第7話 僕と訓練
リングレットの訓練開始から一週間経った辺りで、巽が特大の箱を寮の部屋に持ち込んできた。
「何これ?」
「祖父からの贈り物と言ったところでしょうか」
部屋の中央に巽はその箱を置く。様子から察するに結構な重量がありそうだった。
「祖父からって、巽の爺さん?日本人嫌いの?」
「そうです。先日犬の訓練について連絡を取ってみたところ、すぐにこれを送ると」
「これって・・・中身は」
巽は鋏を使って箱を開く。
「書類ですね」
中には紐で縛られた紙束がぎっしりと詰まっていた。当たり前だけれどどれも日本語ではない。英語にも見えないので、当然ロシア語なのだろう。
「なんて書いてあるんだ?」
「これは、『服従訓練』と書いてあります。こっちは『育成と食事』。『犬種と血統の優劣』などもあります」
「これ全部が犬の教本ってことか。すごい量だな」
「まだ廊下に五箱あります」
言われて廊下を見てみると、まったく同じ大きさの箱が積み上げてあった。
「おいおい。ずいぶんと熱心なお爺さんだな。巽のことあまり快く思ってなかったって話だけど、その割には協力的に見えるな」
「ええ、私も駄目だろうと思いつつ相談をしてみたのですが。電話口での態度こそ堅かったですけれど、話す内容としてはとても親身でして、結果としてこの書類もお借りすることができました」
本当に不思議だと巽は頭をひねっていた。
「何だかんだ言いつつも、孫がかわいいのかもな」
「そうだと嬉しいのですけれど」
言いつついまいち納得できていないのか巽の表情は形容詞難い中途半端ななものだった。喜んでいるような疑問を抱いているような。
ともかく、僕と巽は犬の訓練における先駆者の助力を得られることとなったのだった。
そうやって僕とリングレットの訓練は、いささか遅れをもちながらもようやく始まったのだけれど、出だしから好調といえなかったこの訓練はやはり途中経過も順調とは言い難かった。というか難攻した。
犬を飼ったことのない僕が手探りでやっているのだから上手く行くはずがないと言われればもっともであるし、それ以上に巽と分かれて行動しなければならないというのが難点となった。
自分でも驚いたことに、僕は巽がいた方がより高い成果を発揮できるようである。おそらくあの小憎たらしい自信家が側にいることで僕はつられて引き上げられているということなのだろう。いや、まったくもって納得はしたくないのだけれど。だからリングレットの一対一の状態になったとき、僕は一人相撲を取っているような、今までに感じたことのない違和感を覚えたりもするのだ。
それ以外にも訓練が難航する理由は多々ある。
リングレットと訓練を始めて四週間目に入ったあたりで僕は最初の壁にぶつかった。その前日、僕と巽はある程度お互いの犬とのやりとりにも慣れ、いよいよ訓練らしい訓練を始めようと決めていた。その日までやっていたことといえばリングレットを自分の真横に立たせることや食事の我慢、声による停止と前進の指示など地味なことばかりだった。しかしそれらにもいい加減慣れてきただろうということで、次の段階に進めようと決めたのである。
「しかし何をさせたいのかわからない場所だなここは」
目の前にある訓練用具を見ながら呟く。
鉄製の四角い枠で縁取られ、下半分には板が張ってる。それが三枚、高さや幅を変えて置かれている。
僕と巽がこの日から始めた訓練は障害物を飛び越えるというものであった。設置してある場所は飼育小屋の裏手にある広大な運動場。それなり以上に広さを持つ場所のこと、他の犬との衝突などは心配しなくていい。
巽は離れた場所で同様の用具を設置している。
内容としては人の指示をちゃんと理解できるかどうかというものであるらしい。やり方はいまいちわからなかったが、とりあえずやってみようと考え、リングレットに指示を出す。この頃にはリングレットも簡単な指示ならば声や手振りで出せば理解できるようになっていた。
走って直進という指示を手振りで出すと、リングレットは正面の板に向かって走り出した。
走って走って障害物の前に到着し、そして障害物の横をすり抜けた。
「え?」
全く乗り越えるそぶりも見せなかったので、僕がしばし呆けていると、リングレットはそのまま並べてある障害物を無視して走っていった。
しまった、停止の指示を出していない。ようやく気づいた僕が戻ってくるように音で指示を出すと、リングレットは走った道をそのまま戻ってきた。戻りも障害物には見向きもしていない。
