第7章 切り裂きジャックツアー

 閉店まではまだ間があったが、飲み足りない蛇使いを後に残して、俺はブルヘッドを出た。元々酒はそう強いほうじゃないし、懐も心細い。でこぼこの石畳のあちこちに残った水たまりを避けながら、宿までの道をひとりでゆっくりと歩いた。空気は澄んで冷たく、ほてった身体に心地よい。顔見知りの娼婦から誘われたりもしたが、おけらだと断わった。警官の青い制服とも何回かすれ違った。警察が警戒を強めてるのは本当らしい。ネリーやキャシーたちのことを思い出し、少し安堵した。

 コマーシャル・ストリートを北に向かい、宿に続く横道に入ろうとした時、後ろから雷鳴のような地響きをたてて二頭立ての馬車が走ってきた。泥水を跳ねかけられない用心に、急いで脇へよけた。が、馬車はすぐ目の前でとまった。

 二頭の黒馬は疾走をいきなりとめられて鼻から荒い息を吐き出している。御者が飛び降りると、うやうやしく黒塗りのドアを開いた。

「杉崎三郎氏ですな」

 中から男の声がした。馬車の中は暗くてよく見えない。あいにく街灯の光も届かないところだった。どうして俺の名前を知っているのか。馬車も馬も立派なものだ。こんなものを乗り回す人種に知り合いはいない。黙っていると、中の男は馬車の奥から身を乗り出して少しだけ顔を見せた。蒼白な顔をした中年の男だ。貴族的な鷲鼻に強い顎の線、唇が女のように赤いのが暗い中でも目についた。

「乗りたまえ」

 丁寧だがはっきりと強制的な響きがあった。

「あんた、誰だ? 俺に何の用がある」

 男は、それは後ほど話す、とだけ言った。

「とにかく、中へ。お宅まで送ろう」

「結構」

 断わって歩き出そうとすると、それまで黙っていた御者がずいと前に出て、ゆく手を塞いだ。

「御前がああおっしゃってます。どうぞ」

 怒りを押し殺したような、かすれた声だった。御者は小柄だが、敏捷そうな身体つきをしてる。こいつをぶちのめすことはできるか? 子供の頃から一応の体術は仕込まれている。慎重に足を開き、攻撃の機会をうかがった。御者の方も俺の気の変化を感じ取ったらしい。一歩下がってつばの広い帽子の陰からこちらの様子をうかがう。御者の両手がじょじょに上がり胸の前で握りこぶしを形作った。御者の身体が急に伸び上がるように大きくなった。いや、現実にそんなことはないのだが、そう感じた。おそろしく獰猛で危険な動物を前にしたように総身が緊張した。こんなことは初めてだ。

