第11話 僕と控室

 試験当日、といっても模擬だ。今日は土曜日だったが家には帰っていない。模擬試験そのものは午後三時から行われるので時間的に余裕はあったのだが、家に戻るよりも訓練のおさらいをしておきたかった。

 実際のところ、今日に限らずリングレットの訓練を始めてからの十ヶ月間はほとんど家に帰っていない。平日の寮生活は当然ながら、休日の帰宅可能日もほとんど訓練と司の実験に時間を割いていたからだ。家に帰ったところでさしてやることもないし、寮生活も慣れればそれで苦にならないので、家に帰る頻度が減ったところでさして弊害はなかった。充実していたといえばそれまでだろう。

 唯一、父と会話する機会が減ったのが気にかかるといえば気にかかるのだが。それでも、もとからお互い喋る頻度の少ない二人だったので、たまの会話で事足りると言えなくもない。

 ともあれ、そんなことでこの土曜日も家に帰ることはなくリングレットの訓練を行っていた。あまり炎天下で動き続けても本番に支障が出ると思い、朝から始めた訓練を昼前には切り上げた。離れた場所で同様に試験項目の復習を行っていた巽も戻ってくる。


「どうだ巽、ムドリェーツの仕上がりは」


 この問いかけももう何度したことか。


「まずまずと言ったところでしょうか。その様子ですと櫂季とリングレットには問題はなさそうですね」


「一応な。とりあえず今日を乗り越える分には不安はないね」

 と、言ってみるが実の所嘘だ。

 

 いや、嘘という程のものではない。実際不安はない。ただ、よくよく気を張るらなければならない項目があるというだけだ。

 今日の要は従順試験だ。静止の指示を違和感なく出すことができるか、またそれを採点者達に気付かれないか。ここさえ乗り越えれば問題はない。幸いにして指示なしの状態でも五分は持つようになった。最悪の場合、十分の内後半の五分は指示を出せなくてもなんとか誤魔化せるだろう。


「そう言えば、今日は司さんはこちらにいらしているのでしょうか」


 巽が研究棟の立ち並ぶ方向を見ながら言う。


「きっと来てるだろうな。休みの日はいつも例の部屋で実験してるし。といっても、宇宙局の敷地内にいるってだけで、模擬試験をわざわざ見に来たりはしないだろうけどさ」


「そうでしょうか。愚鈍極まる櫂季は気付いてらっしゃらないかもしれませんが、司さんはあれで私達を気にかけてくださってますよ」


「愚鈍とかいちいち言わなくていいから。それに司が僕らを気にかけてるって?ないない、そんなこと。司にはそんな些事に時間を使いはしないさ」


「はぁぁぁ」


 僕の言葉に巽は呆れたと言わんばかりに苦笑する。

 なんだその顔。


「まあ櫂季がそう思うのは勝手ですけどね。私にとっては利益しかないわけですし」


「随分と含んだ言い方をするじゃないか」


「もちろん、その方がおもしろいですから」


 言いながら巽が浮かべた表情はあからさまに僕を馬鹿にしていた。


「はぁ、まあいいや。巽、時間も時間だし、昼食にしよう」


「そうですね。腹が減っては戦ができぬといいますし」


「半分ロシア人の巽がそれを言うのか」


 僕らは雑談をしつつ寮の食堂へと足を運んだ。

 休日は多くの寮生が家に帰宅しているが、島の外からきてスペースで寮生活している人たちはその限りではない。ましてや僕や巽のように島に家があっても帰宅しない者もいる。スペースの食堂はいつもよりは人が減っているがそれでもそれなりに盛況だった。

 食堂に入ってまずはぐるりと席を見渡す。平日は着席位置が学年毎に決まっているが、休日は自由である。できるだけ空いている場所はないかと探してみると、角に一人だけ座っている机があった。


