第3話 僕と車

 宇宙局の敷地は広い。研究棟だけでも両手では足りないくらいの数が立ち並んでおり、執務用の建物や資料の保管庫、実験棟なども含めれば数えるのが馬鹿らしくなるくらいだ。その数ある建物のなかでも最北端に位置するのが僕たちが向かう場所だった。そこで二十頭、犬が管理されているらしい。

 あまりに敷地が広いので、移動距離によっては車が使用される。というか、今僕達はまさにその車の中だった。

 しかし車というのは何と仰々しいものだろう。四角の箱の中に人間を押し込めたと思えば、扉に錠をかけ、さらには搭乗者一人ひとりに拘束帯(父はシート何とかと言っていた)を着けさせる始末。窮屈で仕方がない。

 巽は通り過ぎる宇宙局の内部に興味津々といった様子で身を乗り出しており、僕は慣れない車の振動に何かこみ上げてきそうになっていた。そんな施設内移動用の車の中で父から一通りの説明を受ける。


「今日はこのように車両で移動しているが、明日以降は飼育小屋、つまり犬が管理されている場所までの移動は基本的に歩いてもらうことになる。車両は研究員の移動でかかりきりだし、宇宙局の端とはいえ、鍛えている二人ならばそう時間のかかる距離でもないだろう。訓練前の準備運動とでも思えばいい」


「準備運動?訓練するのは犬なんでしょ?」


 しゃべっている方が楽だと気づいたので、僕はとりあえず頭に浮かんだ疑問を訊いてみた。


「ん?ああ、なるほど」


 僕の疑問に父は合点がいったと頷く。


「櫂季は見たことないのか、犬の訓練というものを。あれは躾とは違う。教練に近いな。そこら辺、巽君はよく知っているんじゃないのか?」


「はい?──えっと・・・・・・・・・。」


 窓の外に釘付けの巽は車内の話が半分程頭から抜けていたらしく、急に振られて慌てる。

 父はもう一度訊く。


「犬の訓練に関しちゃ一家言あるだろう、巽君の家は。というか巽君のお父さんは、と言うべきか」


 巽の父というのは、つまりドイツ人である父親、バルク・グラフ氏のことだ。


「狩猟犬の飼育をしていたのは私の祖父であって、父ではありませんけど。しかし、確かにその道を選ばなかったとはいえ、父も祖父から一通りの指導は受けたそうですから、犬の訓練というものは父も把握していとは思います。その意味で言えば、はい、確かに一家言はあるのではないでしょうか」


「巽君は指導を受けてはいないのか」


「受けておりません。祖父は私にも教える気はあったようですが。なにぶん狩猟犬が相手ですから、私の体が大きくなるのを待っていたのですが、その前に私が日本に渡ってしまいました」


 そういえば、巽の身の上話は初めて聞いた。実際話を受けているのは僕ではなく僕の父だけれど。


「そういった経緯で、私も訓練というものがどういうものかを充分に把握しているわけではありません。もちろん、父から話程度には聞いているので、人間の方にもかなりの体力が必要であることは存じていますが」


「それだけ理解していてくれれば大丈夫だ。少なくとも息子よりはな」


 父は振り返って僕を見る。


「聞いただろう、そういうことだ。犬の訓練は人間が主体として犬を振り回すものではない。人が犬にものを教えるのではなく、犬と人で一つのものを作り上げる感覚でいなさい」


「意思疎通もできない犬とどうやって──共同作業なんか」


 と、途中で言葉が詰まった。


「櫂季どうした、顔が青いぞ」


 父が僕の顔色を見て少し顔をしかめる。ようやく気づいたかと思ったが、口にするのはやめておいた。しゃべるのが億劫になったのではない。気持ち悪さの波が最高潮にきているので、今口を開けば何かがあふれ出す。