「よせ、マノーラ」

 ぴしり、と鞭のような声が響き、御者はこぶしを開いた。危険な気配は一瞬にして消えうせた。俺は大きく息を吐き、シャツの袖で額の汗をぬぐった。

「ロンドンの真ん中で人さらいか?」

「とんでもない。ご相談したいことがあるから、馬車に乗って頂きたいと申し上げただけだ。わたしは、ド・ヴィル伯爵」

「ド・ヴィル伯爵? 知らないな」

「あなたの師匠のミス・ストロンボリの崇拝者だ」

 テッサのショーを見に来た客か? 俺が考える間もなく、伯爵は言葉を継いだ。

「とにかく、馬車に乗ってくれたまえ。一晩中、ここにいるつもりかね?」

 物騒な御者はまだ、行く手を塞いでいる。俺は降参して馬車に乗り込んだ。

 間もなく、馬車は走り出した。が、方角が違う。

「どこへ行くんだ?」

「黙ってしばらく付き合ってくれたまえ。そんなに時間はかからない」

 伯爵は座席の下から銀製のフラスクとワイングラスを取り出した。

「やるかね?」

 結構だ、と答えた。

「毒など入っていないよ。スリヴォヴィッツ。わたしの国のプラム・ブランディだ」

 伯爵はグラスにフラスクから血のように赤い液体を注いだ。ふわりと果実の香りが漂った。

「酒はもう、飲んできたんだ」

「では、失礼して勝手にやらせてもらう」

 伯爵の言葉には、かすかにどこの国ともしれないアクセントがあった。

「あんたの国って?」

「トランシルヴァニア、と言ってわかるかね? ハンガリーとトルコに近いカルパチア山脈の中だ」

 俺のヨーロッパ地理の知識はあやしいものだったが、漠然と西洋が東洋に移り変わっていくあたりの遠い異国を思い浮かべた。

「ロンドンへは仕事で?」

「人を探しに来た」

 誰を、と聞きたいところだが、どうでもいいことだ、と思い返した。

「で、俺に何の用がある?」

 伯爵が答える前に、馬車がとまった。御者がドアを開ける。

「降りたまえ」

 この偉そうな口調はどうにも腹立たしい、と思いながら馬車を降りた。伯爵も続いて降りてきた。

 ホワイトチャペルには無数にあるような、両側をレンガ造りの倉庫に挟まれた狭い暗い通りだ。一箇所、荷馬車の出入り口になっている木製のゲートがあった。今は閉まっているその前で伯爵は立ち止まった。

ここは……。

「君の思っているとおりだよ。バックズ・ロウだ」

 

 去年、一八八八年八月三十一日の午前一時四十分、メアリー・アン・ニコルズはベッド代の四ペンスを払えないために、木賃宿を追い出された。午前二時三十分、友達のエレン・ホーランドがオズボーンストリートとホワイトチャペルロードの角でニコルズを見かけて言葉を交わした。彼女は、「ベッド代の二倍は稼いでたんだけど、全部飲んじゃったから文無しなの」と言った。ニコルズは九年前、彼女のアルコール中毒が原因で夫と別れていた。その後、エレンはニコルズがバックズ・ロウの方に向かって歩いていくのを見ている。この時はニコルズは一人だった。

 三時四十分、仕事に向かう途中の男二人が荷馬車でバックズ・ロウを通りかかり、ニコルズが倒れているのを見つけた。二人はあわてて警察を呼びに行ったが、警察が到着する前の三時四十五分、パトロール中の巡査が通りかかり、ニコルズを見つけた。午前四時、警察の嘱託医ルウェリン医師が到着した。

ニコルズは喉を刃物で切り裂かれ、腹部を肋骨の下から骨盤まで切り開かれていた。死体の脚はまだ温かく、ルウェリン医師は死後三十分たっていないと診断した。荷馬車の男二人が通りかかった時、ニコルズはまだ息があった可能性がある。二人は怯えて、ろくろく確かめもしないで警官を呼びに走ったのだ。ニコルズの財布は空だった。ニコルズは自分の血の中に浸るように倒れていて、警察は殺害の現場はここであると判断した。夜が明けて早々に、現場の血は洗い流された。

「君はホワイトチャペルに住んでいる。ジャックの事件には詳しいだろう。ニコルズが切り裂きジャックの最初の犠牲者と、考えていいかね?」

「ニコルズの前に、二人、娼婦が襲われてる。この二人をジャックの事件に含める人もいるが、犯人の手口が全く違う。この二人は土地のギャングとの争いで殺されたんだろう。元々、ホワイトチャペルは暴力とは縁の切れない土地柄だ」

 ふむ、と伯爵はうなずいた。

「凶器は?」

「ルウェリン医師は、ナイフだと確信を持って言った。警察は凶器を捜して付近を捜索したが見つからなかった。近隣の住人は警察の問いに対して、叫び声も悲鳴も争いの物音も何一つ聞いていない、と答えている。バックズ・ロウに繋がるホワイトチャペルロードは比較的人通りの多い通りで、特に早朝は仕事に出る労働者や、帰宅する娼婦達が利用する。ところが彼らも悲鳴や大声を聞いてはいないし、不審な人物も見ていない」