「あれ、っていうか」


「司さんじゃないですか」


 僕と巽が同時に見つける。

 白衣を着て妙にばらけた髪型でもそもそと蕎麦を啜っているその姿は、どう見ても司だった。


「よう、司」


「やあやあ、櫂季に巽」


 返事をしつつ蕎麦を啜る手は止めない。行儀の悪いやつだ。


「珍しいな。司とここで会うなんて」


「確かにいつもは研究棟の社員食堂で食べてるけど、今日はこっちの気分なんだよねー」


「いや、そうじゃなくて、昼食の時間に司がちゃんと昼食を取っているのがだよ」


 休日の司は、腹が減った時に減っただけ食べるという生活をしているのだ。しかも実験中は空腹に気付かないものだから、いつも大食いをしてはお腹を減らすという繰り返しだ。


「なにかありましたか?気分を変えるようなことでも」


「ーーうーん、なんだろう」


 巽の言葉に司はとぼけた返答をする。

 司はただの気分で行動するやつだ。理由を訊いたところで、仮にそれらしい答えが返ってきたとしても僕達にはてんでわからないものだろう。問うだけ無駄だ。

 僕は自分の昼食を買いに厨房の受付へ向かった。

 休日の食堂は二通りの献立から好きなものを選べる。運動部は更に別料金を追加して栄養の高い献立を頼むらしいが、さすがに僕達はそこまではしない。今日の献立は蕎麦定食と丼定食の二つだった。

ということは、司が食べていたのは蕎麦定食か。

僕も司と同じものを頼もうかとも考えたが、丼定食の主食はカツ丼だったので考え直す。

ここは一応、縁起を担いでおくのもいいかもしれない。リングレットの仕上がりも完璧とは言い難いし、心持としても何かの後押しを得たい気分だ。


「よし、丼定食にしよう。すいませーん」


「はいよ」


 机越しに受付のおばさんが元気よく返事をする。


「丼定食をお願いします」


「ああー、ごめんね。丼定食はもうないのよ。若い子はやっぱりお米の方が好きなのかねぇ。悪いんだけど蕎麦定食で我慢してね」


「あ・・・はい」


 出鼻を思い切り挫かれた気分だ。この先の行く末に高い壁が見える。

 気を取り直してまあそれでも食事は食事だと思い司の元に戻る。巽はまだ司と雑談をしていた。


「巽、昼食の時間終わっちゃうぞ」


「え?ああ、そうですね。つい楽しくて。では私も献立を選んできます」


「ちなみに蕎麦定食しか残ってなかったからな。僕は丼定食が食べたかったのに」


「そうですか──え?蕎麦定食だけ、ですか?」


 巽が疑うように僕を見る。


「そうだよ」


「では、それは何ですか?」


 巽が僕の器を指差した。

 何って──あれ?

 僕の器には司が啜っているような細く長い麺は入っていなかった。代わりに太くて短い麺が──。


「うどんだこれ」


「やっぱり、うどんですよね。私はちゃんと蕎麦を貰ってきます」


 巽はそう言って笑いながら受付へ向かって行った。

 何故だ、どうして僕だけうどんが提供されているんだ?ありえるだろうか、蕎麦の中に紛れるうどん。

 啜ってみると、蕎麦用の味付けなのでうどんの中にまでは味が染みておらず、酷い口当たりになっている。

 出鼻、へし折られた気分だ。壁しか見えねえ。


「あらら、なんだか空回りしてる雰囲気」


 蕎麦を啜りながら(食べるのが遅すぎて伸びきっている)司は呟いた。


「空回りしてるのかな。でも大丈夫だ、模擬試験くらい僕ならどうとでもなる」


「やるのは櫂季だけじゃないでしょうに」


「ああ、もちろん。巽も試験項目をこなせるだけの訓練はしてきたよ」


「・・・そう」


 そのとき、司の顔がわずかに翳ったように見えた。


「司、どうかしたのか」


「ううん。どうもしないよ。そっかって思っただけだから」


「なんだそりゃ?」


「なんだろうね、なんだろうな」


 また意味わからないことを言って、司は蕎麦を啜る作業に没頭し始めた。

 巽が戻ってくるまでに何度か真意を探ろうとしたけれど、案の定僕にはとんと理解できないのだった。

 そして昼食を終えて二時間後、真夏の炎天下、訓練場の広場を使って模擬試験は行われる。


 *


 模擬試験開始時間の半刻ほど前に試験会場である訓練場に戻ったところ、既に他の訓練者は揃っていた。訓練者は各々三頭ずつ犬を引き連れている。十ヶ月前、種本先生から最初に説明を聞いたとおりだ。本職が研究者の人たちなのであまり体格の良い人はいなかったが、それでも三頭を従えている姿を見るに気おされるものがあった。その大人達が六人。そして僕と巽を合わせて合計八人が今日まで犬の訓練を行ってきた者たちである。

 巽を除く六人の訓練者達とはあまり会話をしたことがない。僕と巽がスペースで通常の講義を受けている間に犬の訓練を行っていることが多く、夕刻になれば本職である研究員として各々が研究棟で仕事をしているからだ。何度が飼育部屋ですれ違った際に挨拶したくらいである。といっても、巽は僕と違い何人かと親しく話しているのを見たことがある。考えたくはないが、単に僕の社交性が低いだけかもしれない。

