第9話 僕と試験

 瞬く間に春が過ぎ、梅雨を超えて夏になった。暦では文月に入り、日本の南寄りにあるこの島は湿気の重みを残して暑さだけが鰻登りである。

 春の匂いが消えると共に夏の匂いが辺りに立ちこめる。

 冬の重たい金属にも似た匂いも好きだが、夏の浮いた石鹸水のような匂いも嫌いではない。梅雨が明ける間際から香り立つこの匂いのことを巽に話したことがある。しかしまったく共感は得られなかった。北の国で生まれたあいつにはわかりづらいものだったのかもしれない。

 リングレットと出会ってから既に九ヶ月が経とうとしており、思えばよく続いていると我ながら感心する。本当に、何度投げだそうと考えたことか。しかしその度に、成績評価の一環という足枷が僕の最後の一歩を踏みとどまらせた。

 この評価方法がいつまで続くのかと、半年過ぎた辺りで、つまりは学年が一つ上がったところで種本先生に訊いてみたことがある。まったくもってはっきりとした答えは返ってこなかった。決めてないんじゃないだろうな。

 犬の訓練を始めた当初、僕と巽が行うこれは課外活動の評価の代わりと種本先生は言っていた。であるならば、長くても、三学年が課外活動を終了する時期、つまりは来年の文月辺りが期限ということになるのだろうか。

 長ければあと一年。三百六十五という数字が僕の肩にのしかかる。


「とは言ったものの、この後一年何をするのだろうか」


 種本先生から以前渡された(その後何度も修正された)紙の訓練内容は網羅してしまっていた。ここ一週間程は以前の復習と決まった作業を淡々と繰り返しているだけだった。

 今日も今日とて巽と何をするか打ち合わせをし、いっそ巽の祖父からいただいた書類に記載してあった芸を仕込ませようかと画策していた。訓練とは何の関係もないことだが、毎日同じことをやるよりは意味があるのではないだろうか。

 なんて、そんなある意味不敬なことを考えていた僕と巽の前に、種本先生が現れた。

 つい先日発売が始まったホープという名の煙草を吹かしながら、満足げに煙を吐いている。巽は平気そうだったが、僕はホープの強烈な匂いに鼻が曲がりそうになる。近くにいるだけでこれなのだ、吸引している本人は気を失ってもおかしくはないはずなのに、やはり大人の感性はわからない。

 種本先生はいつものように、


「やあ君たち」

 と僕達に声を掛け、


「今日は二人にとって朗報を持ってきた」

 と笑った。


「・・・・・・。」


 犬の訓練が始まってから今日この日までをかけてしっかりと種本先生への不信感は募っていたので、朗報という種本先生の言葉に、僕と巽は少しも嬉しく感じなかった。いっそ悲報と言ってもらえた方が期待したくらいである。