「言ってみれば」と伯爵は言った。「ジャックは死体だけ残して、煙のように消えてしまった、ということになる」

「まあ、そうだ」

「次に行ってみようか」

「アニー・チャップマン?」

「その通り」

 どうやらこの外国人の伯爵は、切り裂きジャック・ツアーをするつもりらしい。そして俺はそのガイドというわけだ。いいさ、と思った。こうなれば、とことん付き合ってやって、何をたくらんでいるのか、あばいてやる。

 馬車はハンブリイ・ストリート二十九番地で止まった。

 

 九月八日、ニコルズの葬儀のちょうど一週間後にジャックは二度目の犯行を行った。

 アニー・チャップマンは前日の夕方、ドーセット・ストリートの木賃宿に酔っ払って現れ、キッチンでポテトを食べていた。宿のマネージャーはチャップマンが四ペンスのベッド代を持たないと知ると、追い出した。午前零時半頃だったという。その後数時間の彼女の足取りはわからない。最後にチャップマンを見かけたのはエリザベス・ロング夫人で、朝の五時半に、ハンブリイ・ストリートでチャップマンが外国人らしい男と話をしているのを見かけた。ジャックらしき男の最初の目撃例として後ほど注目された証言である。ロング夫人は、その男のアクセントから外国人だと考えた。五時四十五分、ハンブリイ・ストリート二十九番地の住人が仕事に出かけようと裏口を出たところで、チャップマンが裏庭の塀のそばに倒れているのを見つけた。犯人は被害者の喉を切り裂き、腹部を切って小腸を引き出し、子宮を切り取って持ち去っていた。死体を調べたフィリップス医師は、犯人はある程度の解剖学の知識を持っている、と証言した。

「警察はホワイトチャペル界隈の医者、医学生、家畜解体業者、肉屋などを片っ端から調べた。ホワイトチャペルから近いテームズの波止場には、毎週木曜日か金曜日に大陸から運ばれてきた肉牛が荷揚げされ、船は日曜か月曜に大陸に戻っていく。犯行が週末の夜に起き、週の中ばは無事なことから、ジャックは船員じゃないかという説も出てきた」

「なるほど」

「この事件では、被害者が最後に生きている姿で見られてから、死体で発見されるまでせいぜい十五分、長くても三十分程度しかない。なのに、手がかりがまるでない。二十九番地は数家族が住んでいるアパートだが、誰も不審な物音を聞いていない。朝の五時で周囲はかなり明るいはずなのに誰も不審な人間を見ていない」

「不思議だな」

 だから、妙な説も出てくる。ある陰謀説でジャックではないかとひそかに名指されているやんごとなきお方がいる。

 凄惨な連続殺人事件に、ホワイトチャペルの住人は恐慌をきたし、姿の見えない殺人者を恐れ、犯人を捕まえられない警察を非難した。ラスクのホワイトチャペル自警団が組織された。英国人がこんな残虐な犯罪を犯すはずがない、という信念と偏見に従って、彼らはイーストエンドに大量に入り込んでいるユダヤ系移民を槍玉にあげた。新聞はありとあらゆる仮説を書き立て、警察には犯人と称する人間からの手紙が次々に届いた。そのうちの一通に、ジャック・ザ・リッパー(切り裂きジャック)の署名があったことから、ホワイトチャペル連続殺人事件の犯人は切り裂きジャックと呼ばれることになった。この手紙そのものは、しかし、犯人からではなく、事件を大きく興味深くするために、新聞記者が捏造したものと言われている。

