第24話 僕と再会

「乾先輩ってあの宇宙局の教育機関に在籍してたんですね」

 研究室で実験の準備をしていると、手伝いをしていた後輩が好奇の目と共に訊いてきた。

「それ、誰に訊いたんだ。小笠原にそのこと話した覚えないんだけど」

「一昨日、乾先輩が教授の学会出席に同行された際に、乾先輩に会いに来たって人が研究室を訪ねて来まして。その人が乾先輩と宇宙局で一緒に学んでたっておっしゃってましたよ」

「来客って、初耳なんだけど」

「ちゃんと乾先輩に伝えましたよ。でも先輩実験中は生返事じゃないですか」

 小笠原はどうしようもないものを見る目をした。呆れと憐憫。十年前には僕が司に向けていたものだ。

「生返事ってわかってるならちゃん返事するときに伝えろよ。それで、相手の名前は?」

「うかがってません」

 おい。

「その人、乾先輩がいないってわかると直ぐに帰っちゃったんですもん」

 だから自分は悪くないと主張するように、小笠原は胸を張った。

「一緒に学んだーー。」

 誰だろう。口振りからすると同級生の一人ということだろうが、わざわざ僕に会いに来るような人物がいるのか。スペースを出奔した時点で、殆どの級友とは縁が切れているのだけれど。

 考え込む僕をのぞき込み、小笠原は言う。

「宇宙局の教育機関といえば完璧なエリートコースじゃないですか。高等教育機関を修了したら直ぐにお国の研究者のはずです。何故に乾先輩はこの大学へ席を置いていらっしゃるのでしょう」

「色々あったんだよ。小笠原に話す気はないけどな」

「過去を匂わせるだけ匂わせて語らないパターンですね。なるほどなるほど、乾先輩の常套手段ですか。いいじゃないですか、教えてくださいよ。何をやらかしたんですか」

「やらかしちゃいないよ。自分の意志で出てきたんだよ。それに小笠原は宇宙局に席を置くことがいいことのように言うけども、国の機関で働くってことは要するに国の為にしか働けないってことだぞ」

「・・・?どういう意味です?」

「つまり、今やってるような研究と実験はさせてもらえないってこと」

「まあ、無理でしょうね」

 僕と小笠原は設置した実験器具と試験品を見る。

 鉄でできた四脚に合成樹脂の外装、各部には複数の計測機器が繋がっている。

 機械工学を専攻する僕がこの一年かけて造ったものだ。

「機械に動物と似た挙動をさせるって、確かに心躍るものはありますが、しかしできたからといって何に使えるかというと甚だ疑問ですね」

「今僕の研究を馬鹿にしたか?」

「いえいえ、技術としては後輩から口を挟めることなどないのですが、実益という意味で考えるとーー。」

「まあな。こんなの国の機関じゃ研究させてくれないよな」

 実益の見込めることしかしない。そして益の見込めるものはとことん行う。それは十年前に嫌というほど知った。知って、身にしみた。

「すると乾先輩は研究の為に宇宙局から出てこられたのですか」

「いやまあ、それも違うんだけどな。違うというか、間違えた結果というか・・・。なんだろうな」

 逃げ出したのとは違う、しかし立ち向かったわけでもない。僕はただ、あの場から去りたかっただけで、その時はそれ以外何も考えちゃいなかった。

 そう考えると、どうして僕は今この研究をしているのだろうか。気づいたらここにいて、気が向いたから機械工学を学んでいた。

 目的意識など、どこかに置き忘れてきたのだろう。でもどこに?

