第九章 伯爵の依頼
切り裂きジャックを探してもらいたい」と、伯爵は言った。
俺はあっけにとられた。
「冗談だろう」
「わたしは冗談など言っていない」
「ならば、頼む相手をまちがえてる。どうぞヤードへ行ってください。もっとも、連中は、言われなくとも去年から必死で探し回ってますがね。プロだけじゃない。それこそロンドン中の素人探偵がジャックを探してる、何しろ、あのコナン・ドイル氏でさえ、一家言お持ちだ」
「わたしは君に頼んでいる」
「なぜ?」
「君はホワイトチャペルに住んでいる。この探索には現場をよく知っている者が不可欠だ。ジャックがなぜ、凶行後、人が駆けつけるまでのわずかな時間に煙のように消えうせることができたと思う? 二重殺人の起こった夜、ストライドを殺してからエドウズに声をかけるまでわずか三十分だ。ダトフィールド・ヤードからデューク・ストリートまでそんなに早く移動できたのはなぜか? 路地が入り組んだ迷路のようなホワイトチャペルをよく知っている人間が、一般に知られていない近道を使ったからだ、そう思わないか?」
一理はあった。ジャックの捜査を担当している一人の警察幹部が、ごく内々でもらしたぼやきを聞いたことがある。
「我々は全ての入口、現場に通じる全ての路地を押さえたと思っていた。が、その数分後に封鎖区域に五十人の無断侵入者を発見した。我々の気づかなかった通路が二つもあったのだ」
「切り裂きジャックはホワイトチャペルの住人だ」
伯爵は断定した。
「だとしても俺の出る幕じゃない。自警団に相談したらどうだ?」
「外国人嫌いの偏見の塊に、かね?」
俺は黙った。
「君は、メアリー・ケリーを知っていたね?」
「金を払って何回か一緒に寝ただけだよ」
「ミス・ストロンボリがメアリー・ケリーの友人だったと知っているかね?」
「まさか…」
「ミス・ストロンボリは時折、セント・メアリー教会の墓地へ行くだろう? 昨日も行ったはずだ」
「あれは、友人の墓参りだと……」
テッサが仕事の前に墓地へ行くことがあるのは知っていたが、誰の墓かまで詮索したことはなかった。いや、訊ねたことはあるのだが、テッサはただ、昔の知り合い、としか答えなかったのだ。そもそも、自分はテッサについて何を知っているのだろう。もっとも身近にいて、毎日世話を焼いているのに実は何も知らないのじゃないか。突然に足元の地面が崩れていくような心もとなさを感じた。
「ミス・ストロンボリは数年前、まだアメイジング・ヘラクレサになる前のことだが、メアリー・ケリーの世話になったことがある。彼女の運命については非常に心を痛めているようだ」
「なぜ、あなたがそんなことを知っている?」
「調べたからだ。わたしは、メアリー・ケリーはミス・ストロンボリとまちがえられて殺されたのではないかとさえ思う。二人はメアリー・ケリーが殺される少し前、ミラーズ・コートの十三号室で一緒に暮らしていた。ジャックの本当のターゲットはミス・ストロンボリだったのではないか」
「馬鹿馬鹿しい」
一瞬、驚いたが俺はすぐに自分を取り戻した。「なぜ、ジャックがテッサを殺す? ジャックが殺したのはホワイトチャペルの娼婦たちだ。テッサは娼婦じゃない」
「君はなぜ、ジャックが娼婦たちを殺したと思う?」
「多分、娼婦に恨みがあったんだ。病気を移されたとか。親父が娼婦に入れあげたせいで、一家そろって救貧院送りになっちまったとか。こちこちの信心に固まったやつが町を浄化しようとしたのかもしれない。それとも、気の狂った医者がちょっと解剖実習をしたかったので、手近な娼婦を利用したか。救貧院から解剖用の死体を手に入れるのが面倒だったのかも」
「最後の理由が一番近いようだな」
「なんだって?」
「気の狂った医者が実験をしたかった、というのが理由だ」
あなたは、と信じられない思いで訊ねた。「あなたは、ジャックが何者か知っているのか?」
「もちろんだ。さもなければ、君にジャックを見つけてくれなどと頼みはしない」
「切り裂きジャックは誰だ?」
「君は、フランシス・タンブレッティという医者の名前を聞いたことがあるだろう」
フランシス・タンブレッティ。
カナダ生まれの奇人。大西洋の両岸で一時期、切り裂きジャックではないかとみられて評判になった。
タンブレッティは一八三三年、十一人兄弟の末子に生まれた。父親はアイルランドからの移民である。タンブレッティが生まれて間もなく、一家はカナダからニューヨーク州ロチェスターへ移った。彼はここで子供時代を過ごしたが、少年時代の友人は、タンブレッティが運河を上下する船の船員や乗客にポルノ本を売りつけて小遣い稼ぎをする、「下品で無知で不器用なごくつぶし」だったと回想している。十七歳でタンブレッティはロチェスターを離れ、デトロイト、トロント、セント・ジョン、ボストンなどを転々とした。「医者」と自称していたが、おそらく、地元の薬局でアルバイトしたぐらいで、正規の医学教育など全く受けていなかったと思われる。しかし、ドクター・タンブレッティの診療を乞う者は少なくなかったらしい。その証拠に、彼は金には困っていなかった。派手な軍服に身を包み、拍車のついたブーツで足元を固め、胸には勲章を飾り、羽根飾りのついた軍帽までかぶっていた。長い太い口髭を生やし、ワックスでピンと水平に固めていた。純白の馬にまたがり、数頭の猟犬を従えて町から町へと移動した。
