第22章 ライシアム劇場
ライシアム劇場の贅沢なロビーは明るい電灯に照らされていた。名優アーヴィングは先取の精神に富む事業家でもある。舞台の照明こそ柔らかな光を放つガス灯を好んだが、ロビーや客席の照明には最新の電気設備を取り入れていた。
着飾ったレディたちの宝石が電灯を反射してきらきらと輝き、黒いディナージャケットの紳士達は煙草をくゆらし、軽い飲み物を手にゆっくりと逍遥する。劇場は、ロンドンの上流人士にとっては重要な社交の場であり、新興の中産階級にとっては贅沢な娯楽の場であった。イーストエンドの貧民階級が一ペニーの入場料を払って見世物小屋で奇術やドタバタ喜劇を見ている時、資産に恵まれた人々は一シリング払ってドルリー・レーンやライシアムでシェイクスピアを見る。
今夜のだし物はファウスト。開演のベルが鳴ると、大きく開いた二枚扉を通って人々はほの暗い客席に吸い込まれていった。
観客がいなくなったロビーは夏の終りの砂浜のように閑散としている。この間に従業員はあちこちに置き捨てられたグラスを片付け、椅子の位置を直し、次の幕間の準備をする。忙しく立ち働く彼らは、しかし、ディナージャケットを身につけた赤髭の大男があたりに鋭い目を配りながら歩いてくると、手を止めて丁寧に会釈した。大男は軽くうなずくだけで歩き続ける。大男は多忙なのだ。こうして見回る間にも、次々と面倒事が持ち込まれてくる。
「ミスター・ストーカー、トニックウォーターが品切れになりそうです。どういたしましょう」
「ミスター・ストーカー、魔女が歯痛を起こして唸っています。舞台に出られるかどうか」
「ミスター・ストーカー、ブロッケン山の背景が一部壊れています。搬出した時に破いてしまったようで、どうしますか」
「ミスター・ストーカー、ヴァレンタインの剣が見つかりません」
「ミスター・ストーカー……」
赤髭の大男はその一つ一つに指示を与えながら歩いていく。
エイブラハム・ストーカー、肩書きはアーヴィングのアクティング・マネージャー、だが実際はライシアム劇場の円滑な運営全てに責任を負っていた。
「ストーカーに聞け」
アーヴィングの口癖である。
帝王アーヴィングは、天才の閃くままに、舞台の上に別世界を創造する。誰にも口は出させない。相手役のエレン・テリーでさえ反対はできない。帝王の世界を、ストーカーは裏から支える。何人のエキストラを用意するか、大道具と仕掛けは、音楽と照明は、衣装は間に合うのか、チラシはどれくらい刷るか、巡業に出る時のホテルと列車の手配は……。
すべてがストーカーのがっしりした両肩の上にかかってきた。
「ミスター・ストーカー、久しぶりですな」
聖職者のカラーをつけた男に声をかけられて、ストーカーは立ち止った。
「アルミニウス教授! いつ、ロンドンへ?」
「今日の夕方です。列車が遅れまして、遅刻してしまいました」
ブダペスト大学の神学博士が言った。
「まだ一幕目が始まったばかりです。すぐ、御席にご案内させましょう」
ストーカーは係員に合図した。
「教授、時間がお有りでしたら、後ほどビーフステーキルームへどうぞ。皆さん、喜ばれるでしょう」
「寄らせてもらいましょう。あなたも同席なさいますか?」
ストーカーはちょっと考え、そうさせていたきます、と答えた。
教授が二枚扉の向こうに消えると、ストーカーはまた急ぎ足の巡回に戻った。人数が二人増えたことをキッチンに伝えておかねばならない。
「ミスター・ストーカー、ヴァレンタインが…」
「予備の剣を使え。ミスター・アーヴィングにはわたしから伝えておく」
「違います。剣は見つかったのですが、ミスター・スモザーズが楽屋から消えました」
スモザーズはグレートヒェンの兄、ヴァレンタインを演じる役者だ。殺陣がうまく、ファウストとの決闘シーンは真に迫って手に汗握らせる。ただ一つ、困った欠点があった。
「全員で近くのパブを探せ。どこぞで飲んだくれてるはずだ。見つけたら引っ担いで連れてこい。なんとしても決闘までに連れ戻せ」
ストーカーは走り出した。
そもそもは、まだ無名の俳優アーヴィングがアイルランドのダブリンに巡業でやってきたのが始まりだった。役所づとめの傍ら、地元の新聞に劇評を寄稿していたストーカーは、アーヴィングの舞台を見て感動した。すごい役者が現れた、と書いた劇評が、アーヴィングの目に止まった。数年後、ライシアム劇団を率いるようになったアーヴィングに誘われて、ストーカーは役所をやめ、ロンドンに出てきたのだ。
それから十五年。
ストーカーはおのれの成果に満足を感じながら、ビーフステーキルームのテーブルの周囲に綺羅星のごとく並んだゲストたちを見渡した。
