第23話 僕と鈍い鉛色の円錐

 まさかという気持ちと、馬鹿なという気持ち、そのどちらもを抱えたまま僕は医療棟を出た。巽の手をどうやって振り切ったかは覚えていない。力ずくな気もするし、説得した気もする。どちらにしろどうでもいいことだ。

 走る、とにかく走る。起きたばかりの体は動きがぎこちなく難儀したが、そんなことに気を取られている暇はない。

 そこにすでにいないと知りながら、無意味だとはわかりながら、僕は九号棟へ駆けていた。

 焦燥と不安、驚愕と動転。走ることによる増加よりもさらに多く、早く、僕の心臓は鼓動の回数と速度を増す。

 九号棟に到着し、飼育部屋の前まで行くと、既に扉が開いていたことに気づいた。開け放たれたままだったのだ。慎重に中に入ると、誰あろう父がそこにいた。

「櫂季か。ようやく来たのだな」

 部屋の真ん中で僕に向かい、父はそう言った。

「しかし何故ここに来た。リングレットはここにはいないぞ。目が覚めたということは、医療棟で話を聞いたのだろ」

 奥の小屋を見る。昨夜リングレットがいたはずの小屋は、もぬけの空だった。

「わけのわからん与太話を二人に吹き込んだのは父さんか」

「伏見司とグラフ・巽に打ち上げのことを伝えたのは種本君だけれど、まあ部下だから似たようなものか。しかし与太話ということはない。全部本当だ」

「じゃあ本当にリングレットは・・・。」

「ああそうだ。人工衛星と共に打ち上げられる。そして世界で初めて宇宙へ行く生物となる」

 まるで、まるでさも当然のように口にする父。

 なんだそれは。

「そんなご大層な実験を行う前に、なんで飼い主である僕に何も相談がなかったんだ。それにどうしてリングレットなんだよ。他にもいくらだって犬はいるのに。リングレットより小型の犬だっているじゃないか。小さな円錐状の人工衛星に乗せるのなら、より小さいやつを選べばいいのに」

「一つ、まず訂正をするとだな。リングレットはお前の犬ではない。あくまで訓練を任せただけだ。ここにいる犬は全て宇宙局の管理試料だ。次に、リングレットが打ち上げられる犬として選ばれたのは最も明確な理由がある。ーー主席だからだ」

