第19話 僕と居場所

 翌日、土曜日。

 司からリングレットとムドリェーツの居場所を教えてもらうために、僕と巽は司の実験室へと足を運んだ。

 巽も昨日の放課後は用事が長引いたらしく、片づいた頃には夕食の時間となっていたそうだ。夕食の後、寮の部屋に戻って昨日の実験室での一幕を話した。

「なるほど、さすがは司さんです。私達が血眼になっても見つけられなかったというのに、ムドリェーツとリングレットを捜し当てられるなんて」

 僕の話を聞き終えた後、巽は心底感服するようにそう言った。確かに、どういう経緯で見つけたのかはわからないけれど、放課後の時間を全て使っていた僕達よりも先んじるなんて。競争しているわけではないが、してやられたという悔しさはある。

 もっとも、二人ともそんなことは露ほども気にしてはいない、今は自分の担当犬に会うという目的だけで目一杯なのだから。

 司の実験室を開く、いつものように白衣を着て、彼女はなにやら試料を顕微鏡で覗いていた。

「おや、この匂いは・・・火薬ですか。そう言えば昨日はこちらで火薬を扱っていたのでしたね」

「ん?そんなに匂うか?」

 と鼻から空気を取り入れて思い出す。そうだ、僕は昨日に司の手によって嗅覚を麻痺させられているのだった。確か効果はあと一日分残っているはず。

 巽が火薬にしか言及しないところを見ると、昨日僕が扱った薬品の匂いは残っていないようだ。揮発性の高い物だったのだろうか。それはそれで厄介なのだけれど。

「司、来たぞ」

 依然、僕達の入室に気づいていない司に声を掛ける。

 司は顕微鏡から顔を上げると、眠そうに目をこすりながら、

「ああ、いらっしゃい」

 と言った。

 目の下に隈があるように見えるのだが、もしかして寝てないのだろうか。

「司さん、大丈夫ですか?」

「うん?大丈夫、大丈夫。昨日、この薬品が良い反応示したから総当たりで試験してて、そしたら朝になって。えっと・・・・・・二人は何しにきたのかな?」

 大丈夫じゃなさそうだった。

「リングレットとムドリェーツの居場所、わかったんだろ?休日しか入れない所だっていうから、巽と二人で今日来たんじゃないか。というか、どうして司が居場所を知ってるんだ。まさか司も親父と同じ研究室に属してるのか?」

「違う違う。忘れたの?リングレットには首輪付けてたでしょ。発信機込みの」

「あっ」

 どうして今までそれに考えが至らなかったのか。そうだ、リングレットの首輪には司が発信機を入れていた。

「じゃあ、あの長ったらしい名前の装置を使って調べてくれたのか」

「そうだよ、感謝しなさい」

「方法はともあれ」

と、事情をいまいち飲み込めていないながらも巽が促す。

「場所はどこですか」

「そうだったね。場所は簡単だよ。灯台もと暗し」

 司はまったく安定しない指で、それでも何とか窓の外を指す。離れた場所に見える研究棟の一つ。

「飼育部屋のある研究棟、その一番上の階、つまり三階にリングレットとムドリェーツはいるよ」

 僕と巽は顔を見合わせる。

 あの棟は確か、二階以上は物置になっているはずだった。犬を飼育するための道具や食料が保存されている。そう聞いていた。何度か訓練用の道具を取りに上ったこともある。しかしそうだ、本試験が終わってからは一度も上の階に上がっていない。どころか、リングレットとムドリェーツが飼育部屋から別の場所に移されたと聞いてからは建物にすら入っていなかった。当然、上階の確認などしてようはずもない。

