」
ばつが悪そうに司は笑う。
廊下には資材が山と積まれていて、かろうじて一人が通行できるような空間しか空いていなかった。まるで獣道。司が普段通っている道だろうことは考えるに堅くない。試しに近くの扉を塞いでいた資材を軽くどけ、扉を開けて部屋の中を除くと、やはりその部屋は資材とよくわからない機工品で溢れていた。
「これ、もしかして全部屋こんな様子なのか」
「いやいや、流石に二階の途中までだよ。いくら私でも建物一杯に埋めるのはまだまだ時間がかかるよー」
「時間の問題って気もするし、三階建ての研究棟で二階の途中までって、ほぼ半分埋まっちゃってるじゃん」
「片づけてくれる誰かさんがいなくなっちゃったからだよ」
司はこつんと僕の頭を叩く。
「巽にやってもらえばよかったじゃないか」
「巽もすぐにいなくなっちゃたからねー。それに、櫂季がいなくなってからの巽は取り憑かれたように勉学に打ち込み始めたから、あまり邪魔したくなかったのさ」
「そうか・・・。」
島を出て僕の環境が変わったように、僕がいなくなることで変わったこともあるのか。
十年前、二人には何も告げずに出ていった。ひと段落付いた後に二人宛に手紙を送ったのだ。それが不誠実かもしれないと、当時の僕は考えもしなかった。
巽にはあれ以来直接会えてはいない。
最後に見た巽の顔と共に当時を思い出していると、見覚えのある扉が目に入った。
「あれ、ここもしかして」
「そうだよ。元私の実験室」
司が扉を開ける。中はたくさんの資材と機械類が埋め尽くしていたが、そのどれもが僕には見覚えがあった。この部屋だけ十年前の記憶と一致する。そういえば扉に前に資材等は置かれていなかった。
「司、今でもこの部屋を使ってるのか?」
「いやいや、そんなわけないっしょ。三階の広い部屋を主に使ってるよん。ここは今や保管庫よ。他の部屋と同様にね」
そう言って司は部屋から出た。僕は後に付いて歩く。
「でも、あの部屋は他の部屋ほど物に埋もれてなかったけど」
「それは、保管してるものが違うから」
不意に司は振り向いた。
「ねえ櫂季、実は寂しかったって言ったら、信じる?」
「信じない」
「だよねー」
けらけらと笑いながら司は前を向いてもう一度歩きだした。
なんだろう、いつもの笑い声とは少し違うように思えた。
けれどそんなことは口にしない。まさかありえないだろうから。司が一人を憂うなんて。
「片づけできないなら、他の研究員にやってもらったらどうだ?年上使うのが嫌ならスペースの学徒にやらせるって手もあるしさ」
僕や巽が犬の訓練を命じられたように。規則が変わっていなければ、宇宙局の研究員ならそんなことも可能だろう。
「それはいいや。他人に物いじられたくないし」
「僕には散々やらせたくせに」
「それにさー、研究棟の中に人が入ったら時間旅行のことも露見する危険性があるよ」
「ま、それはそうだな」
そんなことを言っている間に三階の一室へ到着した。扉が他よりも厳重で、機械錠と電子錠の二重で施錠が施されている部屋、司の現実験室だ。
「さあ入って入って。それじゃ時間旅行前の最後の授業だよ」
言うが早いか、司は部屋の壁にある黒板を背にして立つ。僕はつられて正面の椅子に座った。
「授業を始める前に宿題を集めまーす。はい、櫂季君提出してください」
どうやら司は教師役になりきるようで、何処からか取り出した指揮棒を片手に僕へ指示を出す。
「・・・宿題?」
「本土出る前に渡してあったでしょ。十年前の事を思い出せる限り書いておくようにって」
「ああ、あの白紙の本か。あれだったら白紙のままだけど」
司先生は無言で僕のでこを指揮棒で弾いた。
結構痛い。
「だけど、じゃないでしょ。櫂季君、廊下に立ってなさい」
「いいけど、生徒零人になるよ」
「ーー仕方ない、今回は見逃してあげましょう。でも櫂季君、どうして言われたとおりにしなかったの」
「いや、だって当時のことなんて思い出すまでもないだろ。高々十年前なんだから」