 一番優秀だから、最も優れていたから、あいつは選ばれた。

 父はそのときだけ、なぜか少し言葉を詰まらせた。

「主席だからーーってことはつまり、あの試験は今回の打ち上げ実験を見越しての順位付けだったのか」

 あの炎天下での試験には、そういう意味があったと。

 目的も趣旨も告げられず、唐突に訓練の終わりを決めたあの試験。成果を評価すると言っていたあの試験。

「そうだ」

「聞いてないよ、そんなこと」

「言えるわけがないだろう。今回の実験は、何をおいても外部に漏らすわけにはいかないのだから」

 父の研究室に所属する研究者は知っていたのだろう。つまりあの時点で試験がある種の選考会であることを知らなかったのは僕と巽だけだったのだ。

 外部に情報を漏らす可能性のある人物として見られていた。つまりは子供扱いをされていた。それに関してはさして憤りを感じてはいない。ただ、そうなのかと頷くだけだ。

「宇宙に打ち上げて、それで万々歳ってわけじゃないんだろ」

「当然だ。内部環境の変化、それに外部から計測できる事象、それらを情報として収集する。期間は一週間程だ」

「それで、リングレットを使った実験は終わり?」

「・・・まあ、そうなるな」

 また、言葉を選ぶように父は答えた。

 僕はため息を一つ、こぼして言う。

「ならいい。実験がこれで終わるのなら、その後はリングレットを毎日可愛がってやれる」

 そうだ、しばしの別れだと思えばいい。なんということはない。ほんの一週間会えないだけだ。

 そう言い聞かせる僕に、しかし父は重い口振りで言った。

「櫂季、リングレットは帰ってこない」

「・・・どういうこと?」

「帰って来れるように設計されていない」

「何が?」

「人工衛星のことだ。地球への回帰を想定していない。あれは宇宙に射出し、記録を取って送信した後、大気圏へ突入して処理される」

 処理という事務的なその言葉で、僕は父の言わんとすることを理解した。したくもない理解をしてしまった。

 戻るように設計されていない。

 その言葉の意味することは。

「大気圏で、燃え尽きるーーー。」

「そうだ。あの人工衛星は大気圏突入後、数分で燃えてなくなる計算だ」

「そんな・・・。」

 計算とか、そんな言葉聞きたくない。

 父の口から真実が告げられているのは否応なく理解できた。こんなことでふざける人間ではない。

 でもだとしたら、どういうことだ。

 リングレットは死ぬのか。宇宙と地球の狭間で燃え尽きて、大気の壁に削られて、死んでいくのか。

 あの小さな瞳も、常に振れていた尾も、しなやかな脚も、可愛い巻き毛もーー全て。全て全て燃え尽きてしまうのか。

 リングレットが死ぬ?

 そんなこと・・・そんなこと!

「どうして!どうして、そんなものにリングレットをーーいやそうじゃなくて、なんで戻って来れるように設計してないんだよ。どうして最初から死ぬようになんて!」

 父に掴み掛かり、声を荒げた。父は眉を寄せて黙るばかりで応えない。

 何か、何かをどうにかしないと。

「場所、そうだ場所だ。今から行って俺が止めてくる。そうだよそうすりゃいいんだ。他の犬を使ってくれって、リングレットは駄目だって言えばいいんだ。なあ父さん、リングレットはどこに連れて行かれてるんだよ」

「知ってどうなるものでもない。あと半刻もしないうちに島の端で打ち上げが行われる。今から行って間に合うものでもない」

「だけど!」

「まして、間に合ったところでどうにもならん。人工衛星の打ち上げは軍事開発でもある。自衛隊が警備をしているんだ。子供一人行ってどうなる問題ではない」

「だったら、だったら父さん行ってくれよ。関係者だろ、責任者なんだろ。だったら父さんから止めるように指示をーー。」

 父は僕の肩を掴んで言葉を遮った。

「櫂季、これはもう誰かが止められるような事柄ではないんだ。研究機関と自衛隊、国政に国外の機関も関わっている。そのどれの頭が反対を述べたとしても、もう止まる流れにはない。それだけ多くの人間が関わり、成そうとしている。リングレットの死もその一部だ。あの犬は正午に三階の実験室で人工衛星に積み込まれたその瞬間から、この先誰の目にも触れずに打ち上げされることが決定した。この時代に生きる誰かが止めれるような事ではない」

「ふざけるなよ。だったらどうして僕にそれを教えてくれなかった!主席が宇宙へ捨てられるなんて知ってたら、殺されるってわかってたら、僕は・・・。」

 言葉に詰まる僕に、父は言う。

「気休めにもならないだろうが、リングレットが焼死することはない。大気圏突入の六時間前、一週間の最後の給仕でリングレットには与えられるのは薬物が投与される。眠るように死ぬための薬を。だからーー」

「苦しんで死ぬことはないって?」

「ああ」

「いいよもう!もう、わかったよ」

 父とはもう会話にならない。それが理解できた。父は研究とその成果を重んじている。与えられた役職に殉ずることを強いている。だったらもう、無駄なんだ。

 感情のぶつけ先も持てないまま、僕は飼育部屋を後にした。


 *


 九号棟を出て歩いた。

 リングレットの訓練を始めてから毎日、毎日、歩き続けた道だ。

 最初は首輪を付けて直ぐにリングレットに逃げられたんだった。走り去るリングレットを追いかけてこの道を走った。

 宇宙局の敷地外に併走訓練のため出るときも、この道を歩いて始めていた。犬笛の関連付けも試しながら歩いた。リングレットはまだあの音を覚えているだろうか。僕には聞こえないあの音を。

