第27話 僕とそれから

 状況を整理しよう。

 何はともあれまずそれが第一歩だと思う。

 司がいないこのタイミングで問題を洗い出しておいた方が良い。どう考えても今までは状況に流され過ぎた。まったくもって未来から来た人間とは思えない行動の数々だ。僕の知っている時間旅行者ってのは、もっと超然としていて多くを悟ったような、それでいて憂いを帯びたクールな人物だったはずだ。翻って今の僕はどうか。予想外の侵入者に心乱し、荷物一つの処理に頭をひねり、相手が司とはいえ子供に捕らえられる始末。特に最後のは酷い、クールとはほど遠い。いや、特段格好を付けようというわけではない。無様で良いーーリングレットを連れて帰れるならそれでいい。

 目的を明確にする。

 当然、リングレットだ。それ以外にない。

 次にその道筋。

 リングレットを十年後に連れて帰るには、明日の夕刻に十年前の司が子供の僕たちと共に打ち上げる花火へと飛び込まなければならない。

 打ち上げは六時だった。つまりその時間までにはリングレットを研究員達の元から奪わなければならない。大事なのはそのタイミングだ。

 例えば今、僕がリングレットを九号棟の飼育部屋からさらったとする。そのとき何が起こるのかはわからない、わからないが良くない方向へ動く事になる。だって、僕が体験した十年前ではリングレットは今夜さらわれていなかったのだから。

 大前提として、今夜リングレットを奪い取るわけにはいかない。では、今夜は何もしなくていいのかというとそれも違う。リングレットをどのタイミングで奪い取るかは既に決めているが、そのためには下準備が必要だ。だから僕は今夜、僕に会いに行かなければならない。九号棟の飼育部屋前、そこで行われる出来事に一枚咬む必要があるのだ。

 暫くして司が戻ってきた。

「外の警備が厳重になっちゃったよ」

「知ってる。夜通しご苦労様と言いたいけれど、見方を変えれば僕だって侵入者だよな」

 そういえば、いつのまにやら僕は司と対等に話をしている。いや、司が僕と対等に話をしているのか。十年前だろうが、相手が大人であろうが、司は司として生きていることに驚く。そもそも、事の大枠を知っている僕と現在進行形で事を経験している司とでは大きく差があるはずなのに。僕がその差を生かせていないだけか。

 当の本人は小首を傾げていた。

「聞きそびれていたけど、警報器を鳴らしたのは櫂季じゃないの?」

「違うよ。最初は僕も僕が鳴らすのかと思っていたけれど、そうじゃなかった。どうやら本当に侵入者はいたらしい」

「へー・・・何しに来たんだろうねー」

「リングレットをさらいに来たって言ってたな。といっても、それはこれからの話だけれど。僕からすれば十年前に会っていて、この時間の櫂季から見ればまだ会ってない」

「これから会うわけだ。私のよく知る方の櫂季が」

「そういうこと。時間的にはーーってまずい」

「え?」

 司を部屋の奥にある準備室へと無理矢理押し込め、次いで僕も飛び込んだ後にゆっくりと扉を閉めた。

「なんなの、もしかして大人な櫂季は未来の私よりも今の私をーー」

「静かに、すぐに人が来る」

 僕がそう言うと、司は察したのか頷いて口をつぐんだ。わざわざ手で塞がなくてもいいのだけれど。

 間を空けず、扉の開く音がした。準備室の扉ではなく、実験室の入り口から聞こえた音。準備室の扉にある隙間からのぞき込むと、人が入り込んで来るのが見えた。

「誰か来たの?」

 耳元で囁くように司は言う。僕は頷く。

「あれは僕だ」

 あそこにいるのは十年前の僕だ。そう、十年前のこの日に、僕は侵入者を撃退するために立ち入りが禁止されている宇宙局の敷地へ入り、九号棟へ忍び込んだのだ。司の実験室へは役に立つ道具を探しに寄った。

 部屋の中を物色する僕は、どう見ても子供の姿でしかない。十年経ったということを僕はようやく実感する。しかし見ていてたどたどしい動きをしているな。色々な棚をひっくり返して、たまに音も立てている。当時は冷静に行動していたつもりだったけれど、客観的に見れば足りない部分だらけだ。あれ本当に僕か。なんだか見ていて恥ずかしくなってきた。

 というか、当時の僕としては上手くやったつもりだったのだけれど、司の実験室に忍び込んだこと、司には露見していたんだな。

 どんな目で十年前の僕を見ているのだろうと思い、ふと隣で同じように隙間から覗いているはずの司を見るとーー扉に手を掛けていた。

「待って、司」

「待たない。私の実験道具を勝手気ままに動かして、一言文句言わないと」

「聞くから、文句なら僕が聞くから」

「あんたにとっちゃ十年前のことじゃないさ」

「そうだけど」

「だめだよ、だめでしょ、だめだよね」

「目が怖いよ」

 言葉だけではどうにもならず、結局力ずくで押さえつけることになった。頭のできはどうあれ、体格なら僕の方が充分過ぎるほど勝っている。羽交い締めにされて司もあきらめたのか、十年前の僕が部屋を出ていく頃にはいつもの顔に戻っていた。

「僕がこんなこと言えた立場じゃないけれど、意外だよ。いやほんと、時間旅行した時より驚いた。何がそんなに嫌だったんだ」

「全部きれいに配置してたのにさー、櫂季がずらすから、ちょいと頭にきたの」

 この部屋は十年前の僕が道具を持ち出す前から適当に者が積み上げられているようにしか見えなかったけれど。司には司の拘りがあったのだろうか。

「今の司に僕が謝罪するのは何か違うと思う。だから、十年後に戻ったときに謝ることにするよ」

「それ、私の体感では十年間待たなきゃだめじゃない。ま、いいか、明日小さい櫂季に文句言ってやる」

 あー、確かに言われた気がする。その後のことが強烈すぎて漠然としているが。

 ともあれ、事態は動き出している。そう時間を空けずに九号棟では侵入者と僕の接触が起きる。動くならまずはここだ。昔の僕と得体の知れない誰かとの戦いに僕は介入する。

「小さな櫂季が何をしに何処へ行ったのか、だいたい察しが付くねー。大きい櫂季もそこに行っちゃうわけだ」

 表情から読んだのか、それとも本当に察しが良すぎるのか。司の洞察力はさすがということだろう。

「そうだよ。取りあえずは静観するけれどね。僕が動くのはその後だから」

「ということは、その現場に本物の侵入者もいらっしゃるのかな」

「そういうこと。っていうか、まずはそっちを過去の僕に解決して貰わないと」

「へー、ふふふ」

「どうした、司」

「いやね、大きい櫂季がそう言うってことは、小さい櫂季は一人で対処できたんだなーと思って。一安心ってところかなー」

「・・・これは僕の問題でもあるんだけど、あまり未来の結果を知ろうとしないでくれよ」

「櫂季が判りやす過ぎるからだよ。先を知ってる人がどう動くのか、それでわかっちゃうんだから仕方ないじゃないさ」

「そうなんだけどさ。どうにもそこらへんの引き締めが曖昧になってるから、駄目だよな。いいさ、こっから先は別行動だ」

「はい?」

 再度、司は僕を見据えた。子供の胆力ではない、ちょっと怖い。

「別行動なんかしないよー。させないし、ついていくし、決まってるっしょ」

「駄目だよ。それこそ未来がどうとかの問題じゃなくて、侵入者のそばに司を連れてはいけない。危ないし、危うい」

 大人として諭すべきことがある。僕はそういう心構えで言ったのだが、司は笑顔で首を振った。

 拒否としてではなく、わかってないなと言うように。

「櫂季、櫂季は私の言うことを断れないんだよ。そこはちゃんと理解しなきゃだよ」

 そう言って司は懐から例の装置を取り出した。僕の首についている黒い首輪の起動装置を。

 僕は静かに息を呑む。途端に首を囲う物体が重く感じた。

「まさか、言うこと訊かなきゃ殺すとでも言う気か」

「そんなことしないよ。殺すなんて物騒なこと、私が考えるわけないでしょーさ。でも、お仕置きくらいなら別だよね」

 司がゆっくりと装置の側面にあるスイッチに手を掛ける。

 あれが押し込められれば、電気が首筋を駆ける。

痛いんだ、あれは本当に痛いんだ。

僕の心を見透かし、司はうれしそうに笑った。

「付いてくよー。いいよね」

「よくはない。けど、わかったよ、好きにしてくれ」

「わかればいいよ」

 これからすることを考えれば、司にそうそう危険が及ぶことはない。侵入者や十年前の僕よりも警戒すべきは警備員とさえ言える。ただ、過去の人間と共に行動することのリスクをそう軽く考えていいものか、僕が引っかかっているのはそこなのだが。この時間から十年後に聞いた司の話では、時間旅行の理論自体は今よりも前に出来上がっていたということだ。となれば、目の前にいる司もパラドックスの危険性については重々承知しているはず、と考えていいはずなのだけれど。こうも容易く干渉してくるのは、パラドックスを引き起こす可能性はないと考えているのか、それともそのことに考えが及んでいないのか。直接本人に訊けば手っ取り早いのだけれど、それもそれで説明するのにまた別の情報を与えてしまいかねないというリスクがある。

 あーもう、わからん。

「取りあえず、連れては行くけれど、基本は僕の言うことに従ってよ」

「いいよ。先導よろしくねー」

「わかってる」

 肯いて、僕は司を連れて司の実験室から外へと出る。

 物々しく、それでいて静かな研究棟の敷地内を司と共に歩き始める。警備員の巡回はあるだろうが、実のところ僕個人に関してはあまり問題ではない。それについてはむしろこの時間の住人である司の方が危うい。大人の姿で堂々とあるいていれば、僕が侵入者だと気づかれることはまずないだろう。しかし、子供で学徒である司は別だ。現在学徒は研究棟群への立ち入りを禁じられている。警備員にそこまで周知がされているかは不明だが、やはり人目に付くのはよくないだろう。スペース以外の場所で子供を連れ歩いているということは、それだけで人目を引いてしまうだろうし。

 虫の音が鳴る夜空の下を慎重に歩く。

 ふと、十年前と同じようなことをしていると思い、少し笑ってしまった。もっとも、十年前の僕にこの先おきる自体は欠片も笑える状況ではなかったけれど。

「ふふふ」

 と、気づけば後ろを付いてきた司も笑っている。

「どうしたのさ」

「うん、これから小さい櫂季と大きな櫂季が揃ってるところが見られるんだと思うとね、ちょっとおかしくなっちゃった」

 小さな僕と大きな僕、司の目にはどう映るのか。

「そうだな、それは確かに面白いかもな」

 片方は気絶してるけどな。

 警備員の多い場所を避け、遠回りするような形で九号棟へと近づいた。

 九号棟の正面玄関から数十メートル離れた草陰で立ち止まる。僕はすぐには動かない。時刻は二十二時五十分。十年前の僕が司の実験室を出て行ってから二十分ほど経過していた。