タンブレッティの医療は、まったくのでたらめか、多少は実体験に基づいていたのか判然としないが、その理念だけみれば当時の医学水準を越えて進歩的だった。
父なる神はー彼こそは全ての善きものの源であるー
全ての病を癒す手段を与えてくださっている
われらが足元に生える普通の草こそ
賢く使えば、われらを苦痛から解き放つ
タンブレッティが新聞広告に使った四行詩である。
タンブレッティは外科を「切り刻み」と呼んで軽蔑し、当時流行していた砒素や水銀などの金属を使う医療にも反対していた。また、伝統的な瀉血療法にも反対し、薬草を使った治療こそが唯一効果的な治療法であると唱えていた。タンブレッティはアメリカ大陸を広く旅行し、インディアンの呪術師からハーブ療法を学んだと友人に語ったことがあるが、これは嘘とも真ともつかない。
はっきりしているのは、タンブレッティが北米のあちこちの都市で一時的に人気を博したものの、間もなく、一向に快方に向かわない患者から訴えられてその町を逃げ出すというパターンを繰り返したことである。カナダのセント・ジョンではタンブレッティの医療行為の結果、一人のエンジニアが死亡した。医療過誤が証明される前に、ドクターはさっさとカナダを逃げ出し、ボストンに落ち着いていた。
一八七四年、タンブレッティは大西洋を渡り、リヴァプールに診療所を構えた。間もなくロンドンに移り、彼の「ハーブ医療」を基にした丸薬を大々的に売り出す企画を立てたが、うまくいかなかったのだろう、一八七六年にはニューヨークに戻り、次いでサンフランシスコへ移動した。タンブレッティが次に英国へ現れたのは、十年後である。
一八八八年、タンブレッティはリヴァプールに戻り、ついでロンドンへ移った。タンブレッティは五十歳を越え、軍服愛好から英国上流階級風の地味な、しかし「趣味のいい」身なりを好むようになっていた。しかし、今回彼が住まいに選んだのは今までのような一流のホテルではなく、ホワイトチャペル地区の下宿屋であった。経済的な理由か、服装と同じく住まいの好みも変わったのか。それとも他に何か特別な理由があったのか。
切り裂きジャックの事件が起こると、タンブレッティの存在は当然、警察の注目するところとなった。ホワイトチャペル地区に土地鑑があり、医者であり、外国人であり、何人かの目撃証言にある「紳士風の身なり」に該当する。さらに調査の結果、彼が病的な女嫌いであり、ディナーの席上女客と隣り合わせになるのも嫌がり、女を憎悪しているとしか思えないという証言もあった。一八八八年十月、スコットランドヤードはサンフランシスコ警察に連絡を取り、タンブレッティの筆跡のサンプルを送ってくれるよう依頼した。ジャックが送ったと思われる何通かの手紙の筆跡と比較するためである。サンフランシスコ警察はサンプルを送った。ヤードがどう判断したかはわからない。
十一月七日、メアリー・ケリーの殺害の二日前に、ヤードはタンブレッティを男色罪で逮捕した。これは、ジャックとして逮捕するには直接の証拠がなく、とりあえず別件で捕えてさらに証拠を集め、自白を促そうとする意図だったと伝えられる。が、タンブレッティは保釈金を払い、二十四時間以内に釈放されている。保釈金を払ったのは二人の匿名の紳士であった。タンブレッティは裁判に出頭することなくフランスに逃亡し、ついでニューヨークへ向かった。ヤードはアメリカの警察に警告を発し、しばらくの間タンブレッティは警察の監視下にあったが、やがて行方はわからなくなった。
「タンブレッティは逃亡したはずだ」
「戻ってきている」
「まさか」
どうしてわかる、と聞いたが、伯爵は無視した。
「危険を冒してタンブレッティがロンドンに戻ってきた理由は何だと思う?」
俺は黙っていた。答えが恐ろしかった。が、伯爵は平然と言った。
「仕残した仕事をやりとげるためだ」
それから伯爵が語った「仕事」なるものは、途方もないものだった。信じる、信じないは君の勝手だ、と伯爵は言った。だが、わたしはミス・ストロンボリの身の安全を第一に考えている。これは信じてもらいたい。
いつの間にか、物騒な御者が真後ろに立っているのに気がついて、落ち着かない気持ちになった。御者は俺の知らない外国語で伯爵に何か話しかけた。伯爵は同じ言葉で答えた。その言葉の調子からすると、御者をたしなめたようだが、何を話しているのかわからないというのは不安だ。特に、会話の内容が自分のことだと推測できる時には。
「ミス・ストロンボリは天涯孤独の身の上だ。家族はいない。それに一番近い存在は弟子の君だと思って、彼女の保護を頼んでいるのだが、わしはまちがっているかね? もちろん、首尾よくタンブレッティの所在を突き止めてくれたら、謝礼は十分にするが」
「謝礼なんかどうでもいい」
どうでもよくはないが、この場合、意地でもそう言わなければならなかった。
「テッサは俺の師匠だ。師匠を守るのは弟子の役目だ」
こうして、俺は探索を引き受けた。
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