「正直なところ、そこまで乾先輩の半生に興味はなかったりもしますが」

「だったら訊くなよ」

「でも、もったいないなー、とか思ったりしません?」

「しないね。それだけは言える。僕は宇宙局を離れたことに微塵も後悔なんてしちゃいない。むしろーー」

「むしろ?」

「いや、何でもない」

 むしろーーもっと早く止めておくべきだったのだ。なんて、そんなことは後悔とも言えない。ただの逃避だ。もしもなんて、考えるだけ時間の無駄なのだから。

「それじゃ、電源入れるぞ」

「モニターしますね」

 機械の本体に取り付けた主電源を入れる。小さな駆動音と共に四つ脚が設定された初期姿勢を取る。

「立ち上がりは順調だな」

「ここまでは昨日の内にテストできてますからね。計測機器との接続も良好です」

「よし、記録取りながらいくつかの駆動項目実行するぞ」

 インターフェイスを使い、簡単な動きを鉄の四肢に再現させる。

 歩行、逆走、停止。

 一通り試すが、動きに問題は見あたらない。いくつかの項目で応答が鈍いものがあるが、初回でこれなら十分だろう。

「いいぞ、まずまずの成果だ。できることも増えてきたな」

「計測結果にも問題はありません」

 小笠原が確認している機器を一つずつ覗く。問題はなさそうだ。計測機器で取得しているデータは温度と振動周期、それに表面の抵抗値。鉄の本体に被せた合成樹脂表面から取得している。

「温度に振動周期、抵抗値のどれも想定内の数値です。これなら計器上では動物の体温と呼吸周期、それに汗の程度を検出しているように見えますよ」

「それは重畳」

 それから、三時間程かけて一通りの予定項目を終え、簡単な片づけをして今日の実験は終了した。

「結構時間かかっちゃったな。悪いな付き合わせて」

「いえいえー。計測機の使い方覚えられますし、それにちゃんと研究内容覚えておけば引継させてもらえるかもですし」

「引継か、そういえばそうだよな」

「乾先輩はこの先のことをどう考えているですか?」

「この先?」

 不意に質問されて、何を訊かれているのかわからなかった。

「大学を出た後のことですよ。どこに就職するのかとか、何を専門として生きていくのかといったところです。それともこのまま大学に残って教鞭を取られるおつもりですか」

「・・・・・・・・・うん、どうだろうな」

「どうだろうなって、質問してるのこっちなんですけど」

「考えたこともなかったな。この先とか、今後とか」

 今までが何だったのかも曖昧で、これからがどうなのかも煩雑で、今に望むものもない。僕がどこにいるのか、それすらはっきりしていないのだ。

 小笠原は呆れた顔で苦笑いした。この後輩は僕に苦言を呈するときこんな顔になる。

「乾先輩、常に心ここにあらずって顔してますよ。どこに置いてきたんですか、貴方の心は」

「そんなことはーー」

 ない、と言い切れないのはどうしてだろう。本当に僕は今に心を置けていないのだろうか。しかしそれなら、僕の心は何処にある。心はどこに残っている。

 胸に手を当ててみるけれど、乾いた音しか聞こえてこなかった。ここから温度が消えたのはいつのことだろう。乾いた体に血が巡る日が来るのだろうか。

「いた、櫂季だ」

 と思っていたらすぐに来た。

 聞き覚えのある声。明るく、軽く、それでいて芯の通った声。十年ぶりに耳にしたのに、いつも身近にあったようなそれは・・・。

「司ーーなの?」

「ふふふ、当然」

 十年ぶりに声を聞き、そして姿を捉える。

 伏見司がそこにいた。

「あ、一昨日の人」

 小笠原が司を指差して言った。

「僕を訪ねてきた人って、司だったのか」

「だよー。櫂季も毎日いてくれないと困るよ」

 そう言って司は研究室の椅子に腰を下ろした。

何食わぬ顔で上座だし。

「旧知の方というのは本当だったのですね。色男ですね、乾先輩」

「うるさいぞ後輩」

「そりゃどうも」

 それではごゆっくり、と小笠原は言い残し、研究室から出て行った。

 休日なので他に人はおらず、残ったのは僕と司のみ。十年ぶりの二人きりだった。

「櫂季はいつもこんなところにいるんだねー」

 司は煩雑に機材や資材が並べられた部屋を見回す。

「司の実験室とさして変わりないだろ」

「おや?私の今の実験室を知っているのかね?」

「十年前の事を言ってるんだよ。僕が知るわけないだろ、今の実験室を」

 あれから一度も島には足を踏み入れていない。司の姿だって見たのは十年ぶりだ。

「知るわけない、か。そうそう、そうだよね。そこからだよね」

 納得するように、何度も司は頷く。

「司が島から出たのって初めてじゃないのか」

「そうだねー、今回が初めてだよ。宇宙局でずっと実験し続けてきたからね。島の外に出る必要もなかったし」

「あの島で、十年間――。」

「実験自体は櫂季が出て行く前からしていたから、もっと長いけどね」

「まあそうだな。散々付き合わされたっけ」

 物作ったり壊したり、薬品混ぜたり撒いたり、火を付けて付けられて、そう考えると今の僕の根底には司との実験の日々があるのだろうか。少なくとも、曲がりなりにも物作りに関わっているのはそういうことかもしれない。