「またですよ」


「まただな」


 僕と巽は顔を見合わせる。


「櫂季、今度は何だと思います?」


「時期が時期だけに、犬と共に遠泳でもさせられるんじゃないかと思うけれど、巽はどう思う?」


「私は逆に飛行機から落下傘付けての滑空だと推測します」


「成る程ありうる話だな」


「ありうるわけないだろうが」


 種本先生は再度煙を吐きながら言う。


「なんだい、随分と渋い顔で見当違いの憶測をするようになったじゃないか」

 自覚があるのか無いのか、種本先生はホープを地面にすり付けながら僕達に言う。


「まあ確かに、今日までは君達に取って負担のある話をしたこともあったけれど、でも今日は本当に朗報だよ。君達の訓練について、終了までの目処が立った」


「それは、本当ですか。嘘やごまかしや面倒事の言い換えではなく?」


 種本先生の思わぬ言葉に僕は食いつく。


「ああ勿論だ。嘘やごまかしじゃない。まあ面倒事がないわけでもないんだがーー。」


「・・・。」


 種本先生の歯切れが悪い言葉に目を見据えると、


「とにかく、終了時期が決まったのは本当だ」

 と取り繕う様に種本先生は言う。


 その物言いは、決まりはしたが確実に面倒事をはらんだ印象しか残さない。そしてそれは印象通りなのだろう。種本先生が本題を話し始める。


「といっても、ただ漫然と終了するわけじゃない。締めの行事というか、一区切りとしての実験で、能力試験を行うことになった」


 例によって例のごとく、種本先生は白衣から折り畳んだ紙を取り出す。

 紙にはどのような試験を行うか、こと細かに書かれてある。


「それに書いてある通り、身体、服従、嗅覚の三項目における能力を披露してもらう」


「披露・・・ただ見せるだけではないのですか?」


「そうだ。研究に関わる人の前で行ってもらう。その上で犬達には評価がつく」

 紙に書いてある項目を再度見る。基本的な部分では今まで訓練でやってきたことを踏まえている。あとは一歩、上乗せできれば行うのはそう難しくはなさそうだ。


「いつ行われるのですか。まさか今日や明日ということはありませんよね?」


 巽の質問は当然僕も気になるところだった。


「本番は二ヶ月後だ。しかし一ヶ月後には模擬として今教えた項目を行う。その際は研究員の一部しか見ることはない。訓練者が問題点の洗い出しをするのが一ヶ月後の目的の一つだ」


 とりあえずは一ヶ月後を目処に、ということか。最終的に評価されるのは二ヶ月後らしいけれど。

 評価・・・・・・・・・評価か。


「紙に書いてある項目を満たすのは前提として、その上で評価されるのだとすれば、評価基準はどのような形なのですか?」


 気になったので質問してみるが、


「それは教えられない」

 と種本先生は答えた。


 予想していた答えではある。そりゃそれを聞いていたら公平ではない。そう僕は思ったのだが、種本先生の言わんとする所は違ったようだ。


「評価基準は私も知らないからな。評価担当は別の人が行う。よってその人達しか把握していない」


「成る程」


「君達はその辺りは気にせずともいいだろう。とりあえず一ヶ月後に無様な姿を晒さなければ御の字だ」


 では励みなさい、と種本先生は言い残し、いつものように去っていった。何かにつけて不快感を残す人だ。

後に残された僕の心中は穏やかではない。九ヶ月前と相変わらず僕達は期待されていないということがわかったからだ。巽も同じ気持ちだろうことは言葉を交わさなくてもわかった。白い肌に赤みが差していたからだ。僕と同じくらい、いや、ともすれば僕よりも矜持が高い巽である。


「結局ここだな」


「ええ、櫂季の言うとおりです。結局のところそこなのですよ」


 初心を忘れていた。九ヶ月前に誓った大人達を見返すということを忘れてしまっていた。それなりに訓練が上手く言っているからといって慢心してはいけない。成績評価に支障がなさそうだと一息ついてはいけない。僕達は何より見返すためにこれを始めたのだから。

 だとすれば、これは絶好の機会ではないか。大人達が選ばなかった犬達で最高評価を奪い取る。これほど痛快なとはない。

 幸いにしてリングレットとムドリェーツは問題はあれど今まで課題をこなしてきているのだ。試験項目だとてできないことはないだろう。


「時間は一ヶ月、まずは一通り覚えさせて、その後完成度を上げるといったところだろうか」


「ええ。それが最前だと推察します」


 目標を一つに、僕と巽はそれぞれの犬に向き合った。

 

 *


 三種の訓練ごとにどんな進捗であったか記述していこう。ちなみに、すべての訓練は同時進行でやっていた。


 第一、身体試験。

 これは至って単純な試験項目である。簡単かどうかは別にして、他二つの試験項目に比べればとてもわかりやすい。障害物競走が例えとしては無難なところだろうか。複数の障害物をかわし、その上で早く目的地点に到達する。至って明快なものだ。

 具体的な障害物は明言されてはいないが、ある程度の予想は可能だろう。それこそ訓練時には手間の掛かった塀の跳躍など、候補としては最たるものだ。

 併走訓練をしていたことを考えれば、僕自身も犬と連れだって障害物を越えていく必要があるのかもしれない。そこはどうしようもなく不利な部分だ。いくらスペースで日々鍛えられているといっても、僕の体は大人のそれと比べればやはり数段劣る。そもそも小柄な体格である。第一の身体試験はリングレットよりも僕の身体能力が試されると考えていた方がいいくらいかもしれない。