「あーもう、知らないよー私。記憶って結構曖昧なんだからさ。というかその記憶とどう整合性を取るかを事前に想定する意味もあったのに・・・ま、いっか」
早くも教師の役作りが壊れている司先生である。というか、意図があるのなら先に言っておけよ。
「ともあれ、櫂季君には過去に行ってもらうわけですが、行き先は十年前の十月八日です」
「ちょっと待って。それってリングレットが打ち上げられる前日じゃないか」
「そうだよ」
「そうだよじゃないだろ。何でもっと前の日にしないんだ?そんなぎりぎりじゃなくたっていいだろ」
「駄目だよ。だってそれ以前の日には戻れないから」
「・・・どういうこと?時間旅行なんだろ、好きな時間に行けるんじゃーー」
「違ーう、説明したでしょ。やっぱり櫂季理解できてないじゃないのさ。特定の座標にしか行けないの。というより、特定しておいた座標にのみ行けるって言った方が正解ね」
「その座標っていうのがーー十年前の十月八日?」
「そういうこと。あらかじめ打ち込んで置いた座標にしか行けないから、櫂季は十月八日より前には戻れない。二日間で何とかしなくちゃってこと。リングレットの打ち上げが九日の十三時だから、実質二十四時間位しかないけどね」
二十四時間。丸一日あると考えれば、そう難しいことでもないのか。
二十四時間以内にリングレットをさらい、連れて帰る。
「あれ?待てよ、帰りはどうしたらいいんだ?」
「そうだね、その説明をしないといけないんだけど、それを説明するためにはまずどうやって櫂季が十年前に戻るかを説明しなきゃいけないかなー。ってことで、こちらへどうぞ」
司は黒板横の扉を開け、中に手招きした。その扉には見覚えがある。十年前、そこは司が実験道具をしまっておくための準備室だったはずだ。
司の後について中に入ると、やはり中の様子は十年前と大差なかった。それこそ十年前に戻ってきたような、そんな感覚である。もちろん、司は僕にそんな感覚を味合わせることで十年前に戻ったと嘯くわけではない。こんなのはただの感傷なのだから。
「櫂季は覚えているかな、これを」
「もちろん」
司が指差したのは黒く光る金属製の筒だった。もちろん覚えている。準備室に入ってすぐ目に付いた。十年前に二度、花火を打ち上げるために使用した大砲だ。
「これが時間旅行の要」
「・・・嘘だろ」
「私が嘘吐いたことあるの?」
「ないよなぁ」
何処からどう見ても大砲で、十年前となんら変わっているようには見えなかった。
これで、時間移動?冗談だろ。
「これで僕を射出して、時間の壁を打ち破るとか言ったら起こるぞ」
「仮にできたとしても、その結果櫂季が到着するのは未来よ。それじゃ駄目でしょ。言ったじゃん、要だって。これ単体で時間旅行ができるわけじゃないの」
「ならどうやって」
「この大砲で花火打ち上げたでしょ。あれが座標なんだなー」
「座標って、さっき言ってた時間旅行の目印のことだよな?花火が座標っていったいどういう意味だ」
「花火に薬品混ぜたよね。あの薬品は空気に拡散して一定周期で振動を起こすようにできていて、それが時間系における固有振動に一致しているのね。で、その振動数をサルベージするための装置が今後ろの棚にーー」
「はいちょっと待って、理解が追いつけないから」
「えー、またー?」
「噛み砕いて、噛み砕いて、お願いだから」
「わかったよ、雑なんだからもう。簡単に言うと、あの花火を打ち上げた瞬間へなら時間旅行ができるってこと。現在で打ち上げる花火と過去に打ち上げた花火を結び付けて一本の道を作る。それを移動するのが私が考案した時間旅行なのさ」
司は腐心してわかりやすく言ったつもりなのだろうが、この説明でも僕には理解の境界線上だった。しかし結局のところ、過去に花火を打ち上げた時間へ時間旅行を行えると理解しておけば問題なさそうだ。
「事前に失敗を意識するようで、ひょっとすると弱腰かと思われるかもしれないけれど、その時間旅行ってやり直しは利くの?」
「確かに弱気だねー。それに無理だよ。過去の座標と結び付けられるのは一度のみ。一回結びつけを行うと、切り離せなくなるからね。一度遣った座標は再利用できません」
