第14話 僕と残り日

 壇上で父が告げた本試験の説明は簡単なものだった。

 模擬試験と同じ内容、同じ条件、同じ犬が審査にかけられる。実施日は模擬試験からきっかり一月後。つまりは翌月の初旬ということになる。

 あと一ヶ月。その間に僕は鼻の効かないリングレットと共に嗅覚試験を攻略しなければならない。

 

「難関にも程がある」


 場面変わって司の研究室。試験が終わった翌日、流石に昨日あれだけの運動をさせて今日訓練するのは負担をかけすぎるだろうということで、リングレットとムドリェーツを飼育部屋に残し、僕と司と巽の三人は作戦会議に入った。

 議題は勿論、嗅覚試験をどうやって攻略するのか、である。

 正直なところ、その解決方法も既に司が考えていた、という流れも期待していなかったかといえば嘘になるのだけれど。あにはからんや、そうそう上手くはことは運ばないようだ。


「私は適当に実験してるから、それなりに終わったら教えて」

 とのこと。


 実質この会議は僕と巽の二人で行われる。


「難関にも程がある」


 僕は同じ言葉を繰り返す。


「リングレットの鼻は効かない。つまりリングレットは嗅がされた臭いの元を辿ることができない。この状態でどうやって嗅覚試験を満足に遂げられるっていうんだ」


「正直に申し上げて、絶望的という他ありませんね。希望があるとすれば櫂季の心が折れてないという一点のみでしょうか」


 その言葉にこそ心が折れそうになるが。

 ともあれ、条件は悪い。悪すぎるといって良いほどに悪い。もしかすればと昨日の模擬試験閉会式の後、犬の食事や平時の世話を担当している獣医に話を訊いてみたが、リングレットの鼻を他の犬と同等の状態にすることは不可能とのことだった。

──この子は先天的に欠けている。

獣医は言いづらそうにその言葉を搾り出した。元からないものはどうしようもないらしい。

訓練をしたところでリングレットに通常の能力を持たせることはできない。その方向から解決の糸口は見つけられない。


「訓練以外の方法で、他の犬と同様の能力をもたせることはできないだろうか」


「どういうことですか?」


「例えば、犬の鼻を模した機械を司に作ってもらって、それをリングレットに取り付ける・・・なんて」


「駄目だろうね」


 薬瓶をいじっていた司が背をむけたままで否定する。


「聞いた限りでは試験はその犬の能力を試すことを目的としてる。機械に頼ると試験そのものの意味を見失うことになるから、装備品の許可はまず得られない」


 機械の力に頼るのも無理か。


「というか司、今のはあくまで例え話のつもりで言ったのだけれど、犬の鼻を模した機械で嗅覚を得るなんて本当にできるのか?」


「できる。鼻というのは感覚器の一つだから、感知装置で代替させることは可能。もっとも犬並みの嗅覚ともなれば相当な大きさの装置になるだろうから、とても実用的とは言いがたいけれど」


「そうか」


 それを聞くとますます惜しいと思ってしまう。


「ではこういうのはどうですか。リングレットに博打をさせる」


「博打?」


「そうです。模擬試験で行ったように、要は嗅覚試験は三人の中から正解の一人を当てさせる試験です。であれば、リングレットが三人の中から無作為に一人を選ぶ──まあこれは櫂季が選んで指示してもかまいませんが。そしてそれが正解であれば試験課題は達成となります」


「つまり三分の一に賭けろと?」


「分の悪い賭けではないでしょう。三分の一、三割以上も勝率があるのですから」

 冗談交じりに、しかしそれなりに真剣にその論を唱える巽を見てより気が落ちた。つまりはそのくらいしか可能性がないということだ。半分以上、不可能だと。


「駄目だ。いざとなればそれも考えるけれど、一ヶ月も前から博打にすがるのは駄目だ」


「リングレットは味覚に頼れば嗅覚試験をこなせるのですよね」


「ああそうだ。リングレットは味でなら区別をつけることができる」


「であれば、何かしらの手段を講じてリングレットに衣服の味を確認させるというのは?」


「それができれば苦労はないよ。それができないから悩んでる。審査員はリングレットが噛もうとするのを静止してた。つまり臭いをかぐ以外の行為は許可されていないってことだ」