「考えてみれば当然だ。犬の飼育道具が揃っているのだから、その近くで飼育するほうが効率がいい」

 正直なところ、十中八九は父の研究室が入っているあの三号棟にいるものだと考えていたのだ。

 先入観、もっとも排除すべきものなのに。

 安易に立ち入ることができなくなってからは余計その考えが強くなっていた。

「もっとも、気づいていたとしても会えたかどうかは別の話、ということですよね」

 訊かれた司は答える。

「平日は常時二、三人が記録のためにいるから、入ることもできない。けれど、休日なら朝昼晩の給仕しかあの部屋には人がいない。と、いうことは」

「それ以外の時間なら、会えるってことか」

 時計を確認する。丁度正午を回った辺り。給仕が正確に行われているのなら、今まさにリングレットとムドリェーツに食事が運ばれていることになるのだろうか。

「一つ、気になることが。その部屋は施錠されていないのですか?」

「もちろん施錠されてるよ。通常の鍵ではなくて、一階の飼育部屋と同じ許可証を使用するものでね」

「ということは、僕や巽の許可証で空けられるの?」

「あはは、無理無理。権限が与えられてないもの」

「だったら、人が中にいようがいまいが関係ないんじゃ・・・。」

 そもそも入れないのなら意味がない。

 しかし司は当然その質問はわかっていたのだろう。入り口近くに置いてある机の引き出しを開け、中から許可証を二枚取り出した。

「じゃじゃーん。これなら入れる」

「それはどこかから入手したのか?」

「作った。情報を書き換えるだけだから、大した手間じゃなかったけれどね」

「これで、入れるのか」

「一度だけならね。あの施錠は一度許可証を使用すると許可証内部の記録も書き換えるのよ。けれどこれは書き換えに対応できないから、二度目に使おうとすれば権限が与えられていないものと判断されちゃう。だから、直ぐに使うかどうかは各々考えて」

「一人一回のみか」

「二人同時に入るのなら、二回入れる計算です」

 そうか、一度の開閉に一枚、一度開けば通過するのは一人でも二人でもかまわないのだ。

 機会は二度。たったの二回。

「とりあえず一回は今日使うとして、後の一回はどうするか・・・。」

「櫂季、それは後で考えませんか。まずは一度、ムドリェーツとリングレットの元へ、それが最優先かと」

「そりゃそうだ」

 司から差し出された許可証を握りしめる。

「ありがとう司」

「いいよー。ただ、あまり無茶はしないように。この宇宙局の理屈でいうなら、現状は櫂季と巽が駄々をこねてるだけなんだからね。何かあっても責任までは取らないよん」

「もちろんそれで十分だ」

「あ、そう」

 僕の言葉に司は気のない返事をすると、部屋の隅に置いている長椅子へ体を預けた。

「それじゃ私は仮眠するので」

 背を向けたまま手をひらひらと振り、椅子の端にあった毛布を手繰り寄せると、そのまま司は動かなくなった。

 初めて見る光景だが、毛布まで常備しているところを見るに、いつもやっていることなのだろう。ひょっとして寮にすらまともに戻ってはいないのだろうか。平日は講義に出なければならないだろうからーーそれもどの程度強制されているのかはわからないがーー長くても二、三日というところだろうが。

 今度弁当でも持ってこようと決意しつつ、僕は巽と共に司の実験室を後にした。

 飼育部屋のある研究棟までの道すがら、僕は巽に訊くことがあったのだと思い出した。

「昨日、僕は司の実験を、というか実験の下準備めいたものをしていたわけだけれど、巽は何をしていたんだ?結局、研究棟の方には来なかったんだよな」

「そっか、櫂季に話していませんでしたね。昨日は祖父から連絡があったのです。えっと・・・なんと言えばいいのでしょうか」

「どうした?」

「祖父があまり私の事をよく思っていないというのは以前にもお話したかと思うのですが、櫂季は覚えていますか?」

「ああ。それでも不思議と犬の訓練に関しては協力的だった、って言ってたよな」

「そうです。不思議なことに。昨日の電話も同様に不思議な印象でした。まるで私を賞賛しているかのような言動を繰り返すものですから。その真意を探ろうと言葉を重ねている内に時間ばかりが過ぎてしまいまして」

 今も釈然としていないのか、巽は思い返すように頭を掻いた。

「無駄な時間を過ごしてしまいました」

「巽の爺さんは、巽に何を言っていたんだ?」

「ムドリェーツが次席となったことを誉めているようでした」

「・・・それが何かおかしいのか?」

 不仲ではあったとはいえ、孫が好成績を修めたのだ。祖父がそれを賞賛してもおかしくはないだろう。むしろそれを契機に交流を深めようとしているのかもしれない。そう考えればかわいいものだと思うが。

 しかし巽は首を振る。

「おかしいですよ。祖父は好成績を修めたことにではなく、次席を取ったことを誉めていたのです。主席でもなく三席でもない、次席とい事実に評価を与えていた。だからとても不思議なのです。真意がわからない」