「ならば櫂季自身を鍛えるしかありませんね」


 と巽が言い、僕も納得したので、この試験項目に対する訓練として僕とリングレットは毎日併走訓練をしながら島を走り回った。宇宙局の外にでる訓練はリングレットと一度はぐれたあの日以降も定期的には行っていたが、週に一度の頻度であった。それを毎日行うのである。

 ただ体を鍛えて障害物を越えるだけならば宇宙局の施設を走るだけでもそれなりの効果は見込めたが、せっかくなのだからそれ以上の成果も上げておきたいところだった。外で併走訓練をすることに決めたのは繁華街の存在が大きい。模擬試験と最終試験は他者に見られるのが前提の試験である。であるならば、人の目に付くという体験をリングレットにも慣れさせておくべきである。

 この訓練では相当な成果が出た。最初こそリングレットには前科があるので散歩紐を付けておこなっていたが、三日ほど経って試しに外してみたが、何ら問題なく併走したまま宇宙局へ戻ることができた。繁華街の人や匂いにもリングレットが惑わされることはなかった。これに関してはムドリェーツよりも修得が早かったくらいである。

 巽も毎日ではないが週に何度かムドリェーツと宇宙局の外に出ていたが、ムドリェーツは最初の数回はいつも繁華街で香る食べ物の匂いに吊られていたという。

 二週間が経った頃にはリングレットも僕もこの訓練は充分にこなせるようになっていた。後は僕自身の体を鍛えるだけなので、訓練器具が充実している宇宙局の中で行った方が効率はいいのだけれど、しかしそれでも僕は毎日宇宙局の外にリングレットを連れ出した。

 いつものように宇宙局の出入り口から住宅街に向かい、更に繁華街を通過する。そして黄昏時の海沿いの道を走り、砂浜の中程で僕は休憩を取る。僕が休憩を取り始めて数分経つと、既にお馴染みになった光景が目の前で繰り広げられる。


「来たな」


 長く長く陰が延びるその暗がりから、全身が真っ黒な犬が顔を出す。首輪を巻いており、毛並みも良い。僕が始めて宇宙局の外にリングレットを連れ出した日、司と一緒にリングレットを探した日に出会ったあの黒犬だ。

 黒犬は陰からゆっくりと身を出すと、砂浜を掘っていたリングレットに近づく。それに気づいたリングレットが顔をぴくりと上げて一度僕を見る。僕が頷くと、リングレットも黒犬に近づいて、二頭は押したり噛んだりしながら遊び始めるのだ。


「逢い引きと言うには可愛らしいものだ」


 僕は一人ごちて二頭の遊びを見る。

 最初はリングレットが怪我を負いやしないかとおっかなびっくりだったが、何度も遊ばせている内にそれはないと判断し、今は放任しっぱなしである。

 日が更に傾き、夕日が水平線に半分隠れたところでこの時間は終わる。僕が小さく犬笛を鳴らすと、リングレットは僕の元に駆け寄ってくる。これも訓練の成果だ。

 リングレットが僕の元に戻るのと併せて、黒犬も陰の中に紛れ、どこかへ消える。黒犬がなぜ飼い主もい連れずにこの場所に現れるのかはわからない。追えばわかるのかもしれないが、それは無粋というものだろう。

 こんな風にリングレットの息抜きも兼ねつつ、第一の試験項目に関する対策は進んでいった。


 第二、服従試験。

 基礎的な訓練項目が最も試されるのがこの試験かもしれない。複合的な訓練結果を試される項目であることは間違いない。犬がどれだけ担当者の命令を聞くか、それを試す項目である。

 基本的な静止だけでも十分間。その後に伏せ、吠えを行わせ、最後には錠剤を食べさせる。

 巽に言わせると、この錠剤を食べさせるのが最も難しいらしい。


「祖父の言っていたことですけれど、犬の飲食を制御するのが最も困難らしいのです。やはり動物と言いますか、本能的な部分での抑制及び強制は根気がいると言っていました。実際、ムドリェーツも食べ物に紛れさせたとしても固形であれば予防薬や免疫剤をより分けて吐き出すことすらしますから。飲ませるのは大変苦労しました」