しかしまだ早い。

僕と侵入者が向き合ったのは二十三時丁度だった。そこからの攻防に大した時間は掛からなかったけれど、しかし少なくとも二十三時前に僕達が九号棟に入り込むわけにはいかない。

「櫂季、入らないの?」

 後ろで待っている司が背中を引っ張ってくる。

「まだだ、まだ入るわけにはいかない」

「そっか、んじゃ先に行ってるねー」

「いやいやいや!」

 僕の前に出てそのまま進もうとする司を羽交い絞めにする。

「司もわかってるだろ。事細かに言ってはいないけど、なんとなくは察してるだろ、司なら」

「わかってはいるけど、その上でパラドックスを引き起こしてみたいという心もまた私の中にはあってさ」

「消せ、そんな好奇心」

 あってさ、じゃないよ。もともと拙い計画がより一層破綻するようなことを。

 そうやって司を取り押さえていると、正面玄関に近づく人影が一つ。

「・・・、来たな」

 侵入者だ。成長した僕から見ても背の高いと感じるその人影は、周囲を気にする様子もなく、正面玄関から堂々と入っていった。

 さして間を空けず、始まるはずだ。

「行くよ。司、これから中で何があっても、決して僕の許可なく動かないと誓ってくれ」

「りょーかい」

「軽いなぁ」

 一抹の不安を抱えながら、僕は司を連れて正面玄関に近づく。

 玄関口から中を覗く。扉の付近には誰もいないが、通路の置くから物音が聞こえてきた。

「あんたの目的はーー。どうしーーに来た」

「君はーー。でなけりゃーーもなかったーー」

 二人の会話。

 離れているのでよくは聞こえないが、あのときの会話は覚えている。あいつの目的、その言葉だけは今の僕達にもよく聞こえた。

「リングレットーーあの犬を貰いに来た」

「――・」

「大人気だねー、リングレットは」

 司がそんな感想を言っている間にも、奥では自体が動き出していた。目の届く範囲まで足音を立てないよう注意しながら進む。

 十年前の僕が、手製の武器――電光丸だったっけかーーを振り回して大立ち回りを繰り広げていた。

 侵入者は鮮やかな動きでそれをかわす。そして反撃。

「結構容赦ない感じ、あの侵入者さん」

「あのさ司、僕の、あそこにいる僕の心配とかしてくれないの?」

 結構ぼこぼこにやられている。がんばれ僕。

「大きい櫂季がここにいるんだし、五体満足で生きてるならそれでいいじゃん」

「・・・。」

 間違ってはないのだが。

 十年前の僕は決死の一撃をかわされ、首筋に奪われた電光丸を当てられて倒れた。

「自分で作っておいてなんだけれど、あれは人に向けていいものじゃなかったな」

「子供って怖いよね」

 侵入者は倒れた僕に見向きもせず、飼育部屋の扉に手を掛ける。しかしそこは十年前の僕が罠を仕掛けた場所だ。十年前、気を失う時にも聞いた、電気によって空気の弾ける音が聞こえた。ドアノブに仕掛けた特大の発電素子が侵入者へ電撃をくらわせた音。

 その音を確認して、僕はようやく動き出す。

「それじゃ、やることやろうかな」

「そういえば、櫂季が何しにここに来たのかを聞いていなかったり。侵入者と小さな櫂季の攻防は引き分けでおわったけど」

「侵入者の方に用はないんだ。存分に気絶しててもらって構わない。僕として用があるのはこっち」

 倒れている十年前の僕に近づく。

 間の抜けた顔で倒れてる十年前の僕。とりあえずはお疲れさまと心の中で言っておく。

「えっと、どこに入れてたっけな」

「櫂季見てよ、この侵入者さん外国人だよ。白人系だー、鼻高い」

 倒れた侵入者を指先でつついている司は放置し、僕は十年前の僕の体をまさぐる。

「お、あった」

 懐に仕舞われていた目標物を発見。こんな所に入れていたか。

「用事は済んだのかい」

「うん、とりあえずは。さて、後はーー」

 と、顔を上げて気が付いた。僕は今飼育部屋の目の前に立っている。

「・・・。」

 扉の隙間から罠に使った諸々の器具を引く抜く。これでもう扉に触れても問題はない。

「司、そこに倒れてる僕のポケットから許可証を出してくれないか」

「はいさ」

 司は何故とも聞かず、僕の指示通りに許可証を探してくれた。

「どうぞ」

「ありがとう」

 司から渡された許可証で飼育部屋の施錠を解除する。錠の落ちる音が静かな廊下に反響した。十年前は重く感じた扉だったが、僕が触れるととても簡単に開いた。中の空気が溢れてくる。乾いた草と獣の匂いが混じったような、濃いけれど不快ではない匂い。少なくとも、十年前の僕は好きだった匂い。そして今もきっと。

 入ってくるのが例え訓練者でも研究員でも、中にいる犬達の対応は変わらない。訓練を受け、吠えることが極端に少ないこの犬達は、僕が飼育部屋に入ったところでさしたる反応は示さなかった。

 十年ぶり。

 犬達の顔ぶれを見て思い出す。

 そうだ、僕はこいつらに、こいつらの訓練者に負けたくなくて、こいつらよりも相棒が活躍できると信じてーー。

 そう考えたとき、もう奥の飼育小屋しか目に映らなくなった。

 飼育部屋の床をはやる気持ちを抑えながら歩く。最奥に、その姿を見つけた。

「リングレット」

 ようやく会うことができた。やっと近づくことができた。

 しかし、あふれんばかりの僕の気持ちとは対照的に、リングレットは僕の呼びかけに反応したものの、体を起こさずただこちらを見つめているだけだった。

 十年経ったのだ。姿が違い声も違うのだから、当然といえば当然の反応。尻尾を振って抱きついてくるとまでは期待していなかったけれど、それでもやはり寂しさはあった。

「そうだよな、わからないよな」

 そう言って、小屋の隙間から手を差し入れてリングレットを撫でる。すると撫でられたリングレットは不意に首をもたげ、おそるおそるといった具合に僕の手をくわえた。

 リングレットには咬み癖があった。弱い嗅覚を補う為の行為だったけれどーーと、リングレットの特徴とそれに纏わる事象や苦労に思いを馳せていた僕に、リングレットは立ち上がって身を寄せてきた。斜めに垂れた尻尾がゆっくりと左右に揺れていて、リラックスしていることがわかる。

「そっか、気づいてくれるのか」

「見た目が違っても肌の感覚でわかるのかな。櫂季の匂いは昔のままだしね」

「リングレットにとっては味だけどな」

 それから暫く、僕はリングレットに触れ続けた。ずっと昔に失ったこの感触は、もう二度と得ることはできないと思っていた。

 今だって、おっかなびっくりこの時間と戦っているんだ。

 確実に連れ出せる保証はどこにもない。未来は確定していない。そしてそれこそが唯一の可能性、すがるべきよりしろなのだと自覚している。

 隣でムドリェーツが退屈そうに、拗ねたように僕を見ていた。巽のことでも考えているのだろうか。

 そのまま何時間でも過ごしていたいと思ったが、それでは当初の目的に反してしまうと叱咤する。

 忘れてはいけないーー十年間も時間を巻き戻したのは、一時的にリングレットに再会するためじゃない。この先も一緒にいるために、僕にはまだまだやらなくちゃいけないことがある。

 最後にもう一度感触を刻み込むようにリングレットを撫でる。

「司、今から司にやってもらいたいことがある」

「はいはい、わかってるよ。小さい櫂季の面倒を見ろってことでしょうね。おっけー、任せて」

「ありがとう。僕がここを離れた後に警備員を読んでくれればそれでいいから」

「侵入者さんはどうするの」

「たぶん、もういないよ」

「あら、そうなの?」

 司は早足で飼育部屋から出ていく。廊下を見て、辺りを見回すがその目は何も捉えていない。

 やっぱりか。

 僕が経験した十年前にもあいつは捕まっていなかった。すぐに目を覚ましてどこかへ消えたのだろう。それを知っていた僕なら捕らえることも容易だったけれど、しかしそれはやはり止めておいた方がいい。

 侵入者が消えてくれるならそれで充分、そう考えておく。

 司の後を追い、飼育部屋を後にする。扉の手前で小さな不安が体を通り、僕を振り向かせようと仕掛けてきたが、気づかないふりをした。

「僕は一度司の実験室まで戻るよ。鍵はーー」

「あけたままだから大丈夫だよー」

「明日の朝まではそこにいるから。司は暫く現場確認に付き合わされるだろうけど、我慢してくれ」

「うーん、まあいいよ。そこの櫂季もやっぱり放置しておくわけにはいかないしさ」

「頼んだ」

 司を中に残し、正面玄関から出ていく。

 離れた場所に懐中電灯の明かりは見えるが、近くに警備員はいない。これなら問題なく司の実験室まで戻れる。

 玄関から一歩外に出たとき、九号棟に自然と体が向いた。

 何か他にできることはあっただろうか。

 何か、明日のために何か。

「・・・やめておこう」

 即興や場当たり的対応でどうにかしていい状況じゃない。今日はここまででいい、領分を超えるな。

 強く言い聞かせて、たかぶる心を押さえつけた。

 司の実験室に戻ると僕は目を閉じた。きっとリングレットも同じようにしているだろう。


 *


 差し込む日差しで朝だとわかった。目を閉じるまでは眠れるかどうかわからなかったが、存外安眠していたようだ。壁に掛かっている時計を見ると六時を回ったところだった。

「寝すぎだな」

 衛星軌道を回るために人工衛星が打ち上げられるのは今日の午後一時だ。いまから七時間、それまでにリングレットを連れ出さなければならない。

 でも、まだだまだ早い。そして、それがいつから可能なのかを僕は調べに行く必要がある。

 床に直接寝転がっていたせいで堅くなってしまった体をほぐしていると、実験室の扉が豪快に開いた。

「はい、おはよー」

「おはよう、司」

「はは、捕まってはいないみたいだね」

 司は僕の顔を見て笑うと、片手に持っていたパンを渡してきた。

「朝食だよ。腹が減ってはなんとやらだよー」

「ありがとう」

 一口かじる。乾いたパンの口当たり、口が味を覚えていた。

「そうだった、こんな無味簡素なやつを食べてたんだよな。思い出したよ」

「十年後はパンも変わってるの?」

「んー、まあそんなところかな」

 実際はこのパンの味が懐かしいというよりも、宇宙局の朝食が懐かしいという意味合いで言ったのだけれど、しかしそれを説明すれば僕が近い内にここを去ることまで説明することになる。

