第13話 僕と恥

 天幕には戻れなかった。巽の顔を見たくなかった。

 リングレットを飼育小屋に戻すこともせず、僕は訓練場から逃げ出した。

 僕の後には二人の訓練者が試験を受ける。それが終わればすぐに閉会式がある。その場で評価者から結果が告げられる。選考外はいるのか、それは誰なのか。

 僕は逃げた。

 結果なんて聞くまでもない。試験項目一つを完全に失敗したのだ。言い訳の余地なく、誤解のはさみようもなく、無様なくらいに不出来な出来栄えで。

 僕は始まる前に何を思っていた。

 最高記録を出す?

 大人を見返す?

 馬鹿じゃないのか。

 まずまずの速さだとか、それなりに仕上がっているとか。上から目線で他の訓練者を批評して。

 自分はどうだ。

 今のこの有様はどうだというのか。

 立ち並ぶ研究棟の敷地を抜けて、宇宙局の外へ向かう。何か考えがあってのことではない。ただ、今は自分の部屋に帰って横になりたかった。

 宇宙局の門に近づいたとき、自分が許可証を持っていないことに気づいた。許可証がなければ宇宙局から出ることはできない。スペースの敷地に戻ることも無理だ。

それに許可証だけではない、荷物の全てを天幕に置いてきている。

僕は馬鹿だ。足りてるつもりで、その実何一つ満足にできちゃいない。

 進むことも引くこともできず、そもそもどちらに向かえば進んだことになるのかもわからず、僕は研究棟の真ん中で立ち尽くした。立っているのも億劫で、屋外に設置されている長いすに腰を落とす。一度動くことを止めてしまうと、足を汚泥に引き込まれたように立ち上がる気力も萎えていった。頭は自然に下を向き、背中は猫のように丸くなる。

 少しずつ、しかし確実に僕の心が渇いていく。

 日はまだ高い、このままここにいれば体も乾くだろう。いっそ心も体も水分を失って、砂のように崩れてしまえればどんなにいいか。

 しかし何故だろう、うな垂れた頭に降り注ぐ日差しはあまり熱量を帯びていない。先ほどまで感じていた、重さを持った日差しではなくなっている。

 空を見ようと顔を上げた。


「お疲れ様」


 太陽ではなく、真南司が僕には見えた。


 *


「司、どうして」


 長いすの後ろから僕を覗き込むようにして立っている司と目が合う。彼女の背中が僕に落ちるはずの日光を遮っていた。


「どうして、とはどの『どうして』かな。どうしてここにいるのか、かな。どうして白衣がそんなに汚れているの、とか。何で水筒を差し出すの、もあるかも。もしくは──どうして試験で上手くいかなかったのか」


「見ていたのか」


「見ていたよ。とりあえず、これ」


 司は水筒を僕に渡す。僕は渡されるままに蓋を開けて中身を喉に流し、込む手前でむせた。


「臭い!なんだこれ」


「どくだみ茶だよ、いいから、ぐいーっと」


「いいからって・・・・・・あ、冷たい」


 お茶の匂いが鼻を抜け、渇いた喉に浸み込むのを感じた。水筒から手のひらに伝わる温度と、口に含んだお茶の温度があまりにも違い、妙な気分だ。匂いはお世辞にもいいとはいえないが、この清涼感は悪くない。


「冷蔵庫から出したてみたいに冷たいな」


「特注の水筒だからね。図面を引いて研究員に外部発注してもらったの」


「白銅の口金か、値が張るだろうな」


「どうしても作ってみたかったんだよね。温度の変わらない水筒をさ」


「ふーん」


 司の話に興味を持てず、僕は適当に相槌を打つ。


「この水筒は二重になっててね、一層と二層の間を真空にしてあるの。真空は熱運動の伝達を妨げるから、あとは器を介して流出する分だけで収まるという設計。だから冷たいものは冷たいままに、逆に熱いものは熱いままになるんだな。すごいっしょ」


「そりゃすごいな」


「問題点は外からじゃ中の様子はわからないところだよね。内容物が冷たいのか熱いのかすら、外から観察する分にはわからないから」


「へー」


「まるで櫂季とリングレットみたいだよ」


「なるほど・・・・・・・・・え?」


 気づけば、司は覗き込むのではなく、僕の真正面から見据えるように立っていた。

見咎めるように、見極めるように。

そしてようやく僕は気づく。彼女が慰めに来てくれたのではないということに。

 だって司のその目には、呆れと怒りが混じっていたのだから。


「司、今のはどういう意味で言ったの?」


「自分で作った水筒だけれど、私はこの水筒で一度口の中を火傷してるのさ。熱いお湯を入れてたことを忘れて普通の飲料のつもりで口に含んだからね。水筒を外から観察する分にはわからないんだよ、中に何が入っているかなんて」


