第15話 僕と会話

 翌日、残り四日。

 本試験も間近というこの日、僕はリングレットの訓練を始める前に司の実験を手伝っていた。こんな時期でもお構いなしに実験の手伝いをさせる司を僕は存外嫌いではない。司らしいなと、ただそう思うだけだ。

 実際ここまで直前となると、訓練はさしてできることもないのだ。疲労を蓄積させないように抑制して訓練を行うので、時間はそれなりに余る。

 さして影響がないのなら司の実験を手伝うのも悪くはない。


「あ、そうだ司。別に実験を手伝うのは構わないけどさ、流石に刺激臭がするような薬品なり燃焼なりはやらないでくれよ。鼻に悪影響が出ると困る」


「わかってるよん。はい、これ持って」


 司は棚から小瓶を取り出し僕に手渡す。瓶には張り紙もなく、中はいくらかの粘りがある液体で満たされていた。


「櫂季、蓋を開けて」


「はいよ」


 言われるがまま小瓶の蓋を開ける。中からは何の臭いもしなかった。無味無臭、いや食べちゃいないけど。

 司は僕に一歩近づくと左手で僕の右頬に触る。冷たい感触が頬を伝って全身に広がった。


「つ、司?」


 なぜか全身が熱くなる。そしてそれに反するように司の低い体温で冷やされた頭だけが鮮明に働いている。


「じっとして」


 司に言われ、僕は少しも動けなくなる。

 なんだ、何をしようとしているんだ。


「こっちを見て」


 まっすぐに見ることができず、逸らしていた顔を正面に引き戻される。すぐそこに司の顔が、そして目が。

 司はそのまま右手で小瓶の中に指を入れ、液体をすくい──僕の顔に塗りつけた。


「・・・・・・・・・え?」


「口閉じてなさいな」


 司はそのまま液体を指で引き伸ばす。顔の下半分に重点的に。

 二、三度瓶からすくい僕の顔に塗るという動作をした後、満足したように小瓶を僕から回収した。そのまま蓋をして棚に戻す。


「もう口開けてもいいよ」


「これはーーっ!」


 口を閉じてろと言われて、無意識に呼吸を止めていたらしい。司が離れたので喋ろうと息を吸ったら、今まで感じたことのない刺激が鼻を貫いた。


「っ、っあーーーー。」


 しばし言葉にならない声を漏らしつつ悶える。十秒ほどそうしていて、ようやく刺激が抜けた。


「えっと、司?司さん?その液体、というかこの顔に塗った液体は何だ」


「麻痺剤よ」


 さらりと、こともなげに言った。


「麻痺剤・・・・・・・・・麻痺剤!?」


 慌てて顔に触る。


「感触はある、それに普通に喋れてる。司、これ遅行性なのか?」


 僕の言葉に司は首を横に振った。


「いやいや、即効も即効の即効性。ただし、痺れたり痛覚が無くなったりするわけじゃないのです」


「じゃ、何が起きるんだ」


「麻痺だよ、嗅覚の麻痺。匂い、わからなくなっているでしょ」


 言われて気づく。部屋に来たときは様々な匂いが混ざっていたこの部屋が、まったくの無臭になっている。流しにあった石鹸に鼻を近づけても何も感じない。一度開いて刺激臭で気を失いかけた薬瓶を開くも、まったく何も感じない。

 本当に嗅覚が機能していなかった。

 いや、これそんな淡々と確認するようなことではなくないか。だって本試験では僕の鼻が作戦の要なのだ。


「なんてことしてくれてるんだ司。僕の鼻を潰してどうする。これじゃ嗅覚試験の作戦も丸潰れじゃないか──そうだ、中和剤、いやこの場合は解毒剤か。それがきっとこの部屋のどこかに」