 だから僕はごまかした。

「早く過ぎる割には存外変化するものだからな。十年なんてそんなものだ」

「ふーん」

 司は理解したのかどうでもいいと思ったのか、頷くだけだった。

「それで、櫂季の予定はどうなってるの。まだ動かないつもりかな」

「いや、動くよ。もう一度九号棟に向かう」

「あれれ、また行くの」

「これで最後だ。司はどうする?」

「もちろん付いていくよん。見ていたいからね、櫂季を」

 今更付いてくるなとは言わない。言ったところで、この首輪の件を交渉材料にされればそれまでだ。

「これからやること、司に説明しておくぞ」

「いいけど、全部含めて早めに終わらせてよねー。櫂季の、小さい方の櫂季のお見舞いに行きたいから」

「自分で付いてくるって言っておいて・・・。まあいいや、大丈夫、僕は昼まで目を覚まさないから」

 もっと早く目が覚めればとあの時思ったものだけれど、どちらにしてもリングレットの打ち上げには間に合わなかっただろう。よしんば間に合ったとしても、何もできなかった。

 そう、だからこそ僕が今ここにいる。

「説明に戻ると、まず目標として据えておくのはリングレットの奪還、それ以外にはない」

「まあそうだろうね」

「次にその機会だ。いくらリングレットを連れ出せる状況を作っても、研究員に露見したのでは意味がない」

「意味がないことはないと思うけれど」

「あーそうだな、言い方が悪かった。研究員に露見することはできない。ありえるあり得ないの話じゃなく、できないしやってはいけないんだ。何故なら、僕が経験した十年前にリングレットがさらわれたなんて事件は起こっていないから」

「それはパラドックスの話?」

「そう。僕の記憶とこの時間で起きることの粗誤は事象としておかしい。ここで起きる事象は現実的に矛盾なく解釈できる物事じゃないとだめだ」

「でもそれなら、リングレットを連れ出すのは絶対に無理ってことだよね」

「そこのつじつまを合わせる」

「合わせられるのかな?」

「既に理屈としては七分ほど組あがってる。残り三分を埋めるために九号棟へ行くんだ」

「なんとなーく、わかってきたかも。つまりその三分に見合う情報が九号棟にあるわけだ。ふーん、でもどうして昨晩それをしなかったのさ」

「昨日は司が警備員を呼んだけれど、そうしなくても遅かれ早かれ人は来ていた。九号棟に明かりが付いていたからな。タイミングとしてはよくなかったんだ」

 時計を見る。そろそろ朝の給仕が終わっている頃合いだ。つまりは飼育部屋から人がいなくなる時間。

「とりあえず出発するよ」

「はいさ。ついていくよん。あ、でもその前に、はい」

 そう言って、司は袋を渡してきた。

 中を見ると真っ白いシャツと白衣が入っている。

「司、これは」

「変装だよー。研究棟なら白衣着ていれば大体の人は研究員だって思ってくれるからね。洗濯物置き場から盗ってきた。大きい櫂季ならそれ着ていれば目立つこともないっしょ」

「そうか、ありがと」

 来ていた服を脱ぎ、司が用意してくれた服に袖を通す。白衣のせいで多少動きづらくはなったが、その分の恩恵は十二分にあるだろう。

 変装を終え、二人揃って九号棟へ向かう。

 研究員とすれ違ったが、訝しがる人はいなかった。司はスペースの学徒であり、立ち入りを禁じられているはずなのだけれど、それを把握しているのは恐らく教職に関わっているものだけなのだろう。警備員はともかくとして、研究員を警戒する必要はなさそうだ。

 さしたる障害もなく、僕は再び九号棟に戻ってきた。

 ここにリングレットがいるのだから戻ってくるのは当然と言えば当然。今日の午後一時にリングレットが島の南端にあるロケット発射台で打ち上げられることを考えれば、猶予はそんなにない。

 一時間前には発射台まで運ばれていることを僕は知っている。一方で、未だリングレット奪還のタイミングでないというのはとても焦燥を感じるところではある。でも同時に、焦ったってどうしようもないだろうという気持ちも同居していた。

「まだリングレットを連れ出さないんだよね」

 隣を歩く司が確認する。

「実行の時は遠いねー」

「そうだな」

「で、そしたら何をしに来たのかって話だけれど。結局細かいところ聞いてないよ」

「下調べだよ、下調べ」

 そう言って九号棟へ入る。

「リングレットを連れ出すにはリングレットが人目に触れていないタイミングでなきゃ駄目だ。更にリングレットがその後も人目に触れることのないタイミング。僕はそのタイミングを知ってる。いや、知ってたんだ。昨日一晩考えてそれに気づいた」

「でも今はそのタイミングじゃないと」

「そうだよ。問題はその時がきて動ける状況を整えていられるかどうか」

 ある程度指針をたてた状態となってもまだ、どう転ぶかはわからない。だから調べる。隙間を埋めるように。

 一階の廊下を進み、飼育部屋に向かわずに階段を上った。

 司は僕がリングレットのいる飼育部屋へ行くと思っていたのだろう。階段を上り始めた僕に訝しげな視線を送ってきた。

 僕や巽は十年前にあの部屋へ入ったけれど、司は入っていない。だから僕が何をしようとしているのか推測が立たないのだろう。

 そのまま二階を通り過ぎ、九号棟の最上階である三階へと到着した。

「こっちだよ」

 とだけ司に言い、奥へと進む。三階廊下の突き当たり、そこにある部屋が目的地だ。

「それこそ、十年ぶりだな」

 司もその部屋が何かは知っている。十年前、一時的に隔離されていたリングレットとムドリェーツが閉じこめられていた部屋だ。

 昨晩十年前の自分から回収した許可証を取り出す。

 これはいつも僕が携帯していた許可証ではない。司が僕と巽のために、特別に処理を施して作った偽の通行許可証。たった二枚しかなかった内の一枚だ。

 許可証を取り出した僕を見て、司は笑った。

「なるほどね、そのための昨晩だったのね」

「司のことだ、気づいてたんじゃないのか」

「まあ何となく小さい方の櫂季に用があるんだろうなーとは、ね。ただその許可証が目的だとはわからなかったよ」

 十年前に司から与えられたこれは、使わないまま僕の中から消えていた。通常の許可証と共に島へ置いてきたかも定かではなかったけれど、今が矛盾なく起きている物事であるならば、僕は僕にこれを奪われていたのだ。

 今日、この日のために。

 この許可証を十年前の僕から奪い取るのは昨晩しか機会がなかった。確実に一人でいて、その上記憶に空白のある時間ーーそれが昨晩だった。

 許可証を使って扉の錠を外す。思い出よりも軽い扉を開けた。

 一歩踏み込んで、

「ーー!」

 出そうになった声を体と共に押しとどめる。

 部屋の中に入らなかったのは、先客がいたからだ。

 部屋の真ん中に設置された鈍い鉛色の円錐。その正面に父が立っていた。

 こちらに背を向けているけれど、しかし解錠の音で誰かが扉を開いたことは既に気づいているだろう。だから、逃げるという選択肢はない。

 後ろ手に司へ合図を出す。

「・・・。」

 ちらりと中を覗いた司は、父を目に止めると頷いた。さすがに状況を飲み込むのが早い。

「無理しないように」

 とだけ耳打ちして、司は音も立てずに早足で廊下を去っていった。

 さて。

 一つの正念場だと覚悟する。

 この時間で捕まるようなことがあってはならない。昨晩の侵入者は上手く逃げ仰せており、現状僕が昨晩飼育部屋を襲撃した犯人ではないと証明する方法はないのだ。

 後ろ手に扉を閉めて部屋に入る。

 父の背中を見るのはいつ以来だろうか。ああそうだ、最後に見たのは十年前の今日だ。僕の大切なものが人工衛星に詰め込まれて飛されたあの日だ。

 あの日以来、父とは連絡も取っていない。

 怪しまれないようにするには、最初の行動が肝心だ。それですべてが決まると言っても過言ではない。この部屋に入れる以上、犬の研究にわずかなりとも関わっている人物であるということは大前提だ。少なくとも、父はそう考えるはず。その上でその研究を取り仕切っている父と面識のない人物を演じなくてはならない。

 僕は一歩踏みだし、

「失礼します、乾さん。午後の準備ですか」

 と、声を掛けた。

 幾分声の抑揚がおかしかった気もするが、それに囚われる事の方が危険だ。

「大変ですね」

 と労うような言葉をかけ、僕は近くの書棚に手を伸ばした。父の方へは顔を向けず、適当に取り出した本へ視線を走らせる。

 人工衛星に関する研究にどれだけの人間が関わっているかはわからないが、二桁で足りる人数ではないだろう。だとすれば、その中の一人一人の顔を管理者といえども覚えているはずがない。なるべく目立たぬように努める。

「ああ、そうだな」

 父は横目でこちらを見てそう言った。

 父はこんな声をしていたのだったか。久しぶりに聞く声に懐かしさと悔悟が同時に沸き上がる。

「・・・。」

 だめだ、押さえないと。感情の奔流が全てを除けて僕の口に流れ込もうとしていた。ここでぶちまけてしまえば全てが終わる。

 難しいことをしようとしているわけじゃない。ここにきたのはただ調べなければならないことがあったからだ。

 リングレットをさらう唯一の機会。それはリングレットの搬送途中にある。いや、途中にあるというよりは、搬送が始まればリングレットをさらうことに関する障害は取り除かれる。

 リングレットはこの部屋であの鈍い鉛色の円錐に押し込められた後、誰の目にも触れることなく発射される。

 つまり、この部屋を出てから人工衛星に取り付けられるまでの間にリングレットをかっさらってしまえば、誰もそのことに気づけない。人工衛星は空の箱を伴い打ち上げられることになる。

 これならば、矛盾なく時間の辻褄を合わせられる。

 だから、僕は調べなければならないのだ。リングレットが搬送される時間とその経路を。試験準備の部屋だ。行程表くらいはどこかに設置されているだろうと当たりを付けて侵入したのだが、まさか父がいるとは。リングレットを連れ出す前準備にしても早すぎる。

 ひとまずは適当な書類を取りに来たふりをして時間を稼ぐが、しかしその間に父が外に出ていくという事も可能性としては薄いだろう。だからといって、僕がこの部屋から出ていくわけにはいかない。司の作ってくれた偽の許可証が使えるのは一度のみ。そしてもう偽の許可証に予備はない。