 司は水筒に直接口を付けてお茶を流し込む。火傷したときもそのような飲み方をしたのだろうか。

 一息つき、司は続ける。


「櫂季は、リングレットの中身を見ようとした?熱いのか冷たいのか、硬いのか柔らかいのか、重いのか軽いのか。容器としての形じゃなくて、その中身を見ようとしたの?」


「僕は──。」


「断言しちゃう。櫂季は中身を見てない。この水筒みたいに間に層を作って遮断して、外側の形だけで判断していたんだよ」


 司は言い切る。まるで僕の過ちを断罪するかのように。いや、まるでではなく、事実そのまま僕に説いているのだ。

 彼女は僕に説教をしている。

 その事に気づくと、とても腹に据えかねる気持ちになった。


「なんで司にそこまで言われなきゃいけないんだ。リングレットの訓練をしたこともないくせに。リングレットに合わせてやっていくことがどんだけ大変かわかるのかよ」


「わからないよ、私は櫂季じゃないから。リングレットを目標の形に整えるのがどんな苦労かなんて知る意味無いし」


 ただ、と司は言う。


「櫂季がリングレットそのものを知らないってことくらいはわかってる。私は『リングレット』を理解することはできないけれど、乾櫂季ならわかってる。櫂季の知らないを知っている」


 司の言葉は意地の悪いなぞ掛けのようで、僕は何を言われているのかまったくわからなかった。

 知らないを知っているって、どういう意味だよ。

 ただ、それでも反論できることはある。


「僕がリングレットを知らないなんて、適当なこと言うなよな」


「適当かなー」


「適当だよ。僕はリングレットに何ができて何ができないかを知ってる。どんな訓練を得意として、何をよく食べるかもわかってる。体重や全長だって月ごとに記録してるんだ。僕以上にリングレットを知ってるやつはいない」


「・・・・・・やっぱり」


 今度こそ司は呆れていた。僕を馬鹿にするのではなく、哀れむように呆れていた。


「櫂季にはそれが『リングレットを知ってる』ってことなんだ」


 そんなわけないのに、と司はつぶやく。

 司は水筒を手のひらに乗せ、僕に見えるように手を突き出した。


「櫂季が知ってるリングレットはこの水筒の外側と一緒だよ。器としてしか見てないから、器の形だけで判断してる。だから表層の数値だけで知った気になっている。でもでもそれは真空の壁を挟んだ表側で、実情とはかけ離れているものだよ。この水筒に熱湯を注いでも表からではわからないように、器にしか目が向いてない櫂季では、リングレットの中身は確認できないのさ。知ることができない。そもそも、知ろうとしていない」


「そんなはずは──。」


 ない、と言い切れないのは何故だろうか。

 僕が誰よりもリングレットを知っている。その自負は持って然るべきもので、あってあたりまえのものだ。何ヶ月訓練をしてきたと思っている。僕以上にリングレットを扱ってきた人は他にいない。リングレットが訓練を始めるまで、つまるところこの宇宙局に連れてこられるまでを世話していた誰かはいたのかもしれないが、それ以降、宇宙局にとって必要とされる訓練を施したのは他ならぬ僕なのだ。この十ヶ月間リングレットを見なかった日はない。リングレットに今何ができて何ができないのか、行動にどんな癖があるのか、食料の好き嫌いについて、その他諸々を僕は知っている。いや、僕だけが知っている。巽だってそこまでは観察していないしする必要もない。僕がムドリェーツを知らないように、巽もリングレットを知らない。当然だ、自分の担当犬以外の仔細をそこまで観察する訓練者なんていないだろう。皆自分の担当犬で精一杯なのだ。精一杯、訓練をしてきたのだ。

 だから、僕はここで断言すればいい。

 そんなはずはない、と。

 司に何がわかる、と。

 言えばいい、だけなのに。


「そんなはずはない、とは言えない。櫂季は言えないよ、その言葉は。だって、櫂季は未だに疑問を持ち続けているはずだもの。どうして嗅覚試験を失敗したのか──リングレットを知っているはずの櫂季はその答えを見つけられていない」


