第10話 僕と服

 第三、嗅覚試験。

 犬の能力について語るときにまず外すことのできないのがこの嗅覚である、らしい。何せ犬と関わることなんて生まれて十数年皆無だったので、犬の鼻が人のそれよりも数段勝っているということを僕はリングレットと出会うまで知らなかった。

 リングレットの訓練を始めて三ヶ月が経った頃に嗅覚の分野へと訓練内容が写り、その際に巽から教えられたくらいである。

 模擬試験の内容は、三人の採点者が犬から離れた位置に立ち、犬には三人の内一人の私物を嗅がせる。そして三人の内からその私物の所有者を選ぶというものだ。

 複数の候補から匂いの元を探すような訓練はこの嗅覚分野の訓練でそれなりにやってきた。リングレットもさして不得手とはしていなかったので、問題はないだろう。

 巽と試験に則した訓練方法について話し、訓練の度に人を三人も用意するのは難儀なので、採点者の代わりに他人の服を用意することにした。

 指示を出すのが自分である以上、自分の服を使っては訓練にならないので、巽から借りた服以外に二人分、服を用意する必要がある。

 ここで僕のスペースにおける立場の話をすれば、服を借りることのできる友人が巽の他にいるかというと、残念ながらいない。もちろん、級友とは話くらいはするし、昼食時には談笑をしたりもするが、犬の訓練に使うから服を貸して欲しいと言って二つ返事で貸してくれるような人はいない。

 大抵は課外活動の仲間内で集団を作っているのがスペースにおける人間関係の常なのだ。その中で課外活動に参加せずに何の因果か犬の訓練なんぞをやっている僕と巽は、嫌な意味で特別な立場である。

 つまり、嗅覚試験の訓練に服を用いるためには、僕は巽以外の二人分、巽は僕以外の二人分の服を調達しなければならない。

 とりあえず思いついた先からお願いしようと思い、丁度実験の手伝いをさせられていた時に、司に言ってみた。

 訓練云々の説明は面倒だったので、服を二着程貸してくれとだけ言ったら、司は見たこともないような冷たい顔で、


「また業の深そうな分野に目覚めたね。おねーさんとしては悲しいなぁ」

 と言っていた。たぶん何か勘違いしている。


 更に司は続けて言う。


「それともそれは今ここで脱げという話?」


 そんな大きさのねじ締めがこの世にあったのかという工具を手に、司が問いかけてくる。聞きようによっては艶めかしくもあるはずのその言葉も、僕は恐怖しか感じなかった。反対の手に持つ木槌がただただ恐ろしい。