 たったそれだけのことで、できていた試験課題ができなくなる。


「審査員を買収するというのはどうでしょう」


「無理だろうな。審査員は全員研究者だ。父の直属でその上研究成果を第一に考える人たちなのだから、その対象へのお目こぼしはあり得ない」


「八方塞がれましたね」


「答えさえわかっていればなぁ」


 三人の中の一人の元へ行けという命令なら難なくリングレットは応じられる。答えがわかってさえいれば臭いを嗅ぐ必要はないのだ。


「それも無理でしょう。嗅がせる衣服とその答えは毎回籤で決められていました。例え審査員を買収できたとしても答えを知ることは不可能です」


 そもそも、と巽は付け加える。


「そもそもそれができたとして、櫂季はその手段を取らないでしょう。そんなもの、結果を出したとは言えない。静止試験のように規定の隙間を縫うような策は取っても、規定そのものを理不尽に無視しようとは思わないのでは?」


「わかったように言ってくれるな。しかしもっともだ。それで試験を通過したとしても、僕はそれを勝ちとは思えない」


 根底から覆して理不尽な勝ちを掠め取る気はまったくない。そんなもの、ただ後悔が後をついて回るだけだ。偽りの結果では駄目なのだ。僕とリングレットの工夫と努力だけで解決できなければそこに価値はない。

 しかしそうなると本当に八方塞がりだ。

 リングレット自身が答えを当てることは不可能。

 先に答えを知っておいて指示を出すことは論外。


「無理・・・か」


 言葉にするとさらにその現実に押しつぶされそうになる。巽も同様に口に手を当て下を向いた。諦めるつもりは毛頭ない。しかしそれでも拭いきれぬ現実に背中を押しつぶされそうになる。

 重苦しい空気の中でいつのまにやら背後にいた司が口を開いた。


「考え方が逆」


 巽が顔を上げて怪訝そうに訊く。


「逆とは?」


「答えを知ることができないから指示が出せないではなく、答えが判れば指示を出してリングレットを正解の元へ進められると考える。リングレット自身が答えを嗅ぎ沸けることができないではなく、リングレット以外が答えを嗅ぎ分ければいいと考える」


 何を言ってるんだ司は。

 僕と巽は顔を合わせる。お互いの顔に疑問符がありありと浮かんでいた。


「リングレット以外って──犬は指定した一頭しか連れていけない。いや、そもそもリングレット以外の犬を連れて試験を突破したって意味がない。それとも、離れた位置にいるムドリェーツに嗅ぎ分けてもらって、巽を通して正解を教えてもらうってことか?でもそれは流石に距離が離れすぎてて無理だ」


 そもそもそれでは答えを盗み見るのと変わらない。僕とリングレットの勝利とは言えない。


「距離は問題ないでしょ。近くにいるんだから」


「いないよ、仮に訓練者の待機天幕にムドリェーツを連れてこれたとしても、それでも相当な距離がある」


「違う違う。近くにいるのは犬じゃなくってさ──。」


 最後まで言い切らず、司は人差し指を向けた。

 僕に向かって真っ直ぐ。


「櫂季がいるじゃない。櫂季が嗅ぎ分けの役割を果たせばいいのよ、簡単簡単」


「・・・・・・・・・はぁ?できるわけないだろそんなこと」


「櫂季は鼻が良く効くよ。リングレットよりは確実にね。だったらもう、その役割分担しかないじゃないの」


「あのなぁ司、無茶苦茶にも程がある。犬と人でどれだけ差があると思っているんだよ。おい巽、黙ってないでお前からも言ってくれ。・・・・・・巽?」


 巽は応えない。唯真剣に一点を見つめ、何かを考えている。


「おいおいまさか、巽まで司と同じようなこと言い出さないよな」


 考えがまとまったのか、巽は机に向けていた顔を上げる。そして司に言う。


「さすがです司さん。その考えはまったく浮かびませんでした」


「勘弁してくれよ。どうした司に巽、頭が良くなりすぎて一周しちゃったのか」


「そうじゃない、そうじゃないんですよ櫂季。できます。いや、できるかどうかはわかりかねますが、可能性は十二分にあります」


 熱に浮かされたように巽は喋りだす。


「櫂季、臭いで人の区別を付けてますよね。いつだったか、外からのお客さんがいらっしゃった際に、服装が違っていたのにさして見もせずに同一人物だと看破していた」


「それくらい誰だってできるだろ」


「いいえ、できません。少なくとも私には。司さんならできますか」


 話を振られて司は首を横に振る。


「できるわけないっしょ。相当訓練すればもしかしたら、だけれど。だから、無自覚でそれを行う櫂季の嗅覚は相当だよねー」


 巽も深く肯く。

 いや待て、話の流れがどんどんと怪しい方向に進んでいる気がしてならない。


「百歩譲って、僕の鼻が人よりも効くとしても、だからって犬並には程遠いだろう。聞いた話じゃ犬の嗅覚は人の一億倍とも言うじゃないか。冗談にも届かない数字だ」


「犬並の嗅覚は必要ありません。そこは勘違いしてはいけないところです。確かに嗅覚試験は犬であれば、つまるところ犬並みの嗅覚であれば達成できる課題です。しかし、だからといって犬並の嗅覚でなければ達成できないというわけではないのです」