「指示が悪かったのか」
とりあえず進めという指示だったので、進みやすい道を通ったということは十分に考えられる。そう判断して、今度は指示を変えてみた。
併走の指示を出して僕は走り出す。この指示は僕の横を一定の距離を保ったまま走るというものである。腕一本分
程の距離を保ったまま、リングレットは僕の左横を走る。
併走の指示を出した際、リングレットは当然僕の速度にあわせて走る。ある程度の加速がついていなければリングレットが障害を飛び越えにくいと思い、速度を上げて障害物の横を通り過ぎようとしたとき、僕は信じられない物を目にした。
走っている速度のまま、リングレットは障害物にぶつかったのである。
「・・・・・・。」
言葉が出なかった。頭をしこたま障害物にぶつけ、人間の僕でもわかるくらいにリングレットはくらくらしていた。文字通り壁にぶつかったのである。離れて訓練をしている巽にはこの不格好な姿は見られることはなかったが、それでよかったとは口が裂けても言えない。
少し時間を置いてリングレットの体調も問題なさそうだったのでもう一度障害物に挑戦してみる。
先ほどはもしかしたら勢いがありすぎたのかもしれないと考え、今度はゆっくりと進みながら併走した。走るというよりは競歩に近い形だったが、それでもやはりというか案の定、リングレットは障害物を乗り越えることはできなかった。
そこから一週間は遅々としてリングレットの訓練は進まなかった。思い起こせば巽とムドレェーツの組み合わせに足並みが揃わなくなったのもこの時期からだったかもしれない。
どれほど指示を出してもリングレットは飛ぶことを、跳ねることを覚えようとしない。僕の腰の高さ程度が越えられない。巽とも検討を重ねたが(ムドレェーツは難なく越えていた)答えは出なかった。そこで再度巽には本国に連絡を取ってもらい、犬の訓練が本職の祖父に助言を請うようお願いした。
翌日帰ってきた回答はとてもシンプルなもので、
「飛ぶのが嫌いな犬もいる」
というものだった。
「なんだそりゃ?」
いまいち理解できなかったので巽に訊く。巽に遅れているという意識からか、些か僕の語調が強くなっていた。
「祖父が言うには、地面に足を着けている感覚がなくなることを極度に嫌がる犬がいるという話です。リングレットはそれに該当するのではないかと」
「リングレットの犬種が跳躍に向いていないということか?」
だとしたら絶望的だ。しかし巽は首を振って否定した。
「いえ、これは犬種は関係ないとのことです。個別の特性、人間でいうところの高所恐怖症みたいなものでしょうか。一つの個性ですね」
「個性、か。ものは言いようだけれど、そりゃただの欠点だよな。だったらもうリングレットはあの障害物は越えられないってことだし」
「そうでもないです。好きか嫌いかの問題ですから、心理的抵抗があってもやり方次第で克服できると、祖父は言っていました。リングレットは確かに今跳躍をやっていませんが、しかし地面から足を離すことを極度に嫌がっているかと言われればそうでもないと思うのです」
「そうなの?」
「だって櫂季が抱き上げても抵抗はしないでしょう。地面から足が離れること、それ自体にそこまでの抵抗はないということです」
確かに、首輪の騒動の際やそれ以外でもリングレットを抱えあげることは多々あったが、別に暴れて抵抗されたような記憶はない。
「だったら何でリングレットは障害物を越えられないんだろうか」
「自ら跳ぶのに抵抗があるのではないでしょうか。人に強いられるのは我慢できるけど自分からはやりたくない。そんな感覚です。さながら櫂季が嫌いなにんじんを自ら食べるのを拒否していても教員に起こられたら仕方なく口に運ぶように」
「二年も前の話を例えに持ち出すなよ。それに僕はもうにんじん食べれるようになったからな」
「あれ?そうでしたっけ?」
「そうだよ。細かく刻んで食べるところから始めて、時間は掛かったけど今じゃ花形に飾り切りされたにんじんだってそのまま食べれるように・・・・・・そうかわかった」
「そうですね。きっとそれが正解です」
僕の至った答えは簡単なものだった。
翌日、僕はまた障害物を並べてリングレットを連れ出した。前回と同じ場所である。しかし今回は前回と似て非なるものがある。