 意図が見えない。

 巽は気味悪そうにそう呟いた。

「それは確かにそうだな」

「それともう一つ」

「まだあるのか」

「そもそも祖父はどうやって私とムドリェーツが次席になったことを知ったのでしょうか」

「巽が話したんじゃないの?」

「いいえ。訓練が終わってからは私から祖父に連絡をとってはおりません。そもそも訓練事態も機密事項ですから、指導を仰ぐために一部伝えたとはいえ、全てを外部の人間に話すことなどしておりません」

「巽の親父さんはどうだ?さすがに親にはある程度話してはいるんだろ」

「いえ、父と母には何も伝えていません。平日は寮にいるので会う機会はありませんし、休日に帰ってもなるべく口外しないように心がけていましたから」

 僕の場合は身内が既に犬の研究員側である。父とこじれる前は、休日に実家に戻る度にリングレットの話をしていた。しかし巽の状況はそう簡単なものではなかったということだ。

「しかしだとしたら本当にどうして巽の爺さんが結果を知っていたのかわからないな」

「はい、どちらかといえばそっちの方が気になります。祖父が次席を賞賛していたことよりも、そもそもなぜ知ったのか。もしかしたらこの犬を用いた研究は、私達が考えるよりも深くそして広いのかもしれない」

 その巽の言葉を僕はあまり真剣に取り合わなかった。不可解ではあるが不可能ではないだろうと、そんな風に思っただけだった。

 僕の興味は飼育部屋のある研究棟に近づくに連れ、リングレットにしか向かなくなっていたからだ。

「まあ釈然としない部分はあるが、まずは目の前のことに集中しようか」

 研究棟一階の玄関口を指さすと、巽も頷いた。

 単に忘れられているのか歯牙にも掛けられていないのかは不明だけれど、僕らの持つ正規の許可証はまだ機能している。宇宙局の敷地に入ることと、飼育部屋に入る事に関しては何の制限も受けてはいない。折角なのだからと一応飼育部屋も確認してみた。案の定リングレットとムドリェーツはいなかったが、しかし収穫はあった。

 犬達へ給仕する際に使用する容器が今日はまだ未使用の状態だった。朝昼晩それぞれに給仕される食事の量は変えられているので、昼の容器と他の時間帯の容器は大きさが違い、使用の有無は人目でわかる。

 これが未使用ということは、今日はまだ昼の給仕は行われていないということになる。リングレットとムドリェーツも同様だろう。

「確認しておいて幸いでしたね」

「ああ、そのまま何も考えずに上の部屋に入っていたら、最悪給仕担当の研究員と鉢合わせしていたところだ」

「とりあえずは昼の給仕が終わるまで離れていましょうか」

「ここにいちゃ駄目なのか?」

「忘れたのですか。研究員の方々は私達にムドリェーツとリングレットの居場所を秘匿しているのですよ。私達が見ている前で飼育部屋以外に給仕道具を持っていく姿など見せるはずがないでしょう。私達に感づかれると思い、恐らくは私達が姿を消すまでムドリェーツとリングレットの給仕は先延ばしされます」

「成る程、そりゃ面倒だな」

「二階の物置なら様子を伺いながら身を隠せます。給仕担当の研究員がここの研究棟を離れたら三階へ向かいましょう」

「わかった。なら人が来る前に二階へ向かおう」

 廊下ではち合わせするのも余計な警戒を招いてしまう。もっとも、僕達のやろうとしていることを考えれば、それは正当な警戒ではあるのだけれど。

 規則を犯そうとしているのは十二分に自覚している。それでも会いたいのだから仕方がない。今直ぐにでも三階へと駆けたい気持ちを抑えつつ、僕と巽は二階の物置部屋へと身を潜めた。

 犬の訓練が終わってから三週間以上経った。以前は何度も出入りしていたこの物置部屋も、人の出入りが減ったからなのか、どこかもの悲しい雰囲気を醸している。訓練用の障害物や遊びに使った大きめの球が、三週間前と比べると綺麗に並べられていた。

「そういえば、障害物はムドリェーツの方が上手かったな」

「というより、リングレットが障害物を苦手としていただけでは?ムドリェーツもそつなくこなしてはいましたが、いかんせん体格の限界がありましたから、他の大きな犬ほどの綺麗な跳躍はしていませんでしたよ」