 そこなのだ。僕の自負を僕が認めようとしない理由はそれだ。

 リングレットを一番知っているはずの僕が、その答えを見つけられない。

 ──どうしてリングレットは嗅覚試験を失敗したのか。

 試験場を逃げ出してからずっと、考え続けているのに。その答えを探し続けているのに。

 そして今の司の言葉で、僕は考えたくもない可能性に気づいた。リングレットの失敗に関してではない。司の言葉の意図するところ、その意味に。


「司、お前にはもしかして」


「わかってるよ。どうして櫂季が嗅覚試験を失敗したのか、その理由はわかってる」


「僕?リングレットじゃなくて?」


「だーかーらー、その時点で櫂季は間違っているの」


 限界だ。情けなくも僕は言う。


「頼む、何がどうなっているのか僕に教えてくれ。司の知ってることを話してくれ」


「いいよー。でもその前に場所を移さないとだね」


「ここじゃだめなのか?」


「リングレットのところにいかないと。櫂季は確かめなくちゃいけないから」


 ──ちょっと待ってて。

そう言って司は研究棟に戻っていった。待つこと五分。白衣を脱いで、体操着に着替えた司が戻ってきた。


「じゃあいこうか」


 なぜとは訊かず、僕は司の後についていく。

 司の後を歩く。

 これほど僕らに相応しい立ち位置は他にない。いつだって司は僕の先を行き、追いかけるだけの僕は彼女の背中を見て進んできた。

 別の道を歩いているときですら、いつのまにか司は僕や巽の前を歩いている。

 実験室に引きこもって体は最小限しか動かしていないくせに、色白で華奢なくせに、司の背中は山のように広くて大きいのだ。それこそ全容が見通せないほどに。このままでいいのだろうかと思いもするが、追いつくまでの間は距離を詰める努力しかできないのだ。

 そして実際の体とは反比例するかのように、司の進む速度は桁違いに早い。

 兎と亀の話を聞いたのはいつだっただろうか。寝物語として聞いたその話に、僕はいつからか司と自分を重ねるようになった。一つ、寓話と違うのは、僕の前を走る兎は眠らない。怠けず驕らず進み続けるのだ。

 縮まらない差に亀はそれでも心折れないのだろうか。唯一の救いは目標地点が明確ではないということだけか。

 炎天下のせいか、試験に失敗したせいか、そんなどうしようもないことをフラフラと歩きながら考えていた。

 飼育小屋のある研究棟まであと少しのところで、司は不意に話始めた。


「最初に違和感を抱いたのは罠に掛かったリングレットを拾い上げたとき」


 罠、というと僕がリングレットの訓練を始めてすぐの頃のことだろう。確か散歩をしようとして逃げ出したリングレットを追いかけたら、司の罠で捕まっていたのだった。


「櫂季が来る前、罠から拾い上げるときにリングレットは私の手を噛んだのね。力はとても弱くて、脅迫行動や敵愾心としてのものではないことは直ぐにわかった」


 司は続ける。


「私の研究室、試験機器と薬品と実験器具に囲まれた中でリングレットは普通だったよね。慌てることも興味を示すこともなかった」


 司は続ける。


「飼育部屋の改修工事、簡易小屋に移されたとき、他の犬は騒いでいたのにリングレットは静かだった」


 司は続けた。数々の違和感について。この十ヶ月間の間に積もったそれらについて、司は言った。

 僕にとっては何のことかわからない。それを何故違和感と捕らえているのかすら理解できないことを司は続けた。

 それらは実際に司の見たこともあったが、その多くは僕から聞いた話を基にしていた。つまり、それは僕が抱くべき違和感だったと、そういうことなのだ。


「まぁとはいえ、確信したのはついさっきだけれど」


 何に、とは僕はもう訊かなかった。

 その答えを示すために司は今僕の前を歩いているのだから。

 飼育部屋の前に到着する。躊躇する僕をおいて司が扉を開けるのかと思ったが、しかし彼女は扉に手を伸ばさない。そうだ、この扉は訓練担当者と一部の研究員しか開けることはできないのだった。僕が開けなければならない。