障害物の高さだ。前回は僕の腰くらいの高さだったが、今回は僕のくるぶし程度の高さしかない。運動場は芝が敷かれているので、障害物の高さは見えるかどうか微妙な状況である。
最初はこれを跳躍、というか跨がせることにした。そして段々と高さを上げるのである。そうやって跳躍に慣れさせる。
まるで葦を植えて日毎それを飛び越している内に成長した葦の高さを悠々と越える跳躍力を身に付ける忍者の訓練のように。障害物を越えるのは特別なことではないと刷り込ませるのだ。
結果としてこの対策は上手くいった。じわじわと高さを上げていったので時間は掛かったが、それでも巽とムドリェーツに二週間遅れること、ようやく僕とリングレットは障害物を乗り越えた。
訓練が始まって四ヶ月が過ぎた辺りにはこんな事件もあった。
飼育部屋は全ての犬が訓練以外の時間を使うために小屋に入れられているが、当然お互い喧嘩をしたり心理的負担を与え合わないように小屋の左右は策ではなく防音加工を施した壁になっている。これは小屋と言うよりは仕切られた区画と言った方が正しいだろう。小屋の中からは正面しか見えないので、犬同士が隣り同士でほえ合うことや生活音が気になってストレスを感じるということはない。しかし一つの問題点として、犬一頭に割り当てられた敷地の狭さがあった。設計した人物が無知であったのか、突貫で作成したからそうなったのかは定かではないが、研究対象として集められた犬を全て個別で納めるには飼育部屋そもそもの広さが足りていなかったのだ。最初からその問題は訓練担当の研究員からも声が挙がっていたらしく、訓練が始まって四ヶ月、年を一つ超えた真冬に飼育小屋の改修工事が行われた。
廊下の一部と外側の運動場の一部を削って飼育部屋そのものを拡大し、犬一頭に割り当てられる小屋も倍以上に広がった。そんな折りに事件が起きた。
訓練担当が訓練を行う時間以外は犬は基本的に犬小屋に入っており、その間の世話は研究員が行っているのだけれど、その研究員から僕は呼び出された。
その日はそれまで仮設の小屋に入れていた犬達を新しい飼育部屋に犬を移した日で、移動の作業は昼に行ったらしいのだが、移してからずっとリングレットが吠え続けているらしいのだ。
なだめれば一時的には収まるのだけれど、しばらくするとまたリングレットが吠えて出してきりがないらしい。僕が飼育小屋に入ったところ、確かにリングレットは吠えていた。防音が効いているのでうるさいわけではないが、それとは別に何かリングレットに起きたのかと気になった。
やたらと柔和な、ともすれば気の弱そうな研究員の話では宇宙局に駐在している獣医に見せたが健康上の問題はなく、なぜ吠えているのか検討がつかないらしく、とりあえず訓練担当の僕を呼んで意見を仰ごうと考えたとのこと。
リングレットの小屋の中には前の小屋にも入れていた毛布やおもちゃが入っており、新しい場所に移した場合の飼育における基本は満たしている。
「吠えてるのはこの小屋に移してからですか?仮設の小屋にいたころは」
隣に立つ研究員に状況を確認する。
「吠え始めたのはここに移してからだよ。それまでは大人しいものだったのに。仮設の小屋は仕切りが薄かったから他の犬は吠えたり動き回ったりしてたんだけどね、リングレットは逆に落ち着いていたくらいだよ」
リングレットを落ち着かせるために毛並みを整えてやる。こうしている間は大人しいのを見てもやはり体調不良ではなさそうだ。
「まあ変わってますからねこいつは。こんなこと訊くのは失礼かもしれませんが、工事したての匂いに犬にとって不快な物が混じっている可能性はありませんか」
「それはない。もしそうなら他の犬達も大人しくはしていにだろう」
「リングレットの小屋だけ、というのも考えられないですか」
「一応試してはみたんだ。リングレットと似通った体格の犬と小屋を入れ替えたりもしてみたんだが、リングレット以外は吠えもしない。逆にリングレットはどこに移しても変わらず吠えているよ」
だとしたら問題はリングレットということになる。まあそうでもなければ僕が呼び出されたりもしないだろう。この研究員は飼育に関しては一流なのだから。基本的なところで見落としたりはしない。だから基本的でない特異な部分に関して訓練担当である僕に訊いているのだ。
「変わったのは広さだけ。塗料や色調、光度にも変化はない・・・ですよね」