「機会は一度きりってことか」
「そう考えとくべきだねー。リングレットを救うための時間旅行は一度切り。座標の特定は問題ないけど、座標の定着はできないからね」
「つまり?」
「過去と今、花火を座標にして時間を繋ぐけど、繋ぎっぱなしにはできないってことよ。繋いでいられる時間はせいぜい五秒。そして一度繋いだら同じ座標は二度と繋げない・・・ってのは今言ったばかりだね。櫂季はその繋いだ瞬間を狙って飛び込んで」
「飛び込むって、どこへ?」
「それはもちろん、繋いだ中心点へだよ」
「つまり花火の中心へ飛び込めってことか」
「そうだよー」
スタートからして危険な香りがするのだけれど。時間旅行の理論どうこうというよりも、無事にできるのだろうか。
しかしまあ、時間旅行の仕組みはなんとなくわかってきた。司の考案した時間旅行は、何か移動用の機械に乗って過去へ向かうといったものではない。過去と今を短い間だけ繋ぎ、その隙間を僕が抜けるということだ。繋ぐことができるのは一度だけ、通れるのは数秒。
しかしだとしたら疑問が一つ。
「なあ司、僕はどうやって帰ってくればいいんだ?まさかリングレットを連れ出した後に十年間過ごせってわけではないよな」
「もちろん、そんなはずないじゃない。あれれ、櫂季説明効いてなかったの。花火が通り道になるんだよ」
「わかってるよ、だからどうやって花火をーーああ、そうか。僕が過去で花火を打ち上げて、司がそれと繋いでくれるってことなのか」
過去に花火を持ち込んで、打ち上げる。司は今の時間からそれを座標として時間の穴を開けてくれればいい。
「ああ、それは駄目ー。無理無理、できないのよね。こっちから繋ぐ作業において、接続者が繋ぐ時間を認識してないと上手くいかないの」
「どういうこと?」
「私の知らない花火には繋げないってこと。こちらから繋ぐためには、座標があることは当然として、その座標がその時間にあるという認識も必要なのね。でも私には櫂季が過去のどの瞬間に花火を打つかわからないから、認識ができない。つまりは繋ぐことはできない」
「じゃあやっぱりだめじゃないか」
「だから当時の記録を付けてって言ったのになー」
司は呆れた様子で僕を見据える。
「櫂季、花火を打ち上げたのは一度じゃなかったでしょ。記憶にないの?それともあえて思い出さないようにしてるのかな」
僕が忘れていること、この十年間思い出そうとしなかったこと。
心当たりはあった。
「私たち、リングレットが打ち上げられた日も、花火を打ち上げたでしょう」
「ああ、そうだった」
リングレットに届くようにと、そんなことを司が言っていたことを思い出す。
「あの花火が帰り道か」
「そう。だから過去にいられる時間は、打ち上げ前日の午後六時から打ち上げ当日の午後六時まで、つまりは二十四時間だけ」
「それを逃したら、今に戻るまでに十年間を待たなきゃならなくなるのか」
「それは失敗の中でもわりかし良い目が出た場合だね。実際、打ち上げ当日の花火で帰ってこられなかった場合、櫂季に何が起きるかは想像ができないの。十年間もいないはずの人間が存在して、パラドックスを引き起こさずにいられるかーーこれはかなり分が悪いよ」
「最悪の場合、僕はどうなる?」
「可能性が複数ありすぎてどうとでも言えるよー。パラドックスを引き起こさないように、時間に抹殺されるかもだし。だからそういう意味でも二十四時間が最適なのね。この程度なら、時間に、つまりは世界に見逃してもらえると思うから」
まあそうだ。死すべき運命にあるリングレットをかっさらおうというのだ。僕が死に巻き込まれる可能性だってないわけじゃない。いや、そのリスクがあってこそ釣り合いが取れると言えよう。
「時間旅行の仕組みはわかった。いや、装置についてはもう僕の領分でないからわかるも何もないけれど、ともあれ時間旅行そのものについてはわかったよ。他に知っておくべきことがあれば言ってくれ」
「大きな事をまだ一つ説明してないよ」
司は指を一本立てて大仰に言う。そして背後からなにやら取り出すと、