「ないよー。中和剤や解毒剤なんて」


「ない!?」


 いよいよ危機的状況じゃないか。

 とりあえずの対処として蛇口に顔を突っ込んで鼻の穴に水を注ぐ。しかし眉間の辺りに激痛が走っただけで僕の嗅覚は依然として反応を示さない。

 いっそのこと刺激の強い薬品でも直接塗りこんでみるか、と僕が自棄にも似た行動を起こそうとしたところで司が言った。


「何もしなくても元に戻るから。本試験の朝ぐらいに」


「直前も直前じゃないか。本試験に間に合うのはそりゃ良かったと胸を撫で下ろすところだけど、かといってその前の四日間僕の嗅覚が機能しないってそれは不味くないか」


 直近の問題として、今日もやろうと思っていた嗅覚試験の訓練ができないということだ。

 何故、司が急に僕の邪魔をするようなまねを。


「騙すためだよ」


「騙す?何を、いや誰を?」


「櫂季だよ。櫂季を騙すための麻痺剤」


「・・・これ何度も言ってはいるんだけれど、もう一回言うぞ。わかるように説明してくれ」


「空腹は最高の調味料という話なんだけれど、触れ幅と言えばわかるかな、わかんないかな」


「わからない」


「だろうね」


 だったら訊くな。


「今日を含めて四日間、櫂季は本試験の直前まで匂いの無い世界で生きることになるよね。その世界に慣れた上で、嗅覚が元に戻れば、櫂季はさっきまでとは比べ物にならない程に、世界の匂いを受け取ることになる。直前まで零だった間隔が途端に百になる。この触れ幅は櫂季の感覚を一層研ぎ澄まされたものに感じさせてくれる」


 お腹が空くとご飯がおいしく感じるように。

 寝入り前の蚊が一層五月蝿く感じるように。

 ただそれは錯覚で、元は変わっていなくて、受け取り手がただ感覚に騙されているだけなのだ。

 つまり、この無臭の世界で騙されるのは僕ということか。


「それはこの四日間を捨てるだけの価値があるのか?」


「ある。少なくとも嗅覚訓練はこれ以上続けても効能は望めないから。巽と練った訓練項目は全部やり終えてるでしょ」


「まあ、そうだな」


 今日もほどほどに抑えようと思っていたくらいだ。だったらどんな手段でもやらないよりはやってみたほうがいい。幸い鼻が効かないだけで、他の訓練をおさらいするくらいはできるのだから。


「でもーー」

 とそこで僕は司に詰め寄る。司は司で用事は済んだとばかりにさっさと実験準備に取り掛かっていたので、半ば強引にこちらを向かせる。


「それだとだまし討ちの如く僕の嗅覚を奪った理由にはならないんだけど」


「うん、まあ」


 珍しく司は言い淀み、


「吃驚するかなと思って」

 と言った。


 その言葉にこそ僕は驚く。



 翌日、残り三日。

 無味無臭の世界を堪能中。

 嗅覚が訊かなくなってわかったことは、まず想像していたよりも不便さはないということだった。人間、異臭がすれば気づくけれど、無臭であれば違和感を抱くことは少ないようだ。自分自身の匂いを嗅ぎなれて無臭だと感じるが、それで困る人というのを訊いたことが無い。当然だ。感覚器官というものは異常を感知してこそ初めて鳴動するものなのだから。その感覚器官が一時的とはいえ死んでいる以上、僕は匂いにおける気づきや違和感などを得ようがないのだ。


「とはいえこればかりは明らかな難点だよなぁ」


 言葉通り味気ない朝食を取りながら嘆息する。無味無臭といいつつも、実際に味が零というわけではない。味覚は死んでいないのだから、ものの味はわかる。ただ、風味というのは嗅覚と味覚が働いており、どちらかというと嗅覚に頼る部分が大きいようで、いくら咀嚼しても期待するほどの味はしなかった。端的に言って不味い。ご飯が美味しくないというのはこれほどまでに心身を削り取るものなのだろうか。四日間限定(今日から数えれば三日間)だというのに、昨晩の夕食を含めて通算二回目の食事で挫折しそうだ。僕の心が折れたところで嗅覚は元には戻らないのだけれど。


「その顔を見るに、状況は芳しくありませんね」


 よほど絶望的な顔をしていたのか、巽が僕を気遣うように声をかけてきた。


「状況は別に悪くないさ。順調といってもいいくらいだろ。ただ、それとは別のところで問題というか、面倒だな。こればかりは本当に体験してみないとわからないだろうけど」


「そうですね。まったく想像できませんよ」


 昨夜の内に僕の体に起きた──もとい起こされた変化は巽に説明している。司が行ったこと、その狙いを説明したら巽はえらく感心していた。僕は未だに納得しかねる部分があるというのに。