 それにしても、これだけの数犬が並ぶと中々に壮観だ。全頭犬種が異なるのかと思っていたが、よく見ると似たような外見の犬同士も何組かある。だいたいが同じ訓練者の近くに座っているので、人によって訓練しやすい犬種を選んで固めたのだろう。

 しかしその中にリングレットやムドリェーツと同じ犬種はいなかった。少数だったが故にこいつらは選ばれなかったのだろうか。その可能性は充分にありそうだ。僕だって複数頭訓練を付けなきゃいけないのなら、似た犬種を集めるだろう。効率的に優秀な犬を選ぶにもそれは利点があるのだから。


「利発そうな犬が多いな。それとも、他の人から見ればリングレットも利発そうに見えているんだろうか」


 傍らのリングレットに目を落とす。


 僕の担当犬は自分の尻尾を追い回してた。


「・・・・・・。」


 頼むから今だけでもしゃんとしてくれよ。ほんと、頼むから。


「はぁ──あれ」


 リングレットから正面に顔を戻して僕は驚いた。

 僕と巽を含めた訓練者全員が整列している前に、乾四季室長ーーつまりは僕の父が立っていた。

 気付けば訓練者全員の空気が張り付いたものに変わっている。

 父は拡声器を持ち、一つ咳払いをしてからしゃべり始める。僕と話す時とは違う、重く分厚い声で。


「まず、諸兄にはこの場で礼を言いたい。今日まで本来の職務から考えればわき道とも言える業務を行ってくれたこと、感謝に堪えない。もちろん、二人の若者にも」


 ちらりと、父は僕と巽に目線を送る。しかし僕と目が合うと何故かすぐさま視線を逸らした。


「一ヶ月後の選出試験が終われば諸兄等は元の職務に専念することになるが、この一年弱で得た経験をその後も活かしてくれることを私は切に願う。今日は一ヶ月後に向けた模擬試験だ。殊更厳しく扱うつもりはまったくないが、選出試験へ出すにふさわしくないと判断すればその限りではないことを肝に銘じてもらいたい」

 では奮起を期待する、そう言って父は拡声器を下ろした。父に変わるように別の研究員が僕らの前に立ち、父は採点者達が並ぶ天幕へと戻った。戻るときには一度もこちらに目を向けなかった。


「我が父親ながら慈悲のない。息子の激励くらいしてくれたっていいだろうにさ」


「依怙贔屓はできないでしょう、お父上の立場からすれば。私達がここに参加しているだけで、スペースの生徒から見れば相当の特別扱いですし」


「嬉しくない特別もあったもんだ」


 模擬試験の内容を話している研究員に気付かれないように小声で巽と話をする。


「贔屓されたらされたで櫂季は不満を感じるでしょうに」


「そんなことは・・・・・・・・・まあ、あるな」


「でしょ」


 一通り説明が終わると僕達は控えの天幕へと移動させられる。試験項目に関しては大きな変更はなかった、と思う。話半分で聞いていたのでうろ覚えだが、僕の順番は最初ではないから大丈夫だろう。

 犬たちは一度飼育部屋に戻され、試験の順が回ってきたら連れてこられるということだ。訓練担当の僕達は呼び出されるまで自分の担当する犬には触れることができない。

 日差しが緩む気配のない中、陽炎も見えようかという訓練場に最初に試験を受ける訓練者が出てきた。少し離れた場所にある天幕の中にその訓練者の担当する三頭の犬が連れてこられる。

 訓練者が一声呼び、その中の一頭が訓練者のもとへと駆ける。訓練者は呼んだ一頭が自分の横に座ると、片手で軽く撫でた。その後に天幕にいる二頭を見る。

 なぜだろう、僕にはそのとき訓練者がとても申し訳なさそうな顔をしたように見えた。


「・・・・・・?」


「どうかしましたか、櫂季?」


「いや、なんでもない」


 気のせいだろう──このときはそう思った。

 笛が鳴り、訓練者は犬と共に走り始める。訓練場の一部を使った一周総距離四百メートル、途中に障害物多数の道を行く。途中には犬だけに用意された障害物や訓練者のみが乗り越えなければいけない障害物もある。始めてから一周するまでは犬に触れることは許されておらず、またお互いの距離が三メートル以上離れても失権となる。