 そう言った巽は錠剤を飲ませる方法を何度も祖父に確認していた。この件の副次的な効果としてどうやら巽と祖父の距離は若干縮んだようである。

ともあれ、ムドリェーツと違いリングレットは基本的な免疫薬を注射で投与していたので(巽は注射が大嫌いなのだ)リングレットに薬を与えるのはこれが始めてだ。訓練用に用意して貰った錠剤は、何の効用もない偽薬。

試験時には錠剤のみを与えて食べさせるらしいのだが、訓練としてはまず食事に紛れ込ませて、錠剤に慣れた所で徐々に割合を減らし、最終的には錠剤のみを与えるという方法が最も一般的らしい。

 ものは試しにと訓練中に与えている軽食に偽薬を紛れ込ませて与えてみたところ、リングレットは何の抵抗もなしに平らげた。


「あれ?」


 上手く隠しすぎたのだろうか。それはそれで訓練にならない。

 今度は割合を変え、錠剤がはっきりわかる形で与えてみたがそれも問題なく平らげた。


「・・・・・・ひょっとして」


 さらに、錠剤のみを手のひらに乗せてリングレットの顔に近づける。

 ──普通に食べた。

 まさかとは思ったが、その後何度やっても変わらずリングレットは偽薬の錠剤を飲み込んだ。

 難しいと聞いていたので身構えすぎていたのだろうか?

 疑念を抱きながら巽にことの次第を話すと、


「どのようにやったのか、櫂季は私に教えるべきです。なんとなれば頭くらいは下げますので」

 と真剣に僕に迫ってきた。


 聞くとムドリェーツは訓練開始から一週間、まったく進歩していないらしい。

 とするとリングレットが特別なのだろうか。


「まぁ、こいつ馬鹿だもんなぁ」


 そう考えて自分を納得させた。きっと異物とかは気にしないのだろう。そんな単純なことだろうかとふと思いもするが、しかしそれ以外に理由の付けようもない。それ以外はない。うん、きっとそうだ。

 さて、錠剤はことのほか上手くいったが、それ以外についても同様かと言えばそうではなかった。一番手間が掛かったのは基本の静止だった。種本先生に試験内容を知らされた時点で、リングレットの静止訓練における記録は最長でも五分だった──それも指示を出し続けながらである。試験では一度指示を出した後、担当者が何か行動を起こすことは許されない。

 初日はそれこそ散々だった。


「リングレット、待てだぞ。待てだからな」


 静止の指示を出してリングレットを静止させる。いつもならかざしたままにする手を引っ込めて、リングレットと同じ方向に体を向け、僕も静止した。

 始めて三十秒、既にリングレットからそわそわとした雰囲気が伝わってくる。

 更に加えること十秒、明らかにリングレットが僕の方を見ている。

 そして静止を始めてから五十秒、つまりは一分も持たずにリングレットは動いてしまった。

 初日はその後何度やっても記録は伸びなかった。

 二日目からも悪戦苦闘は続いた。今までの訓練方法があまり静止訓練に適していなかった、というよりは今回の静止試験に適していなかったようだ。指示を出し続ければ十分程度は問題なくリングレットを静止させることができるのだけれど、指示なしとなると三分も保たない。

 静止訓練を始めて七日、余りに進歩がなさすぎるので気晴らしに巽の様子を見に行くことにした。


「巽、ムドリェーツは上手く仕上がってるか?」


 ムドリェーツの前にしゃがみこんで何やら作業をしていた巽は、一つため息を吐いて立ち上がった。


「やあ、櫂季。あまり上々とは言えませんね。ほら、このとおり」


 巽がムドリェーツを指で示す。

 見ると、ムドリェーツは器に鼻を突っ込んでおやつを食べている。しかし機嫌よく食べていると思ったら、そのうち口から何かを吐き出した。吐き出したものに目を凝らすと、それは見覚えのある錠剤だった。