 許可証を持つ手が定まらない。

この中にリングレットがいるのだ。僕は一度リングレットから逃げ出しているんだぞ。

 そのとき、右往左往していた亀の手が上から握り締められた。


「行かなきゃ、始まらない」


 いつもどおりの抑揚で、しかし強さの篭った言葉で司はそう言った。


「わかったよ」


 僕は僕の手で許可証を使い扉を開錠する。

 中を覗いて息が詰まりそうになった。部屋にはリングレットだけがいた。

 他の犬はどこにいったのだろう。今試験を受けている犬以外はこの飼育部屋に戻されているはずなのに。


「余計なことは考えない」


「──あぁ」


 司の言葉でここに来た意味を思い出す。司は事情を知ってか知らずか、リングレット以外の犬がいないことを気に留める様子はない。


「それで、司は何を見せてくれるのさ」


「これだよ」


 体操着の内側から司は透明な袋に包まれたものを取り出す。

 中には茶色くて薄い何かが入っていた。


「食べ物を粗末にするなと祖父から教えられていてね、実際粗末にしたことはないけれど、それでも粗末に扱われるのを前提としている食べ物ってあるんだろうなって、私はこれを見るたび思うの」


 司が透明な袋を開く。密閉されていた袋が外気と触れる。

 途端、後頭部を後ろ向きに殴られたような、つまりは頭の内側から衝撃が加えられたような感覚に襲われる。


「なんだそれ、なんだそれ。おい司」


 鼻が曲がるなんて生易しいものではない。中年男性の襟元から揮発した薬品臭が漂ってくるような、夏に三日間放置した鮭の切り身を烏が啄ばんで嘔吐したような、そんな不快な臭いが周囲に充満する。

 だめだ、呼吸をすると吐きそうになる。酸素が害悪と連れ立って僕に飛び込んでくる。


「なんなんだよそれ」


「くさや」


「くさや?なんだそりゃ、知らん」


「魚の干物だよん。これは鯵を発酵液に浸して天日干ししたもの。すっごいよね、人間の食欲って」


 司がくさやなるものの説明をするがまともに頭に入ってこない。それでもなんとか聞き取れたことから察するに魚を使った食品ということなのだろう。

 いや、まったく信じられないけれど。


「ただのくさやは納豆と同じくらいの臭いしかしないけれど、これはさっき焼きたてを袋に詰めたものだから、通常の三倍は臭いがする。真っ赤になれるよ」


「さっき研究棟に戻ったのはそのためか」


 だから白衣を着替えたのか。そのくさやとやらを焼いているうちに服に臭いが浸み込んだのだろう。

 焼いた後でこの臭いなのだ。焼いている最中はどれほどの。というか、司の研究室は無事なのか。


「私の研究室における臭いの問題は後で櫂季がなんとかするとして」


 するのか。


「櫂季、まだ気づかない?」


「・・・何に気づけばいいのさ?」


 司の答えはない。

 僕は辺りを見回す。司が激臭物を取り出した以外さしてこの部屋に異常はない。炎感知器も煙探知機もついでに言えば一酸化炭素検知器もこの部屋にはあるが、何一つ作動はしていない。

そう考えるとこの激臭物はこれだけの存在感を発しながらも機械類には影響しないわけだ。すごいな。

 などと、別の事柄に思考を持っていかれるくらいに何も起きてはいない。司の取り出した激臭物も機器類には影響せず、効果があるとすれば人間と──。


「あっ!」


 そこまで考えてようやく思い至った。


「リングレット、なんでお前そんなにも普通でいられるんだ」


 この部屋に充満する激臭の中で、人間より遥かに勝った嗅覚を持つはずのリングレットは至って平静だった。

 吐きそうな臭いの中で、緊急事態とも言える空気の中で、リングレットはいつものように舌を出して座していた。

 リングレットがこの状況に影響されていないという事実。司が僕に見せたかったのはこれだ。リングレットは吠えもしない。つまり現状を異常だと感じていない。しかし、実際は激臭漂う空間になっている。つまりこの空間の異常事態を捉えられていない。つまり激臭に対する反応がないのではなく、激臭そのものを認識していない。つまり、つまり、つまり──リングレットは。

司を見る。

 目が合い、彼女は肯いた。


「────っ!」


 推測を肯定され、一寸僕は息を呑む。リングレットには感じられない激臭を飲み込む。


 なんてことだ。リングレット、お前は、

「鼻が効かないのか」


 犬と聞いて真っ先に浮かぶ特徴。牙、尾、そして嗅覚。リングレットにはそれが・・・ない?