「そうだった。リングレットは少しずつ低いところから慣らしていったんだ。司に指南してもらいながらさ」

「思えば私達、終始人の手を借りていましたね」

「そうだな。最初は巽の爺さん、次に司、種本先生は・・・何かしてくれたっけ?」

「犬笛、下さったじゃないですか」

「ああ、それがあったか。先生の唯一と言っていい功績だな」

「違いありません」

 顔を見合わせてけらけらと笑う。

 一年に及ぶ訓練の苦労話をしていると、いよいよその時が来た。

 一階から扉の開く音が聞こえた。

 入ってきたのは一人、足音でわかる。しばらく歩く音は聞こえたが、さすがに廊下の奥まで行かれると、一階の音は拾えなくなった。

 巽と顔を見合わせる。お互い考えは同じようだ。首肯して、慎重に扉を開き、階段まで足音を立てぬように歩いた。

 踊り場の手前まで降りて、耳をそばだてる。

 しばし廊下を歩く音が聞こえーー飼育部屋に入ったのだろう、扉の閉まる音がした。

「まずは下の犬達に給仕を行うというわけですね」

「ま、順番的にもそっちの方が面倒がないだろうしな」

 廊下に響かぬよう、小声で言葉を交わす。

 しばらく静かになった。たまに水の出る音が聞こえる程度である。おそらく飼育部屋の出入り口付近にある蛇口を使っているのだろう。

 半刻もしない内に、飼育部屋の開く音がした。僕と巽は慌てて元いた部屋にと引き返す。扉をほんの少し開いておき、外の音が拾えるようにと気をつけた。

 足音はそのまま二階を通り過ぎ、三階へと向かう。飼育部屋の給仕だけで彼の人物が仕事を終えていない、その事実がこの建物内にリングレットとムドリェーツがいるという司の話を裏付けていた。

 見つからないようにと、緊張から心臓が早鐘を打つ。だけど、この鼓動の強さはそれだけではない。

 期待感。

 まちがいなくそれが僕の中に溢れていた。

 もちろんそれも、今この場を十全にこなせてこそである。三階の状態を確認していない以上、階段まで行くのは危険が伴う。最悪の場合、階段近くにリングレットとムドリェーツを閉じこめている部屋が配置されている可能性だってあるのだ。音を聞こうと身を乗り出してはち合わせなどあってはならないだろう。

 給仕担当者が降りてくる音だけは聞き漏らさないようにと、それからしばらくの間、僕と巽は気を張り続けた。

 いつ終わるともわからない緊張ほど、集中力を維持するのが困難なことはないだろう。時間にしては十分も掛かっていなかったかもしれない。しかし次に物音が聞こえたとき、僕は自分でも驚くほど疲れていた。

 だからだろうか。僕は階段を下りてきた足音が、そのまま一階へと向かわず、二階の廊下を歩いているのだと気づけなかった。

 徐々に足音が大きくなり、給仕担当者の陰が廊下の扉の隙間から見えた段になってようやく、僕は危機が迫っていることに気づいたのだ。

 慌てて巽を見ると、巽もちょうど今気づいたようで、電気の付いていないこの部屋でもわかるくらいに青ざめていた。考えている暇はない。お互いがお互いの顔を見て、即座に行動すべきだと判断した。一人だったらもっと出足が遅れただろう。危機感を抱いた相手の顔に、せっつかれたようなものだ。

 僕は重ねてあった犬用の毛布へともぐり込み、巽は障害物として使っていた跳び箱の中に身を潜めた。給仕担当者の用がわからない以上、何処に隠れても安全とは言い難い。しかし吟味している時間はなかった。

 僕と巽が身を隠したほんの数秒後に、給仕担当者は扉を開けて入ってきた。

「・・・っ、」

 間一髪、間に合った。

 給仕担当者の顔には見覚えがある。あれは確か訓練担当者が犬の世話をできない時間帯に、代わりに行っていた研究員である。飼育部屋が一新された際にリングレットの不調を伝えてくれたのもこの人だった。

 適任といえば適任、順当といえば順当。

 犬の世話係として僕も巽も親しんだ人である。

 世話係の彼は、小型犬用に作られた鉄製格子状の箱を抱えて部屋に入ってきた。それを適当な棚へと置くと、今度はそれよりも一回り小さい同様の鉄製格子状の箱を抱え、部屋から持ち出した。