 この機会しかないのだ。

 引くに引けず、さりとて押し切ることもできない状況で、僕は覚悟だけ持って固まってしまう。

 しかし父はそうではなかった。

「君は、うちの研究員ではないな」

 こちらにまっすぐ顔を向けた。僕が目の端でそれを知覚したのと同時に父はそう言った。

「何故そのような格好をしている。その白衣は宇宙局の支給品だ。君のものではないだろう」

「ーー。」

 父の言葉は断言していた。僕が研究員かどうかを問う段階は既に過ぎており、そしてその答えが否である人間が何故白衣を着ているのかと訊いている。何故研究員に紛れようとしているのか。ある意味では最も答えに近い問いだった。

 顔は伏せたまま、僕は喋る。

「・・・人を呼ばないのですか」

「呼んでいいのか?」

「いえ、呼ばれては困りますが」

「だろうね。君の目的はどちらだ」

 さらりと、まるで当たり前の事のように訊いてくる。目的はどちらか。それはつまり、試料なのか装置なのかという問い。鈍い鉛色の円錐とそれに積載される犬、どちらを目的としているのかを父は問うている。

「危機意識はないのですか。私が貴方の想像している通りの立場であるのなら、危害を加える可能性は十二分にあるというのに」

「君は私に何かしようというわけではない。背後から何も仕掛けてこなかったのがその証拠だ」

 記憶にある父とはどこか違う。具体的に何が違うと指摘できるわけではないのだけれど、それでも、僕の覚えている父がこんな雰囲気をまとっているのを僕は見たことがない。相手が大人だからか。それとも今の父は心境に変化を及ぼすことでもあったのだろうか。

「貴方は何故、この研究を続けているのですか」

 気づけば、僕の口からそんな言葉が出ていた。

 質問の理由も、動機も僕にはわからない。自分の言った言葉なのに。でも、訊かずにはいられないと、心が訴えていた。

「降りようと思えば降りる機会もきっとあったはずだ。立場やしがらみもあるだろう、けれど、それだって捨てることもできるーーできたはずだ。少なくとも、子供の大切なものを壊してまでやることじゃないだろう」

「・・・、そうかもしれんな」

 嘘だ。

 今父は嘘を吐いた。

 父は何かを途中で投げ出すなんてできるはずがない。関わった以上、最後まで関わり抜くのが父の生き方だ。軍人として戦い、そして生き残った、生き残ってしまった父が、たくさんの部下を抱えている中で投げ出して生きていられるはずがないんだ。

 だからそう、僕も嘘吐きだ。それをわかっていて父にこんなことを言っているのだから。

 だけど言わずにはいられなかった。だってそうだろう。生き方よりも、しがらみよりも、プライドよりも、何よりも子供をーー僕を大切にして欲しかったのだ。僕の大切な者を同じくらい大切に扱って欲しかったんだ。リングレットを実験材料になんか使わないでほしかった。

「なんでリングレットなんだよ」

「・・・。」

 父は僕に半歩の距離まで近づいてきた。伏せた顔をのぞき込むようにして、口を開く。

 その直前に少し笑ったのを僕は見た。

「そうか、やはり櫂季か。立派に育っているのだな」

「・・・・・・え?」

 ばれた、気づかれた。でもなんで。

「あの子が、伏見司が何を研究しているのかを知っている。あの子は上手く隠せていると思っているようだが、過去に出した論文と今の研究内容。使われる経費に対する出される成果の差を深堀すれば直ぐに全容は把握できた。悪用されては困るので誰にも伝えてはいないがーー時間旅行装置を研究しているのだろ」

「司の研究内容を知っていたとしても、完成すると思っているのかよ」

「完成するさ。あの子は混じりけなしの天才だ。それだけの才はある」

「父さんは」

 と、僕は言う。言ってしまえば認めたようなものなのに、僕は言う。

「父さんは、どうして僕が櫂季だとわかるのさ」

「わかるさ、自分の息子を見間違えるものか」

 まるで、まるで心から子供を大切にする父親のような物言いをする。その手で息子の大切なものを奪っておいて、そんなことを、よくも。

「だったらわかるよな。僕が何しにこの時間へ来たのか」

「リングレットを連れ出すためか」

「ああそうだ。父さんの糞みたいな実験からリングレットを守るために僕はここに来たんだ。邪魔するってんならいくら元軍人とは言えーー」

「リングレットの搬送は十一時からだ」

 僕の言葉を遮るように父は言う。

「飼育部屋にこの人工衛星の格納物を運び、そこでリングレットを入れる。計器類を繋いだ後に搬出するが、計器からの記録を観測するのは射出一時間前、つまりは正午から」

「ーー何を」

「運び出しの経路は九号棟から六号棟の横を抜けて南門へと向かう。随伴する職員は運搬用の車に二人だけだ。途中で一度停車する。場所は・・・。」

「まって、まて、何のつもりだよ」

「何と言われても、この情報が欲しくてこの部屋に入ってきたのだろう」

「いや、それはそうだよ。そうなんだけど、僕が言いたいのは、どうしてってことだ。どうして、父さんがその情報を僕に伝える?」

 まさにその搬送経路の途中でリングレットを連れ出そうとしていた僕に、どうしてそんなことを伝えられる。まるで僕を手助けするかのように。

「打ち上げを成功させなきゃならないんじゃないの。そのためにはリングレットが必要なんだろ」

「少し違う」

「違う?」

「ああ。達成しなければならないのは人工衛星の打ち上げだ。結果を集めて自国の成果として模倣するのが発注元の目的であって、やつらはそのためにふさわしい犬を使いたいと考えている」

「だったら、やっぱりそうなんじゃないか。リングレットが父さんには必要なんだろ」

「宇宙局に求められているのは取得した記録、情報だけだ。こちらが満たさなければならないのは、リングレットを打ち上げて取得したとされる情報を提供すること。実際にそれを行ったかどうかは問題じゃない。つまり、それらしい情報を渡せば内実がどうであれ関係ないというわけだ。少なくとも、こちらとしては」

 驚いた。

 父は不正を働こうとしている。虚偽のデータを外部へ提供しようとしている。あの厳格な父が。

「どうせ敗戦国であるこの国は当分の間、技術革新も兵器開発も表立って行えない。人工衛星打ち上げの情報など正確なものを取得しても国のために役立てることはできん。よしんば時が経ってその縛りが緩和されたとしても、その頃には遅れた技術として扱われているだろう。だから、宇宙局としては、この研究で正確な記録を取ることに意味はない。いや、むしろ他国に搾取されることを思えば、適当な情報である方が好ましい」

「僕に対して情報を提供するのは、国のため?」

「それはそうだが、国のためを一番に思っているのかというと、どうだろうな、わからん」

 父は困ったような顔をする。頭を掻いて、それでも、と言った。

「それでも、間違いなく私情は挟んでいる」

「それは僕のことなの」

「ああ」

「そっか・・・、そうなんだ」

 その言葉だけで、僕は胸が一杯になった。

 仕事だけだと思っていた。国のために、国益のために僕の大切なものすら機械的に扱うのだと考えていた。でも違った。僕を想ってくれていた。

 父の中に僕がいた。

「それじゃ、僕がリングレットを連れ出しても何の問題もないわけだ」

「露見しない限りにおいてはな」

「わかってる。そこは僕自身が抱える問題として今もあるんだ」

 時間的矛盾。それだけは起こさないように。

 そして、それを回避するために得るべき情報は既に得た。

「悪いけど、リングレットは貰っていくよ」

「ああ、好きにすればいい」

 僕は笑い、父も笑った。

 これから準備しなければならないことがいくつかある。時間を考慮すれば、今からでも動かなければならない。きびすを返して部屋を出ようとし、ふと思い返して僕は止まった。

「あのさ父さん」

 顔を向けないまま、父に話しかける。

「なんだ櫂季」

「しばらく、そう結構な時間、僕は父さんと口を利いていないんだ」

 十年間、今日この日の午後から十年間、僕は一度も父と言葉を交わしていない。島を出てから一度も連絡を取ってない。

「ほんの数瞬前まで父さんのことを恨んでいて、納得も何もできていなかったから、僕は父さんから逃げていた。僕のことをちゃんと考えてくれているなんて、全然察することができなかったから。まあそれは父さんの方にも問題はあると思うけれど。思い返しても説明不足だし、説明できないのもわかっているけど。ともかく、しばらくさ、僕は父さんと話をしてない」

「・・・そうか」

「でも、帰ったら話をしよう。貴方にとってはとても先の事になるけれど、帰ったら僕は父さんと話がしたい」

「ははは」

 僕の言葉に父は笑う。

「ありがとう櫂季。楽しみができた。とても大きな楽しみがな」

 背を向けたままの僕に近づいて、父は僕の頭に手を乗せた。十年前は頭上からきていた力強い手のひら。今はただ暖かい。

「いいんだよ。ともすれば櫂季は距離を開いていた時間のことを気にしているのかもしれないが、そんな必要はない。いいんだ。親にとっては子が大過なく成長しているということ、それだけで幸せなことなのだから」

「・・・。」

「成すべき事を成せ。終わったら酒でも持って会いに来い」

「ああ、わかったよ」

 振り返らずに僕は部屋を出た。薄暗い部屋から出たら、光が眩しかった。


 *


 九号棟を出ると司が入り口横にもたれかかって待っていた。ここにいてはいけないのは司も一緒なのだけれど、警備員のことなど司は気にしていない様子だ。

 僕に気づいて軽く手を上げる。

「どうだった?」

「父さんに僕が櫂季だってばれた」

「あちゃー」

 司は額に手を当てて嘆息する。しかし顔は何処となく笑っていた。僕の様子から上首尾に運んだことは気づいていたのだろう。

「まあ、お察しの通り問題なかったけどね。むしろ父さんがいてくれてよかったとさえ言える」

「へー、損にならなかっとどころか益になったなんて、櫂季はいったい何をどうやったの」

「何も、ただ話しをしただけだ。僕のことと父のことについて。ただそれだけ」

 それよりも、と僕は話を切り替える。あまり細かいことを言えば、島から去った十年間の話もしてしまいそうだからだ。ここまで関わらせておいて今更という気がしないでもないけれど、用心できる時にはしておいた方がいい。

「これからの作戦を話そうと思う」

「いよいよ最終局面ってことだ」

「そういうこと。時間もあまり残ってないからな。結局一か八かの掛けをしなくちゃならないけれど」

「なるほどなるほどだねー」

 壁に預けていた体を起こして、司は僕の正面に立った。額に指を当て、くるくると回りながら思案しているかと思うと、

「じゃあ、私はここまでね」

 と宣言した。

「司は知りたかったんじゃないのか。僕が何をどうするのか」

 昨日から続く司の興味が急に途切れたように見えて、僕は驚く。いや、いいのだ、司が関わらないというのならその方がいい。だけれど、何故司はここに来て僕から離れるのか。それだけが疑問だった。