 変わりに手を上げてひらひらと振る。


「そうか、お前車にはあまり乗ったことがなかったな」


「気分が悪いのならきつくなる前に早く言うべきですよ」


 言えるか、とも口に出せない。

 振動を感じながらも窓に体を寄せてゆっくりと車外の空気を吸う。そしてゆっくりと、深く抜ききるように息を吐く。何度か繰り返していると幾分楽になった。


「大丈夫、僕に構わず進んで」


 一度言ってみたかった言葉だけれど、これは何かが違う気がした。

 父は少しばかり速度を落として振動を抑える。巽が若干心配そうに僕を見る。

 やめてくれ、巽に心配されるほど惨めなことはない。それこそ、この胸のむかつきなどどうでもよくなるくらいだ。


「それで、そもそも何で急に犬を大量に飼育することになったのさ」


 話を無理矢理変える。

 といっても、一応は気になっていたことだ。


「二人とも、日本は先週まで戦争をしてたということは知っているな」


「知らない」


「存じています」


「──思い出した、僕も知ってた」


「櫂季の虚勢は置いておくとして──説明するとだな、十一年前、まだ櫂季と巽君が物心着く前になるが、大日本帝国・・・・・・今は日本国だったな、ともかく日本が戦争に負けた。厳密に終戦日をいつとするかは難しいところだが、十一年前の夏に日本国は連合国に対し降伏した。細かな経緯は別として、連合国との戦争はそこで終わりを迎えたわけだが、別にそれで全ての国との間で協調関係を結ぶようになったわけではない。特にソビエト連邦とは北方領土のことがあり、何一つ解決しないまま棚上げにされている状態だった。実際、連合国に対する終戦が締結する直前にソビエト連邦からは宣戦を布告されている。目立った戦火にならなかったのはそのすぐ後にアメリカの支配に服属したのが大きい。その後の朝鮮戦争を経て更に関係は悪化、五年前にサンフランシスコで平和条約が締結されて正式に連合国との戦争状態は国際法上終了したが、ソビエト連邦は条約調印を拒否した。そんなわけで国交は断絶に近い形だったが、実のところ両国共に関係修復は望んでいた。ソビエト連邦は戦後処理の課題として、そして日本は国際連合加盟の必須条件として。国内の細かな政治については言及せずにおくが、結論を言うと時間はかかったが先週末にようやく日本国とソビエト連邦が共同宣言──簡単に言えば平和と友好関係を結んだという宣言を出すに至った。公文書自体はまだ発効されていないから、正確にはまだ半分戦時中というところだが。ともあれそれは表向きの話で、政府要人は既に発効後国交が正常化された後を見越して動いている」


 戦争。

 多くの大人が語るそれを僕は知らない。学校で嫌というほど学ばされてはいるが、本物がどういうものなのかを知らないのだ。だから説明の合間に時折父が熱を込めて言う単語の意味を僕は、いや僕達は正確に捉えられてはいないのだろう。

 何も言えない。言う資格もない。


「確かに国際法上では戦争状態と言って間違いないものだったのでしょう。しかしそれが犬の育成と何か関係があるのですか?」


 そう、質問はそれだ。


「今回上から押し付けられたそれは、元を辿れば件のソビエト連邦からの依頼ということだ。公文書ができる前だというのに、お偉いさん方はよく働いてくれるものだなまったく」


 あまり乗り気ではないのか、父は溜息を吐く。


「そういうわけなので、言う必要も無いだろうがあまり人に吹聴はしないで貰いたい。公にできることでもないからな」


「それは承知いたしましたが、しかし櫂季の父君、貴方はまだ櫂季の問いにお答えにはなられていない」


「何故、犬をそんなに飼育する必要があるのか、だったな」


 父は言う。とても言い難そうに。


「正直なところ研究員にもあまり知らされていない。自分のことをこう言うのは些か気が引けるが、しかしそれでも一部署を負かされている身だ、それなりに顔も効く。しかし情報は与えられなかった。もっと上の、それこそ宇宙局の局長辺りが直接指揮しているようにしか思えない。ソビエト連邦からの依頼というのも際どいところから受け取った情報だが、それ以上となるとわからなかった。だからそう、父親としてまったく不甲斐無いばかりだが、櫂季の質問には答えられない」


「知らされていない?そんなことがあるのですか」


「うちの部署ではそれ程の重要性のあるものだと考えているが」


 父の口調は変わらず真剣なそれで、とても冗談を言っているようには見受けられなかった。そのとおり真剣なのだろう。

 本人は謙遜したが役職としては上から数えた方が早い位置に父は据えられている。だとすれば、上から降りてこないというよりは、決められた部署にしか降りていないと考えるのが妥当だろう。ただ父がその部署ではないというだけのこと。しかしその上で飼育を丸投げするのは何か違和感が残る。通知されている部署は、犬の訓練という些事には手を割けないほどの何かをしているのだろうか。

