第21話 僕と動く時間

 宇宙局は前提として研究機関であり、政府主導の国家施設である。教育施設としてスペースを擁しているので近隣住民からは勘違いされることもままあるが、大学や一般企業などとは一線を画す施設なのだ。各門に警備員が配置され、それぞれの研究棟の出入りに許可証が必要とされることからわかるように、警備意識は高い。いってみれば当然である。なにせ国の先端技術を担う組織であるのだから。

 万が一、不正に宇宙局へ侵入するような個人ないし組織がいた場合は、直ちにこの施設は防衛体制に入るよう定められている。

 その定めが今まさに遵守されていた。

「何だこの音」

 また音である。しかし先ほどの花火のような単発的な音ではない。電子音、それも耳に付く高音と低温の混ざったような音。聞き覚えのある音と照らし会わせれば、警察車両がときたま慣らす警告音に類似している。しかし今鳴っているこの音の方がその何倍も荒々しかった。

 それが宇宙局中に響いている。

「おそらく緊急警報ですね」

 巽が近くの音響装置から出ている音に注視し、そう言った。

「この音そのものは聞いたことがありませんが、以前教員が緊急時の警報音があると言っていました。おそらくこれがそうなのでしょう」

「警報音って、何を警報してるんだ」

「侵入者ーーですね。まさかとは思いますが、この音は火災警報音とは違いますし、救急の音とも違います」

「なんでそう言える?」

「スペースの救助訓練で聞いているじゃないですか」

「そうだったな。しかしだとすると」

 これは深刻な状況なのではないか?音は以前鳴り止まず、むしろ徐々に大きくなっていた。止め損ねた目覚まし時計のように、どんどんと。

「一度スペースに戻りましょう。規則では警報音が鳴った場合、各自自室にて待機するよう定められていたはずです」

「ちょっと待ってよ、その前に取りあえずこれ片づけないとだよ」

 司が鉄の塊を指さす。まったく。

「でも本当に侵入者なら出くわす訳にもいかないだろう。取りあえずは巽の言うとおり安全の確保を優先すべきじゃないか」

「実験器具の安全だって大事ですよー」

 そんな不毛な、というか不要な争いをしていると、

「おい、お前達」

 と、研究棟群の方から声を掛けられた。見ると、種本先生がそこにいた。

「こんな所で何をしているんだ。警報音が聞こえないのか。規則に従って寮へ戻れ」

「先生、でも少々問題がありまして」

「何だ?」

「これですよ」

 僕は大砲を指さす。

「司の実験を手伝っていたのですが、この実験器具がどうにも運搬困難で、かといってここに放置しておくわけにもいかないと司が言うんです」

「真南司の実験かーー。」

 種本先生はしばし思案し、嘆息した。

「わかった、これは私が九号棟に閉まっておく。三人はとにかくスペースの寮へ戻りなさい」

「わかりました、よろしくお願いします」

 普段からは想像できない礼儀正しさで司は頭を下げた。

「ところで、何があったのかご存じなのですか?」

 去る前に巽が種本先生へと訊ねた。

 先生は早く戻れと手で示しながらも応える。

「侵入者だ。研究棟三号棟へ侵入を試みた奴がいる」

「えっ!」

 駆け出し始めた僕の足がもつれそうになる。

 研究棟三号棟、そこは父が働く研究棟だ。



 侵入を試みた者が何者であろうと、対象とされたのが父のいる研究棟であろうと、残念ながら僕はスペースで学ぶ未成年である。立場など無いに等しいこの身では、規則に反して三号棟へ向かうことなど許されるはずもない。

 父の研究棟に侵入者がーー厳密には侵入未遂者がーー現れたと聞き、僕は三号棟へ向かおうとしたが、それは巽に阻まれた。

「行ったところで邪魔になるだけです」

 と、まあ至極もっともな胸にささる言葉を言ってくれた。まあいい、別段何かをしようとして足を向けたのではないのだから。気になっただけだ。

 大人しく僕は巽と自室に戻った。

 今頃は警備の人たちが侵入者をとらえているだろう。明日にはスペースの教員が事の次第を教えてくれるはずだ。だからただ待てばいい、しかしそうわかっていても考えずにはいられない。

