第八章 二重殺人 

 メイドはルイズの寝室のドアをノックした。

 よく晴れた朝である。廊下の突き当たりのステンドグラスから朝の光がさしこみ、磨きこまれた階段の手すりに虹色に反射しているのをメイドは見るともなく、ぼんやりと眺めていた。

 ふっと我に返ってドアに向き直る。

 返事がない。

メイドは首をかしげた。まだ寝ているのだろうか。もう一度、今度はもう少し強くノックしてみる。

「何をしてるの?」

 朝のお茶の盆を抱えた先輩女中が階段を登ってきた。盆の上には二人分の仕度がしてある。昨夜、キリヤコス夫人は娘のルイズの寝室でやすんだ。二人ともまだ寝ているのだろうか?

「お返事がないんです」

「もう一度ノックしてごらんなさい」

 メイドは、力を込めてどんどん、とドアを叩いた。お嬢様、お早うございます、と声をかけた。

 ドアの内側はしんと静まり返っている。

「変ねえ」

 先輩女中はお盆をメイドに渡すと、奥様、奥様とドアを叩きながら、大声で呼んだ。やはり応答はない。

 変事が起きた、と直感した。ルイズはともかく、キリヤコス夫人は朝の早い人だ。これだけ呼んで目覚めないはずがない。

「鍵を貸しなさい」

 若いメイドの両手は渡されたお茶の盆でふさがっている。どうしたものかとおろおろした。

「そんなもの、床に置きなさい!」

 叱咤されて、メイドはあわてふためいて盆を床に置き、エプロンのポケットから大きな真鍮の鍵を取り出して先輩女中に渡した。

 先輩女中は鍵を差し込み、ドアを開けると、そのまま凍りついたように敷居際に立ちすくんだ。

 メイドは先輩女中の後ろから首を伸ばして、部屋の中を覗きこんだ。

 ブラインドの下りた部屋の中は薄暗い。

 キリヤコス夫人はベッドと長椅子の間の床に仰向けに倒れていた。両手で寝巻きの胸のあたりをしっかりと掴み、顔をひきつらせ、叫ぶように大きく口を開いた凄まじい形相で死んでいた。白い寝巻きの前は赤黒く染まっている。それが血だと知って、メイドはひっと息を呑んだ。

 ルイズお嬢様はベッドの中にいる。眠っているように安らかな表情だ。だが、二度と目覚めないだろう。お嬢様の顔色は真っ白で、唇にも血の気がまるでない。お嬢様はぴくりとも動かなかった。

「下に行って朝の間にいるダーリントン卿を呼んで来なさい」

 先輩女中が言った。

「早く!」

 メイドはころがるように階段を駆け下りた。


 母子が亡くなっていることを知ると、ピーターは呆然として床にすわりこんでしまった。クエイドはブラインドを上げて朝の光を入れた。それからピーターに手伝わせて二人でキリヤコス夫人を長椅子に運び、ヴァン・ホーテン教授のホテルに使いを走らせた。教授はすぐに馬車で駆けつけてきた。

 教授はまずキリヤコス夫人の遺体をあらため、喉が引き裂かれている、と言った。

「ナイフのような鋭い刃物だな。ただ、その割には出血が少ないようだ。この人は持病があったかね?」

 ピーターは放心状態だ。代わってクエイドが、夫人の心臓が弱っていたことを伝えた。

 教授は、唸るような声をあげたが、何も言わなかった。

「自殺ですか?」

「自殺するような理由があったのかね?」

「僕の知る限りありません」

「だろうな」

 クエイドは夫人の目を閉じてやろうとしたが、できなかった。夫人がこの世で最後に見たものが何であったにせよ、死んだ後までそれから目が離せないとでもいうように、かっと見開いている。あきらめて、シーツを夫人の頭の上まで引っ張りあげて、顔を隠してやった。