 その日々を懐かしいと思うかと言えば、まあ懐かしいのだろう。その懐古は悔いを共に連れてくるから、僕はこの日まで思い起こさないように努めていたのだが。

「それで、何の用事なの」

「用事がないと櫂季に会いに来たら駄目かな」

「駄目じゃないけど、司はそんな性格してないだろ。この十年手紙でしかやり取りしてなかったんだし」

「まあそうだよね。うんうん、そうだよ用事はあるよー。手紙使うわけにもいかないし、手紙だけじゃ意味ないだろうし。だから来たんだけども」

 あのね、と司は一呼吸置いて、僕の目を見据えた。

「宇宙局でやる実験を手伝って」

「嫌だ」

「・・・少しは考えてよ」

 口を尖らせる司。しかし僕の答えは決まっている。

「絶対に嫌だ。僕はもう宇宙局には、というかあの島には関わらないって決めたんだ。リングレットを殺されたあの日から。島に踏み込むだけでも嫌だってのに、こともあろうに実験なんて、絶対に関わるものか」

「もう、目が怖いよ」

 司にそう言われて額に手を当てる。気づかないうちに眉が釣り上がっていたので、一つ深く息を吸った。

「ごめん、感情的だった。でもさ、嫌なものは嫌なんだ。宇宙局そのものが。──司はリングレットの命で得られたものが何か知っているか?」

「知ってるよ。ミサイルでしょ」

 宇宙開発の歴史は、兵器開発の歴史と重なった。重なり合って交じり合い、食い合って積み重なった。地球の軌道上へ物を飛ばす技術は地球の何処へでも物を落とせる技術にすり変わり、内容物の安全な運搬は核弾頭の十全な射出へと使われた。

 リングレットの乗った人工衛星もその技術の土台として使われた。

「命使って、命奪うもの作ってるんだぞ。それに、それだけじゃない」

 歯噛みする僕に、わかるよ、と司は言う。

「櫂季が言いたいのは、ロシアのこと」

「ああそうだ」

 リングレットが宇宙へ打ち上げられた翌月、ロシアが世界で初めて動物を宇宙へ送ったと報道された。ロシアが打ち上げたのはスプートニク2号という人工衛星で、一ヶ月前に打ち上げられたスプートニク1号の発展系だった。違いは中身。スプートニク2号には直径二メートルの円錐が付いており、その中に一頭の犬が入っていた。クドリャフカと呼ばれたそのライカ犬が、世界で始めて宇宙に行った動物として歴史に名を刻んだ。

「リングレットのことは記録にも残りはしなかった。ロシアは失敗するわけにはいかなかったから、事前に一度試したんだ。ロシアの技術開発、その試しに使われて、報じられることもなかったんだ」

 だとしたらリングレットの命は何だったのか。ただの習作として扱われ、予行演習として使われる。記録も残らず名誉もない、ただの試作品。

「記録に残れば良いってものでもないけれど、せめて掛けた命の分は得るものがあっていいはずなんだ。あの実験はそれすらも踏みにじった。だから僕は宇宙局に関わらないと決めたんだ」

「わかったよ」

 司はゆっくりと肯く。

「わかってくれたか」

「だったら宇宙局に行こうか」

「・・・もう一度、一から話そうか?」

「例えば、リングレットにもう一度会えるとしたら、櫂季はどうする?」

 不意に、司がそんなことを言う。

 僕は答える。どうするも何もない。

「会うに決まっているだろ」

「それが遠く離れた場所だとしても?」

「仮にそれが宇宙でも、会えるのなら会いに行くさ」

「命がけになっても?」

「この命くらいならいくらでも掛けてやるよ」

「よし、決まりだね」

「何が?」

「宇宙局に行こうか」

 もう、なんというかもう、堂々巡りも甚だしい有様である。

なんとなく懐かしくなってきた。そうだ、司の話はいつも核心に届くのが遅い。自分の中に世界が出来上がっている人間は、アウトプットが意外と不得手だったりするのだ。司のは極端な例だと思うが。