「櫂季、これを過去に持って行って」
と、僕にそれを持たせた。
結構重い。
それは金属の骨子に樹脂性の外皮が被せてある金属の物体。
「というか、これ僕の研究道具じゃないか」
つい先日、司が僕を迎えに来るまで小笠原と記録を取り続けていた機工物だった。
「それとこれ」
追加で渡してきたのは、檻に入れられた小さな鳩。いよいよ意味がわからない。
「こっちは、僕の実験室から勝手に持ってきたのか」
「研究道具に関しては、後輩さんの許可は得たよー。櫂季の将来のためって言ったら二つ返事でね。将来っていうか過去のためだから、後輩さんにはちょっぴり嘘ついちゃった」
「嘘とかはまあどうでもいいんだけど、なんで了承しちゃうかな小笠原は・・・。それで、なんでこの機工物と鳩を過去に持っていく必要があるんだ」
「世界の質量を変動させないため」
あー、またわけのわからない話だ。ここまでで目一杯脳を回転させているので、更に追加されるかと思い辟易する。
もっとも、そんな様子を不憫にでも思ってくれたのか、司は机の上に何やら用意し始めた。
「イメージしやすくするために、このグラスとビー玉で説明するね」
机の上に赤と青のグラスが一つずつ、それぞれに二つずつビー玉が入れられた。
「赤いグラスを今として、青いグラスを過去とするよ。ビー玉はその世界における質量」
「ビー玉二つとは軽い世界だな」
「ガラス玉みたいな世界だからね、実際」
司は赤いグラスからビー玉を一つ取り出す。
「このビー玉を櫂季とすると、今から過去に櫂季が行った場合、櫂季の行った時間における世界の質量は櫂季一人分増えるでしょ」
赤いグラスから青いグラスへビー玉が一つ移動し、数は赤いグラスに一つ、青いグラスに三つとなる。
「そして、櫂季が過去からリングレットと共に今へ戻ってくる」
今度は青いグラスからビー玉を二つ取り出し、赤いグラスへ。さっきと個数が逆転する。
「そうなると、今の質量が増えて、そして過去の質量が減る」
「質量が増えるってのはなんとなくわかるけれど、それが問題なのか?」
「大問題だよー。やばいよー。この青いグラスはいずれ赤いグラスにならなきゃいけないのに、変動しないはずの質量が釣り合わないんだから。過去の質量と今の質量が釣り合わないーー世界の質量に矛盾が生じる。これもパラドックスと言えるね。そして最初に言ったようにーー」
「パラドックスを生じさせうることは世界に阻害される。時間の抵抗を受ける」
「そういうこと」
司は赤いグラスからビー玉を一つ青いグラスへ移動させ、数のそろった状態に戻す。
「だったらどうすればいいか・・・はもうわかるっしょ」
僕は赤いグラスからビー玉を二つ持ち上げる。
「僕の質量は時間の行き帰りで相殺されるとして、過去からリングレットを持ち出す分、あらかじめ過去に質量を持ち込めばいい」
青いグラスに一度ビー玉を二つ入れ、そしてまた二つを取り出して赤いグラスに戻す。最初と違うのは、一つだけ最初に赤いグラスにあったビー玉とは違うビー玉を運んだことだ。
つまりこれがリングレットにあたる。
「最初に持ち込む質量として、櫂季の実験室からそれを持ってきたんだよ。偶然にも当時のリングレットと同じ重さだったからさー」
質量は三十キロ弱、動物を模して作った機工物だ。
「そりゃすごい偶然だな」
「もちろん、偶然ならね」
司は意地悪そうに、歯をむき出して笑った。
「釣り合いを取るために櫂季はこの動物もどきを過去に持っていくこと。そして帰りはその代わりにリングレットを持ち帰ること。わかったかな」
「わかったけれど、だったらこの鳩は何なんだ?」
「そっちは命の釣り合いを取るためだよー。今説明した質量をそのまま命と変換すると説明できるね」
「つまり、過去からリングレットを持ち出すから、リングレットの命分、この時間から命を持ち込む必要があるってことか」
「そういうこと」
うんうんと肯く司だが、どうにも腑に落ちない。
「犬の命と鳩の命で差し引きが釣り合うの?」
「それはそうだよ。命は平等なんだから」