 そこでようやく僕は説明不足に気が付き、模擬試験について一通り司に説明した。


「成る程、わかった。だったら白衣を持っていっていいよ」


 司の指さす服掛けには白衣が十着程掛かっており、確かに数着持っていく分には問題なさそうだった。

 しかしーー。


「司以外の匂いが染み着き過ぎてるな」


「そうかな」


「ほら、こっちのはアルコール系が強いし、こっちのは顔料の香りがする。さすがにこう違うと訓練として難易度が高すぎる」


「えー、私にはわからないけど」


「司は嗅ぎ慣れてて鼻が麻痺してるんだよ」


 白衣を嗅いで首を傾げる司に僕はそう言った。司はいまいち納得していなかったようだが、


「まあそれならこっちでいいかな」

 と言って、薄手の肌着を四枚貸してくれた。


「二枚で充分だよ、あんまり持っていくと司の着る分がなくなるだろ」


「どうせ巽も同じことしなきゃいけないんだから、渡してあげてよ」


「ああ、そうか・・・・・・。」


 巽にも貸すのか。となると、司の服を巽がしばらく持っていることになるのか。

ふーん。


「何か問題あるの?」


「いや、ちょっと引っかかるというか。何だろうな、わかんないや」


 もやっとするというか。わからないが巽に渡すのに抵抗があるようなないような。

 まあいいや。


「ありがたくお借りします」


「どうぞご自由に」


 ともあれこれで一人分。後はもう一人分をなんとかしなくては。

 種本先生にお願いするという手もあるが、僕としてはあの人が問題なく渡してくれるとはいまいち思えない。というか服の予備なんて持ってなさそうだし。一回家に戻って父の服でも持ち出そうか・・・。しかし寮生活の僕が休日以外に宇宙局から家に帰ろうとすれば面倒な手続きをいくつか挟まなければならない。嗅覚以外にも身体、従順の訓練を平行して行っている以上時間はあまり無駄にはしたくないのだけれど。

 とそこまで考えて思い至った。そういえば父は不意に泊まりで仕事を命じられたときや、家に帰れないときのために仕事場に何着か服を置いていたはずである。わざわざ家まで帰らなくとも宇宙局の仕事場に行けば借りられるかもしれない。

 父の仕事場に踏みいるのは些か気が引けるが、犬の訓練は父から命じられたことだ。そのために少し邪魔するくらいなら問題ないだろう。

 そう決めて父の統括する部門が入っている棟へ向かう。研究棟が立ち並ぶ一角、近くの事務棟とも連絡通路の通っているものが父の職場だ。


「あれ、でも父さんどこの部屋にいるんだっけ?」


 建物に入って一歩、当たり前のことを忘れていた。入り口に案内図はあるが、どの部屋に父がいるのかはわかるはずもない。

 しばらく入り口で立ち止まる僕。

 無駄だな。


「適当に歩けばどこかには父さんがいるだろ」


 楽観的に考えるようにしよう。この棟の部屋数はさすがというか結構な数があるが、その多くが実験や研究を行う部屋として表示されていた。父が今まさにどこにいるかはわからなくとも、少なくても執務を行う部屋がどこかにはあるはずだ。

 そう判断して、下から適当に部屋を回り、人がいれば父の居所を尋ねるという方針に決めた。

 一階は全てが実験室で、それ以外は倉庫になっていたのであまり詳細を調べずに二階へと上がる。確か案内図には二階の奥に一つ執務室が記載されていたはずだ。

 階段からその部屋へと歩いていると、部屋名の記載されていない所に扉があった。


「あれ?」


 案内図では見落としていたのだろうか。扉は施錠されておらず、取っ手を捻ると鈍い音と共に開いた。部屋の中は暗闇で包まれており、廊下側には壁しかない。そういえば扉にも覗き窓のようなものはなかった。後ろ手に扉を閉め、中に入る。屋外に面した壁を見ると窓が一つもなく、空気の取り入れ口すら見あたらなかった。

 何だこの部屋は。

 しばらくして目が慣れると、部屋の至る所に電子機材が並べてあるのがわかった。スペースでは見たこともないような解析機器と記録装置。しかしそれら全てが一つの付属品であることは間違いない。

 部屋の端に鎮座する円錐状の何か。あえて言うのなら、前に一度だけ父と行った野宿の際に使用した天幕に近い。しかしそれと明らかに違うのは、表面の質感がどう見ても無骨な金属のそれであることだ。

 触れてみる。

 とても冷たくそして重みを感じるものだった。手の甲で叩くと小さく反響音が聞こえた。中が空洞なのだろうか。


「あれは・・・。」


 その円錐の頂点、三角の終点に何か書いてある。四角い赤字に黄色い模様。船の碇にも似た記号。もう少し目が慣れればはっきりとーー。


「おい!そこで何をしている!」


「ーーっ!」


 不意に背後から声をかけられた。扉が開いており、廊下の光が部屋に差し込んでいる。暗い部屋に慣れ始めていたところなので、急激な明暗の変化に対応できず、視界が白く染まる。