 最初の訓練者は途切れることなく障害物を通過していった。


「三分か」


 掲示されている時計を見て、訓練者が終点へ至るまでに使用したおおよその時間を把握する。

 規定されている制限時間は五分。これは早いのかそれとも──。


「これが一つの基準になりますね」


「巽は超えられるか?今の記録」


「どうでしょう。惚けてるのではなく本当にわかりませんね、実際に走ってみないことには。それに、今日は好記録を出す必要はないわけですし」


「なんでだ?」


「おや、櫂季はお忘れですか。今日はあくまで模擬試験ですよ」


 最低限こなせれば一ヵ月後の本番試験には参加できる。そう考えれば確かにここで無理をする必要はない。焦って規定を違反するくらいなら五分以内に一周することだけを目指したほうがいい。

 巽のその意見は確かに正論で、そしてつまらないものだった。少なくとも僕はそう感じた。

 この辺、僕と巽の価値観の違いというものなのだろう。二人とも同じように大人たちに負けたくないと感じながらも、巽は最後に勝っていればいいと考え、僕は途中経過でも先頭に立っていたいと考える。目指す終わりは一緒でも、その過程はずれている。


「僕は、本気で行くよ。巽のように出し惜しみはしない。記録を打ち出した上で本番試験に望む」


「私だって出し惜しみをするつもりは毛頭ないのですけれど」


 不満げに巽は言う。


「あのですね櫂季、私が言いたいのは、模擬試験通過のみを目的とすることと、最優秀で通過することも望むのでは、後者の孕む危険性が前者よりも遥かに大きいものになるということです」


「わかってるさ、そのくらい」


 わかった上で、僕はそれでも後者を選びたいのだ。その危険性もわかった上で。

 それはきっと、変えられない性分というやつなのだ。

 だから、ああそうか──。


「出し惜しみってのは確かに間違った言い方だったな。ごめん。巽は巽のやり方でやりゃいいさ」


「急に上から目線で納得されても、私としてはそれはそれで不満なんですけどね。この数秒で櫂季にどんな変化がおきたんですかまったく」


 苦笑し、呆れたようにため息をついた。

 そうこうしているうちに最初の訓練者は一通りの試験を終えていた。僕はてっきり訓練者はそのままで二頭目の試験が始まるのかと思っていたのだけれど、訓練者は天幕へと戻ってきた。彼の担当する犬も三頭とも飼育部屋に戻される。


「あれ、同じ訓練者で続けてやらないのか」


「どういうことですか?」


「いや、二頭目も続けてやるのかと思ってたからさ」


「そうか、櫂季は知らないのですね」


「僕が何を知らないんだ?」


「先週、親しくさせていただいている訓練者の方から聞いたのですが、一人の訓練者につき、試験に出せる犬は一頭のみらしいのです」


「一頭のみって、訓練者一人につき担当する犬は三頭だろ。僕と巽は例外としても、残る二頭はどうするんだ」


 自分でも答えがわかっていることを僕は巽に訊く。


「選外ということになりますね」


 選外、選考外。選択肢の外。

候補にすら挙がれないということだ。審査すらしてもらえないということだ。

それは他人事であっても辛い。


「そうなのか。だったら、少なくとも無条件で試験を受けられるリングレットとムドリェーツはある意味幸運に恵まれてるのかもしれないな」


「皮肉ですけどね。選ばれなかった結果として、選ばれた犬よりも先に進んでいるなんて」


 そこで巽はふと首を傾げた。


「しかし、気になりますね」


「なにがだ」


「先週見ていた限りでは、最初の訓練者に最も懐いていたのはあの犬ではなかったように思うのです。今出ている訓練者もそうです。連れ立っている犬ではなく、あの天幕で待機している犬の方が懐いていたような」