 訓練場で走る時だって、この道で体を温めていたんだ。最初はゆっくりとした速度で、次第に早く。リングレットの呼吸に合わせて速度を調節して。

 何度も何度も、毎日、毎週、毎月。数百の日数を重ねて、数千の時間を束ねて、リングレットといた。

 考えたくもなかった。

 僕の努力が、リングレットとの訓練が、この一年間が、リングレットを殺すことに繋がっていただなんて。

 いつか司は言っていた。犬の訓練を行うその目的を聞いておいた方がいいと。確認しておくべきだと。僕はその忠告を行動に移していたか?目の前の問題に対処することで精一杯になり、司の言葉をいつしか隅の方へと追いやっていなかっただろうか。

 気づくことができれば、知ることができれば、何か変わっていたのだろうか。

 薬を食べさせる訓練をした。リングレットは鼻が利かない上に無頓着だから、錠剤をさして抵抗なく飲み込んでいた。体力や従順さと並べて試験されたそれは、最後の毒薬を飲むための訓練だったのだろう。僕は、着々と暢気にリングレットを殺す段取りを整えていたんだ。

 何のために行動を起こしているのか、誰のためになる行いだったのか。僕はまったく考えず、ただ巧くこなすことだけを目的に訓練していたんだ。リングレットを大切に思う前も、リングレットを愛おしく思ってからも、僕は根本に目を向けることを怠っていた。

 記憶が揺れた。

 目がかすむのは涙のせいか、それとも単に世界が色あせたものだと気づいたからか。

 鈍い音が聞こえた気がして、僕は空に目をやった。

 訓練場の端、林の向こうにある塀、その更に先に見える空に、白い煙を上げて鈍い鉛色の円錐が弧を描いていた。

 

 *


「櫂季、櫂季・・・、おーい、起きてるかー」

 間の抜けた声に僕は体を起こす。眠っていたのかそれとも単に呆けていたのか、いまいち判然としない。

 確か、リングレットを乗せた人工衛星が打ちあがるのを見て、僕は動くのすら億劫になったのだ。そう自覚して、また淀んだ泥のような気持ちになる。いっそこのまま溶けてしまえたらいい。何も考えずにいられたらいい。

 そんな気持ちを叱咤するように、声は僕を呼び続ける。

「起きてんでしょ、櫂季。取りあえず立った立った」

 司が僕の脇に手を挟み、無理矢理引き起こした。

 訓練場横の長椅子から数時間ぶりに動かされ、下半身に痺れが回った。気づくと周りは日が沈みかけていて、黄昏色に染まっている。

 僕ははたして眠っていたのか起きていたのか、まあどっちでもいいや。

 無気力な体を仕方なく動かす。

「はい、さっさと準備するよー」

「準備って、何のだよ」

「まだ途中だったっしょ」

 司は僕の手を取ると、訓練場の中へと引っ張って歩いた。

「どこに行くんだよ」

「あれだよー」

 と、司が指さした先にあったのは、黒くて大きい例の大砲だった。傍らには疲弊した巽がいた。

「何やってんの」

「司さんの実験ですよ。一人でこれ運ぶの大変だったんですから」

「ああ、そう。ご苦労だな」

 また実験の手伝いか。

 今は本当にそんな気分じゃないのだけれど。かといって何かをしたいというわけでもない。何もしたくない。考えたくないし、動きたくもない。できれば直ぐにでも寮の布団に潜り込んで、意識を手放したいくらいだ。眠っている間は嫌なことを考えなくてすむのだから。

「世界滅亡って顔してるよ。無理もないけどさ」

 どこからか出したのかわからない花火を持って、司は僕に言う。

「でも、この実験だけは手伝ってねー」

「・・・。」

 応えるのも億劫になり、僕は黙り込んだ。

 そんな僕を見てか、巽と司が目を合わせて意志疎通をする。

「櫂季、この実験は貴方にとっても意味のあることなのです」

「意味って?」

「今から送るのさ、信号を。リングレットに向けてね。花火二発がリングレットへの信号」

「何言ってんだよ、リングレットはもうーー」

「打ち上げられたってのは知ってるよ。巽と私も研究棟の屋上で見てたからね。もちろん種本先生から話を聞いてるから、リングレットが来週どうなるかってことも知ってる。でもさ、でも、今はまだ生きてるんでしょ。櫂季の手が届かない所へ言ったけれど、それでもリングレットはまだ生きてる。生きてるなら、きっと届く」