「不便さを感じることはないのですか?食事以外で」


「それ以外には特にないな。思ったより、変わらない」


「では、食事を除けばいつも通りの朝といったところでしょうか」


「それを除いたらお終いという気はするけどな。あぁ、いや、それ以外でも一つ気になることがあるんだ。巽、あっちの席見えるか?普段は人がいない場所に数人固まってるだろ」


 教員たちに見咎められないよう気をつけながら、食堂の隅を指差す。


「あの人たち、どこかで見た気がするんだけど、巽は覚えてないか?」


 僕の指し示す方へちらりと目をやると、巽は言った。


「去年、この食堂で見た人達に似ていますね。スプーンとフォークを使用されています。それに赤い通行証、丁度一年程前にも座ってらっしゃったような気がします」


 思い出す。確かに去年も朝の食堂で似た連中を目にした。


「気になるな」


「そうですか?ただのお客様でしょう。前にも見かけたということは、私達が気づいていないだけで、それなりの頻度で宇宙局へ足を運ばれているのではないでしょうか」


「いや、僕はほぼ毎日この席に座ってる。巽の位置からじゃ背面になるから気づけなくても仕方がないけど、もしあそこに誰か座ってたら僕にはすぐわかる。この一年、確かに来客が座ることはあったけれど、スプーンやフォークを使用してる人は見かけたことがない」


「だとしても、別段気にかけることはないのでは?」


「いや、一年越しというのが気になる。この時期というのが特に」


 考えすぎかもしれない。自意識過剰と思われても仕方が無い。実際巽はそんな目で僕を見ている。ただ、彼らを見た後に僕はリングレットの訓練を始めた。そしてまた本試験の直前に彼らが現れた。これを偶然と見過ごしていいものかどうかは、どうしても気に掛かるのだ。


「世界全てが自分に関係する物事だと櫂季は考えるのですか」


「そうじゃないさ。そうじゃないけれど、そうかもしれない可能性を放置したくないだけだ」


「・・・・・・はぁ、わかりました」


 そう言って巽は持っていた二本の箸を床に落とした。樹脂性の箸は食堂に不規則な乾いた音を響かせる。


「巽、何してるんだ」


「いいから、櫂季は黙って味気のない食事を続けてください」

 僕が巽の行動を理解しかねていると、音に気づいた教員が僕らの元へ来た。


「巽・グラフ、どうかしたのか」


「いえ、申し訳ありません。箸を取り落としてしまいました。食事中ではありますが、洗浄を行ってもよろしいでしょうか」


 巽は拾った箸を教員に見せる。床も箸も別段汚れているようには見えないが、さすがにそう言われて断ることも教員はしない。


「ああ、構わない。なるべく手早く行うように」

 と言って、教員は自分の席へと戻った。


 巽は立ち上がり流し台へと向かう。そのとき最短経路ではなく、一度部屋の端を通るようにして動いた。巽の動線には件の来客がいる。

 来客の横を通るとき、事前に知っていなければそれと気づかれない程度に巽は速度を落として通過した。不自然さなど微塵も感じられない足取りで。

 洗浄を終えた箸を手に、悠々と巽は席に戻ってきた。


「それで巽、成果は?」


「知った顔ではありませんでしたが、知らない顔というわけでもありませんね」


「まわりくどいな」


「人種はわかりました。ロシア人です。私からすれば同郷の徒ということになるのでしょうか。いまいちしっくりとはきませんが」


 ロシア人と日本人の混血、巽がそういうのだ、人種の見立ては間違いないだろう。気になるのはそのロシア人が何故そこにいるのかということ。


「宇宙局に外国人客がいるのは特におかしなことというわけではないけれど」


「そうですね。でもそれをわかっていてなお、櫂季は何かを気に掛けているのでしょう?」


「ああ、気に掛かるといえばそれだけなんだけれど、なんだろうな。そうだ巽、何か会話を聞き取れなかったか?」


「そこまでは・・・。」


「さすがに通り過ぎただけでは短かったか」


「いえ、そうではなく」

 と、巽は罰が悪そうに顔を背ける。


「私、ロシア語の聞き取り苦手なんですよ」


 彫りの深い混血児はごまかすように苦笑いをした。



 翌日、残り二日。

 昨日は巽が自分の苦手分野を披露したところで食事時間が終了をしてしまい、それ以上の考察を進めることはなかった。もっとも、気になるとはいっても根拠も由来もないただの感覚的なものである。その場を離れてしまえば僕の心の引っ掛かりなど胡散霧消する程度のものだった。