「ふむ。でも懐いているからといって従順かどうかは別の話だろ。確か巽の祖父さんからもらった資料にもそんなこと書いてあったぞ」


 懐きすぎると上下関係に支障が出る場合があるとかなんとか。リングレットの場合は気にしなくていいだろうと思ってあまり深く読み込んではいなかったけれど。


「はい、それもそうなのですが。そうですね、犬が懐いていること以上に、訓練者の方が可愛がっていたようにも見えたのです。しかしその犬は今試験を受けていない」


「気に入った犬を選ばなかった・・・・・・・・・単に能力の問題じゃないのか」


「そうですね。櫂季の言うとおりだとは思います。それが納得できる考え方ですし」


 その言い方には、納得できるけど妾腹しかねるという裏の意味が見て取れた。

 確かに釈然とはしないが、しかし。


「そんなの気にしてる場合じゃないな」


「え?」


「巽の出番だろ」


「あ!」


 自分の出番が次であることを失念していたようで、巽は慌てて靴紐を結びなおす。


「巽はほどほどに頑張るんだろ」


「そうですよ。誰かさんとは違いますから」


 言って、巽は訓練場へと駆け出した。大人たちの視線が集まる中、炎天下に巽は躍り出る。

 視線よりも緊張よりも、太陽光が一番の敵だろう。

巽が訓練場に躍り出ると、他の訓練者と同様に巽の担当犬が天幕の下につれてこられた。当然僕らは一頭しか担当していないので、つれてこられた犬を選ぶ必要はない。巽は手を軽く振り、ムドリェーツを呼んだ。

 淀みない動きでムドリェーツは巽の元へと駆ける。巽がそれを見て右手を腰の位置につけると、ムドリェーツはあらかじめ動きを決められていた工作機械のように、巽の右側に収まった。

 リングレットよりも動きに迷いが見られない。初めて訓練を受けた犬としてムドリェーツを見た最初の感想がそれだ。

 僕と巽は訓練内容こそ共有していたが、全く同じ訓練を一緒にやってきたわけではない。お互いの担当犬は犬種が異なるのだから当然に特性が違う。ムドリェーツにできることをリングレットは苦労し、リングレットがものともしないものにムドリェーツが難儀する。飼い主の順位付けという意味を差し置いても、一緒に訓練を行う利点はあまりなかったのだ。

 だから、訓練の内容をちゃんと身に付けているムドリェーツを見るのはこれが初めてだ。

 巽に対する贔屓目もあるのかもしれないが、それを置いてもムドリェーツの自然な振る舞いは他の犬を越えるものがある。

 あまり心配はしていなかったけれど、そんな余裕がないことを僕は実感する。そして同時に、どんな結果を出してくれるだろうと僕は心の隅で期待する。

 笛が鳴る。他の訓練者と同様に、巽も最初の試験に取りかかる。

 しかし何となしに期待していたほどには、巽の走り抜ける速度は速くなかった。なんて言うか、普通。別段他の訓練者に明らかに劣ると言うわけではないが、しかし確実に巽の前に走った誰よりも遅い。強い日差しのせいだろうかとも思ったが、障害物があるとはいえ、この程度の距離で巽がばてるほど今年の夏は猛暑ではない。


「全力で走ってないなあれ」


 結論としてはそうなる。

 まるで一つ一つの障害を吟味しているかのようにしっかりと丁寧に乗り越えていた。それでも一周して到着するまでの時間はきっちりと規程内に納めているのだから、抜け目のないやつである。

 ムドリェーツとの連携にも滞りはなかったようで、一人と一頭は寸分の狂いもなく同時に到着していた。

 休む間もなく従順試験に移る。僕とリングレットが苦労した静止項目を巽とムドリェーツはまずまずの評価で終わらせた。いや、実際に僕が評価を付けるわけではないので、まずまずの評価だったのかどうかはわからないけれど。それでも他の訓練者よりも静止におけるムドリェーツの挙動は(挙動を起こさないという挙動は)頭一つ分抜けていたと言っていいだろう。途中でムドリェーツがくしゃみをするまでは、彫刻かと見間違うほどに完璧だったのだから。

 とはいっても、巽としては次の偽薬を飲む試験の方が重要だろう。ムドリェーツは静止に関しては初めからそれなりにこなせていたということだが、この偽薬試験はそうではない。

 巽がムドリェーツの前に器を設置し、その中に偽薬を混ぜこんだ簡易的な食事を注ぐ。試験項目の変更点として、偽薬をそのまま食べさせるか、それとも食事に混ぜて飲ませるかを選択できるようになった。当然偽薬単体を飲ませることができれば得られる評価も高いことになるが、犬が頑として拒否すれば評価は最低なものになる。従順試験は静止と偽薬の二つで最終的な評価が決められるので、仮に偽薬試験を失敗したとしてもそれで即刻選考外という判断は下されないのだけれど。それでもやはり今までの訓練者は全員飲食物に混ぜて飲ませていた。一人だけ、担当犬が何度も吐き出すので四苦八苦していたものだ。