「なるほどね、委細承知だ」
説明は終わりなのだろう。司は一つ伸びをして息を吐いた。
「それじゃ決行は夕方だよ。装置は私が設置するから、櫂季は出発の準備しといてね」
そう言って司は準備に取りかかった。
さて、と考えて立ち止まる。過去への出発って何を準備すりゃいいのだろう。
しばらく右往左往していたが、準備と言われても内をしていいかわからず、僕はただ役に立ちそうな工具なんかをポーチに詰めていた。司の作った機器も探せば役に立つものがあるかもしれないが、パラドックスを引き起こす危険性を考えるとそれもできない。十年前でもあったようなものしか持っていくべきではないのだろう。
道具を床に広げ、一つ一つ確認する。そうこうしているうちに、外で準備をしていた司が戻ってきた。
「あれ、もっと時間かかるかと思ってたよ。あの重い大砲もあったのに」
床に座ったままの僕とは逆に、司は机の上に腰掛けた。
「今は運搬道具も色々あるからね。それに、大砲も見た目は昔のままだけど、実は結構改良されてたりするのさー」
司は得意げに胸を張る。
「運搬しやすくなったことはいいけれど、でもそれは僕と巽がいる間にやって欲しかったものだな」
十年経った今でもあの重量を思い出せる。大砲の重量だけではない、司の実験室にいる間に少しずつ記憶が蘇ってきた。全てを忘れていたわけではないけれど、それでも細部を取りこぼしていたものがいくつかあったと実感する。記憶に色が付いていくような、重みを増していく感覚。
「ところで、櫂季は何をしているのかな?」
床に広げた工具や機器類を指さして司は訊いた。
「準備だよ。司がやれって言ったんだろ。持ち物の確認をしてるんだ」
「駄目だよー。過去にそんなに一杯物持って行けないよ。せいぜい今着てる服とあの機工物くらいだよ」
「え、そうなの?」
「物の一つ一つは分離して演算しながら固定させるから、物が多すぎると癒着しちゃうの。過去に行ったら右手がプラスドライバーになってたなんて嫌でしょ」
「それは嫌だな」
手荷物はなしの状態で、身一つで行かなきゃならないわけだ。更に難しくなってないか。
「仕方ないな、ってことはいよいよ出発か」
立ち上がろうとする僕に司は窓の外を一瞥して、
「うーんと、ちょっと早い」
と言った。
「今、自動で装置の作動ルーチンを確認してるところだから、三十分くらいかな、お待ちください」
「三十分か・・・それじゃ時間もあることだし、一つ訊いてもいいか?」
「どうぞー」
司の目をまっすぐ見つめる。
「正直なところ、司は成功すると思っているか?この時間旅行でリングレットを救うってこと」
「ーー。」
時間旅行できることはわかった。司が自信を持っているのだ、その部分には不信は挟まない。時間旅行のために心構えも済ませた。だけれど、しかしでも。リングレットを救うなんてことが僕にできるのだろうか。その疑問は根深く僕の中にある。
考えるような仕草を見せた後、司は口を開いた。
「私はさ、時間旅行が成功したとき、一度絶望したのさ」
初めて見る光のない笑い顔の司に僕は驚く。
「櫂季がいなくなって巽もいなくなって、それから数年がしたころにようやく時間旅行が確率できたのね。過去に行って戻ってくる装置、それは私の研究目標の一つだったんだけど、でも研究を進めながら私は完成しなくてもいいやって思ってた。だって、訪れることのできる過去があるのなら、訪れることのできる未来もあてしかるべきでしょう。未来、現在、過去、三つ揃って一つの時間軸。でもそれってさ、可能性の否定じゃん。確定した未来があるのなら、決められた先があるのなら、運命なんて悪魔がいるのならーー全部決まったことなら、今なんて何の意味もないんだから。今をどうあがいたところで決められた未来にしかいけないのなら、生きる意味すらなくなるよ」
「司まさか・・・。」
「もちろん、私は死ぬつもりなんかないよーー今はね。ただ一度は悲観し、嫌気がさした。で、一つ試すことにしたの。何をしたと思う?」
気づくと、司の笑顔には元の光が戻っていた。