 というよりも、僕と巽に余計なことを考える余裕がなかったというのが正しいだろう。なにしろ本試験は明後日に迫っている。できることはもうやりつくし、後は本番を待つばかりというところだけれども、できることが無いからといって何もせずにいられるほど僕達は大人ではないのだ。不安と焦りがないなどと嘯くことはできない。

 むしろ、そういった落ち着きのない気持ちから目を逸らすためにこそ、僕はあんな客のことを気に掛けたのかもしれない。他の事を考えていれば、一時的にとはいえ、本番に目を向けなくてすむ。

 だとしたらお笑い種である。せっかく手にした機会なのだ、目を逸らさずにまっすぐ見据え、にらみ殺すくらいの気持ちでいなければ。

 そんな試験を試練と倒錯するような面持ちで、僕はやはりいつものようにリングレットと訓練場に出た。

 一昨日司に鼻を使えなくされてしまったが、だからといって何も訓練ができなくなったわけではない。むしろ僕のことに時間を割く必要がない分、リングレットに集中できようというものだ。

 もしかしたら、司はそのためにこそ僕の嗅覚を奪ったのかもしれない──というのはやっぱり感傷的になりすぎだろうか。

 そう、僕は感傷的になっている。

 後二日。明後日には本試験が行われ、そして終了する。その後犬の訓練を含んだ研究がどのような運びとなるのかはまったく知るところではないけれど、少なくともそこで一つの区切りなのだ。

 二ヶ月程前に種本先生は言った。訓練の終了時期が決まったと、締めの行事を行うと。

 その言葉の意味を今更考えるまでもない。一年間に及んだリングレットとの訓練の日々が終わるということなのだ。

 それこそ、本当に目を逸らしたかったのは本試験なんかよりもこのことかもしれない。

 ほんの一ヶ月前ならば、この日々が終わることを僕は手放しで歓迎していたはずなのだ。そりゃ若干の寂しさみたいなものは感じていただろうけれど、しかし今ほどのものではなかったと断言できる。

一ヶ月前、リングレットをちゃんと見ていなかったと思い知らされて、リングレットに気づけなかったと身につまされて、僕は自分を恥じたのだ。恥じて、そして謝った。犬に謝るなんてはじめての経験だったので、作法はよくわからなかったが、とにかく謝った。そして誓ったのだ、これからはちゃんと共に研鑽することを。あの日があったからこそ、この一ヶ月の努力と訓練は持続されたと思っている。

そして一ヶ月経った。

離れ難いと思ってしまっている。感情を移入している。情が移ったと言われればそれまでだけれど、他のどの犬よりもできの悪いリングレットを不出来な僕は愛しく思うのだ。

一つ一つ訓練の成果を確かめる。

できなかったことができるようになっていた。拙かったものが精錬されていた。全部僕らの結果なのだ、うれしくない筈がない。

明日は本番の前日だ。さすがに休ませなければならない。

日が落ちて、僕とリングレットの訓練は終わった。

それでも、最後の訓練だとは思っていなかった。


 翌日、残り一日。

 訓練は行わないが、リングレットの様子を見ないわけにもいかない。

 というわけで、土曜の朝から僕は宇宙局の研究棟施設、その端にある飼育棟でリングレットの毛並みを整えていた。整えるとはいっても、くせ毛のこいつだ。いくら櫛を通しても僕の意思に反するように左右上下へ曲がってしまう。それも可愛いと思うのだから、まぁ、僕も色々変わったのだろう。