「いや、だとしたらおかしい。それはありえない」


「なぜ?」


「だって、だって模擬試験までの一ヶ月間、リングレットと僕は何度も嗅覚試験の練習をしていた。そりゃ最初はおぼつかなかったけれど、でも後半はずっと嗅覚試験の課題は成功していたんだ──だから」


「だから、リングレットの鼻は正常だと言いたいのね」


 先回りして司は言う。


「でもそれは考え方が違うよ。嗅覚試験の課題を達成できたから嗅覚は正常、ではなく、嗅覚が異常でも嗅覚試験の課題を達成させていたと考えるべきなんだ」


「意味がわからない。そんなことできるわけないだろ」


「私はそうは思わない。判別できる器官は、区別に用いれる器官は一つじゃない」


 司は僕に訊く。


「櫂季、思い出して。今日の本番は練習時とは違いがあったはずでしょ。それは何?」


「違い?違いなんてそんなの、いつもは僕が持って嗅がせていた衣服を今日は審査員が持ってたってことくらいで」


「他には。リングレットはいつも通りの行動が取れていた?いつものように試験を行えた?」


「もちろんいつも通りに・・・・・・・・・いや、できてないな。そうだ、できてない。いつもリングレットは元となる臭いを嗅いだ後、衣服を甘噛みしていた。そういう癖があった」


 でも模擬試験では審判員が衣服を持っていたから口に咥えることはできなかった。違いはそれだ。


「でもそれだけで何が違うって──。」


「大違いだよ、櫂季。口に咥えることができなければ、味がわからないじゃないのよ」


「あっ──味覚!」


 嗅覚ではなく味覚。口に含んだ衣類の味でリングレットは判別していたというのか。

 言われてみればそうだ。練習中もリングレットは一直線に正解に行くことはそう多くなかった。不正解のものを甘噛みした後に正解に辿りつく。そんな場面を僕は何度も見ていた。あれはつまり正解の味を探していたと、そういうことなのだ。

 納得するしかない。


「そうか、そうだったのか」


 リングレットに近づき、両手で顔を掴む。細い口先のその上、湿った鼻腔を軽く撫でる。

 何もかも司の言うとおりだ。僕はリングレットを知らなかった。知らなさすぎた。

リングレットに何ができて何ができないか。どんな訓練を得意として、何をよく食べるか。体重や全長はどの程度か。

 そんなもの。この事実に比べれば瑣末な事柄に過ぎないじゃないか。

 気づく機会は山ほどあったはずなのだ。訓練初期からリングレットは偽薬を躊躇いなく口にしていた。そもそも最初の出会いからそうだ。リングレットは車酔いで吐瀉物にまみれた僕に躊躇なく近づいてきた。嗅覚が機能していないと考えればどれもが納得のいくことだった。

十ヶ月もそばにいた。毎日顔を見て行動を共にした。リングレットを一番理解しているのは僕のはずなのに。なのに、リングレットの在りように気づくのはいつも僕以外の誰かだ。

 リングレットが飛ぶのを苦手とすること。

 リングレットが広所恐怖症であること。

 リングレットの鼻が効かないこと。

 どれ一つ、僕は気づくことができていない。いつも誰かに指摘されて、初めて理解するんだ。


「確かに、司が正しい。失敗したのは僕だ」


 他の誰でもない。ましてやリングレットであるはずもない。リングレット理解しようとせず記録だけ気がかりに、成果だけを目標に。そんな考えでいた僕自身が一番の失敗作なのだ。

 とばっちりを受けたリングレットを抱きしめる。

 すまない、と口にしかけた僕の横で、すっ、と司は僕の背後を指差した。


「落ち込むのは目一杯やってもらってもいいんだけどねー、でもでも、ともあれ櫂季はそっちが先じゃないかな」


「そっち?」


 言われるまま司の指差す方へ向くと、息を切らした巽がいた。


「櫂季、ようやく見つけましたよ。なんで司さんと、というかここで何してるんですか。何故天幕に戻ってこなかったのですか。おかげで私が探し回る羽目になったではないですか。というかこの臭いは何ですか。それでどうして司さんとここにいるんですか」