「さあ、何だろう。見当もつかないな」
答える僕の前で司は指を左右に振る。
「ちっちっー、想像力が足りないね。時間旅行よ、過去にではなく未来にね。今このときから未来へと繋げることはできないかと思って実験してみた」
「行けたのか、未来へ」
「ううん、行けなかった。それがいいのよ」
実験が失敗して嬉しいと司は笑う。強がりではないことは見てればわかる。
「七時丁度に花火を打ち上げて、その五時間後に絶対花火を打ち上げてやるって決めたんだけれど、七時に打ち上げた花火はどこにも繋がらなかったの。でもその五時間後に打ち上げた花火は五時間前ーーつまりは七時の世界と繋ぐことができた」
「それはおかしくないか。だって、七時に打ち上げた花火はどことも繋がらなかったんだろ。だったら、五時間後に打ち上げを行ったとしても、そこに繋がるはずがない」
司は頷く。
「考え方は二つ。一つは七時の時点で実は繋がっていたけれど、私がそれに気づかなかった。もう一つは、未来は確定していないから、今から先へ向かっては道を繋ぐことができない。この二つなら、私は後者を信じるよ。未来は不確定で、順応して形を決める。自分の行動でどうとでもできるってことを信じる」
「それだと、パラドックスは起きないってことか?だとしたら色々と心配毎が減るけれど」
ほのかに期待したのだが、司はそれに関しては眉をひそめた。
「うーん、それは違うね。幅があるっていうのかな。多少の変動には耐えられるだけの強度と柔軟性が世界にはあって、きっとその許容量を越えた矛盾に対しては世界が対処する、みたいなものだと思う。私の実験でいえば、過去と今で違う結果になったけれど、私はただ繋いだだけで移動したわけじゃないから、七時と十二時が数秒繋がったところで大きな差は起こり得ないってこと」
それは逆に、大きな差が起こりうる場合にはその限りではないと、そういうことだ。
「まあ話はわかったけれど、それで結局何が言いたいんだ?」
「つまり、未来が確定的なものでないなら、それを作るのは自分ってことだよ。世界をどうにでも作り替えられる。だったら、できるかできないか考えるだけ無駄だよね」
「なるほど、前向きだな」
「幸いにもリングレットの死を確認できてる人はいないよ。だったら、生か死かを決めるのは櫂季でもいいはずでしょう」
不確定だからこそある希望。未来もリングレットも、同じような土俵の上で中に浮いている。決めるのが僕なら、もちろんよりよい方へと欲張りたい。
「それじゃあ行くよ」
三十分、気づけば時間が過ぎていた。
まあいい、どうせ今から五百万分以上も前に戻るのだから。
司の実験室から訓練場に出る。訓練場のほぼ真ん中に大砲とその他ごちゃごちゃとした機器が設置されていた。
「司、時間旅行って誰にも言ってないんじゃなかったっけ?」
「そうだよー、機密事項だね」
機密事項が周囲から丸見えの場所に置かれている状況。なぜ司はそれを当たり前だと思っているんだ。
「いや、これ、丸見えじゃん。実験風景見られるじゃん」
「大丈夫、事情を知らない人から見ればまた真南司が変なことやってるなー、くらいにしか受け止められないから」
「またって」
まさか十年間周囲からそんな認識をされている中で研究を続けていたのか。ほか分野でも評価を得ているとは言っても、精神力が強靱すぎやしないだろうか。
「ちなみに、見られてても露見することはないのか、時間旅行って」
「当の本人、この場合は櫂季だけど、櫂季以外の人には花火の実験してるようにしか見えないよ。私が花火を発射して、櫂季に直撃しているようにしか見えないね」
「そうかだったらよーーくない!」
あまりにも当然のように言われたのでそのまま流してしまうところだったが、まったくもって聞き捨てならないことを言われた気がした。
「今、直撃しているように見えるって言った?」
「言ったね」
「直撃、するの?」
「大丈夫、なんかいい感じに手前で拡散して、こうふぁーってなるから」
ふぁーって、何がふぁーってなるんだよ。まさか僕か?