 ちなみにそう離れていない位置に巽もいた。僕と同様にムドリェーツの体に触れながら様子を見ている。


「巽、そっちの調子はどうだ」


 顔は向けずに声だけかけた。

幸い飼育部屋には僕達以外は誰もいないので、周りに憚ることなく会話ができる。


「すこぶる良いですよ。むしろよすぎるくらいですね。この調子を明日も維持してくれれば言うことはありません。櫂季の方はどうですか?」


「どうって、」


 リングレットと顔を合わせる。手に伝わる呼吸の拍子、その温度を感じる。


「良いよ、すごくいい」


「それは重畳ですね」


 リングレットの鼻筋を撫で、その感触に決意を固める。


「明日は決着だな」


「決着、とは?」


「勿論、僕と巽が大人達の鼻を明かすってことだ」


「まだ言ってたのですか。てっきりもう忘れたものだと思っていましたが」


「忘れるわけないだろ。リングレットを道具として扱うのは確かにやめた。けれど、大人達への対抗意識まで消えたわけじゃない」


 むしろ、リングレットを選ばなかったという事実に余計に腹を立てているくらいなのだ。

 賢い大人達が選ばなかった犬で勝とうとはもう思わない。賢い大人達が選ばなかった犬と勝つのだ。鼻を明かす、リングレットの有能さを知らしめる。その両方を成し遂げてこその僕だ。


「徹底的に、完膚なきまでに。それが僕の信条だ」


「わかりましたよ。明日は決着、それでいいでしょう」


「よし、そうと決まれば前哨戦だ。さすがに犬達を連れ回すわけにはいかないけれど、どうだ、僕と巽で一つ体力試験の模擬練習といこうじゃないか」


 飼育部屋の裏口を開く。訓練場の芝が一面に広がっている。


「どうだ?」


 挑戦するように巽に問う。しかし、巽の返事を待たずして、

「それは許可できないな」

 と、たしなめるような声が飼育部屋に響いた。


 見ると、いつからいたのか、部屋の出入り口に父が立っていた。


「父さん。珍しいね、こんなところに来るなんて」


「表を歩いていたら声が聞こえたものでな。不審者でもいたら事なので見に来た。そうか、巽君もいたのか」


 父は何やら困ったように、思案顔になる。

 不審者を見に来ただって?明らかにただの建前だ。犬の飼育部屋に不審者など来ようはずもない。それ以上に価値ある研究が他の施設にはいくらでもあるのだから。

 白々しさを自覚してか否か、父は足早に言葉を紡ぐ。


「櫂季、それに巽君もだ、訓練場には極力出ないように。既に明日の本試験用に準備がされている。万が一壊されでもしたら面倒だ」


「流石にそこまでは・・・。」


「ない、とは思うがな。巽君もいることだし。しかし、懸念がある以上放置もできん。我慢してくれ」


「櫂季、御父上がこうおっしゃられているのです。やめておきましょう」


「いや、僕も別に何が何でも訓練場に出たかったってわけでもないからね?」


 まるで僕がわがままを言っているような構図になっているのが釈然としないが、そこにこだわってもしょうがないだろう。

 切り替える。


「ま、時間も時間だし昼食にしようか。父さんも、何なら一緒に食べる?」


「いや、それは・・・。」


 父は口ごもり、横目で巽を見た。

 何かを察したように巽は言う。


「せっかくですが私は自宅に戻って昼食をとる予定なのです。母がまっておりますので」


 巽は父に向かって丁寧に会釈をすると、僕の元に寄ってきて、耳打ちした。


「御父上はきっと櫂季に話たいことがあるのでしょう。そのために飼育部屋まで足を運ばれたのですよ」


 そう言って僕の背中を軽く叩く。そして巽はそのまま飼育部屋を後にした。

 本当に、よく気の回る奴だ。


「それで、どうする父さん?お腹空いたから早く決めてくれると嬉しいんだけど」


「そうだな。では、食堂に行こうか」


 幾らか気疲れしたように父は言う。巽の予想はおそらく当たっていて、父は僕と話をするために飼育部屋にきたのだろうけど、一方で僕と会うことをあまり期待していなかったのではないかと、このとき思った。

 とても気の重い行いをする前の表情がかいま見えたからだ。

 先導して歩く父はあまり言葉を発さず、沈黙を抱えながら僕らは食堂に到着した。土曜日なのでまばらにしか人がいない。父に気付いた若い研究員が数名会釈をしていた。


「模擬試験の時も思ったことだけど、こうして目の当たりにすると、本当に父さんはそれなりの地位ってやつを持っているんだな」


「地位というよりは肩書きだろうな。真に高い所にいる者は他者から挨拶などされない。それすらも躊躇させるのが地位というものだ」


 父はここではないどこかを見てそう言った。何に思いを巡らせているのか、僕にはとんと検討もつかない。

 地位にせよ立場にせよ、父がそれなりの力を持っていることは確からしく、いつもは休日でも研究員で席が埋まっている少数用の机に僕達は座ることができた。どうやら直前まで座っていた研究員は他の長机に移動したようなのだけれど、むしろそっちの方が気になって食事に集中しづらい。