 入ってはいけない場所だったのだろうか。いや、それ以前にこの建物を僕がうろつくこと自体あまり歓迎されたことではないのだ。

 とにかく何か言わなくては。


「す、すみません。この棟で働く父を探していたところでーーあれ?」


 言いつつ気付いた。光に慣れ、見覚えのある顔が目に映っている。


「櫂季か、何をしにここへ来た」


「なんだ、父さんか」


「なんだじゃない、とりあえず廊下に出るんだ」


 あ、すっげー怒ってる。

 こんな時は何を言っても火に油だ。大人しく父について廊下に出た。


「櫂季、何をしに来たんだ。いくら犬の訓練で研究棟の敷地に立ち入れるよになったとは言っても、目的外の所を歩き回るのは関心しないぞ」


「父さんに用があって」


「どんな用だ」


「リングレットの訓練で、他人の服が必要になったから、父さんの服を借りようと思って。ほら、宿泊用とかで置いてたでしょ」


「なるほどな。嗅覚試験の訓練か」


「そうそう。だから借りたいんだけど」


「そういう用件なら寄り道をせずに来なさい」


「う・・・はい」


 ついてきなさい、そう言って父は廊下を歩き始めた。僕は何も言わず父に付いて廊下を歩く。二階奥の執務室は父の机がある場所だったらしく、廊下前で待っていると父が服を数着持ってきた。


「櫂季、これで足りるか」


「うん、ありがとう」


 ばつの悪い気持ちのまま階段へ向かおうとしたが、やはりあの部屋がどうしても気になった。父の方は向かず、声だけで訊く。


「あのさ、さっきの部屋ってーー。」


「忘れるんだ」


「ーー。」


 雰囲気から察するに細かな話しまで聞けるとは思っていなかったけれど。これほどか。

 それは拒絶にも近い声だった。冷たいというよりは温度の一切が感じられない無機質なもの。本当に父から出た声なのかと思わず振り向いたが、そこにいるのはやはり父だった。


「忘れるんだ」


 再度、今度は諭すように言う。冷たい暖かさのある言葉で。これ以上は訊くだけ無駄だということは十二分にわかった。

 僕は何も言わず、ただ頷いてその場を後にする。

 気になりはする、というか大いに気にかかるが、とりあえずの目的は果たせたのだ。それに僕には他を気にかけるだけの余裕はない。今はリングレットの試験対策に集中しなければ。