ホストはヘンリー・アーヴィング。相手役のエレン・テリー。旅行家のマクリーン卿、シティの実力者ファンショウ氏夫妻、詩人のロビンス氏、新聞記者のコナー氏、そして先ほどロビーで会ったアルミニウス教授。
今日は十一月九日、ホワイトチャペル連続娼婦殺人事件からちょうど一年がたっていた。話題はどうしても切り裂きジャックの動静に向かった。
「結局、ジャックの正体はわからないんですのよね?」
ファンショウ夫人が言った。
「警察は今も捜査を続けていますよ。諦めるには早いでしょう」
アーヴィングは銀のナイフとフォークを優雅な手つきで操り、軽くあぶった子羊の肉を皿の上で裂いた。
「諦めてほしくありませんわ。わたくし、犯人の動機が知りたいんです。哀れな娼婦たちに、どうしてあんなひどいことをしたのか。もちろん、当然の罰を受けるべきだとも思っていますけれど」
「いずれ、普通の人間ではないでしょう。警察はどう思っているのかしら?」
テリーの言葉に、コナー氏がワインを飲み下して答えた。
「警察が最初に疑ったのは、ジョン・ドルイットという青年なんです。彼は法律家で、同時に学校の教師もしていたんですが、しばらく前から神経衰弱気味だったらしい。彼の家族の一人は、ドルイットがジャックではないかと疑って警察に内々で通報した、それがきっかけで警察が調べ始めたそうです」
「なぜ、逮捕しなかったんですか?」
「証拠がない。ドルイットは医者ではなかったし、ホワイトチャペルの住人でもなかった。ただ、彼は昨年十一月に勤務先の学校を首になり、その後間もなくして入水自殺をしています。その後、ジャックの犯行はぱったりと止んだ」
「神経を病んでいたというのは、気になりますわね」
テリーが言った。「正気の人間に、あんな残酷なことができるとは思いたくありませんもの。ガル博士がここにいらっしゃれば、ご意見を伺えるんですけど」
「ガル博士の御病気には、わたしも驚いているんです。まだ、お加減はよくないんでしょうか?」
アルミニウス教授が口を挟んだ。
テリーは首を振った。
「まだ入院中でいらっしゃいます。病院に行っても、お会いになれないと思います」
そうですか、とアルミニウス教授は肩を落とした。
「教授がお留守の間に、ロンドンでは色々なことが起きましたのよ」
と、ファンショウ夫人が言った。「ヴァン・ホーテン教授、覚えていらっしゃいます?」
「ああ、あの魔法博士ですか」
アルミニウス教授の言葉にロビンス氏が笑い声を立てた。
「失礼。でも、あまりにぴったりなものだから」
「あの人は、まるで中世から抜け出てきたようなことをおっしゃいましたな。ちょうど、今日の芝居のファウスト博士のようだ」
「あの方、亡くなりましたの。殺されたんですのよ。首を絞められて」
ファンショウ夫人は芝居気たっぷりに言った。
「なんと……」
アルミニウス教授は絶句した。
「我々も驚いたんです」
ファンショウ氏が言葉を添えた。
「犯人は?」
「まだ捕まっていません。しかし、奇妙なことがありまして、遺体の口中に石が詰められていたんです」
「石が…」
「マクリーン卿のお話だと、東欧では、ヴァンパイアよけに口中に石を詰めるという習慣があるそうで」
確かに、とアルミニウス教授はうなずいた。「そういう迷信が、まだ、貧しい農民の間には残っています。しかし、まさかロンドンにヴァンパイアがいるとは思えませんが」
「あら、ホワイトチャペルには少し前まで、ホワイト・レディが徘徊してましたのよ」
ファンショウ夫人が言って、事件を説明した。
「それで? その子供達はどうなりました?」
「無事です。傷もふさがって、元気に遊んでいますよ」
コナー氏が答えた。
「それは良かった。すると、ヴァンパイア騒ぎは収まったんですな」
ありがたいことに、とファンショウ氏が言った。「切り裂きジャックの事件も、このまま終わってしまうんではありませんかな。ホワイトチャペルでは今も時折暴力事件が起きますが、ジャックが関わっているようには思えない」
「やはり、その自殺した青年がジャックだったんでしょうか」
テリーが言った。
「さあ、わたしは違うと思います。彼の自殺とジャックの犯行が止んだことは、単に偶然の符合でしょう」
マクリーン卿が言った。
「僕はジャックはアメリカへ逃亡したと思ってます」
ロビンス氏が言った。「去年、逮捕された医者がいましたよね。逮捕されてそのあとすぐ釈放された、彼がジャックだったんじゃないんですか?」
「フランシス・タンブレッティですか? 確かに彼がジャックだったという可能性はありますね」