 ともあれ、父と僕は四人用の席に向かい合って蕎麦を啜ることにした。

 そういえば家の外で父と二人きりで食事するのはこれが初めてではないだろうか。普段は寮での食事だし、僕が寮に入る前は外でご飯を取った覚えはまったくない。

 なるほど、気付いてみるとこれはこれで奇妙な景色であった。とはいえ、普段寡黙な父が外での食事だからと言ってことさら饒舌になるわけもなく、黙々と蕎麦を啜るだけの食事である。

 周囲の光景以外は家と何も変わらない食事を終え、食器を下げようかと席を立ちかけたときに、父は口を開いた。


「調子はどうだ」


「調子って、学業とかじゃないよね、流石に」


「まあそうだな。・・・ああ、そうだ」


 言いにくそうに口ごもる父を見て思い出す。そういえば巽が言っていた。父は僕に話たいことがあって会いに来たのだと。あまりにいつも通りの食事風景だったので忘れていた。


「どうしたのさ、リングレットのことだろ?試験を出す側にあまり細かい話はできないけど、調子は上々だよ」


「そうか・・・上々か」


 歯切れ悪く父は僕の言葉を繰り返す。


「上々、とはいえどうなのだ、前回のようなことにはならないのか」


「・・・。」


 前回のこと、というのはもちろん僕が嗅覚試験を失敗したことを指しているのだろう。少しの沈黙を挟んで、僕は答えた。


「ならないよ、この一ヶ月、死ぬ気で積み上げたんだ。模擬試験のようにはならない」


 自分にそう言い聞かせるように、強い意志を込めて。

 しかしその言葉に父は目を陰らせ、躊躇うような顔を見せた。


「しかしな、櫂季。成果というものは一ヶ月少々でどうこうなるというものでもないだろう。付け焼き刃というものはそれだけで不格好なものだ」


「・・・父さん、何を言ってるの?」


「形だけ整えて中身が結局伴いませんでしたでは恥の上塗りとなるやもしれん。二度同じ失敗をするようではお前の評価にも傷が付く」


「ねえ父さんーー。」


「研究員は別として、学生のお前達は本試験を受ける権利を与えられただけだ。義務ではない。学業の補助を兼ねた犬の訓練という意味では現時点で充分な成果を上げている。ならばここらで引き上げとしてもーー。」


「父さん!」


 食堂に響くような声で、僕は叫んだ。

 だって父の言うそれは、今口にしていることはーー。


「恥をかく前にやめておけって?乾の名に傷を付けないように身を引けって?あんたはそう言いたいのかよ」


「ーー。」


 父は何も答えず、ただ僕から目線を外した。

 そうか、僕の言ったことを否定しないのか。

 まさか実の父親に恥をかかないように諦めろなどと、そんなことを言われるとは思ってもみなかった。それはつまり、父は僕のことを信用しておらず、そして息子の努力よりも世間体を気にしているということだ。

 屈辱というにはあまりに汚く、怒りというにはあまりに遠い。そんなただただ黒いばかりの感情が僕の中に沈殿する。胃の底に届き、壁を突き破りへそを介して吹き出そうとする。

 そして一方で、いつもの父とあまりに違うその姿に僕は悲しくも思った。質実剛健な父の振る舞いではない。そのことが余計に惨めだ。

 激しい感情と粘りけのある冷たい感情が同居する。そのどちらもが口をついて溢れそうになる。

 僕はそれを必死で押し留めた。叫んだ時点で手遅れかもしれないが、しかしそれ以上は必死で止めた。


「今日は寮に泊まる。家には帰らない」


「櫂季・・・。」


 僕を掴もうとする父の手を僕は払いのけた。

 駆け出す僕を父は追ってくる事はなかった。親子喧嘩で慌てふためく姿を周りの研究員に見られたくはないのだろう。

 いいさ、あんたは一生そうやって気にしてろ。


 翌日、本試験当日。

 目覚ましよりも早く目が覚めた。


「起きましたか、櫂季」


「ああ、おはよう巽」

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