「知りたくはあるし、興味は尽きないんだけどね。私が関わるのはここら辺にしておいた方がいいかなって。あまりにも知りすぎると縛っちゃうから」

「縛る?」

「可能性だよ。一番怖いのはそこ。リングレットの連れ出しが成功するか失敗するかはともかくとして、その結果を私が知っちゃったら、未来が固定されちゃう。櫂季はリングレットが二度と人目に触れることのない状態に至ってから連れ出すつもりでしょ。それはつまりリングレットがどんな状態か、その答えが固定されてないからこそ挑めることだよね」

 リングレットの死を直接見たものはいない、だからそこ奪える。

 未来で、これから十年が経過した先で大人になった司が言った言葉だ。不確定だからこそ辻褄合わせが行える。曖昧模糊だからこそ、自分で結論を選べる。

「でも櫂季の作戦に関する成否を私が知ってしまったら、世界が許容できる展開は狭くなる。それは未来の櫂季、つまりは貴方の障害にしかならないと思うの」

「そっか、だったら二人で動くのはここまでだな」

「うん。花火は予定通り打ち上げるからね。時間は言わずともわかってるでしょ」

「もちろん。どれだけ苦労させられたか」

 僕の言葉に司はけらけらと笑った。無邪気で純粋な、十年後とまったく変わらない笑顔。不意打ちでそんなものを見せられたからだろうか、僕は少し寂しくなった。道が違えば、僕が島を出なければ、僕はこの笑顔と十年間を共にできたのかもしれない。

「また、会おうな。しばらく先で」

「うーん、そうだね。よし、一つお願い事しておこうかな」

「お願い?」

「というか櫂季に提案」

 言うが早いか、司は一歩僕に向かって踏み出すと、急な接近に反応できていない僕の唇を奪った。

「私を櫂季の恋人にしてよ」

「なっ、え・・・え?―――いや、年の差が、僕もう二十歳はとっくに過ぎてるし」

「違うよ」

 からかうように司は笑う。さっきとは違う、邪な意図のある笑顔。それでも魅力的な微笑で。

「今の私とじゃなくて、大きい櫂季を送り出した私とってこと」

「ちょっとまって、僕今混乱してる」

 手で司との間に距離を作る。心臓の音が大きい。耳が熱を帯び、体全体で脈動するかのように血液のめぐる音が爆音で響く。なんだこれ、なんだこれ!

「にひひ、返事は未来で聞かせてね」

 赤面する僕を尻目に、司は背を向けて駆け出した。

 少し離れて、

「ちょっとの間だったけど、大きい櫂季との時間、楽しかったよー」

 と大きな声で手を振ってきた。

 別れにしては騒がしく、それでいてあっさりとしていた。

「だから、警備員にばれるってば」

 顔に残る熱と心臓の鼓動に急かされながら、僕は今更ながらそう呟いた。


 *


 動けるようになったのは十分ほど経った後だ。

 しっかりと司の姿が見えなくなって、鼓動の音が気にならなくなったあたりでようやくである。大人だというのに、相手は十代も前半の小娘だというのに。司の行動をどう読み解けばいいのか、あの行為の真意は何なのか。

「いや、真意とか、一つしかないじゃん」

 つまり彼女は僕のことが。

 じゃあ僕は、それにどう応える。司の気持ちにどういった形で向き合うのが一番ふさわしいーーー。

「駄目だ、今考えることじゃない」

 一度棚上げしておこう。保留しておかないと、どんどん思考の渦に飲み込まれそうになる。忘れるな、今は他の事に割ける時間は少しもないのだ。というか、これに答えを出すには一日二日じゃ足りない気がする。

 保留に先延ばしに引き伸ばし。

 なんかいつもこんなことをしている気がするけれど。そのせいで今があるのだけれど。

 ともあれ、司の気持ちがどうであろうと、今僕がすべきことは変わらない。変えちゃいけない。

「準備しないと」

 幸運にも九号棟を出てからの十数分間、警備員や研究員の目に咎められることはなかった。白衣を着ているのでその可能性は低いと考えていたけれど、運が良かったと考えるのが妥当だろう。いつまでもその運が続く保証はないのだから、場所を移さなければ。

 動物の匂いを微かに漂わせる九号棟から、研究棟群のある方向へと歩き出す。走ったりはしない。白衣でそれをやれば余計に目立つこと請け合いだ。目立たぬように注意しながら、研究棟群へと向かう。当然ながら司の実験室に向かうわけじゃない。次にあの部屋へ行くとしたら今から数えて十年後だ。建物の裏を回り、細い道の先へと向かう。

「思ったより整理されてるんだな」

 そんな感想を一人呟く。

 研究棟横の廃棄物集積場は鉄と機械で山となっていた。

 さて、この中から僕の作った動物もどきを探さなければいけないんだけれど・・・見つかるのかこれ。見つけなきゃ積み上げた作戦の一段目から組みなおさなくちゃならない。最も、今更そんな時間はないので見つける以外に選択肢はない。

「誰かに持っていかれてないよなぁ」

 ここに動物もどきを運んだのは司だ。到着してすぐの僕を気絶させた彼女が、この集積場に鉄くずと称して置いていったはず。本当は九号棟の前で具体的な位置を聞こうと思っていたのだけれど、予想外の事態で聞きそびれてしまった。山の上なのか下なのか、機能の夕方に置いたのだから、そこまで埋もれているとは思いがたいけれど。

 半刻程探し続けたけれど見つからない。

 まずい、これは本当にまずい。

「司の言っていた廃棄場は別のやつか?いや、でも金属系を集積しているのはここのはずだし、司の性格なら自分の実験室の近くに捨てるのが合理的だと考えるだろ。司のーー」

 司の性格?

 それがどんなものかは未だに僕は捉えきれていない。だけれど、一つ知っていることがあったはずだ。

 好奇心。

司が未知のものを唯の鉄くずと判断して捨てるだろうか。ありえないだろ、そんなの。

「まさか」

 急いで司の実験室へと向かう。記憶の通りいつも通り、司は実験室に施錠はしていなかった。スペースに戻っているとは思うけれど、一応中を確認する。これで司と鉢合わせしたら気まずい。動物もどきのことを考えれば司がいてくれた方がいいに決まっているけれど。中には誰もいなかった。部屋に入り一通り探すと、準備室の端にダンボールが不器用に積み上げられていることに気づく。

 音を立てないようにダンボールを崩すと、埋もれていた物が露出した。

「やっぱり」

 司の実験室に動物もどきがあった。司は最初に僕を捕まえた際、動物もどきも一緒に実験室に運んでいたのだろう。僕とこの金属製の機構物を同時に運べるとは思えないので、どちらかを先に実験室へ運んで、という手順だろうけれど。

「きっとこいつを先に運んだんだろうな」

 この時間に来たときには捨てようと思っていたものだから、僕は動物もどきについて深くは追求しなかった。それで司が言うところの鉄くずは僕にとって大した価値なしと判断して、自分のものにしてしまおうと考えた、というところだろう。

 悪いな司。

 心の中でそう呟いて、僕は動物もどきを実験室から持ち出す。

 これで道具は用意できた。後は実行に移すのみだ。

 司の実験室から出たところで、ふと廊下の窓から外を見ると見たくないものが飛び込んできた。見たくないというか、まだ早すぎるというか。もう少し猶予をくれよといったところである。

 目に映ったのは、訓練場の横道を九号棟に向かって走る車両が二台。片方はトラックと乗用車の中間といった大きさで、目隠し用の幌が後部に設置されている。車両としては、嫌に堅牢そうな形をしていた。間違いなく、父の言っていた運搬用の車両だろう。二人、車から降りるのが見えた。時計を見ると時刻は十時半、事前行動とは関心な職員たちである。もう少し適当でもいいのに。

 動物もどきを抱えて走る。人目に付くわけにはいかないが、そもそも間に合わなければ無意味だ。

 建物を出て、人通りの少ない道を使いながら九号棟に近づく。正面の道からいけば目に付くどころの話ではないので、またもや僕は迂回して雑木林の隅から近づいた。この二日間でこの雑木林の中を何回進んだんだろう。これで最後にしたいものだ。

 運搬車両に近い草むらの中で息を殺す。機会はあるはずだーーなければ困る。その場合より何度の高い第二の作戦に移行しなければならない。

 緊張のせいで長いのか短いのかわからない時間を過ごしていると、中から物音が聞こえてきた。違う、物音ではなく、鳴き声。犬の遠吠えとしか聞こえないそれが僕の耳に届く。

「リングレットの声」

 反射的に影から飛び出そうになる。

駄目だ。わかってる。駄目だ。

ここで飛び出せば、どう転んでもリングレットは救えない。僕がただ失敗するか、上首尾に運んだとしてパラドックスによる世界からの修正を受けるかのどちらかだ。上手くいっても失敗、なんてそんな事態にならないように今まで我慢してきたんだろうが。

しかし、どうしてリングレットは声を上げたのだろう。僕の訓練を通して、リングレットはーー他の犬も同様にーー無駄な吠え声を上げないように育っている。あの鈍い鉛色の円錐へ押し込められるのは苦痛ではあるだろうが、それだけで飼育部屋からここに届くほどの遠吠えをするのだろうか。

 まさか、危害を加えられている?

 それこそあり得ない。

 だって、打ち上げに関わる人間からすれば、リングレットは重要な研究試料だ。無駄に状態を悪くするようなことは行うはずがない。

 僕は今、悪いように、歪んだように、物事を考えようとしているのかもしれない。負の方向へ思考する、そんな状態に陥っているのかも。

 切り替えよう。機会を見極めなければならないのだから。

 中から聞こえる物音はリングレットの遠吠えを最後に静かになった。

 暫くして、金属の反響するような音が聞こえだす。併せて車輪の回る音が、廊下に反響して入り口から外へと響いた。継続的なその音を聞いていると、だんだんと大きくなっているのがわかる。入り口へと近づいているのだろう。

 改めて呼吸を整える。ここから、ここからだ。

 正面入り口に鈍い鉛色の円錐が見えた。運搬用の小型電動車両に乗せられ、職員の一人が操縦をしている。もう一人は支えて横を歩いているが、あまり力を入れている様子はない。恐らく相応の重量があるため、自立して安定しているのだろう。見立てからすると、五百キログラム前後といったところだろうか。

 太陽の光を反射しながら、その鈍い鉛色の円錐は職員が乗って来た大型車両へと移される。幌の幕が引かれ、車の荷台に乗せられた。高さが四メートルほどあるので、いささかバランスが悪いようにも見えるが、職員は器用にその円錐を幌で覆う。ゴムのベルトで締結していたので落下することはないだろう。しかし、宇宙へ飛ばそうという試験品を運ぶには少し乱暴だと思うのだけれど。あれでは中にいるリングレットが可哀想だ。もっとも、それを可哀想だと取る人が一人でもいてくれれば、こんな事態にはなっていないのかもしれないが。