「巽の言ってる意味がわからない」


「犬の嗅覚と嗅覚試験に必要とされる能力は等号では結ばれないのさ」


 巽の言葉を補うように司は言う。


「人の臭いを嗅ぎ分けることができるのなら、犬並の嗅覚でなくても試験は乗り越えられるのよ。そして、人の臭いを嗅ぎ分けることを、その一端を櫂季は既におこなえている。あら、答え見えちゃったね」


「臭いで人を区別できる、つまりは人を臭いで分けられる・・・・・・・・・そういうことか?」


 司と巽が無言で首肯した。


「えーっと・・・・・・。」


 僕は何も言えなくなる。なんてことだ、最悪なことに他に手がないじゃないか。


 方針が決まってからは本当にあっという間に日々が過ぎた。模擬試験前の一ヶ月など比べ物にならないくらい、ほんの一瞬で過ぎてしまったような気がする。いくら時間があっても足りないくらいに、僕らの時間は有用に過ぎて行った。

 しかしどれほど早く過ぎようとも、矢のごとく駆け抜けようとも、その時間が楽なものであったかと言えばそんなことはない。嗅覚を鍛えるなどという生まれてこの方一度も取り掛かったことのない難題に手をつけるのだ。時間なんていくらあっても足りないし、それが安易に進むはずもない。

取り組むべきは嗅覚試験だけではない。体力試験もより好記録を狙わなければならないし、静止試験も今度は本当に指示なしで成功する必要がある。ただ本試験を無難にこなせばいいというものではないのだ。僕の目標はあくまで大人たちの鼻をあかすことにあるのだから。

模擬試験での僕の失敗でいささか格好のつかない形にはなっているが、それも最後に挽回すればよかろう。勝てば官軍。終わりよければ全てよしだ。もっとも、逆もまた然りなので僕は四苦八苦しているのだが。

ともあれ、本試験まで与えられた一ヶ月という期間も残り早七日となっていた。

 日曜日、寮から実家に戻って自室で嗅覚の訓練をしていると、玄関の開く音がした。時刻は午後七時を過ぎた辺り、夕食の為に父が戻ってきたのだろう。ここ最近は休みの日でも変わりなく父は仕事場に篭っていた。今日もまた夕食を終えた後に職場へ戻るのだろう。それなら宇宙局の食堂で済ませればいいのにと思うが、父は僕が帰宅している日はなるべく夕食を共にしようとしてくれる。もっとも、用意するのは僕だけれど。

 万一にも父に見られるわけにはいかないので、部屋に広げていた嗅覚訓練用の道具を押入れに仕舞い込み、階段を下りる。

 居間の座布団の上で疲れた顔をして父が煙草を吸っていた。


「お帰り、父さん」


「ただいま。といってもすぐに戻らなければならないんだが。飯はあるか?」


「うん。少し待ってて」


 米は既に炊いて蒸らしている。汁物は再度火に掛けるだけなので、後は下ごしらえしてある魚を焼くだけだ。十分とかからない。

 網に魚をのせて焼いていると父が訊いてきた。


「今日は何をしていたんだ?」


「昼はリングレット・・・犬の訓練をしていたよ。いつも通りに。夕方からは部屋で怠けていた」


「そうか」


 順調か、とは父は訊いてこない。犬の訓練を開始してから今までの期間、父は僕に訓練の成果を訊いた事はない。意図的に避けているのはわかるのだけれど、その理由までは推し量れない。部門の長として線を引いているのか、それともあまり犬自体に興味はないのか。犬の訓練は研究成果を纏める上で必要なはずなので、後者の可能性は低いと思うのだけれど。