コナー氏が答えた。「彼には医学的な知識があった。奇人として知られていて、有名な女嫌いだった。ホワイトチャペルに住んでいて土地をよく知っていた。ただ、彼は五十を過ぎていましたよ。ジャックは犯行にも逃亡にも非常に敏捷で素早い動きを見せています。初老の男にそんなまねができますかね?」
「若い共犯者がいれば不可能ではないでしょう?」
ロビンス氏が言った。
「なるほど。二重殺人のリズ・ストライドの殺害では現場に二人の男がいたことを目撃者が証言しています。でも、共犯らしき男が見られたのはその一件だけなんですよ。一緒にいた男はまるで関係のない通行人だったかもしれない」
「しかし……」
反論しようとするロビンス氏を、コナー氏はまあ、待ってください、とさえぎった。
「タンブレッティ=ジャック説には、大きな障碍があるんです。タンブレッティが男色罪で逮捕されたのは、十一月七日です。彼は保釈金を払って釈放されましたが、ここで注目して頂きたいのは、メアリー・ケリーの殺害は十一月九日の早朝、おそらく午前二時頃です。タンブレッティが保釈されたかされないか、ぎりぎりの時間でしょう。タンブレッティは他の四人、八月三十一日のメアリー・ニコルズ、九月八日のアニー・チャップマン、九月三十日のリズ・ストライドとキャサリン・エドウズの殺害には責任があるかもしれない。だが、十一月九日のメアリー・ケリー殺害は別人じゃないかと僕は思っています。メアリー・ケリーは一人だけ、屋外ではなく、部屋の中で殺されています。そして他の四人では残忍な殺しであるにもかかわらず、現場に残された血が少なかったのに、メアリー・ケリーの殺害では、部屋の中は床も壁も血まみれの状態でした。まるで、それこそ、犯人がヴァンパイアで血に酔ってしまったように……」
「ヴァンパイアだなんて、まさか本気でおっしゃってるんじゃないですわね?」
ファンショウ夫人が尋ねた。
わかりませんよ、とマクリーン卿が言った。「我々はさっきまで、子供を襲うヴァンパイアの話をしていた」
僕は、とコナー氏がためらいがちに言った。「メアリー・ケリーの殺害だけは、どうも違うという感じがして仕方ないんです。他の四人には、冷静で確かな手技を感じる。医者が犯人だと言われるのもわかります。だが、メアリー・ケリーの場合だけはもう、無茶苦茶で、まるで子供が怒りにまかせて、癇癪まぎれに切り刻んだような……。僕はメアリー・ケリーを殺した犯人は、彼女をよく知っていたに違いないと思っています。もしもジャックが犯人だったとしても、彼は他の四人とは全然別な感情を彼女に対して抱いていたんじゃないか。そう思っています」
沈黙が続いた。
「ミスター・ストーカー、さっきから何もおっしゃらないけれど、どう思われます?」
テリーが無口なマネージャーを会話に誘った。
「ああ、失礼しました。ちょっと考えごとをしていたものですから」
ストーカーが言うと、ファンショウ夫人が、ぜひ、お聞きしたいわ、とせがむように言った。
「いや、たいしたことじゃありません」
ストーカーはそう言ってお茶を濁した。だが、彼の頭の中では物語が渦を巻いていた。
ロンドンに現れたヴァンパイア。ヴァンパイアになってしまった美しい貴族の令嬢。その婚約者。ヴァンパイアにさらわれる子供たち。ヴァンパイアと戦う人々。科学の時代に突如踏み込んできた中世の悪夢。
これは面白い話になるかもしれない。劇場のマネージャーとして多忙なあまり、文筆の夢をすっかり放棄していたが、これは書いてみる価値がありそうだ。
アルミニウス教授から、東欧のヴァンパイア伝説を聞き出そう。マクリーン卿も、あちらへ旅行したことがあるはずだ。
科学と民間伝承の両方に通じる博識な医者がヴァンパイア狩りのリーダーだ。ガル博士のように信頼できる、統率力にすぐれた医者だ。賢く優しく貞淑な人妻と、明るく華やかで、少しばかり軽薄な若い娘。エレン・テリーと……ファンショウ夫人―若い頃の。そして、肝心のヴァンパイアは。
尊大で貴族的で力に溢れ、まわりの者すべてを屈服させる男。
背が高く、痩身で青白い顔をし、秀でた額がすぐれた知性を思わせる男。
十五年間、わたしの身も心も支配してきた男。
ストーカーはテーブルの頭にすわっているヘンリー・アーヴィングを見た。
アーヴィングは、ワインのグラスを取り上げたところだったが、ストーカーの視線を感じて、グラスを口元でちょっと止めた。いぶかしげな目をして忠実なマネージャーを見たが、微かに微笑むと、グラスを軽く掲げ、血のように赤いワインを飲み干した。
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