 そのまま一階へは降りず、再度三階へと上がっていく。

 どこかの扉が開く音が聞こえ、そしてまたその数分後に扉の開閉音が鳴った。

 再度足音。今度は一階まで世話係の彼は降りていったようだ。そのまま玄関の開く音がし、窓から見ると世話係の彼が研究棟から離れていくのが見えた。

 これでようやく一息吐ける。

「危なかったな」

「ええ、まさに間一髪」

 再度巽と共に窓の外を確認した。小さくなったが、世話係の彼が離れていっているのが見える。

「ようやく、これで邪魔が入らないということですね」

「三階に行くとしようか」

「はい。楽しみです」

「僕だってそうだ」

 二人して急ぎ足で階段を登る。足音だけは気をつけて、不用意に窓には近づかないよう注意しながら、しかしはやる気持ちを抱えて。一通り扉を確認すると、廊下の突き当たりにある部屋だけ、一階の飼育部屋と同様に許可証を使用して開錠する仕組みになっていた。

 間違いない、この部屋にリングレットとムドリェーツはいる。位置的には飼育部屋の真上にあたる。配水や建築の効率を考えれば各階が同じような構造になっているのは当然と言えば当然で、それにすら考えが至らなかったのかと、今日までのから回っていた自分を恥だ。

 焦る気持ちはそのままに、僕は袂から司に託された許可証を取り出す。

「さあ、まずは一回目だ。開けるぞ、巽」

 巽は無言で首肯する。

 司の用意してくれた偽造の許可証。それを認証機械に使用すると、何の抵抗も異常もなく、飼育部屋と同様に鍵の開く音がした。

 心と裏腹に震える手で、僕と巽は共に扉を開いた。

「ーーここが」

 中は異様な部屋だった。広さは飼育部屋と同じだけの面積がある。しかし様相はまるで違った。

 部屋の照明はまだ点けていない。外へ光が漏れれば察知される危険が伴うからだ。それにこの時間ならば窓からの光で一階の飼育小屋のように自然光で満たされているーーと思っていた。

 窓のないこの部屋を見るまでは。

 開けた扉から入り込む光でかろうじて部屋の大きさが推察できる程度。他は何も見えていない。

 外観から気づいてしかるべきだったのかもしれない。幾度となく僕はこの飼育部屋のある研究棟を見ていたのだから。三階の、更にはこの区画に窓などないことは、知っているはずだった。しかし気には止めていなかったのだ。

 だから今、僕はこの部屋に面食らっている。

 先に行動できたのは巽だった。もっとも、部屋の扉が自然に閉まってからであることを考えれば、二人ともしばし呆然としていたのだ。あくまで先に行動したのが巽だったというだけ。

「櫂季、照明を点けましょう」

「いや待て、それだと外から気づかれるかも」

「窓のないこの部屋に明かりが灯った所で、誰が気づくというのですか」

 至極もっとも。いよいよ僕の頭は回転率を一速まで落としたらしい。

 暗闇に瞳孔の調整が間に合わないまま、手探りで部屋の壁を探す。どこかに点灯用の機器があるはずだ。

「あ、ありました」

 ぱちりという乾いた音とともに、部屋に光が満ちる。

「っーー。」

 暗闇に慣れかけていた瞳は急な光量に追いつけなくなる。時間にしてほんの数瞬、心情的にはそれ以上を経過させ、ようやく部屋の全景が見えた。

 推察通りに部屋は一階の飼育部屋と同程度の広さであり、区切られた空間があった。違うのは区切りの大きさだろうか。一階の飼育部屋は一頭ずつに均等に分けられていた区切りだが、この部屋の区切りは狭いものもあれば広いものもある。どれ一つとして同じ大きさの空間はなかった。

 入り口付近の机には見たことのない計測機器。司の部屋にならば類似したものはあるのかもしれないが、僕と巽ではそれが何なのか一目で看破することはできない。

 一通り部屋に目を回し、そしてようやく見つけた。

 目的の一つが、奥のもっとも広い空間に。

「ムドリェーツ」

 巽が即座に奥まで駆ける。ムドリェーツは三週間前とさして変わらぬ姿でその空間に座していた。僕達が、というか巽が近づくと控えめに尻尾を振っていた。

「ああ、ムドリェーツ。どれほど君に触れたかったか」

 それぞれの空間は檻の形になってはいるが、錠前は付いていない。巽は扉を開き、ムドリェーツを抱きしめた。

「あれ?」

 と、間抜けな声を出したのは僕だ。

 てっきりリングレットも同じ檻か、もしくは近くの檻に入れられているものだとばかり思っていたのだが、近くにリングレットの姿はない。

 巽はムドリェーツと戯れるのに勤しんでいるので放っておいて、僕はリングレットを探す。

 部屋の中にある大小様々な檻の中を確認するが、どこにもリングレットはいない。リングレットはこの部屋にはいないのだろうか。司の情報が間違っていたのか、それともたまたま今この部屋にいないのだろうか。事前に誰かが目的を持ってこの部屋から連れ出したのか・・・。