「何がどうして何のために僕が宇宙局へ行くのか、順序だてて話してよ」

「宇宙局にはリングレットに会う方法があるから、リングレットに会いたい櫂季は宇宙局へ行く必要がある──ということだよん」

「冗談でも怒るぞ」

 司の目を見据える。

「リングレットはもう死んでいるんだ。毒を飲まされて、大気圏で燃え尽きて、死んだよ。それにどうやって会うって言うんだ」

「生きてる内に会えばいいでしょ」

 司の目は真剣だった。冗談を言っているようにも、僕を謀ろうとしているようにも見えない。

「十年前に戻してあげる」

「はあ・・・。」

 突拍子もないその言葉に、僕は首を傾げながら肯いた。


 *


「理論が確立したのは七年前で、技術が現実的になり始めたのは三年前のことになるから、比較的新しいと言えば新しい状況になるんだけどね、それでも作ろうと思った最初の部分、起点を考えると十二年前に遡ることになっちゃうなー。うん、まったくずいぶんと長い道のりを私も歩いてきたもんだ。自負したいとは思わないけれど、誇示したいとは思っちゃう辺り私もまだまだ俗物なのかなって感じるよね。まだ途中とは言え、まだ試用段階とは言え、それでもこれを形にした自分というのはそこはそれでロマンチストだったのかなって、ははは、我ながら恥ずかしいね。若気の至りの発想だったのに、ここまで至ったのなら若気にも感謝しないとって気分にもなっちゃうねー。ああ、うん、ごめんね。逸れない逸れない。根本の所は簡単なの。時間の流れを川に例えた人がいたけれど、それはいまいち適切とは言いがたいのさ。一番の不具合は未来が下流に位置してるってことね。それだと下流に向かう方が、つまりは未来に進む方が簡単そうに聞こえてしまうでしょ。ほら、川で泳ぐと上流になんてとても向かえないじゃない。ん?あそっか、櫂季は一度溺れてるから川の話はトラウマになってるんだっけ。いやー、あの時に櫂季を助けられてよかったなーって思うよ。ごめんごめん、また逸れちゃった。実際は過去に戻るほうが簡単、というか要するエネルギー量が少なくて済むという話をしたいわけなのね。時間の構造を三次元のもので例えるのが正しいかという疑問もあるけれど、それでもあえて一番近しい例を挙げるなら、時間は階段みたいなものと言える。今この時は階段の踊り場で、上の階が未来で下の階が過去。ほら、そうすると下の階に下りる方が楽っぽいっしょ。まあつまりは時間の構造は川とは少し違うって話ね。それで階段の移動をどうしようかっていうのが私の根底にあった検討事項なのさ。最初は未来と過去どちらに行くのが難しいかなんて考えてなかったから、それこそ両方を目指すつもりでどっちかには着くだろうと研究してたんだけれど、結局どっちにも着けずにどっちつかずのまま時間だけ掛けちゃって、いやほんとに時間を有効にするための研究で時間を無駄にしたんだからこれはもうミイラ取りもかくやというものだよ。恥ずかしい恥ずかしい。当時の、もとい当初の自分に出会えるのならそこを懇切丁寧に説き伏せたいよね。ともあれ、時間の移動は適当にはできないってことに気づいて、何が必要かって思い悩んだ時にようやく思いついたのが位置情報。そう、位置情報。今自分がどこにいるのかっていうのは問題ないのだけれど、だったら私はどこに行きたいのってなったときに答えがなかったわけだよ。目的地に地図上で印を付けるような、そんな作業が必要だってようやく気づいた。そこからがまた大変で、過去にもしくは未来に座標を置くのはどうすればいいのかと悶々と考え続ける日々。で、ようやく思い至ったのが十年前。今以外の場所に座標を印すのは難しい、っていうか無理だったから、とりあえず今に座標を置いてそれを過去にすれば過去に座標を置いたことになると指針を定めたわけ。まあねー、それでもそれが意味のあることかどうかっていうのは賭けだし、博打だし、それなりに不安ではあったのだけれど、かといって思いついたのならやらないわけにはいかないってことでとりあえずやっておいたの。まだ途中だなーって思いながらも、経過は良好くらいの面持ちでやってたら、案外上手くいっちゃってたんだよねー。うんうん、やっぱり実験あるのみだなって過去の自分に気づかされた。この体験も一種の時間旅行だよ、だって過去の自分に影響されてるんだもの。未来の私に影響されたこともあったし、いやはや奇抜だよね人生ってさ。あーっと、だからつまりその打ち込んだ座標に向けてなら移動が可能だってこと。一回使うとその階層における座標は使用時の踊り場と繋がっちゃうから、座標そのものは使い捨てになるっていう欠点はあるけれど、欠点の一つや二つあった方が愛せるでしょうよ。だから愛してる、もうラビュー。え?つまり?だからそのつまり・・・わかった?」