 ムドリェーツは目の前にある食事を鼻を鳴らしながら嗅ぐ。何か違和感でも見つけたのだろうか。巽はあまり食いつきのよくないムドリェーツを見かねてか、器の中身を口に入れろと指示を出す。ようやくムドリェーツは器に口を突っ込み、一息に平らげた。一瞬ムドリェーツの顔に不快な気持ちがにじみ出たのは気のせいではないだろう。まるで食堂で嫌いな納豆を食す巽のような表情だった。

 犬は飼い主に似ると聞くが、もしかしたらそれと同じよなものかもしれない。

 ともあれ、ムドリェーツが口から何も吐き出さない所を見ると、偽薬試験も終わらせたようである。続いて嗅覚試験に入るのだが、結論から言うと僕は巽のそれを見損ねた。


「・・・痛い、なんだ?」


 後頭部に小さな痛みが連続で発生している。振り返ると頬に小石が当たった。

 さすがに大人が僕に石を投げることはないだろうと天幕の外を見ると、案の定、少し離れた場所に見知った顔があった。


「司、なんでそこに」


 とりあえず天幕から出て司に近づく。昼食のときと同じように白衣で司はそこにいた。


「櫂季、試験はどう?」


「いや、僕はまだ順番が来てないんだけど、ああ、丁度今巽が試験受けてる」


「そっか」


 司はちらと訓練場に目をやったが、天幕との位置関係でここからじゃ巽の姿は見えない。


「まあ巽なら大丈夫かな」


 司はそう呟いた。


「どうしたんだ、まさか司が応援にきてくれたのか?」


「どうだろう。応援というよりは確認というか。直感?」


 いや、首を傾げられても。司がどういうつもりかなんて僕にわかるわけないだろう。なんだ直感って、なにを感じた。


「まあいいや。どう、櫂季のリングレットは順調?」


「ほどほどにな。懸念項目があるから、今日の試験はなんとかこなせるだろう、というところだけど」


 もちろん懸念項目とは静止試験のことだ。結局作戦で誤魔化すことにはしたが、それが上手く働くかどうかは一か八かといったきらいがある。

 しかし司の訊きたかったことはそうではないらしい。


「試験はそうだろうけど、試験以外のことは見てる?」


「試験以外のこと?」


「そうだよ。櫂季が相手にしているもの」


「僕の相手・・・。」


 それはつまり、競争相手である巽のことだろうか。であればちゃんと見ている。今日までの訓練内容も、現状の仕上がりも、余すところ無く注目している。

 それとも、見返すと決めた大人達のことを言っているのだろうか。期待はしないと明に暗に言われたことを、僕と巽は未だに覚えている。

そうだとしても、僕はちゃんと相手を見ている。試験においてとびきりの成績をだすことが、見返すことになるとい信じているからだ。

 そう司に伝えると、


「うーん、そっか櫂季はうん、そうか」


 納得したような、それでいて承伏しかねるような声で司は相づちを打つ。そして、


「まあいいか」

 と諦めたかのように言った。


「なんだよ司。言いたいことがあるのならーー。」


「いや、言ってもわからないでしょ。これは櫂季が気付くことだよ」


 僕の言葉を遮って司は説いた。僕にはまるでわからないことを。


「釈然としないな」


 僕は口をとがらせて言う。

 わかっている。司に隠すつもりはないのだろう。何かをひた隠しにして笑うような下卑た趣味は司にはない。単純に、言ったところで意味のないことなのだ。問題は、そんな中途半端な言い方をされると普通の人間は気になって仕方がないということを司が理解できないことだ。

 誰もが司のようにきれいに頭を整理できるわけじゃない。しかしそれを言うのは不器用な自分を認めるだけのことで、


「結局情けないだけだな」


「・・・何が?」


「なんでもない。司とは無関係なことだよ」


「そう、ならいい」


 司が言うと同時に笛が鳴った。どうやら巽の試験が全て終わったようだ。

 ・・・・・・いや。

 終わったようだじゃない、終わったら次は僕の番じゃないか。


「すぐ出ないと!不戦敗なんてありえないぞ」


「いってらっしゃい」


 抑揚無く司は手を拭る。


「もうちょい端の方なら訓練所全体が見渡せるから、なんなら僕のを見ていってよ。直感が当たってたかどうかも含めて答え合わせすればいい」


「そうだね。でもこの日光は少し体にきついから、櫂季の試験は自分の研究室から見るよ」


 司は後方の建物を指さす。研究棟の五番棟、その二階に司の研究室はある。


「窓を開ければ見えるから」


「へえ、じゃあそうしてくれ」


 手を拭って僕は天幕に戻り、巽と入れ替わるように訓練場に出た。

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