 わかるはずも無いことをぐるぐると考えていると、一層胸が苦しくなる。


「とりあえず細かい事情はおいておこう。それで櫂季と巽君にやってもらうことが変わるわけでもないのだから。さあ、到着だ」


 父は頑強そうな壁でできた立方体の建物の前に車を着ける。建物の横には相当な広さの芝生があった。探せばちらほらと人がいる。そして犬も何頭か見えた。

 到着したということはこの車から降りるということで、車から降りるということはこの煩わしかった拘束帯を外すということである。車の扉を開け、拘束帯を外すと、ずっと体に纏わり付いていた圧迫感が消し飛んだ。そして同時に僕の我慢も消し飛んだ。


「櫂季!」


 巽が驚くのも無理は無い。

 僕は車から一歩降りた瞬間、盛大に胃の中身をぶちまけた。込上げてきていた嘔吐感は乗車中何とか抑えていたのだが、圧迫感が消えた瞬間、感覚の落差により体は僕の意思を超えてしまった。


「ごほっ、だ、大丈夫。話には聞いていたけれど、こんなに三半規管揺さぶられるものとは」


 口の中にまだ残るものを全て吐き出して、慎重に息を吸う。食事の後でなくてよかった。


「これで口を濯げ」


 父がいつも持参している水筒を差し出してくる。

 中身は確かコーヒーだ。苦くて飲めたものではないけれど、口の中の不快な臭いを打ち消すのには一役かってくれた。


「くそ、巽に格好悪いところ見られた。最悪だ」


 自分でも八つ当たりとわかりながらも、それでも自制が効かず、そんな言葉を呟く。巽は呆れたように苦笑した。


「情けないとは言いませんよ。私も四年前初めて車に乗ったときは同じように吐きましたから」


「それでもここまで無様じゃなかっただろ」


 僕は嘔吐の結果汚れた上着を示す。おねしょの跡を晒してるような気分だ。


「ならこれから挽回してください」


 苦笑混じりで巽は僕に背を向けた。その気遣いもまた、と堂々巡りの感情に辟易。口の中に入れられるだけコーヒーを入れ、苦さで余計な感情を追い出す。心からにじみ出たものを口にため、コーヒーと共に吐き捨てる。

 地面に落ちた黒ずみと共に、無理矢理情けなさを封じ込めた。

顔を上げると父は呆れているのか苦笑しているのかよくわからない顔をしていた。その両方かもしれない。

 でも、僕が車に初めて乗ることくらい知っていたのだから、父の方がそれなりに配慮をすべきではないのか。これもまた子供の責任転嫁といわれるとにべもないが。

 父はしばらく僕を見つめた後、きびすを返して建物へと進み始めた。


「ちょっと待って父さん。着替えとかないの?」


「あると思うのか」


「うへぇ」


 下服にべっとりと付着したものに不快感が止まらない。

車の後部座席に転がっていた手拭いで一通り拭き落としはしたが、つんとした臭いは体に残った。

 切り替えよう。

 服は変えられないけれど。せめて態度くらいは。

見える部分はとりあえずきれいに拭い、先を歩く父を追いかける。

入り口には守衛がおり、父は僕と巽が持つものとはまた違う身分証を提示した。確認した守衛が恭しく頭を下げると、別の場所で誰かが見ているのか、腰の高さ程の鉄格子が自動で開いた。

 僕と巽は父について中に入る。『スペース』の施設よりも強めの光が長い廊下を照らしていた。入り口には守衛の詰め所があり、入ってきた僕らに未だ目を光らせている。

 長い廊下の中程に階段、そのさらに奥は廊下が折れ曲がっていた。父はその廊下を真っ直ぐ進む。突き当たりを曲がり、さらにもう一度。突き当たりにある大きな扉で止まった。

 扉の横には文字盤が吊ってあり、印刷された字で飼育部屋と書いてあった。他の扉に吊られていたものと比べると目新しく見えるのは気のせいではないだろう。


「この中が平時犬を管理している部屋だ。いまから入るが、先ほど教育棟で渡した身分証は持っているか?」


 父の指示を聞き僕と巽は身分証を出す。父は扉の右に据え付けてある機械の前に立つ。


「身分証の裏に数字が書いてある。櫂季と巽でそれぞれ違うが、どっちでもいい、この機械に打ち込んでみなさい」


 巽と目を合わせ、近くにいた僕が打ち込むことにした。

 電卓の様に数字が縦横に並んだ機械に、自分の身分証に書いてあった数字を打ち込む。十桁以上の数字なので打ち込むのに難儀したが、何度か見直しながらでようやくできた。これ明日からずっとやらなきゃいけないのだろうか。巽がいるときは巽に任せたい。暗記するのも面倒だ。