「偽薬の訓練、一週間経っても進まないみたいだな」


「ええ。この点に関してはリングレットが羨ましいものです。それで、櫂季は何をしているのですか?よもや錠剤の与え方について御指南してくれるのでしょうか。聞いてあげてもいいですよ」


「いや、それは前にも言ったとおり、リングレットが抵抗無く錠剤を飲み込む理由が僕にもわからないから教えるとかはできないんだけどさ」


「それは残念。では何を?お互い無駄にできる時間はありませんが」


「それが時間を無駄にし続けているからさ。静止訓練が上手くいかない。指示を出さずに十分、巽とムドリェーツはできたのか?」


「昨日の時点で七分までは完璧に静止できていました。多少の動きが見過ごしてもらえるなら十五分はいけます。リングレットはどうですか」


「あいつは今、三分ももたない。完璧にというなら二分が限界だな」


「こればかりは性質の問題ですから、根気強くやるしかないですね」


「巽のお爺さんは何か参考になるようなことを言っていなかったか?種本先生に模擬試験の話を聞いた日には連絡取っていただろ」


「ええ。試験項目事の指南はいただきましたが、静止訓練に関しては特にありませんでした。続ければ時間が延びるとはおっしゃっていましたが」


 近道はないわけだ。あと残り二十数日でどこまで延ばせるか。七日かけて延びた時間が一分強という状況では望みは薄いように思われた。


「そうか、わかった。何か考えるしかないな」


 そう言って巽から離れた。巽には巽なりの課題があるのだから、あまり邪魔はできない。あいつの足を引っ張るような結果になれば、模擬試験で失敗するよりも僕は僕を許せない。

 まあだからといって模擬試験で失敗していいのかと言われればそうでもないので、僕は僕なりにやり方を考えなければならない。

 本番までは二ヶ月あるので、最悪この期間の内に静止試験を完璧にする見込みで訓練を行うという手もあるにはあるが、しかしそれではふるい落とされる危険性も増す。

 最善なのはやはり模擬試験までに全てを仕上げておくこと。しかしただ地道に続けるだけではそれも見込みが薄い。


「指示を出せれば十分は間違いなく越えられる。問題は途中で指示を出してはいけないということ」


 いや、待てよ本当にそうか?

 この場合難点となっているのは本当に『指示を出せない』ことだろうか。・・・違う。指示を出すことそのものには問題はない。難なくできる。いつも通りリングレットに静止の指示を声と身振りで行えばいいだけだ。問題はそれではなく、途中で指示を出すことを試験の採点者が許さないこと。

 つまりーー。


「気づくかれなきゃ指示を出してもいいんだ」


 要はそういうことだ。模擬試験の時までに指示なしの静止訓練は、間に合わない。しかし本番の試験ならば間に合う見込みがある。であれば、模擬試験はとにかく通過さえすればいい。

 悩むべきは『指示を出さずに静止させる方法』ではなく、『指示を出していることに気づかれない方法』をどうするかということなのだ。

 と、ここまでくれば打開策を見つけるのにさして時間は掛からなかった。大手を振って簡単だと喧伝することはできないが、届くはずもない十分をごまかすのには充分な方法が思いついた。

 翌日から静止訓練の方法を変えた。まず声と身振りで行っていた静止指示を身振りのみで行うように条件付けを変更した。この変更に要したのが五日、思いの外時間は掛かったが、それでも順調だと言えるだろう。そしてリングレットが身振りだけの静止指示に慣れた頃に、右手全体で出していた指示を今度は指一本での動作に切り替えた。これに慣れさせるために掛かった時間が同じく五日。合計十日経った後に、ようやくリングレットは指一本立てるだけで静止を行うようになった。

 その後はとても簡単だ。静止指示を出してしばらく経過した後に、組んだ腕の指を一本だけ立てる。リングレットの静止が解けそうになる度に握った拳から指を一本立てるだけでいい。組んでいる腕でのこと、試験の採点者がどれだけ近くにいようと気付かれる可能性はとても低い。

 種本先生より模擬試験についての話を受けてから二十日後、リングレットは指示なしで十分間静止している、かのように見せることができるようになった。

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