 思案しても答えは出ない。この部屋にいないならいないで別のどこかを探すか、それともこの部屋にリングレットが戻されるまで待つか。とりあえず座ってこの後の方策を考えようと思った僕の目の前に、目的の残り一つ、つまるところリングレットの姿が飛び込んできた。

 いや、正確には全景は見えていない。目が見えたのだ。

 腰を落ち着けようと座った机の上に、金属製の箱があった。箱にはスリットがいくつか入っており、そのスリットの一つからリングレットの目がこちらを見ていたのだ。

 そこまで大きな箱ではない。リングレット一頭が入ればそれで身動きできなくなるような大きさ。その中にリングレットはいた。

「何でこんなところに」

 いや、考えるのは後だ、とりあえずリングレットを箱から出すことが先決だろう。

 箱の周りをぐるりと見るが開閉機構らしきものは見あたらない。

 押してみてもびくともしなかった。鍵がどこかにあるわけでもない。

「どうやってーーあっ」

 天板に溝があった。溝に手を入れ、手前に引いてみると、天板を手前に引き抜くことができた。側面に溝が掘ってあり、はめ合うように天板が差し込んであったのだ。

 中からは絶対に開けない造り。

 天板を外して、僕は嫌な気分になった。リングレットと会えた嬉しさを塗りつぶされそうなそんな気分。

 外から見ても想像はできていたが、しかしそれ以上にこの箱はリングレットの体格と比べてとても狭かった。リングレットが立ち上がればそれで天板に触れてしまうような大きさ。前後なんて鼻と尾が共に触れかねない。

 一体何のためにこんなことを。今日たまたまこんな処遇を受けているのか、それとも恒常的にこんな状況なのか。当のリングレットは至ってけろりとしていたけれど。

「相変わらず腹が座っているというか」

 こっちの心配などつゆ知らず、リングレットは箱から出て、僕の足にまとわりついた。いつも訓練前には準備体操として足の間を八の字に潜らせていたのだが、いつからかそれは指示を出さなくても自然と行う習慣になっていた。三週間離れた程度ではその習慣は抜けないようで、僕は情けなくも胸が暖かくなる。

「リングレット、いたのですね」

「ああ。こんなものの中にな」

 リングレットが入っていた鉛色の箱を指さす。

 箱の中には何もない。その中に、リングレットは押し込められていた。

「狭いですね。なにがしかの実験を行っているのでしょうか」

「計測機の類は接続されてはいないけどな。非人道的な行いはしないと言っていたのに、種本先生、嘘付いてたのか」

「まだこの状況ではなんとも言いかねますが、お怒りはごもっともです。今日入っていたのがリングレットだったと言うだけで、次はムドリェーツかもしれません。もしくは、前は」

 実験の期間はどの程度かはわからない、しかしこれが繰り返されるようなら、実験の終了を待たずに僕は行動を起こさねばならないだろう。

 屈んでリングレットを抱きしめる。大切な温もりを確かめる。

 下手な行動は起こせない。ここでリングレットを連れ出しても、現実問題僕達にはどうしようもできないのだ、今日のところは再会を噛みしめるしかない。

「三度目の給仕が行われるのは何時くらいだろうか」

「あの飼育担当であった研究員が、今までと変わらない時間割で動いていると仮定すれば、七時でしょう」

「十分だな」

「どうされました?」

「夕方に一度、僕はリングレットと外へ散歩に行こうと思う」

「危険すぎます。この施設の研究員のうち何人がムドリェーツとリングレットのことに付いて把握しているかはわかりかねますが、一人でも知っている人に露見すればそれだけで致命的です」

「敷地内ならそうだろう。僕が行くのは更にその外だ」

 指を指す。窓のない壁の向こうを。巽はそれを目で追い、目を見開いた。

「まさか、宇宙局の外へ行くというのですか」

「そうだよ」

「言語道断です。敷地内ならまだ言い訳の余地はありますが、外に連れ出したとなれば窃盗と断罪されてもおかしくないのですよ。あくまでもムドリェーツとリングレットはこの宇宙局の研究資材扱いなのです、業腹ですが」