 鈍い音と軋むような音が連続して響き、最後に一つ乾いた音がなった。


「これでこの部屋に入室できるようになった」


 父が扉の取っ手に手をかけて横に引く。車輪の回る音と共に大きな扉が開いた。中からは嗅いだことの無い臭いがする。

 てっきり部屋の中では犬が喧しく吠え散らしているのかと思っていたのだけれど、冷たい空気の音がするだけだった。


「すごいな」


「これが飼育部屋ですか」


 左右の壁に沿って天井までの高さがある檻が並んでいる。各区画毎はそれぞれ隙間があり、隣の犬との接触を絶っているようだった。檻の一つ一つに毛布や砂のスペースがある。その区切りが左右併せて三十あった。後々に犬を増やすことを見越しているのだろうか。

 ただ、今は檻の中はほとんど空っぽだ。左側奥のスペースに二頭残っているだけである。

父に訊いてみた。


「犬、全然いないけど」


「今は基礎訓練の時間に入っているから、担当の割り振りが完了している十八頭は外で訓練中だ。車から降りたときにも見えたと思うが」


「そんな余裕はなかったよ」


「だろうな」


 僕と巽に父は言う。


「もうわかっているとは思うが、そういうわけで、奥にいるのが櫂季と巽君に面倒を見てもらう犬だ。二人に会わせるので同じスペースに入れてあるが、普段は一頭につき一区画で管理している。飼育する犬の割り当ては決めていないので、今から相談して決めるといい。念のため言っておくが、一度決めたら変更はなしだ」


 改めて残りの二頭を見る。

 一頭は黒い毛並みに胸元あたりが白い。面長の顔立ちだが、毛がふさふさとしているのであまり細身な印象はもてない。僕の記憶の中にある犬辞典で参照すると、前にテレビで見た牧羊犬に印象が近い。それを一回り大きくさせた形だろうか。毛づくろい等も定期的に受けているのかとても小奇麗な見た目だった。

 そしてもう一頭だが、何と表現すればいいのだろう。茶色い毛並みがクセ毛のように渦巻いており、それでいて毛の厚みはあまり無いように見える。大きさはもう片方に比べればいささか小さめ。顔は一層細面だった。しかしながらここの部品は別として、統合するととても三枚目な印象を受けてしまうのは僕の気のせいなのだろうか。端的にいうと間抜け面に見えて仕方がない。尻尾に糞がついてるように見えるのは見間違いか。

 ちらりと隣の巽を盗み見る。巽は二頭を交互に眺めて思案顔だ。


「ねえ、父さん」


「どうした」


「ちなみにさ。ちなみに、なんだけど、この二頭が残ってることに理由ってあるの。つまり他の現在訓練中の十八頭にこいつらが含まれなかった理由って」


「そうだな。選定は訓練担当の者それぞれに任せたので詳しくは聞いていないが、一頭は珍しい犬種で飼育経験のあるものがおらず、また片方は能力的に好まれなかったと言っていたかな」


「ふーん・・・。」


 どうなのだろう。この犬たちから宇宙局が──またはその更に上位の組織が──どういった情報を取得しようとしているかはまったくもって見当もつかないし、多分僕には関わりのないことなのだろうけれど、それでも、自分の訓練した犬が何かしらの貢献をするのならばそれはそれで嬉しい。だとすると、この場合見るからに間抜けそうな犬を割り当てられるというのは、貢献への障害となるのでは。何より、巽が僕よりも開始時点で優位に立つというのは許しがたい。