 教授は次にルイズの死体をあらためた。

「このロープは昨夜のままかね?」

 クエイドはピーターを呼んだ。ピーターはよろよろと立ち上がると、ルイズの顔から目をそむけるようにして結び目を見た。

「そうです。ミス・ストロンボリが縛ったままです」

「すると、ルイズ嬢は昨夜から一度もこのベッドを離れていないことになるな。クエイド、君、ちょっと窓を調べてくれ」

「鍵がかかってます」

「僕が昨夜、確かめた。窓は内側からちゃんとロックされてました」

 ピーターが疲れたように言った。

「ドアはどうかね?」

「昨夜、僕自身が外から鍵をかけました」

「ここのドアは内側からは開かないのかね?」

「鍵があれば開きますよ。ただ、鍵は一つしかない。それは朝、メイドに渡すまで僕が持っていた。ルイズの病気のことがあるので、部屋の中に鍵を置いておくわけにはいかないんです。一度、眠ったまま鍵を見つけて外へ出て行ったことがあるので」

「そうすると、昨夜、この部屋に入れる人間はいなかったわけだ」

「窓からは入れるでしょう」と、クエイドは言った。

「ルイズ嬢は動けなかった。でも、キリヤコス夫人には窓を開けることができた」

「二階だよ」

 教授が言った。「梯子でもかければ、そりゃ、入れるかもしれないが、そいつはどうやって出ていくのかね?」

「同じ窓から」

「で、その後、誰が窓を閉めてロックするのかね? 死人には無理だよ」

「死人?」

 ピーターが顔を上げた。

「二人とも、何の話をしているんですか?」

「わしが話しているのはね、ダーリントン卿、キリヤコス夫人は昨夜、何者かに喉を裂かれて殺された。そして、昨夜この部屋に出入りできた人間は、どうやらあなたお一人だけらしい、ということだ」

 ピーターの顔は血の気が引いて、ルイズと同じ、真っ白な仮面になった。唇が震えて、

「何を馬鹿な」という言葉が辛うじて聞こえた。

「わしの見たところ、この親子はほぼ同じ時刻に亡くなっておる。今朝の二時から三時頃じゃな。母親の方は喉を鋭い刃物で裂かれておる。自殺か、とさっきこのクエイドは聞いたな。わが手で喉を突くということもできるが、ならば使った刃物はどこにある? こうして見たところ、一向に見当たらん。刃物が一人で歩いていくとは思えんし、第一、この部屋は今朝まで密閉されておったのだろう? すると、誰かが持ち出したことになる。自殺するような理由がないとすれば、その誰かが、刃物を振るった本人と考えた方が良さそうだ。一緒の部屋にいたのは娘のみ、しかもその娘はロープで縛られていて、ベッドから動けなかった。そうなるとだ、夜中にこの部屋に入ってきて、その後再び部屋を密閉できたのは、あなたお一人、ということになる」

「冗談じゃない!」

 ピーターは叫んだ。「あなたは頭がおかしい!完全に狂ってる!」

「ピーター」

 クエイドは彼の肩に手を置いた。「落ち着けよ」

「落ち着けだって! クエイド、君には悪いが、君の連れてきたこの医者は狂人だ。すまないが、さっそくに引き取ってもらってくれ」

「帰れ、と言うなら帰りますがな。わしが帰るとあなたがお困りになりませんか?」

「狂人に用はない。即刻お帰り下さい」

「わしの方が警察よりマシだと思いますがな」

「警察?」

 ピーターの声にはあっけにとられた響きがあった。

「まさかあなたは、医者の死亡診断書もなしに、この親子の葬儀を出せると思っておいでじゃないでしょうな。母親と娘が一晩のうちに突然、死んだと知れば、家族友人知人は当然、どうしたことだと不思議に思う。あなたはどう説明するおつもりですか? 召使に口止めをなさるおつもりだろうが、こういうことは必ず漏れるものです。あなたのご身分からすれば、なんとしてもスキャンダルは避けたいところじゃないですか?」

 ピーターは真っ青になった。

「僕は……。僕にも知り合いの医者はいる。キリヤコス夫人の主治医とは懇意だし、彼に頼めば……」

「どんなヤブ医者にも、キリヤコス夫人の首が刃物で裂かれとることはわかりますよ。そうなれば、十分とたたないうちに、メトロポリタンポリスがあなたの生活の中に入り込んでくる。ルイズ嬢を縛り上げたことといい、鍵をかけて親子を閉じ込めたことといい、連中の好奇心は大いに刺激されるでしょうな」