「重々承知だ。その上で、危険とつり合うだけの価値があると僕は考えてる。悪いことに、その対価を得られるのはリングレットだけだけれど」

 僕の言に、巽はため息で応えた。

「わかりました。止めても無駄だと言うことが。しかし十二分に注意してくださいよ。露見して被害を被るのが私と櫂季だけなら許容はできますが、状況によっては司さんにまで波及することも有りうるのですから」

 この部屋に入るというそれだけで、僕達よりも司が危険を侵しているのだ。もちろんそれはわかってる。

 それから二時間程、僕達は三階の一室で久方ぶりに訓練時のような犬との交流をした。簡単な指示を出して、成功すればおやつをあげる。それだけで楽しかった。

 時間が進み、西日に移り変わるその前に、僕はリングレットを連れて部屋を出る。

 扉が閉まる前に、

「巽も行くか?」

 と訊いたが、巽は首を横に振る。

「いえ、ムドリェーツは実のところ散歩嫌いでして。私はここで戯れることとします」

「そうか、じゃあ僕とリングレットだけで行くけれど」

「はい、くれぐれもお気を付けて」

 わかった、と返事をして、僕は部屋を出た。

 リングレットを連れて飼育部屋のある研究棟から抜け出すことは実の所難しくはない。仮に研究棟が立ち並ぶ敷地に犬の研究に関わっている職員がいたとしても、そうそうばれることはない。

 一階の飼育部屋横にある倉庫には訓練場整備用の一輪車がある。雨上がり等で訓練する前には、訓練場へ土を運ぶために使用していた。その一輪車にリングレットを乗せ、上から毛布をかぶせる。脇に煉瓦を数個と移植ごてを乗せておけば、端から見たら作業の手伝いをさせられているようにしか見えないだろう。

 問題は宇宙局の敷地からどう出るか。いつも訓練時に外へ出る際は訓練場にほど近い門から出ていたが、さすがにそちらの守衛にはこの一輪車は見咎められる。

 しかし僕はその解決策を考えていた。

 研究棟が立ち並ぶ敷地から、一度スペースの敷地へと戻る。スペースの敷地から学徒用の門を抜けるのだ。

 学徒用の門の前で再度一輪車の中身を確認する。一つだけ懸念事項があるとすれば、リングレットが毛布から顔を出すことだ。しかしどうやらリングレットは大人しくしてくれているようだ。

 学徒用の門にも当然守衛は配置されている。

「どうも」

 と、軽く会釈をすると、

「やあ、そんな荷物持ってどこにいくんだい?」

 と訊いてきた。監視の為と言うよりはただ目に付いたので世間話程度に訊いてみたというところだろう。

「ああ、外の配水口掃除ですよ。土日に寮に残ってると、こういうこと押しつけられるんでうんざりです」

「ははは、それは災難だね。頑張って」

「はい、失礼します」

 中身の確認などはされず、僕は宇宙局の敷地から外へ出ることに成功した。

 敷地から出て直ぐの物陰に一輪車とその中身を隠す。リングレットは状況がわかっているのかいないのか、最後に外を散歩した時と変わらない顔だった。

 そう、顔だ。

 この一年弱で僕はあろうことかリングレットの顔色までわかるようになっていた。表情まで読めるようになっていた。それこそ去年の僕では考えられなかっただろう。無難にそれなりに困難に、学徒として過ごしていた僕にはなかったものだ。

 リングレットの横を歩く。追従の指示はもう出すまでもない。三週間前と変わらず、リングレットはちゃんと僕の隣にいる。袂に入れたお守り代わりの犬笛を撫でる。これを使わなくなってからもうしばらく経つ。ほとんど身振りと小さく指示を出すだけで済んでしまうからだ。

 なんとなしに短く吹いてみた。指示にもならない、ただ注意を引くだけの音。僕には聞こえないその音に、リングレットはしっかりと気づき、僕の顔を見た。

「ごめん、なんでもないよ」

 初めて外に出たときと同じ道を僕らは歩く。住宅街を抜け、繁華街を通り、そして海岸線へ。海岸に着く頃には日が傾き、黄昏が海を染めあげていた。陰も光も、すべてがとても濃い世界。