「わかるか」

 司の精一杯の説明は僕の耳を右から左に通過しただけだった。どこかに通訳はいないものかと頭を抱えるが、残念ながら司の言葉を多少なりとも理解できるのは僕と巽の二人だけだ。巽が日本にいない以上実質一人である。

 どうやら司は十年前に連れて行くという言葉の意味を説明しようとしたみたいなのだけれど、その努力は欠片も功を成していない。

「えーっと、つまり、司はタイムマシンを作ったってこと?」

 それでも何とか意味を理解しようと僕は努力しそう推論した。

「タイムマシンって言うわけじゃないよー。それだとまるで意図したときに意図した時間軸へって意味になりかねないから。私の理論で根幹に据えたのは移動ではなくて観測の──」

「待って待って、ごめん、受け止めきれないから」

「えー、もう」

 遮られたのがご不満のようで、司は頬を膨らます。

「理屈がどうあれ、理論がなんであれ、つまりは僕は十年前のあの時間に行けるってことなんだろ?」

「そうだよ。それはもう最初に言ったじゃないの」

「確かに言いはしたけれども」

 わかるわけないだろう、突拍子もなさ過ぎて。未だに半信半疑以下だ。

「仮に、万が一僕が過去に行けたとして、それで何がどうなる。確かに十年前の十月十日まではリングレットは宇宙局の敷地にいたが、その日に打ち上げられて死んでしまうじゃないか」

「察しがわるいなぁもう。だったらその日に何とかしちゃえばいいじゃんかよー」

「何とかって・・・。」

「さらっちゃおう。過去からリングレットをさらうんだよ。それしかない」

 理屈をすっ飛ばして僕に突きつけてくる眼差し。思い出した、司はかつてこんな少女だった。そして今も。

「十年前の十月十日、十三時ちょうどにリングレットを乗せた人工衛星は打ち上げられた。だから櫂季、その打ち上げ前に貴方はリングレットをさらうの」

「さらって・・・連れてくる?」

「そういうこと」

 にへへ、と歯を出して司は笑った。

 しかし僕は笑えない。

「無理だよ、司。それは無理だ」

「どうして?」

「司はウェルズの小説を読んだことはないのか。著書『タイムマシン』で主人公は人の死を覆そうとする、しかし何度繰り返しても絶対に覆ることはない。その人の死は決まっているからだ。歴史として、時間の規定事項としてその人の死は定められてしまっている。当然だ、死んだはずの人が生きていれば時間に矛盾が生じるから。タイムパラドックス、世界は矛盾を認めないんだ」

「だから櫂季が過去に戻ったとしてもリングレットを救えないと」

「そう、リングレットは既に死んでる。記録にも残らず、歴史にも刻まれなかったけれど事実死んでるんだ。それだけは覆らない事実だ」

 自分で言ってしまって嫌になった。受け入れてはいない、しかし事実は変わらない。

「それを加味すれば、僕は十年前に戻れるという司の話自体もやはり夢想としか思えなくなるんだ。僕は司の話を信じていない。だってそうだろ、そんなことが可能になれば、どうしたって時間矛盾ができる。しかしパラドックスは認められない」