 服を持ってリングレットのいる飼育部屋へ戻ると、巽が僕を待っていた。


「遅いですよ櫂季」


「何だよ、ムドリェーツの訓練はしないのか?」


「櫂季から服を受け取ったら始めますよ」


「僕の服は貸しただろ」


「ええ。でも司さんのはまだお借りしてませんよ」


「何のことかなー。わっかんないなー」


「いいですから、とぼけなくても」


 巽は苛立ちつつ僕の荷物に手を伸ばす。

 鞄の中には確かに司から借りた服が巽の分も入ってはいるのだけれど。

 なんか渡したくない。

 伸ばしてきた手を僕は反射的に弾いた。


「・・・櫂季、あなた」


 あ、やばい。ご立腹だ。


「いや、いやいや、確かに司から服は借りたけれど、あくまでこれは僕が借りた分だからさ。借りたいなら巽も司のところに行けばいいじゃないか」


「司さんなら櫂季が行って事情を説明した時点で私の分も用意して下さっているはずです。二度もお手を煩わせるわけにはいきませんので」


「それは巽の予想だろ。この中にお前の分も入ってるとは限らないじゃないか」


「だったら鞄を見せてくださいよ。私の予想では二人併せて四着分入っているはずですから」


 見てもいないのによくわかるなこいつは。

 しかし一度拒否した手前、引き下がるのはばつが悪い。


「とにかく断る」


「いいから見せなさい。というか櫂季の分を残して渡しなさい」


「なんか嫌だ」


「ついに隠す気もなくなりましたね」


 右に左にと避けながら、お互いの距離を縮めたり保ったりしながら攻防すること約五分。体格と自力の差で僕が角に追いつめられた。

 畜生、リングレットの訓練を始めてからそれなりに鍛えていたつもりだったけれど、しかし考えてみれば巽も同じことを積み上げているんだ。持久戦以外じゃまだ無理か。

 息も絶え絶えにそれでも逃げ道を探していると巽は呆れたように一つ息を吐いた。


「櫂季、あなたはその行動の理由をわかってやっているのですか。いえ、断言しますが何もわかっちゃいないのでしょうね」


「・・・なんだよ。もっとわかりやすく言えよ」


「こうして私が櫂季を追いつめてはいますが、実の所私と櫂季にさほど能力差があるというわけではないのですよ」


 業腹ながら、と巽は言った。

 僕にはまったく巽の言わんとすることがわからない。


「ではなぜ結果に差が出るか。私はその理由が目的意識の差だと考えています」


 巽は僕を指さして哀れむような、呆れるような顔をする。


「櫂季には自覚が足りない。目的に対する熱量が足りない。思いに関する信念が足りない」


「だからわかりやすく言えって」


「嫌ですよ。そのままならそのままで私にとっては有利ですからね」


 巽はそのまま一歩近づき、僕の鞄から衣服を二着引き抜いた。


「確かに、お借りしましたよ。ではお互い訓練を頑張りましょう」


 そう言って颯爽と去っていった。


「なにを言いたかったんだよあいつは」


 自覚って、なにを自覚すりゃいいのさ。僕と巽の違いか、それともリングレットとムドリェーツの違いか。そうじゃないとしたら、司に対する何かだろうか。

 わからない、もやもやしたままだ。

 そしてそのまま僕はしばらくその場で見つからない答えを探し続けたのだった。少しの時間だったけれど。具体的には、巽が僕の鞄から引き抜いた服が司のではなく僕の父の服だと気付いて戻ってくるまでのわずかな間。

 わけの分からない問答でもやもやしていた頭は、ばつの悪そうに中年の服を抱えて戻ってきた巽を見てすっきりした。

 そこからようやくリングレットの嗅覚訓練に入ったわけだが、これはすこぶる順調であった。訓練の前準備に比べればよほど簡単であったと言えるだろう。

 匂いを嗅がせて、同じ匂いのものを複数の似た形のものから選択するという訓練をしたところ、二週間も掛からない内にリングレットはそれを覚えた。候補をどれだけ増やしても、匂いのきついものを混ぜたとしても正解を掴むことができるようにもなった。さすがにその頃になれば模擬試験は間近であったが、身体と従順の訓練に関しても問題なく仕上がっていたので、あとは個々の試験をより正確に行えるよう練度を高めるだけである。

 一つ不安要素があるとすれば、リングレットには噛み癖とまでは言わないにしても、ものをくわえる癖があることくらいだろうか。

 嗅覚試験を例に取れば、まず元となる衣服の匂いを嗅ぐときに一度口に咥える。そしてその衣服と同じ匂いを持つ衣服を選ばせるのだが、選ぶ際にも一噛みしている。

 思い返してみれば新しい人やものに接する時はよく咥えていたし、嗅覚訓練の際も最初に元となる匂いを嗅ぐ時や正解を探しているときによく服を咥えていた。

 強く噛むわけではなく、感覚としては口に含むようなものなので、怪我や破損の心配はないのだけれど、試験の際にもしも採点者を噛むようなことがあれば結果に響くだろう。噛み癖に気付いた頃から、手振りと犬笛で噛むのを禁ずる訓練はしてきたので、いざとなれば僕の指示でやめさせることはできる。しかし注意しておくに越したことはない。

 逆に言えば不安要素らしい不安要素はそれくらいであり、自画自賛のようで気が引けるが、客観的に見ても優秀な犬としてリングレットは仕上がっているように思えた。

 

 そしてようやく、リングレットの訓練開始から換算すれば十ヶ月の期間を経て、僕とリングレットは採点されることとなったのだ。

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