「侵入者はどんな奴なんだろうか」

 床に座り、壁に背を預けて僕は言った。

「どうしました」

「いや、ただ気になってさ。宇宙局の施設に侵入しようとする奴ってどんな奴なんだろうなって。だって国の管理する施設だぞ。ふざけてやりましたじゃ済まないことくらいわかるだろうし・・・。ともすれば、他国や企業の産業諜報員って可能性もあるな」

「単純に酔っぱらいの可能性だってありますよ。産業諜報員なんて小説の読みすぎではありませんか」

「酔っぱらいってことはないだろ。研究棟に侵入しようとして見つかった、もしくは警備の検出機に引っかかったってことは、逆を言えば宇宙局の敷地には入れてたということだろ。しかも守衛には気づかれずに。ただの酔っぱらいじゃそれこそ門前払いされてるはずだ」

「ああ、確かにそうですね。加えて、ふざけ半分の一般人ってことも無いわけですか。それも同様に守衛に掛かりますから」

「となると、やっぱりそれなりに考えて行動してる奴ってことになるな」

「内部犯行の可能性だってありますよ。宇宙局と一括りに言っても研究班毎に派閥というものがあるそうですし。他部署の研究結果を横取りして自分達の成果にーーなんて、ありそうな話ではありませんか」

「ないとは言い切れないだろうな。でもだとしたら、侵入しようとして気づかれたってところが引っかかるけど。それに、内部犯行なら警報音があれほどけたたましく鳴るものだろうか。それよりも僕は来客の人達が怪しいと思うな」

「最近見かけるロシアの方々のことですか?」

「ああ、巽にとっては祖国に当たるわけだから、こんな話をされるのは憤犯ものかもしれないけれど、研究成果をねらうというのならあの人達が一番それらしいと僕は思う」

「それは逆にありえませんね」

「どうして?」

「こと研究成果に関して言えば、宇宙局の研究は日本の研究成果としては扱われないからですよ。この宇宙局という組織の成り立ちからして、他国に開発した技術を搾取されるのが前提ですからね。ロシアの方々にとっては、わざわざ危険を侵すまでもなく、待てば手に入る情報です。むしろ何カ国も関わっているこの宇宙局で、他国の人間が軽率な行動を取ればそれを口実に何をされるかわかったものではありません。収束したとは言え、戦争で灯った火種は各所で薫っているのですから」

「となると、推測の立てようもないな」

「ええ、連絡待ちでしょうね」

 どうせ犯人はもう捕らえられている。これは単なる推理遊びみたいなものなのだ。

 研究員が事態の対処に当たっているからだろうか、その日はいつもより夕食が遅かった。


 夕食の時間、結局のところ三号棟に忍び込んだのがどういった人物なのかは判明しなかった。

 食事前に教員が苦虫を噛んだような顔で告げたのは意外な言葉だった。

「皆も知ってのとおり、二時間前に宇宙局へ不法侵入があった。警備と職員が対応にあたったのだが、遺憾ながら犯人を捕らえるには至らなかった。おそらくは侵入が発覚した時点で直ぐに宇宙局の外へ逃げたのだろう。現在この島全域を捜索中だ」

 教員は全体を見回し、鼓舞するように続ける。

「しかし安心していい。宇宙局の中でも、この教育施設の敷地はより堅牢だ。侵入者が万が一にも紛れ込むことはない。ゆえに、君達には普段通りの生活を保証する。ただしーー」

 その時確かに、教員は視点を合わせた。全体を俯瞰するようなその目が、いつの間にかいくつかの生徒を順に見ていた。その中には僕と巽と司も含まれていた。

 そして言う。

「この教育機関の敷地から出ることは制限させてもらう。特に宇宙局研究棟の敷地へは立ち入りを禁ずる。むろん普通は許可証がないので、学徒の皆は入りたくとも入れない敷地ではあるが、いくつかの学徒は特例として許可が与えられている。しかし今回はその特例に該当する学徒も立ち入りを禁ずる。安全管理のためだ。侵入者が見つかるまでは継続されるものと思ってもらいたい」