「ピーター、ここは教授にお任せした方がいい」

 クエイドは言葉を添えたが、君は黙っててくれ、と激しく言い返された。

「だが、ピーター。警察が関わってくると否応無く君の立場は悪くなる。キリヤコス夫人は最近、遺言状を新しく書き換えたんじゃないか?」

 ピーターは目に見えて動揺した。

「ほう。遺言状があるのですか」

「夫人は自分はあまり長くないと思ってられたようで、財産を娘のルイズと婚約者のピーターに遺す遺言状を作られたはずです」

「すると、ルイズ嬢も亡くなった今、全てはダーリントン卿へ行く、と。これはこれは」

「君たちはまさか、僕が財産目当てに何かした、とそう思ってるわけじゃないだろうな」

「僕はそんなこと思ってもいない。ただ、世間の見る目を考えろと言っている」

 ピーターは黙り込んでしまった。しばらく、絨毯の一点をじっと見つめていたが、やがて力のない声で言った。

「どうすればいい?」

「わしにまかせなさい」

 ヴァン・ホーテン教授は自信たっぷりに言った。

「わしを信じて、まかせることです。キリヤコス夫人は持病の心臓疾患で亡くなり、ルイズ嬢も貧血がひどくて亡くなられたと病死の診断書を書いてさしあげよう。あなたは安心して、葬儀の準備をなさればいい」

「それは有りがたいが、しかし、なぜ、あなたが?」

「こんな手間暇かけるのか、というのですな。もっともだ。一つには、わしは、クエイド君とは友人ですからな。友人の親友であるあなたを助けるのに否やはない。もう一つは、わし自身、この件に興味があるからですな」

「興味?」

「さよう」

 ヴァン・ホーテン教授はルイズの首にある小さな二つの穴を示した。

「この傷はいつから?」

 ピーターは不思議そうにピンで突いたような刺し傷を見た。

「さあ、僕は初めて見ます」

「一昨日の夜からだよ」

 クエイドが答えた。

「ミス・ストロンボリが来られなくて、ルイズ嬢がロープから抜け出しただろう。霧の中に赤い目を見たと言ってたじゃないか。朝になったら、その傷がついていた」

「あれは夢だよ」

 と、ピーター。

 クエイドは教授に、ルイズが霧の中に赤い目を見た話をした。

「実に興味深い、不思議な話ですな」

 ピーターは肩をすくめた。が、教授は、そればかりじゃない、と続けた。

「この件にはまだ、不思議なことがある。昨夜、誰も入れなかったはずのこの部屋に誰かが忍び入り、もっと不思議なことに煙のように消えてしまった。キリヤコス夫人は殺される前に何か恐ろしい体験をされたようだ。声をたてて人を呼ばれたかもしれない。午前二時から三時の間、不審な物音とか、声を聞いた覚えはありませんか」

 クエイドもピーターも首を振った。

「召使の部屋は離れているから無理だろうが、あなた方お二人は同じ二階の並びの寝室におられたのでしょう?」

「だが、本当に、僕は何も知らない」

 ピーターが言った。

「僕もだ」とクエイド。

「ふむ。それでは仕方がない。ダーリントン卿、葬儀の手配を始められた方がよくはないですか? 召使達には、先ほど言った通り、病死とお伝えになってよろしいですよ」

 ピーターが出て行くと、クエイドは、ルイズの手足の縛めを解いた。

「もう一つ、不思議なことがありますよ、教授」

「ほう、何かね?」

「婚約者が死んだというのに、涙ひとつこぼさない男です」

「ふむ」

 ヴァン・ホーテン教授は鼻の下を撫でて考え深げに言った。

「わしにはちっとも不思議じゃないがね。そんなことを不思議に思う君の方が、わしにはよほど不思議じゃわい」

 クエイドは黙ったまま、複雑な固い結び目をほどいていた。

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