 巽は混乱しているのか、苦手な炎天下で頭が回っていないのか、まくし立てながら要点のわからないことを言っている。

 とりあえず僕を探していたことだけはなんとなくわかった。


「天幕になんて戻れるわけないだろ」


 口に出した僕の声は自分でも驚くほどに低くそして湿っていた。


「値踏みするように他の訓練者の試験を見ておきながら、自分はあの体たらくだぞ。天幕に戻れば嫌でも他の訓練者や研究員の反応がわかってしまう。それに・・・・・・・・・巽に見られたくなかったんだよ。あんな無様な僕を」


 僕はそう言って、踵を返し巽から逃げようとした。

 しかし巽の動きは僕より早く、動き出す前に片手で制された。

 肩に置かれた巽の手は優しく、しかし確実に僕を掴んでいる。


「離せよ」


「嘘偽りなく本心を言ってしまいますと、このまま櫂季が諦めてしまうのも悪くはないのだろうなと、そんな風に考える自分もいるのです」


 僕の言葉を意に介さず巽は言う。


「競う相手がいた方が錬度はより高まるのでしょうが、それがなくとも今日の結果を見るに一月後は問題ないだろうと思えなくもありません。でも、です」


「何言ってるかわかんねぇよ。いいから──。」


「離しませんよ。櫂季を天幕まで、試験場まで引き戻すのが私の役目ですから」


「今更あそこに戻ったところで何ができるんだよ。見ただろ僕が失敗するのを」


「確かに見ましたよ、櫂季の失敗は」


 巽もわかっている。リングレットの失敗ではなく、僕の、乾櫂季の失敗だと。

 司を見る。彼女はそれが当たり前の事実だというように肯いていた。

理解できていなかったのは当事者である僕だけか。

次の言葉が出ずに、黙りこくってしまった僕を巽は引く。


「落ち込むのは後、今はとにかく戻りましょう。休憩を挟んだ後に閉会式です。そこで来月の本試験の説明も行われるそうですから」


「聞いたところで僕には意味ないだろ」


「意味はあります。あるから言っているのです。だから私はここにいるのですから」


 こいつはどうしたいのだろう。閉会式とか、本試験の説明だとか。そもそもその段階に進めなかった僕が聞く必要のないことではないか。閉会式は、確かに不参加では不恰好かもしれないが、それにしたって後日父に小言を言われるくらいだ。さらし者になるくらいなら僕はそちらを選ぶ。

 うな垂れた僕の手をなおも引き、巽は言う。


「あなたも本試験に参加するんですよ、櫂季」


「え?」


 顔を上げて巽を見る。たちの悪い冗談を言っているわけではなかった。巽の目は真剣そのもので、悪意など欠片も見て取れない。いや、そもそも巽がそんな人を傷つけるような嘘をつくわけがないのだ。


「でも、僕は失敗して」


「ええ、櫂季は失敗しました。それは間違いありません。しかし、模擬試験で完璧にできなかったからといって、本試験に進めないということにはなりません。そこは等号で語ることではないのです。言っていたでしょう、本試験へ出すに相応しくないと判断された場合はその限りではない、と。逆を言えば、見込みがあれば試験結果に関わらず本試験へは進めるのです。そして、リングレットは見込みがあると判断された」


 まくし立てるように言う巽の言葉はいまひとつ理解できていなかったが、それでも何とか聞き取れた部分はあった。

 つまり──。


「つまり、僕は本試験へ進めるのか?」


「だからそう言ってるでしょうに」


「・・・・・・・・・そっか」


 引かれるまま歩いていた足から力が抜けた。いや、足だけじゃない、全身が弛緩してさながら蛸のようにその場へくず折れた。


「ちょっと櫂季、せめて歩いてくださいよ」


「ごめん、ほんと少し待って」


 そっか、そうか。

 お情けかもしれない。他の訓練者全員が通過したからという理由で体裁を整えるために僕もその枠に入れてもらえただけかもしれない。父の裏工作、ということはないだろうが審査員が気を遣ったということはあるかもしれない。

 そんな山ほどの『かもしれない』があって、正当な評価の結果とは違ったとしても、それでも僕は安堵した。

 最低限、外れてはいけない境界線の内側にとどまれたのだ。

 深く息を吐く。そしてより深く息を吸う。

 もう渇いてはいなかった。


「よし、さっさと行こう。本試験の説明を聞き逃したらことだ」


「だからさっきから──。」


「先行ってるぞ」


 巽の言葉を最後まで聞かず、僕は歩き始めた。

 あとで必ず謝る。心の中でリングレットにそう誓った。

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