 以上、と教員は号令を発し、僕達は朝食を取り始めた。

 しち面倒な食事を終え、寮に戻りつつ、僕と巽は顔を青くしていた。

「聞き間違いじゃないよな」

「間違えようもありませんね」

「特例に該当する学徒って僕達のことだよな」

「しっかり目も合わせてきましたからね」

「どうすんだよ。このままじゃ」

「ええ、侵入などという奇行を侵した阿呆が捕まるまでは、ムドリェーツとリングレットに会いに行けません」

 せっかく二頭が飼育部屋に戻されたというのに、今度は僕達が隔離されてしまった。

 宇宙局側の態度はわかる。この施設にいる学徒は全員がほぼ裕福層の跡継ぎなのだ。父が研究員をしている僕や地頭の良さで請われた司は別として、いくつかある例外を覗けば、殆どの学徒の親は日本ないしその他権力圏に影響のある人物なのである。とすれば、警備の強化も兼ねてスペースの敷地に留まらせたいというのは至極真っ当な理屈だ。

「しかし、学徒の安全を図りたいだけなら、研究棟の立ち入りまで禁じなくてもいいじゃ」

 研究棟の立ち入りができる学徒は僕達を含めた数人だ。管理するのはそこまで難しいことではないだろう。

「おそらくもう一つ理由があるんじゃないかなー」

 いつの間にやら背後にいた司がそう言った。

「おや司さん。もう一つとはどういうことでしょうか」

「きっと教員は、つまり大人達は疑っているんだよ、学徒を。櫂季と巽は侵入者が研究棟群に立ち入れた事を疑問に思わないかな。いやいや、研究棟群にならスペースからでも見つからずに侵入できるけどね、そもそも宇宙局の敷地に入れたのがおかしいのよ」

「そんな話、先ほど櫂季としましたね」

「内部の犯行ってやつか」

「そうそう。もともと宇宙局にいた内部の者が三号棟に侵入しようとした、もしくはその手引きをした可能性。おそらく研究員は調べられてるだろうね。しかし現状何も出てこない、とするともう一つの可能性も考えないといけなくなる」

「スペースの学徒が手引きをしたってのか?」

「可能性の話だけど、否定はできないよねー。そしてそれならこの対処にも合点がいくのよ」

「犯人の協力者が動きにくいようにするためですか」

「そしてその上で共犯者が迂闊な行動を取ることを期待している」

「だったら直接調べりゃいいじゃないか。侵入者の共犯者がいるのだとしたら、証拠がどこかに残っているはずだ。でなけりゃ侵入の手引きなんてできるはずがない」

「そこは難しいところですね」

 巽は言う。

「学徒の親は多くが権力者ですから。我が子があらぬ嫌疑を掛けられたとあれば抗議の声が挙がりかねません。共犯者が何人かはわかりませんが、共犯者以外は無関係なのですから」

「無関係の僕達はそのとばっちりを受けたわけだ」

「私も研究資料は全部研究棟に置きっぱなしなのにさ、迷惑千犯だよー」

「すっきりしませんね、櫂季」

「ああ、そうだな三号棟に侵入を試みたってだけで目的も何もわからないんじゃーー」

 と、自分で言って、僕は驚く。今僕の頭に何か閃きがあった。間違いなく、か細い光明だが鼓動する何かがあった。なんだ、僕は今何を考えた。

 定まらない感覚が僕の脳内で漂っている。これを手放しちゃ駄目だと僕の意識が告げる。

 侵入者。

 共犯者。

 目的。

 三号棟。

 スペース。

 会えないリングレット。

 研究。

 宇宙局。

 研究員。

 そしてーー。

「ーーっ!」

 そして僕はある考えに至る。

 いやまさか、とは思うが。しかしこれは熟考する必要がある。大丈夫、時間はまだある。

「意識飛んでる?」

 司が目の前で手をふりふり、僕をのぞき込んできた。

「大丈夫。ぶっ飛んでるから」

 僕はきっとそうだ。

 消灯時間まで、僕は熟慮に熟慮を重ねた。そして一つの推察を立てる。実際は考えどおりとは限らない、しかし推測が正しかった場合に取り返しの付かない可能性。

 教員による各部屋の確認が終わり、消灯までの時間に僕は動き出す。

 寮から抜け出し、スペースの敷地をぐるりと周り、研究棟のある敷地へ近づく。当然ながら通常の門は通らない。というか通れない。警備員はスペースの学徒を通さないように注意を受けているだろうし、こんな時間に研究棟へ向かえば平時であっても止められるだろう。