 僕は研究員の何人かを知っている。中には父の研究室に属し、リングレットの打ち上げを手伝った人だっている。彼らを知っているからこそ思う。心ないわけではないのだろう。ただ、優先順位が違うのだ。僕とあの人達とでは。

 違いと差と類似性。そんなことを考えていると、気がつけば鈍い鉛色の円錐は完璧に車両へと積み込まれていた。

「行くぞ」

 誰にでもない、自分に言う。

 行くぞ。

 職員は二人とも車に乗り込んだ。九号棟から出てくる人影は見えず、当たりにも研究員や警備員は見あたらない。人員が少ないのはあえての措置だろう。大人数で警護を付けて行えば余りに目立つから。そしてそれは僕にとっては好都合だ。

 エンジンが掛かったのと同時に、僕は雑木林から飛び出した。姿勢を低くして、ミラーに映り込まないよう注意を払う。抱えた動物もどきが重荷だけれど、捨て置くわけにもいかない。僕よりもこいつが間に合う方が大事なくらいだ。

 間一髪、車両が発進すると同時に荷台に手が届いた。数秒引きずられるような形ですがりつき、何とか荷物と体を荷台に滑り込ませる。幌の陰に隠れようとした瞬間、九号棟の三階にいる人物と目があった。一瞬肝が冷え、相手を理解して安堵に変わる。

「またな、父さん」

 小さくそうつぶやいて、僕は幌の陰に身を隠す。

 すぐに行動へと移る訳にはいかない。さすがに宇宙局の中では人目に付くだろう。鈍い鉛色の円錐は幌に包まれてはいるが、幌の面積を目一杯使ってようやくである。ここで僕が動けば、外からの視線に晒される。せめて、門を潜り終えるまでは静かにしておくべきだ。

「ーー。」

 目の前にそれがある。これから数時間後に宇宙へと打ち上げられ、そして数日の後に地球の引力に捕らえられるそれが。歴史の表舞台には立たずとも、世界の進歩ーーその一助を担うそれが目の前にある。リングレットが中に捕らえられている事とは全く別のかい離した事柄として捕らえれば、これは押し進められてしかるべきなのかもしれない。例えその成果が世界を壊す研究に繋がるのだとしても。兵器という形で用いられるのだとしても。人類を押し上げるための一助となるのかもしれない。工学の道に進んだ今の僕だからこそ、考えることもあるのだと気づく。

 だけれどーーそう、だけれどだ。

 リングレットがそのために命を落とすのはやっぱり違うんだ。少なくとも、僕にとっては飲み込める事じゃないんだ。

 車両は門へと近づく。

 いつも守衛は車両が出入りする際は中を簡単にではあるが確認する。しかし今日に限り、僕はそれに対する心配はしていない。幌の端から覗くと、職員の一人が守衛に何か用紙を手渡していた。守衛はその用紙を確認し、車両には一切触れずに門を開けた。通常の通行証とはまた違うものなのだろう。

 やっぱりだ。

 今日の実験は、記録に残らないものーーというか残してはいけないものだ。人目に付かないよう対策はすると踏んでいた。

 宇宙局の敷地から出て、車両は南に向けてハンドルを切る。これから五分ほど走れば家屋のない林道が続く。その後は田園地帯を走り抜け、島の南端に近づく。南端の施設は近づくことができないので何があるのかは知らなかったけれど、それも十年前に答えを知った。父が言っていた運搬中に一度休憩するというのは恐らく林道を抜け田園地帯に入った当たりでだろう。この車を降りるのなら、停車のために減速した頃合いを見計らなければならない。とすれば、休憩場所の手前が脱出に丁度良い機会だ。

 一度練った計画を再度頭の中で構築し直す。大丈夫、時間は充分あるはずだ。

 民家の立ち並ぶ地域を抜け、車両は林道へと入る。太陽光が遮られているからだろうか、不意に寒くなったように感じた。

「身が引き締まるな」

 一人ごちて、幌の陰から身を出す。直径約二メートルの円錐を慎重に確認する。事前の調査で開閉口の目星はついている。最初に乗り込んだ位置から丁度反対側、百八十度逆にそれはあった。

 リングレットの出し入れに使ったものだろう。その開閉口は縦横共に約五十センチメートルといったところ。犬の出し入れなら充分なサイズだ。もちろん、物として扱う分にはだけれど。

「嫌な気にさせてくれるな、ほんとさ」

 宇宙に打ち上げる為の物。当然といえば当然なのだが、厳重に固定されている。ただのねじ回しではびくともしないだろう。

 背に担いだ鞄から工具を取り出す。司の実験室から持ち出したものだ。司の許可は取ってない。動物もどきを猫ばばしようとした意趣返しーーというわけではもちろんないが。単に話そびれただけだ。表面に見える固定金具だけでも二十は超える。思った以上に時間が掛かるかもしれない。怯むわけにもいかず、僕は最初の一つに取りかかる。

 一つ一つ、外すことができる工具を手探りで確かめながらの作業なので、最速の作業とはほど遠いけれど、しかしそれでも十分と掛からずに全ての固定を外し終えた。金属の板同士がこすり合わないよう注意しつつ蓋を外す。リングレットとご対面・・・とはいかず、もう一枚金属板が蓋をしている。まあそうだろう、二重構造くらいにはなっている。同じ手順で二枚目の蓋を外す。一枚目でなれていたので、今度は五分もかかっていないだろう。

「よう、元気にしてたか?」

 二枚目の蓋をどけると、ようやくリングレットの姿が見えた。開講部を正面に見るように円錐の中に据え付けられている。胴体部分を左右から緩衝材付きの板で固定され、上方向は前足から頭にかけてだけ自由になっている。体の後ろ半分は完全に固定されていた。犬用の車椅子に縛り付けられているようなその姿には、やはり心が欠けているように見えた。

 ともあれ、ともあれだ。リングレットの顔が見えた。昨日とは違う、取り戻したくとも取り戻せなかった昨日とは状況が違う。

 今は抱き寄せていい。掴んでいい。連れ出していいんだから。

 嬉しさのあまりつい顔がほころぶ。手を伸ばせば届くところにリングレットがいる。

「いやに落ち着いた顔してるじゃないか」

 ささやくように声に出して、僕はリングレットへと手を伸ばす。頬に触れると暖かかった。昨日と同じはずなのに、昨日よりももっと近くに存在を感じる。より一層大きな、大切なものに感じた。

 触れていると、リングレットは僕の手を口にくわえた。いつもの癖で、昨日も同じようにされたというのに、リングレットのその癖がとても嬉しい。確認を終えると、リングレットは僕の手を離し、代わりに手のひらの下に頭を潜り込ませてきた。撫でろという催促だ。当たり前だけれど十年前と同じ仕草。こういうときは耳の裏を撫でてやればすぐに満足する。

「あんまり時間はないんだぞ」

 そう言いながらも撫でる僕。リングレットがそうするように、僕もリングレットに甘えている。

 撫で終わって手を離すと、リングレットはまた手の下に頭を入れ、同じように催促してきた。

 これは珍しい、というか初めてだ。十年前の訓練中でもリングレットがここまで甘えてくることはなかったのだけれど。狭いところに閉じこめられて、さすがに恐怖を感じたのだろか。

「もう大丈夫だよ」

 もう一度軽くリングレットを撫で、元気づける。

 いつまでもこうしていられない。そろそろ林道を抜ける頃合いだろう。僕は作業に戻る。減速が始まる前には一通りの作業を終えておきたい。そう簡単ではないけれど、内部を見た印象としては、なんとかなりそうといったところだ。

「待ってろよ」

 一言リングレットに告げて、鈍い鉛色の円錐から離れ、後ろ手に動物もどきを引き寄せた。

 運命とか因果とか、僕はまったくそういうものは信じてはいないけれど、それでも、ここにこうして動物もどきがあることはただの偶然だと言い切ることはないだろう。

 まったく数奇なものである。

 ただ単に世界を騙すための偽物だったはずの動物もどきが、リングレットを救うための鍵になるだなんて。僕の研究は、僕の十年は、島を逃げ出してからの時間は、ともすれば今日のためにあったのかもだなんて、そんなことも考えてしまう。

 リングレットをこの鈍い鉛色の円錐から連れ出すには明確に一つの懸念事項があったのだ。宇宙局の九号棟で積み込みをされたリングレットはそれ以降誰の目にも触れることはない。少なくともそれは父の話から確認が取れている。

 だから、機会は今をおいて他にない。それは確実だが、それでも、それだけではまだ足りないのだ。リングレットを人目に付かず、この鈍い鉛色の円錐から連れ出したとしても、それだけでは不十分だ。人工衛星には検出機がいくつも搭載されている。それらは宇宙環境の情報を取得するだけでなく、宇宙へ射出した生物への影響を計測する。そう、仮にリングレットを上手く連れ出したとしても、人工衛星が空っぽでは恐らく発射前に露見してしまう。そのことに対する対策を取らなければならない。

 思いついたのは昨日の夕方、一人になってからだった。黄昏時が終わりを告げ、夜の帳が幕を下ろした頃に、薄暗くなった司の実験室に急にある気配が首をもたげた。

 誰かが、何かが・・・いる。

 最初は単に暗闇に対して僕が怖がっているだけなのかもと思った。闇は嫌いだから。この十年間は特にそうだった。闇を見ると、リングレットの送り出された宇宙を思い出してしまうからだ。でも、今回はそうじゃないと僕は気づいた。司の実験室に出現した気配は僕の弱さが作ったものじゃない。

 それは確かに音を鳴らし、小さくはあるが空気の流れを変えている。対角線上の部屋の隅に現れたその気配は、しかし一向に動くことはなかった。

 時間が経てば頭も働く。その気配の正体が司の創作物で、一風変わった人形時計だと気づいたのは気配を感じてから五分後のことだった。

 どうして作ったんだ、人体模型の人形時計なんて。

 ともあれ、そこで僕は気が付いた。僕が人形だと気づくその瞬間までは、確かにそこに何かがいたのだ。少なくとも、僕の世界には何かが息づいていた。脳がそう判断した。

 つまりはそう、受け手が誤解さえすれば、誤認さえ起こせば、ないものでもあることにできる。それが人工衛星の検出機でも同様だ。叩き出した数値を見るのは結局のところ人ーーそいつらを誤解させればいい。そして僕の動物もどきならばそれができる。それこそお誂え向きの仕事と言っても過言ではない。

 動物もどきはその名のとおり、動物の挙動を模倣するために作ったものだ。動物もどきをリングレットの代わりに鈍い鉛色の円錐に詰めれば、検出機から取り出される数値は、本物の犬を入れたものと遜色ないはずだ。だって、そうなるべく作ったものなのだから。