唐突に、過去のこと以外で不安になる僕。出発以前に死ぬんじゃないだろうな。まさかこれが世界の干渉力か。
「まあ百聞は一見にしかずだから、あまり深く考えずにやろうよ」
「諺の使い方間違ってる」
首筋に緊張からくる汗が滲んだ。
「そーだ、忘れてた」
司はそばに寄ると、僕の肩に手を回す。
なんだ、何が起きている。
司は僕の後頭部に回した両手をゆっくりと前に戻す。首筋に司の手が触れ、ひやりとした冷たさに脳が蕩けそうになりーーかちり、と音がし、次いで司の手が離れた。
「・・・何これ」
僕の首には何か輪っかが取り付けられていた。冷たい感覚はこれか。
「ねえ、何これ」
司が答えないので再度質問。
司はしばし間を空けて、
「お守りだよ」
と言った。絶対嘘だろう。
「その首輪には人を惹きつける効果があってねー着けてれば櫂季の力になってくれる人がきっと現れるのさ」
「・・・あ、そう」
「信じてないね」
おっけー。僕は司に冗談で励まされるほど緊張しているように見えたということだろう。情けない姿を晒していたと、そういうことだ。いい加減しっかりしよう。
首輪は綺麗に僕の首に合うように作られており、触って硬いというくらいのことはわかるが、形や色は見て取れない。変に目立つものじゃなきゃいいけれど。
そんなことをしている間にも着々と司の手により準備は進められ、残すは僕が所定の位置につくのみとなった。
なっちゃった。
「時間旅行に途中はなから気を付けてねー。繋がった瞬間にはもう櫂季は過去にいるから、できればすぐに移動してーー」
あ、説明始めた。僕のことはおかまいなしに事態を進展させるつもりだこの女。
「櫂季が大学で作ったその機工物はどこか人目につかない場所に隠すか、海にでも廃棄した方が無難だね。鳩は逃がしてくれていいよ」
いいながら司は装置のスイッチを次々に入れていく。大砲の周りに設置されたそれから駆動音が鳴り始め、計測器らしきものの画面には数値や波形が表示された。
そそくさと弾込をしているけれど、今からそれを僕にぶつけるんだろ。
「はい、これで本当に準備完了ー、ぱちぱち」
求められるままに拍手をしてはみたものの、心構えなどは一切できていない。
「まあいいか」
できてはいないが、むしろしない方がいいのかもしれない。変に身構えて気負って堅くなるよりは、こんな緩い空気のまま挑むのも悪くはない。
「それで、僕はどうすればいいの?」
動物もどきの機工物を抱え、逆の手には鳩を抱えた僕に対し、司は訓練場の隅を指す。
「あの辺りに立ってて。そこに打ち込むから」
「打ち込むって」
なぜ意志が揺らぐような表現をするのか。むしろ僕が気負ってしまわないようにわざとこんな空気を作っているのだろうか。司の真意が読めたことは一度もないので、考えるだけ無駄なのだけれど。
言われたとおりの場所に立つと、正面から大砲の筒が見えた。
結構怖い。
「それではよい旅を」
取って付けたような言葉とともに、司がスイッチを押し込むのが見えた。
轟音、遅れて閃光。音より後に光が来る。光の弾が僕の手前で拡散し、途端に光と平衡感覚が消失した。
「きっとできるよ」
全てが消えるその前に、そんな声が聞こえた。
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