 しかしなんにでも抜け穴というものはあるものだ。

「抜け穴っていうか、横穴だけどな」

 スペースを囲っている塀の穴。僕だけが知っている穴だ。

 いつだったかリングレットと併走訓練をしていた時に、試しにスペースの外周を回っていた時に見つけたものだ。人の手によるものではなく、自然と崩れたように見える。司の実験を手伝って、スペースに戻る規定時間を過ぎた際はこの穴を通っていた。宇宙局の端に近く、塀の近辺は雑木が立っているためか未だに一度も見つかってはいない。

 慣れた手つきで体を通し、僕はスペースから研究棟の敷地へと入った。警備巡回の灯りがいくつか見える。

 敷地の端を遠回りするように大きく移動し、警備の目を盗みながら、僕はとある実験室へと忍び込む。司の実験室だ。司が施錠をちゃんと行っていないのはとうの昔に知っていた。いくつかの工具と器具を拝借し、気づかれないようにまた部屋を出る。これでは僕が例の侵入者ではないかと辟易したが、目的のためには仕方があるまい。

 先ほどと同じように警備の目を避けて移動し、そして僕は目的地へと到着した。

 研究棟九号棟、別名飼育棟。

 閃いたのはここだった。

 侵入者が研究棟三号棟に立ち入って何をしようとしたのか、可能性はいくつでもある。三号棟だけでも研究部門は複数あるのだ。どれが本命かなんてわかりようもない。しかし、もしも本命が父の研究室だったなら。そして対象が研究試料として扱われているリングレットとムドリェーツだったなら。

 これは無数の中の一だ。

 侵入が試みられた三号棟は現在最も警備が厳重な場所だ。三号棟の他の研究が侵入者の目的なら、それは三号棟の職員と警備員が対処するだろう。しかしもし、目的がリングレットとムドリェーツだったなら。そしてリングレットとムドリェーツが一日前に飼育部屋に移動させられていたことに気づいたなら。

 侵入者は三号棟には現れない。

 来るのはここ、九号棟だ。

 この九号棟は警備が薄い、皆無と言ってもいい。なにせ訓練された犬がいるのである。そしてそれだけしかここにはない。とすれば不審者が訪れる可能性も極めて低いということになる。そして今は侵入者の捜索と対処で人がよそに出払っている。

 可能性は低い。しかしもしかしたら、がある。万が一がある。そしてその場合、僕の受ける被害は甚大なのだ。

 だから僕が対処する。

 巽には声を掛けなかった。一人で行動した方が見つかる公算が低いというのが最たる理由だが、それ以上に、見つかった場合言い訳のしようもなく罰則を受けることになるからだ。いや、罰則だけならまだしも、侵入者の共犯だと判断されたら終わりだ。スペースにいられなくなるどころか、警官に捕らえられる事態にもなりかねない。そんな危険に巽を巻き込むのは気が引ける。

 中には灯りが付いておらず、人はいないようだ。時刻は二十ニ時半、犬達への給仕はもう終わっている。そしてそれこそが狙い目となる時間だった。

 二十三時時になれば多くの職員が宿舎に移る。警備の数は減るが、研究室から移動する職員が多く出る。何人かは宇宙局の外へ出て帰路に着くだろう。つまり人の動きが流動的になるのだ。