 だからこそ、僕はここにこそ運命に近い何かを感じる。歴史とか、時間の流れとか、世界の意志とか、そんなものはどうでもいいけれど、しかし確かに感じる何か。例えそれこそが僕の誤作動だとしても、味方につけられるものはいくらでも付けてやる。利用できるものは利用して、僕はようやくリングレットに追いつけるのだ。放っておくと宇宙へ行ってしまうこいつの元へ、追いつける。

 動物もどきを抱え、各部の調整を始める。動物もどきに内蔵している余剰電力はそう長く保つものではないから、人工衛星の検出機が動物もどきから取り出す記録は短いものになるだろう。もって一日、その程度。その程度だとしても、それでいい。要は発射のその瞬間まで騙せていればいいのだ。打ち上げた後に動物もどきが停止してしまったとしても、研究者達はリングレットが死んだと思いこむだけだ。くそったれなことに、人工衛星は大気圏で燃え尽きる予定だから、証拠も綺麗に消えてくれる。

「よし、これでいい」

 電源を入れ、作動の確認を行う。自信なんて十年前から持ち合わせてはいないけれど、それでもここでは胸を張ってみよう。

 この動物もどきは自信作だと。

 動物もどきの調整が終わった頃、運搬車両は雑木林を抜けた。あと数分もしないうちに減速を始めるだろう。何とか間に合ったか。

 動物もどきを置き、鈍い鉛色の円錐へ手を伸ばす。

 いよいよだ。

 リングレットに付けられている拘束具を一つ一つ外す。背中の大きな板を除け、左右からの固定版を外そうとしてリングレットのお腹を押したそのときーーリングレットに噛まれた。

「いっつ!」

 普段の癖として行う甘噛みとは明らかに違う、牙を立てた噛みつき。一瞬で口は離したが、しかし未だにリングレットは警戒心を露わにしている。拘束具の取り外し方を間違えてリングレットに痛みを感じさせてしまったのだろうか。そう思い、細心の注意を払いながら、もう一度拘束具を外そうとして、やはりまたリングレットは噛みついてきた。今度は警戒していたので噛まれはしなかったが、それでも噛もうとはしたのだ。リングレットが、この僕を。

「どうした?」

 拘束具はただのバネ式のもの、外したからといって電気的刺激がリングレットに及ぶわけじゃない。第一そうなら、既に最初の段階で影響が出ているはずだ。だとしたら、問題はリングレットの方にあるのだろうか。

 何が悪い?

 拘束具を外す動作か、それとも腹を触られるのが嫌なのか・・・。

 まあ、ものは試しだ。

 とりあえずリングレットには触れずに、拘束具だけをいじって外す。その際リングレットの背中が横に押されてしまったが、しかし今度はそれに対して何の反応もしなかった。

 僕はリングレットの挙動を疑問に思いながらも、残りの拘束具を外す。最後の拘束具を外し、自由になったリングレットを鈍い鉛色の円錐から出した。もっとも、拘束具が外れたと同時にリングレットが自ら出てきたのだが。

「出られたな」

 僕が声をかけると、リングレットは僕に飛びついてきた。

 毛の触れる感覚と匂い、そして重みが僕に伝わる。

 そこで気づいた。

 ようやく、遅ればせながらようやく、気づいたのだ。

 リングレットが重いということに。

 いや、犬といえどもそれなりに大きさのある動物である。重くてもおかしくはない。この場合問題なのは、僕の記憶しているリングレットよりも、このリングレットは遙かに重いということだ。十年分体が成長した僕が、十年前よりもリングレットを重いと感じている。

 理由は一つしかない。記憶の誤差など無視できるほどに、リングレットの体重が増えているのだ。

 改めてリングレットを見る。顔や足の肉付きはさして変化がないように見えた。

 しかしーー。

「どうしたんだそのお腹」

 明らかにリングレットの腹部が全体のバランスから逸脱している。昨晩はずっとリングレットが伏せていたから気づかなかったけれど、こんな体型にいつの間になったのか。

 僕の手から離れて、研究者達に管理されるようになってからそうなったのだろうか。彼らが食事を多く与えすぎたために。でも、その可能性は低い。研究用の試料なら、それこそ注意を払って管理するだろう。

 ならどうして、ここまでリングレットの体型が変わる?

 そこまで考えて、悪寒が走った。まさかという考えと、そうかという考えが同時に僕の中で警鐘を鳴らす。

「そんな・・・リングレット、お前」

 変化した体型。

 疲弊した顔。

 九号棟での吠え声。

 触れたときの噛みつき。

 それらが示す、一つの可能性。

「妊娠してるのか」

 子供ができたから、腹部を守っている。そう考えれば辻褄が合う。嫌という程に、パズルが繋がる。

 再度リングレット見る。

 訓練時よりも遙かに変化したその体型は、そうとして見ればそうだとしか考えられなかった。

 反吐が出そうになる。押さえていた怒りが吹き出しそうになるのを必死でこらえる。

 ここまでやるのかーー研究者という奴らは。

 どうせならと、ついでにと、命をこねくり回して。

 何日もリングレットを管理して、その上で体に合った拘束具を用意しているのだ。研究者達が妊娠に気づいていないはずがない。だとしたら、それでもリングレットを宇宙に打ち上げるのだとしたら、それはもうわかっててやっているということだ。

 目的も理由もわからないけれど、それでも興味か実利のために、リングレットを妊娠させたのか。殺すつもりで、命を増やしたのか。

 思わず運搬車両の床に拳を打ち付けた。ばれてしまう可能性も考えずに、衝動に体を任せた。

 一体どの犬を使ってリングレットと交配させたのだろう。きっと訓練対象となっていたあの九号棟の犬のどれかだ。犬の妊娠期間から考えればそれは一ヶ月ほど前に行われたことにーー。

「いや、違うのか」

 おかしい。それはさすがに不自然過ぎる。

 鈍い鉛色の円錐は何ヶ月も前から準備されていた。そして、リングレットがその中に納まるようにと訓練されていたのも、この時間から数えて二ヶ月ほど前からだ。だというのに、その一ヵ月後に再調整が必要になるような実験を試みるだろうか。

 研究者だからといって、いや研究者だからこそ、この可能性は否定される。

 しかしだとすれば、どうしてリングレットが妊娠しているのか。

 そこまで考えて、僕の思考はようやく最悪の可能性というものに手を伸ばした。

 その可能性に至るための鍵は、リングレットはどの犬の子を孕んだのか。

「やめてくれよ、ほんとにさ。どこまでだよ、どこまで僕は自業自得を繰り返すんだ」

 わかった。

 わかってしまった。

 犯人は僕だ。リングレットが子を孕むための段取りを整えたのは、他ならぬ乾櫂季だ。

 この時間の一ヶ月前、それは訓練者を卒業させられた僕と巽が、リングレットとムドリェーツが閉じ込められていた部屋に侵入した時期だ。司に作ってもらった偽造の許可証を使って、二頭が閉じ込められていた部屋に侵入した。巽はその部屋から出ることなく、ムドリェーツとの時間を過ごしていたが、僕はリングレットを外へ連れ出した。建物の外という意味ではなく、宇宙局の敷地からも出たのだ。

 そこで、リングレットはあいつと接触している。

 リングレットと仲良しだったあの黒い犬。誰が飼っているのか、そもそも飼い犬なのかも不明だったあの犬と、リングレットは接触した。

 そう、そのとき確かにあったのだ。僕がリングレットから目を離した空白の時間が。司との会話に没頭していて、リングレットのことを見ていなかった。だから、時間は十分にあったはずだ。

 間違いないという予感。これしかないという確信。

 犯人は僕だ。

 一度は研究員に向いた怒りが霧散し、そして僕の浅慮さを責めるためにまた集まる。

 気を取り直そうとして、しかし上手くいかない。

 リングレットの変化は理解できた。妊娠の理由もわかった。

 しかしどうして、僕はこんなに焦っているのか。リングレットが妊娠していることが、何の問題があるのか。むしろ喜ばしいことなのに。どうしてこんなにも、背筋が凍る。

 いや、ごまかしはやめよう。こればかりはさすがに僕でもすぐに思い至ったことなのだから。

 このままではリングレットを連れ帰ることができないという事実くらい、考えるまでもなくわかっていることなのだから。

 今起きている事を受け入れて、そして叫びだしたくなる。

 結局のところ自業自得。僕は何度それを繰り返す。

 リングレットが妊娠しているということは、リングレットの中に新たに命が宿っているということだ。それ自体は悪いことではない。このまま十年前の経過どおりにすすめば、生まれ出ることなく死んでしまうという不運はあるけれど。運は悪いが、それでも命そのものが悪いわけではない。

 問題を抱えているのはこちら側だ。リングレットを連れ出すにあたり、僕は今日の六時に司が打ち上げる花火を通して時間旅行をするわけだが、その時間旅行にはいくつもの制約がある。そしてその中に一つ、乗り越えることができない壁が見える。

 ――命の総量を変えるような行為はできない。

 十年後の司は確かそんな事を言っていた。時間を移動し、元の時間に戻る際、命の数が変わってはいけないのだ。そうならないために、僕は十年後から鳩を持ち込んで、リングレットの命と交換しようとした。この時間に持ち込んだ命は、僕と鳩の二つ分。十年後に持っていける命も二つだけだ。

 だから、無理なのだ。新しくリングレットの中にいる分の命までは持っていけない。連れ出せない。

 仮にこのままリングレットを抱えて時間旅行の通路である花火に飛び込んだらどうなるのか。

最も幸運な展開は時間旅行が行えないという事態。最悪の展開は、リングレットのお腹にある命だけが十年後に移動するという事態だろう。そして、幸運にしても最悪にしても、僕は十年後に帰ることができない。もちろん、可能性としては僕とリングレットだけが十年後に移動するという場合もないわけではないだろうが、それが果たして正しいあり方と言えるだろうか。もしもそんな事態にいたれば、きっとリングレットの中の新しい命は消える。

 僕はそれが許せるか?

 リングレットの命を救いに来て、その子を見捨てるという選択肢。そんなものが僕の中にありうるのか。

 できるわけがない。

 リングレットが何よりも大切なことは変わらないが、それ以外の命をないがしろにしていいというわけではないのだから。でも、だったらどうする?