 その中の一つ、防波堤側の陰がゆらりと動いた。

「来たな」

 正直、来るかどうかは半々だった。しかしあいつもまた、この時を待っていてくれたのだろう。陰の中から出てきた漆黒の犬は、すぐさまリングレットにじゃれ付いてきた。

 初めて宇宙局の外を散歩したあの日、僕とリングレットはこの犬に出会った。最初にであったのはリングレットである。僕はリングレットを見失い、司と共に探してようやく見つけたのだ。その時も今と同様にリングレットとじゃれあっていた。

 よほど馬が合ったのか、リングレットと僕が夕暮れ時にこの海岸へ来ると、いつもどこからか、あの犬は現れたのだ。

 漆黒のその毛を陰に溶かして、気づけば現れ、そして気を抜けば去っていく。そんな逢瀬をリングレットと黒犬は何度も行っていた。

 しばし期間は空いてしまったが、しかし黒犬は覚えていてくれたようだ。

 僕は二頭を横目で見ながら、黄昏に染まる空へと顔を向けた。目を閉じて集中する。得られる情報は音。そしてもう一つは温度。匂いは無い。どうやら昨日嗅がされた薬品の効果はまだ切れてはいないらしい。

 僕にわかるのは波と風の音、そして肌に当たる冷気くらいのもの。それでいて妙に暖かく感じるのは、西日のせいだろうか。

「文字通り、黄昏てる」

 温度が一つ増えた。肌で感じる温度じゃない、音がもたらす暖かさ。胸の芯がじわりと燈る。

 目を開くとそこには司がいた。

「司も結構出歩くよね」

「ん?そうかな」

「そうだよ」

 と僕は言い、

「そうかもね」

 と彼女は頷いた。

 それから僕達は取り留めのない会話をした。リングレット訓練がどれほど大変だったか、去年一年間で行った司の実験はどんな意味があったのか、巽は今ムドリェーツと何をしているか、卒業後の進路、嫌いな音楽。それらひとつひとつはどうでも良いことだ。ここで話すことでもない。だけれど僕達の話は途切れることはなかった。

 話す内容に意味があるのではない、話していることに意味があるのだ。

 黄昏時に、司と肩を並べて、リングレットの戯れる姿を横目にーーあれ、いない。

「リングレットどこにいった?」

 辺りを見渡すが、橙色に染められた砂浜にリングレットの姿が見えない。

 司を見るが、彼女も首を横に振る。

 途端に血の気が引いた。

「まさか道路の方へ行ったんじゃ」

 お世辞にも人口が多いとは言えないこの島でも、車は通るのだ。

 慌てて防波堤の反対側へと降りようとしたが、すんでのところで司が引き留めた。

「あれ」

 と言って浜辺に打ち捨てられていた木造の小舟を指さす。

「ん?」

 目を凝らして見ると、陰でリングレットが眠っている。浜の色と陰の色が綺麗に重なって、リングレットがとても見づらくなっていた。

「何だ、いるじゃないか」

 一息ついて、それでもはやる心臓を抑えるためにリングレットの元へ寄る。黒犬はまたもや、いつのまにかいなくなっていた。リングレットは僕の近づく音で目を覚まし、疲れたような顔をして僕を見た。

「はしゃぎ過ぎたんだろ、リングレット」

 ふんと一息鼻を鳴らし、リングレットはのそのそと立ち上がる。

 見ると夕日も相当に低くなっていた。いい加減戻らなければ、晩の給仕が始まってしまう。忘れてはいけない、僕は大人達の目を盗んでリングレットに触れていることを。

 戻りは司と共にまたスペース側の門から敷地へと戻った。リングレットを一輪車に積むのを忘れない。

「やけに長い清掃だったな」

 と、守衛は哀れむように僕に言った。

「まあ雑用なんてこんなものですよ」

 と僕は苦笑いで返す。

 飼育部屋のある研究棟まで司と戻ると、三階奥の部屋で巽はムドリェーツと戯れていた。どうやらこの部屋から一度も出ることはなかったようだ。心底満足そうな巽と半ば辟易しているようにも見えるムドリェーツの様子から、巽が相当に愛情を爆発させていたであろうことはわかった。

 こうして、意外にも簡単に、存外問題なく、僕はリングレットに会うことができた。無知な僕はそれを幸運とは思わず、用意した方策が上手くはまったのだと勘違いしてしまった。

 まるで聡明な賢者のように錯覚していたのだ。無自覚の内に。

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