 仕事が終わり、気が抜ける瞬間。紛れるには絶好の時間。

 僕が侵入者ならこのときを狙う。

 飼育棟に入り、飼育部屋へと向かう。飼育部屋の扉に許可証を通すと錠が開いた。

 よかった。

 学徒が研究棟群への立ち入りを禁止された時点で、もしかしたら許可証も使用不可になっているかもしれないと危惧していたのだが、その心配はなかったようだ。

 飼育部屋に入ると、犬達が一斉に僕を見る。しかしそこは訓練されているだけあり、無駄に吠える犬はいなかった。

 そして僕は奥に見つける。

 今となっては愛おしくも思えてきたその巻き毛を。

「リングレット」

 名前を呼ぶと、元から振っていた尻尾をはち切れんばかりにリングレットは振った。

 側により、格子越しに軽く撫でる。隣の檻にいるムドリェーツがどこか寂しげだったのは気のせいではないだろう。

 すまない、お前の主人は連れて来なかったんだ。

 直ぐにリングレットから手をどけ、僕は準備に取りかかる。そう、今日はリングレットと戯れるために来たのではない。万が一に備えて警備をしに来たのだから。

「さて、どうするか」

 いくつかの方法を考えてきた。一度リングレットとムドリェーツを三階の別室に隠すということもできる。あの部屋ならばこの飼育部屋と同様に許可証がなければ開くこともできないし、三階の別室に移したという記録がないために、侵入者はそもそも別室を探すことすらできない。一応そのために司の作った偽造許可証も持ってきたのだけれど・・・。

「駄目だな」

 再度考え直して却下する。

 偽造許可証は一度しか使えない。リングレットとムドリェーツを三階の別室に移した後、飼育部屋に戻すことができなくなる。僕が一度しかあの扉を開閉できない以上、それは無謀だ。そもそも今夜侵入者が来るとは限らないのだから。継続できる策でなければ意味がない。

 事前に一度考えて、現場で再度検討した結果、僕の取った対策は極めて単純なものであった。

 打ち倒す。

 となると武器が必要になる。

 司の実験室から拝借したものに発電素子があった。まずはこれで簡易な電圧発生装置を作ってみる。金属の棒に発電素子を巻き付け、外れないように固定具で締め付ける。試しに壁に打ち付けて見たところ、想定外の火花が散った。通常の発電素子ならせいぜい静電気程度しか作れないはずなのだが、どうやら司の手が加えられているらしい。もっとも、僕もそれを期待して怪しげな器具を優先的に拝借したのだけれど。

「僕の武器なんだから名前が欲しいな・・・よし、雷光丸と名付けよう」

 名前を付けて武器を振る。それだけで一層意味のあるもののように思えてきた。

 武器はそれなりのものができた。しかしこれだけでは不十分だ。長物を持っているとはいえ、侵入者がどのような手を打つかはわからない。僕が打ち倒された場合も想定しておかなければならないだろう。

 侵入者が飼育部屋の扉に手を掛けた時に対処できるよう、少なくとも僕が打倒されても自動で働くように、扉の内側にある取っ手に、とある機械を取り付ける。

 以前司が実験していたのを見た機械だ。金属を介して接触した対象に振動を伝える機械。司が実験していた時は木製の椅子が破断した。人に使えば気絶くらいはするだろう。飼育部屋の扉を開けようと手を掛ければ衝撃を食らうという寸法だ。

 しかしこれだけでは僕も扉を開くことができないので、扉の隙間に糸を通してその機械と繋ぐ。扉の下から出ている糸を引けば機械が落下し、安全に扉を開くことができる。糸は経がとても小さいので、知らなければ目に入ることもないだろう。

 時刻は二十三時五分前、準備は整った。

 はやる胸に手を当て、呼吸を整える。

 怖いのとはまた違う。いや、もちろん恐怖もあるのだが、それよりも勝っている感情。

 興揚感。

 巽を巻き込むのは気が引ける。これは嘘ではない。しかしそれ以上に僕は、英雄になりたがっていたのだ。一人で悪漢を撃退するようなそんな、勇ましい日本男児に憧れた。

 だからこその単独行動。巽に声を掛けなかったのはそれだけが理由。つまり独りよがりなんだ。

 侵入者からリングレットとムドリェーツを守るのなら、二頭をよそへ移せばいいだけだ。三階の別室でなくていい、ここでない場所へ避難させればそれで済む。だけど僕はそうしていない。そうすると侵入者を捕らえられないから。わざわざ飼育部屋の前で待機するのだってそうだ。飼育部屋の中にいれば、許可証の無い者は入れないのだから、侵入者はそもそも入ることすらできないかもしれないじゃないか。しかしそうはしない。

 この手で捕まえる。

 目的と手段が錯綜してしまっている感覚を、しかし僕は楽しんでもいたのだ。

 不謹慎だとたしなめる友は、当然ながらいなかった。

 時刻は二十三時。

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