 できない、だけでは駄目なのだ。何もできなければ、リングレットが死ぬ。

 ここなのだ。きっと、世界と僕がせめぎ合っている瞬間は、ここなのだ。まだ何かある。リングレットを諦めず、その上で新たな命も消さないそんな方法が。

 なければおかしいじゃないか。そうでなければ、リングレットはどうしても死ななければならないということだ。それこそ認められない。少なくとも僕は認めない。世界と時間がそれを認めようとも。

 だけれどどうすればいい。

 心だけの不屈ではリングレットは救えない。手段が、手法が、僕にはないのに。

 加速する思考で今までの全てを整理する。

 時間移動できる命の数は決まっている。

 帰り道の期限は午後六時。

 持ち込んだ命の数しか持ち帰れない。

 司が花火を打ち上げる。

 父さんは僕の味方。

 僕が十年後に連れ帰れる命は僕を除けば一つだけ。

 十年後の巽は本国に帰還した。

 運搬車両は一度停車する。

 鈍い鉛色の円錐は誰も中を覗かない。

 リングレットは複数の命を宿している。

 人工衛星の研究は軍事用に活用される。

 動物もどきは一日なら作動する。

 本物の侵入者は敷地の外に逃げた。

 侵入者の発言と目的。

 司の告白。

 観測による未来の確定。

 認識しないことで可能な辻褄合わせ。

 ーーこれだけか?

 焼き切れそうなほど思考を加速させる。

 熱を持った頭を鈍い鉛色の円錐に打ち付ける。金属の板が僕の熱を吸いーーそして。

「ああ、そうか」

 僕は決心する。



 日が傾いた空は乾いた風が一層冷たく感じた。西日が辺りを黄昏色に染めている。

「帰ろうか」

 大切に抱え、さらりと背を撫でる。手のひらに温もりが伝わり、そこにある命を確かに感じた。

 九号棟の屋上。三階立てとはいえ、さすがに地面は遠い。風とはまた別の寒さが足下からこみ上げてくるのを実感した。

 それでも僕は飛ぶ。

 硬い足場を強く蹴り、何もない空中へと体を送る。ほんの少しだけ離れているから。きっともっと遠くへ届くから。

 そうして僕は飛ぶ。

 時間とか、世界とか、決まりとか、認識とか、確定事項とか、命とか、実感とか、可能性とか、そんないっぱいのとかを足場と一緒に振り払って、振り切って、僕は飛ぶ。

 少なくともこの瞬間だけは、僕は過去と未来の狭間で自由だった。落下するだけしか道はなくとも、他にどうすることもできないとしても、それでも僕は刹那の自由を味わった。

 浮遊間と興揚感を同時に受けながら、一人と一匹はその時間を後にした。後にして、過去にした。



 その後のことをどう記述したものかと、残り時間も短くなって僕は迷う。端的に言えば、十年の時間旅行は成功した。行きも、そして帰りも。だから司の目的としての一部はある程度達成できていると言ってもいい。もっとも、どこまでが彼女の目的で、どこからが彼女の目的の外だったのかを推し量ることは僕には難しいのだけれど。

 ともあれ、やはり完璧に、それこそ十割の結果が得られたとはとても言えない。逆に十割の外にある一割を拾うことができたとも、この場合は言えるのかもしれないが。僕が選んだのはそういう結果だ。

 丁度今、部屋の扉が叩かれた。どうやら巽の方も準備を終えたらしい。十年離れている間に、巽はえらく変貌を遂げていた。十年前はどちらかと言えば日本人の血が色濃く出ていたのだが、今はロシア人の血が彼の成長に多大なる影響を及ぼしている。

 やはりそこからだろうか。そう、記録として残しておくのはやはり僕が戻ってきたその時点からだろう。

 緑色の閃光に飛び込み、行き道と同じ感覚を味わった僕は同じく訓練場の敷地に着地した。光にくらんだ目が回復すると、司の姿が目に映った。格好も形も僕が十年前に出発した時とまったく変わっていない、成長した司だ。

「ちゃんと帰ってこれたってことか」

 ひとまず安堵の息をこぼす。空を見ると、出発時とさして日の傾きは変わっていなかった。というか、少しも変化のないように見える。司は行きと戻りの時間接続をあまり間をおかずに行ったのだろう。僕としては丸一日を経験したこの時間は、司にとってはほんの数分だったということだ。この時間から僕が消えたのはほんの少しの間。

「お帰りー、櫂季」

 離れていた司が僕に近づく。

「ああ、ただいま司」

「どうだったかな、十年前は。上手く・・・。」

 と、そこで近づいた司は僕のそばにいる犬に気づく。僕が一人で戻ってきたわけではないことは遠目でもわかったのだろうけれど、そばにいる犬については近づかないとわからなかったらしい。

「それ、そのこ・・・リングレット、じゃないよね?」

 司は僕の側で微動だにせず座っている犬を指さす。

 白黒のその体、精悍な顔立ち。そう、この犬はリングレットじゃない。こいつは、

「こいつはムドリェーツだよ」

 僕は答える。僕の相棒だったリングレットではなく、巽の相棒だったムドリェーツだと。

 司はしばし目を見開いた後、首を傾げて僕に問う。

「どうして、リングレットを連れて帰らなかったの?」

「連れて帰れなかったんだ。やらなかったのではなく、できなかった。リングレットが妊娠していたから」

「ーー。」

 その言葉で司は理解したらしい。妊娠したままのリングレットを時間旅行させることはできないということに。そして、その上で僕が下した決断に。

「第二案ってことかー」

「そうだよ。リングレットの奪還は諦めた。今回の時間旅行では。それで、ムドリェーツを連れ出すことにした。今回の時間旅行では。ムドリェーツは十年前に訓練を受けた犬達の中では、リングレットの次に優秀な次席だ。リングレットに何かあった場合のバックアップと恐らく次の実験で使われる試料だったはず」

「そうだよ。十年前の十月以降も人工衛星の打ち上げ実験は行われているからね。もっとも、それ以降はロシアが行っているから、日本での打ち上げはあれで最後になったけれど。でも、訓練を受けた犬達はまとめてロシアに移送されたよー。十年前に櫂季が島を出ていった後の話だけどさ」

「巽がロシアに戻った理由もそれか」

「厳密には違うけどね。ほぼ一緒かも。ロシアに移送されてすぐに使える犬達は何かしらの実験に使われたのね。それは人工衛星に限らずだけれど。でも、その中にムドリェーツはいなかった。十年前の十月、リングレットの打ち上げ日に何故か行方不明になったから」

 知らなかった。

 だってあの日から、僕は島から逃げることを考えていたから。いや、島から逃げることしか考えていなかったから。周りで何かが起きていたなんて、気にも留めなかった。

「巽もしばらくは日本にいたんだけれどね、でもやっぱりロシアに行っちゃった。ムドリェーツのことが遠因となってるのは間違いないよね」

 だからさ、と司は嬉しそうに言う。

「櫂季は良い判断をしたと思うよー。だって、あのままならムドリェーツもロシアに移送されて、宇宙へ飛ばされていたと思うから。生きていられた保証はないわけだし」

「そうか、それならよかった」

 傍らにいるムドリェーツを撫でる。リングレットとはまた違う感覚。これはきっと巽が享受していた感覚だ。

「でも、リングレットはどうするのさ」

 司の問いに、僕は答える。当たり前の答えを。

「もちろん、連れ出す。今度こそな。司だってわかってて訊いてるんだよな」

「あれれー。櫂季は私の説明を聞いてなかったのかな。一つの座標に接続できるのは一度だけだよ。十年前の十月の座標はもう使ったけれど?」

 司は意地悪くそんなことを言う。

「ああ、そうだな。十年前の十月の座標、行きと帰りでその二つを使ったさ。けれど、花火は確か四発打ち上げたよな」

 司の実験を手伝う形で僕は花火と薬剤の合成を行った。後にそれが時間移動の座標作りだと知ったのだけれど、そのときは何も知らずにただ司の指示で花火を作った。四発分作ったのだ。そして、十年前の十月も、司は実験に当たって二発ずつ花火を打っていた。

「あと一回分、座標が残っているんだろ」

「ふふふ、せーかい」

 僕は笑い、司も笑った。

 そうして僕は今、二度目の時間旅行に向けて準備をしている。戻る時間も前回と同じ十年前。数秒ずれただけでほぼ同じ時間だ。司が残しておいた二発目の座標に飛ぶ。

 二度目の時間旅行なので何も心配することはない・・・とは言えない。数秒ずれただけの座標に飛ぶということは、数秒前には一度目の時間旅行を行っている僕がいるということだ。そして困ったことに、僕は一度目に行った十年前の世界で、大人になった僕とは出会っていない。ほぼ似たような場所に移動する以上、ある程度の危険は覚悟していかなければならないが、最低でも姿は捉えられないようにしなければならない。足音や気配はどうしようもないが。

 そして懸念事項はもう一つ。これはある意味嬉しい心配でもあるのだけれど、今回の時間旅行には同行者がいる。当然時間旅行は初心者だ。まあこんなものに熟練者がいる方がおかしいのだけれど、ともあれ、不慣れな彼を僕は補助しなければならない。間違いなく彼は必要だからだ。十年前の侵入者、その正体であるグラフ・巽はいてもらわなければ困る。僕の仕掛けた罠で気絶することは巽には伏せている。わかっていたらあの何でもできる男は回避してしまうだろうから。

 巽に連絡が付いたのは僕が十年前から戻って二ヶ月後のことだった。暫く研究でこもっていたようで、ろくに外部からの連絡を受けていなかったようだが、ともあれ僕がムドリェーツを連れてきたことを伝えると、その日の内に日本への一時渡航を決行していた。あいつもあいつで親ばかというか、加減がわからないところがある。

 まだ父には会っていない。全て終わったら会うと約束したからだ。僕はまだ途中で、未だに全てへ手が届いていない。十年も待ってくれた父だ、あと少しくらいならどうということはないだろう。

 あと記録しておくことはあっただろうか。そうだ、司への返事については未だに保留している。時間旅行から帰ってきて以来、時折司は奥歯に物が詰まったように何かを言いにくそうにしているが、僕はあえて気づかないふりをしている。別に気を持たせて楽しもうとかそういうつもりではなく、純粋にまだ答えられないからだ。それも父と同様の理由で。僕はまだ途中だから、途中で中途半端なままだから。こんな男は司にふさわしくはないだろう。帰ってきたら、今度こそちゃんと答えられる姿で帰ってこれたなら、そのときこそ僕は司と向き合おう。

 出発前に僕が記すのはこんなところだ。

 一度目の時間旅行の反省を生かして、司に書いておくようにと言われたこの記録だが、しかし役に立つのかどうかはわからない。そりゃそうだ、何だってわからない。わからないからこそ挑むのだ。挑むからこそ挫けるし、挫けるからこそまた立てる。

 最愛の犬を一頭連れてくる。ささやかな願いを刻んだその旗を僕はもう一度突き立てる。

 ドアを叩く音が聞こえた。

 行こう。扉の向こうで二人が待っている。

 時間の向こうで待つリングレットに会うために、僕はこれにて筆を下ろす。

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鈍い鉛色の円錐 無秋 @chocomike

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