 もう一度巽を盗み見ると、巽も同様に僕を見ていた。横目でさり気なさを装って。

 目線が交差して、お互い気づく。


「っ──。」


 お互い同時に走り出した。目指すは黒い牧羊犬もどきの方だ。


「紳士的に話し合いで決めないか?」


 走りながら巽に提案をする。


「同時に駆けだしておいてよくそんな提案ができますね。当然、早いもの勝ちです」


 言い終わると同時に巽は一層足に力を込める。

 巽と僕の足、どちらが早いかは先に述べた通りであり、僕よりも巽の方が先に到達するのは目に見えていた。

 しかし、それは僕がなにもしなければの話である。

 何もしないなんてありえない。するさ、紳士的とは言えない行いを。

 外開きの檻を開くために一瞬止まった巽に足払いを仕掛ける。しかし巽は予想していたのか、あらかじめ決められている動きのように軽くそれを避ける。正面には足を投げ出し地面に尻を着いている僕。


「そうくると思いました。櫂季にはお似合いの格好ですね」


 巽は鼻で笑い、檻の扉を支えにして僕を跨いだ。


「そう言うと思った」


 僕はその姿勢のままで敷いてある布を掴み、力一杯引いた。敷物の重さがどの程度かわからなかったのでこれは賭だったのだが、僕は賭に勝ったようだ。

 着地と同時に足場を引かれた巽が体重移動の均衡を崩してうつ伏せの形で転げた。

 引いた力を使い立ち上がる。そしてそのまま部屋の右隅にいる黒犬へと駆け寄り抱き上げた。左隅のくせっ毛は無視だ。


「どうだ巽、僕の勝ちだ」


 立ち上がった巽に僕は勝ち誇る。


「なんとーー。」


 心底悔しそうな顔で巽は僕を見た。悪くない。そういう顔をされるのは存外気持ちいいものだ。


「まあそう落ち込むなよ。見た目がちょっと不安を煽るというだけで、その犬も案外優秀なやつなのかもしれないだろ」


 部屋の左隅に目をやったが、先ほどまでそこにいたくせっ毛の犬はいなかった。抱えあげた黒犬で視界に入っていなかったが、意外なことに僕の足下にすり寄ってきていた。どうやら巽をからかうのに夢中で僕は気づかなかったようだ。


「悪いな、君の相棒は巽なんだ」


 と、欠片も悪いとは思わずにくせっ毛にそう言っておく。

 しかしそこで入り口付近に立っていた父が口を開いた。


「違うな。櫂季、犬をよく見てみなさい」


 違う?違うとはどういうことだろうか。父の言うとおりにくせっ毛を見てみるが、別段おかしなところは見受けられない。


「そいつではない、櫂季が抱えている方だ」


 言われて気づく。胸の中にいる犬の違和感に。

 巽も気づいたらしく、同情するような表情で僕と黒犬を見ていた。


「どうして」


 僕の抱えている黒犬は、足を力の限り突っ張って、何とか僕の腕から逃れようとしていたのだ。心なしか唸り声も聞こえる気がした。


「どうした、何が嫌なんだ?」


「臭いでしょうね」


 立ち上がり、汚れを払いつつ巽はそう告げる。目には同情を浮かべ、口元は少し笑いながら。


「臭いって・・・まさか、さっきの嘔吐が」


「櫂季、服着替えてませんもんね。正直なところ、人間の私でさえ鼻にくる臭いを今だ放っているのですから、犬からすれば耐えがたいものなのでは?」


「じゃあなんでこのくせっ毛は僕の傍にいるんだよ」


「その犬はそういったことに無関心なのでは?」


 腕の中では尋常ではないくらい黒犬が暴れていた。


「ま、まあそうだとしても着替えてくればいいだけの話で」


「難しいな」

 父は言う、

「おそらく、櫂季の顔と体臭は既に条件付けされてしまっている。その犬種は警戒心が強い。例え櫂季が風呂に入ってきたとしても、その警戒を解くことはないだろう」


 黒犬、既に牙を剥いて唸っている。

僕は必死で黒犬の口元を押さえようとするが、その動きに連動してさらに暴れてしまい収拾がつかなくなる。巽の目がますます憂いを帯びてきたのが悔しい。

結局、二分間の格闘の後に黒犬は巽の腕の中に納まることとなった。

足元には間抜けなくせっ毛の犬一匹。吐捨物にまみれた男を見上げている。


「よろしく」


 僕は諦めてそう言った。

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