「ああ、余計な変化を付けると逆にストレスになりかねないからな。犬は色の濃淡しかわからないけれど、それでも一応は同じ色で同じ塗料だよ。変わったのは間違いなく広くなったことだけ──。」
と、研究員は何かに気づいたように息を呑み、
「ーーーそうか」
と呟いた。
「なにか思い当たる点があるんですか?」
「ああ、きっと。その可能性はあまり高くはないけれど、僕に考えつくのはそれしかない」
研究員はしばらく腕を組みながら歩き回る。きっとそれがこの人なりの思考手順なのだ。
「すまないが工具を取ってきてくれ。あと釘も少々」
「いいですけど、何か必要なら人を呼びましょうか?小屋を作った作業員なら明日には来てもらえるかも・・・。」
「大丈夫だよ。今日中になんとかする」
手先は器用なんだ。研究員はそう言って飼育部屋から外に出た。
扉の向こうには同じ大きさの木材がうず高く積まれていた。きっと仮説小屋に使ったものなのだろう。研究員は迷うことなく木材をかき集める。それなりに重そうだったので、あまり多くは持っていけないなと思っていると、
「こっちはいいから工具を頼むよ」
と促された。
飼育部屋から廊下に出た先、階段下に確か工具が一通りそろっていたはずである。探してみると思った以上に充実していた。
工具箱に一式詰めて飼育部屋に戻ると、研究員が板を並べながら思案している。しきりに空に手を当てながら何かをなぞるような動きをしている。頭に図面でも引いているのだろうか。
「取ってきました」
「ありがとう」
礼を言われて、そういえば名前を聞いていないことを思い出した。いやしかしこの機会で確認するのも今更という気もするし、作業の邪魔になるのも嫌なので、いいや今度にしようと決めた。後で種本先生にでも確認すればいいだろう。訊いた話では飼育担当の研究員はこのやさしそうな青年だけらしいし。
研究員は黙々と作業にかかる。僕が何か手伝おうかと言ったらでリングレットの相手をお願いされた。作業中吠えられて集中できないと困るのだろう。
木槌を振るい、板を組み合わせること小一時間、どうやら目的の物が完成したようだ。
完成品をみて僕は言う。
「これは小屋ですよね」
「そうだね」
「犬小屋の見本みたいな小屋ですよね」
「まさにそうさ」
犬達がいま入れられているのは広く仕切られた区画である。便宜上小屋と呼んでいるけれど、一つ一つは小さな家の一間くらいある区画だ。それに対して研究員が作ったのは本当の意味での犬小屋である。
「これをリングレットの場所に設置するよ」
研究員は犬小屋をリングレットの生活空間に置いた。小屋の中に犬小屋が置かれた状況。頑丈に作ったのかとても重そうだったが、ともあれ完成らしい。研究員はその犬小屋の中にリングレットの使用している毛布を敷き詰める。そして僕に言う。
「では、リングレットをここに」
促されて僕はリングレットを元の小屋に戻した。
戻されたリングレットは、無言で(喋られても困るが)小屋の中にある犬小屋へと収まった。
「あれ、吠えないですね」
前足で毛布を整えながら満足そうに座り込むリングレットを見て僕は呟く。
研究員は満足そうに肯く。どうやらの彼び予想は当たったらしい。
「リングレットはきっと広い場所が嫌いなんだね。いや、正確には広い場所に単体でいるのが苦手、なのかな」
「広所恐怖症みたいなものですか」
「そうだね。人ではないので何が正しい名称なのかはわからないけれど」
もしかしたら恐怖症というほどでもないのかもしれない。訓練の時は広い場所にでるし、一時的にはそんな空間に放置することもある。ただそれが長時間続くと真理的負担となってしまうのだろう。そういえばリングレットは前に首輪を抜いて逃げた時も司の仕掛けた落とし穴の中で大人しくしていた。抜け出せる深さだったにも関わらず。あれは狭い穴の中にいたかったということなのか。今回は小屋が広がったためにリングレットには精神的負担となったと考えられる。
「少しでも狭い空間があれば落ち着くみたいだね」
「そのようですね」
「これで安心して生活できるかな」
研究員は彼の持つ雰囲気通り、柔和に笑ってそう言った。
それ以後リングレットが小屋の中で吠えることはなくなったが、リングレットの区画にだけ小屋の中に犬小屋が設置されたので、他の犬を訓練する人たちからはしばらくの間奇異なものを見る様な目を向けられるようになった。
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