 焼き色を確認して魚を火から降ろす。食卓に並べ、二人で食事を始めた。

 父は食事中にめったに喋らないので、寮での食事とは違い家でご飯を食べるときはいつもとても静かだ。

 しかし今日の父はいつもと違うようで、味噌汁を一口啜った後に口を開いた。


「学業は滞りないか」


「・・・・・・・・・え?」


 父が食事中に喋るということに驚き、言葉そのものが耳に入らず聞き返してしまった。


「勉強は問題なくできているのか、と訊いた」


「あ、うん。特段困ったということはないよ。生憎と巽には勝てていないけれど」


「あの子はとりわけ優秀だからな」


「諦めちゃいないけどね」


「そうか──犬の訓練はどうだ」


 偶然とは続くものだと、前に言ったのは誰だったか。まさか父が食事中に喋るだけでなく、犬のことを訊いてくるとは。


「問題ないよ。うん、問題なく本試験には挑めるよ」


 だから心配するな、と目で父に伝えようとしたのだけれど、しかし僕の目が捕らえたのはとても憂いを帯びた父の目だった。


「父さん、どうしたの?」


「・・・・・・どうかしたか?」


「すごい思いつめた顔してる。ご飯、おいしくなかった?」


 そう言うと、父は取ってつけた様な笑みを浮かべた。


「ああ、いやすまない。どうも仕事尽くめで疲れているんだろう。そうか、問題ないならいい。しかしあまり力を入れすぎないようにな。櫂季は学生なのだから、まずはその本分を果たさないといけない」


「それは勿論だけれど、でも犬の訓練は宇宙局の研究の一環なんだろ?ないがしろにはできないよ」


「ん、ああ。そうだな。そうだ、ちゃんとしないとな」


「うん。そうだよ」


 僕の言葉に父は肯き、そしてそれ以降は口をつぐんだ。またいつものように粛々と食事を済ませると、これまたいつものようにすぐさま宇宙局へと戻っていった。

 いつも通りの動きだったのに、僕にはその父のそそくさとした動きが、なにかやましさを帯びているように見えた。

 

 二日後、残り五日。

 放課後、いつものように訓練は巽と距離を取って行い、休憩の間にリングレットとムドリェーツを適当に遊ばせつつ情報交換をする。といっても、この段階に至れば訓練方法等を検討しても仕方がない。話の中心はもっぱらお互いの犬の仕上がり具合についてだった。


「リングレットの様子はどうですか」


「問題ないだろうな。リングレットが負うべき部分は既に合格点を超えている。後はどれだけ上乗せできるかといったところだ」


「櫂季らしいですが、よっぽどの自信ですね。静止訓練についても滞りないのでしょうか」


「ああ。十分程度なら問題はなくなった。流石にムドリェーツ程はいかないけれど」


「そこは文句なく私達が櫂季達に勝っているところです」


「文句なくときたか」


 実際ムドリェーツの従順さには舌を巻くものがあった。リングレットも一通りの指示をこなすことはできるが、指示の遵守には幅がある。ある程度の誤差と考えてもいい。許容公差の中に納まるように僕は指示を出しているので問題はないのだが、ムドリェーツにはその誤差がない。遊びがないと言い換えてもいい。指示を指示通り、余計なものは含めず、少しの不足もありえない。これはムドリェーツの特性というよりは、巽の育て方に寄るところが大きい。流石は犬飼の血筋といったところだろうか。


「巽の御祖父さんがムドリェーツを見たら、何を思うだろうな」


「私の祖父ですか。そうですね、祖父が日本に足を運ぶことはありえませんので、机上の空論にはなりますが──おそらく激高するのではないでしょうか」


「御祖父さんはムドリェーツの仕上がりに不満を抱くということか?」


「はい。櫂季の中で私の祖父がどのような想像図となっているかはわかりかねますが、存外あの方は奔放を愛されるものですから。型にはまりきった恭順よりは、変動する余地のある忠誠を評価されるでしょう。その意味では、リングレットの方が祖父にとっては高評価ということになりますね」


「しかし巽の御祖父さんから貰った情報、方法論を元に訓練した結果がムドリェーツの今なんだから、それはどうにも腑に落ちないな」


「それを言うのなら、櫂季だって同じ方法論を参考にした訓練をしてきたではありませんか。しかしムドリェーツとリングレットの在りようは違う。これはそれぞれの犬が最初から持つ気性もそうですが、それよりもむしろ訓練を行う側の性質がより反映されたということだと私は考えます。同じ情報を持っていたとしても、使い方は人それぞれと言うことです。そして同様に与える影響も」


「そんなものか」


「そんなものです」


 情報と遣い方、そして与える影響。僕がリングレットに影響を受けているように、僕の影響もリングレットに現れているということ。つまりはリングレットの今は、僕の取捨選択によって作られたと言っても、あながち間違いではないのだろう。近からずとも遠からずだ。

 犬は飼い主に似るという。今更ながらその言葉は至言だった。

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