「届くって、何が届くのさ。大気のない遙か遠くに、何が」

 僕の言葉に、司は手にした花火を掲げる。

「この花火の光だよ」

「そんなのーー」

「届くわけないって思ってる?甘いよー極甘だよ櫂季。私が作った花火なら、遙か遠くまで信号を送ることができるのさ」

 原理は定まってないけどね、と司は嘯いた。

「仮に何かが届いたとして、それに何の意味があるんだよ。信号が届いたところで、リングレットには関係ないだろ」

「確かに、リングレットに対しては意味がないのかもしれません。けれど、櫂季には意味があるはずです。きっと、打ち上げたという思いは、櫂季の中に残るはずです」

 巽の目は真剣だった。僕をからかっているわけじゃない。きっと本当にそう思っているのだろう。

 だからこそ、

「それこそ意味がわかんねえよ」

 と、僕はまるで拗ねた子供のような態度を取った。

「まあ取りあえず櫂季は見ててよ」

 司は僕の態度など気にせず、準備に取りかかる。

 巽も合わせて大砲の据え付けを行った。

 昨日と同じように花火の打ち上げ準備が完了する。巽が大変そうだったが、それを支える気力は僕にはなかった。

 司が点火装置を手に取る。

「それじゃ打ち上げるよー。見ててね」

 それは誰に向かって言った言葉なのか。言い終わるやいなや、司は火を点ける。

 低い音、そして昨日と同じ、いやそれ以上の閃光が僕たちを包んだ。

 なんだろう。

 準備の間にすっかり日が落ちた空は、雲一つなく、花火の閃光がどこまでも走り抜けた気がした。

 空からこの地表がどう見えているのかが気になった。鳥の目線からは、雲の上からは、宇宙からは、それにリングレットの目からは、どう見えているのだろう。

 二度目の閃光。

 届くだろうか、届かないのだろうか。もし、届いていたとしても、それは誰にも確認できないことだ。リングレットだけが認識して、そして終わることなのだ。

 リングレットの目からはどう見えているのだろうか。リングレットは僕を、どう見ていたのだろうか。

 閃光が目にしみる。涙が止めどなく溢れ出て、子供のように子供らしく泣きじゃくった。

 空にいるリングレットを思って、僕は泣く。


 *


 リングレットが打ち上げられたあの日から十年が経過した。この十年の間については、さして記録するような事柄はなかった。

 あの年、僕はリングレットを乗せた人工衛星が大気圏で燃え尽きたのを確認し、宇宙局を去った。宇宙局というよりも、育った島から出ていった。遠縁の親戚を頼り、その親戚の家でやっかいになりながら、普通の学校を卒業した。

 あの日以来、父とはまともに会話をしていない。島を出るときも一方的に別れを告げ、父の言葉には耳を貸さなかった。あの時父が何を言っていたかも、もう忘れてしまった。年に一度年賀状が届くが、返事を書いたことはない。

 司は未だにあの研究施設で実験を続けているらしい。僕がいなくなってからも、いなくなる前と何も変わらず。今現在司が何の研究をしているのかはわからない。いや、それを言うのなら当時から彼女の研究内容はわからなかったのだが。年に数回、連絡を取ってはいるのだが、司の話は相変わらず要領を得ない。二十代も半ばだというのに浮いた話の一つも聞かないが、あいつは大丈夫なのだろうか。

 宇宙局はというと、安泰だったわけではない。ソビエト連邦へ秘密裏に技術提供していたことがアメリカ側に伝わったらしく、一度は宇宙局の解体が検討されたらしい。しかし、提供相手をロシアからアメリカに変更させられただけで、結局のところ十年前と変わらず宇宙局は宇宙局として機能している。

 一つ、アメリカ側への技術提供の弊害として僕に関わることがあった。ソビエト連邦の盟主であるロシア出身の巽は祖国へと戻ることとなったのだ。宇宙局を出てからも彼の同室者とは連絡を取り続けていたので、巽の帰国が寂しくなかったといえば嘘になる。

 手紙でやりとりをする以外、宇宙局にいた人達とは、司や巽も含めて一度も直接会っていない。そうやって僕は、あの頃の人たちと距離を置いたまま大人になった。

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