「つまり、時間の整合性が時間旅行の不可能性に対する根拠だということよね」

「そういうこと」

「違うんだなー、櫂季全然違う」

 と、司は笑う。後から気づいた。彼女は僕の言うこと等予想していた。

「つまるところ、時間に整合性が取れた時間旅行なら可能ってことじゃないのさ」

「は?」

「十年前には行ける。櫂季が何と言おうとこれは事実よ。なら、その時間旅行でタイムパラドックスは生じない。櫂季の理屈どおりならそういうことでしょ」

「えっと、ちょっとまってくれ・・・まあそうだな。もし仮に時間旅行なんてものが可能なら、そこで起こることに歴史的矛盾は生じない。生じるのならその時間旅行事態が時間の整合性で阻害されるはずだ」

「だったら、十年前に行く技術ができたことは時間的に整合性の取れたものであるはず」

「いやまあそうかもしれないけれど、だったら、いやだからこそ行く意味はないだろ。十年前に戻ったところで、リングレットが死ぬ事は変えられない。それとも、司はもう一度僕にリングレットを救えない非力さを味わえとでも言うのか」

 時間旅行の可否以前の問題なのだ。どうにもできないものは、どうしようもない。希望にすらならない藁を掴む気は、僕にはない。

「だから、司の言う実験ってのにはーー」

「参加しない、とは言わせないよ。ねえ櫂季、櫂季は見たの?リングレットが死ぬところを」

 今更何を、と僕は思った。

「見たさ、大気圏であの人工衛星が燃え尽きるのを僕は見た。地獄のような光景だった」

 あの一筋の光は脳裏から離れない。

「人工衛星が消えるところじゃなくて、リングレットが死ぬところだよ」

「は?いや、同じことだろう。ああいや、確かにリングレットは人工衛星が大気圏に突入する前に薬品で死んだことになっているけれど」

「だよね。櫂季はリングレットがその薬品とやらで死ぬのを見たの?」

「見てないよ、見られるわけないだろう」

「どうして?」

「どうしてって、宇宙で起こったことだぞ。どれだけ精巧な望遠鏡を使おうとも観測なんてできるわけない」

「そう、そうだよ。観測なんてできるわけない。確かにリングレットは宇宙で死んだことになってるよ。表に出ることのない記録にはそう記されてる。でも、だれもリングレットが死ぬ瞬間を見てないし、死体も確認してないのよね」

「そりゃ、人工衛星ごと大気圏で燃え尽きたから」

「燃え尽きたから確認できないことになってる。でもそれが確実だと誰が言えるのかな?櫂季も見ていない、私だって見てない、実験の主導者も研究員もロシアのお歴々も、誰一人見てない。リングレットの死を見てない。櫂季、これって本当にリングレットは死んだと言っていいのかなん」

「それは・・・。」

 例えば、司が目の前で刺されたとしよう。地面が赤く染まり、司からは血の色が失せていく。呼吸が小さくなり、体は冷えはじめ、最後には心臓の鼓動が止まる。確実な死だ。これなら司は死んだと言える。しかし、刺されたのではなく、崖から落ちたのだとしたら。とても助かるとは思えない高さだとしても、途中で運良く何かに引っかかり、一命を取り留めるかもしれない。しかし崖の上にいる僕からはそれが見えなかったら。僕は司が死んだものと思うだろう。前者にしろ後者にしろ、僕は司が死んだと認識する。しかし両者の事実は違う。

 つまり、司が言わんとしていることは。

「観測されない死は確定した死とは言い切れないってことか」

「そういうことよね。リングレットの死は観測されてない。死体もない。だったら、生きていたとしても時間的矛盾は生じない。パラドックスの蓋は開かない。ほら、できそうじゃない?宇宙からリングレットをさらうことくらい」

「かなり希望的観測に溢れてるけどな」

 崖から落ちた司がそのまま死んでしまっている可能性だって十分にある。いや、その可能性の方が高いのだ。

 しかしだからこそ。

「その希望に縋るしかないのか」

「やる気になった?」

「ああ、その気になった」

 よかった、と司は笑った。とても嬉しそうな顔だった。

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