 次の事件は、九月三十日に起きた。ダブル・マーダー(二重殺人)と呼ばれる。

 伯爵の馬車はバーナー・ストリートにとまる。


 九月二十九日の夜は雨が降っていた。エリザベス・ストライドは夜の十一時頃、パブの入口で男と雨宿りしていた。十二時三十五分、巡回中の巡査がバーナー・ストリートで赤い鼻をした女が男と話しているのを見かけた。後に巡査はこの女をストライドだったと証言している。一緒にいた男の方は巡査の証言によれば、年齢二十八歳ぐらい、身長五フィート七インチ、浅黒い肌に小さな黒い口髭、黒いフロックコートに固いフェルト帽、白いカラーにネクタイをしていた。十二時四十五分、帰宅途中のイズラエル・シュワルツという男が、コマーシャル・ストリートからバーナー・ストリートに曲がったところで、男が女と争っているのを見かけた。男は女をつかんで引きずり倒そうとしているように見え、女は低い声で三度悲鳴をあげた。面倒を恐れたシュワルツは、道路を反対側に渡ったが、そこで、別の男がパイプに火をつけているのに気がついた。第一の男は、パイプの男に「リプスキー」と呼びかけ、シュワルツは急いで逃げ出したが、パイプの男に鉄道の高架下まで跡をつけられて大変怖い思いをしたという。シュワルツは後にモルグで、彼の見た女が被害者であると証言した。シュワルツの目撃証言によれば、第一の男は年齢三十歳ぐらい、身長五フィート五インチ、肌の色は白く、髪は褐色、小さな褐色の口髭、黒っぽいジャケットにズボン、黒いふち無し帽、手には何も持っていなかった。第二の男は三十五歳ぐらい、五フィート十一インチ、肌は白、明るい茶色の髪、茶色の口髭、黒っぽいコート、古風なつばの広い黒い帽子、口に陶製のパイプをくわえていた。

 この後、午前一時、ユダヤ人社会主義者クラブの書記をつとめているディエンシャツという男が、荷馬車でバーナー・ストリートを通りかかり、ストライドの死体を見つけた。ストライドは喉を切り裂かれていたが、それ以外の死体の損傷はなかった。警察は、ジャックがシュワルツ、またはディエンシャツの出現に驚いて急いで立ち去ったため、と見ている。

「シュワルツの見た男と、その十分前に巡査の見た男とではかなり外見が違うな」

「雨模様の暗い夜だから、目撃証言がどの程度正確かはわからない。警察はどちらの証言も新聞に公表し、情報を集めていた。パイプの男については、全く疑っていなかったようだ。後をつけられたというのは、シュワルツの主観に過ぎないわけで、パイプの男も同じ方向に逃げ出しただけ、とも考えられる」

「リプスキーというのは?」

「警察の調べでは近隣にその名前の該当者はいなかった。シュワルツ自身がユダヤ系移民で、英語が不自由だった。だから、別の言葉を聞き違えたとも考えられる。第一の男が怪しいのは確かだが、ジャックと断定はできない。シュワルツがこの男を見てからストレイドの死体発見まで十五分ある。第一の男が立ち去ってから、別の男がやってきたとも考えられる。ストレイドの死体は首以外は損傷を受けていないから、時間的には別人の犯行の可能性もある、と警察は判断したようだ」

「この夜、ジャックは忙しかったようだな」

 伯爵の馬車は、この夜の第二の殺人現場、マートル・スクエアに向かった。

 

 キャサリン・エドウズは九月二十九日の夜八時半、オルドゲイト・ハイ・ストリートで酔っ払って騒ぎを起こし、警察に逮捕され留置所に入れられた。日にちが変わって三十日の午前一時少し前、目がさめ、酔いもさめたからと留置所を出ていった。

 マートル・スクエアはデューク・ストリートから入れるが、その名前のとおり、四方を背の高いビルに囲まれた、広場のようなところだ。午前一時三十分、ワトキンス巡査が巡回経路にあたるマートル・スクエアを通り過ぎた時、あたりは静まり返って猫の子一匹いなかった。一時三十五分、デューク・ストリートを通りかかった四人の男が、エドウズが男と話しているのを見かけた。三人はさして興味も持たずに通り過ぎたが、一人は比較的よく男を観察していて、後日警察に男の外見をこう証言している。年齢三十歳ぐらい、身長五フィート九インチ、船員風の身なり、肌の色は白、小さな口髭を生やしていた、と。

 一時四十四分、巡回経路を戻ってきたワトキンス巡査がマートル・スクエアでエドウズの死体を発見。エドウズは喉を切られ、腹も切り裂かれていた。顔も傷つけられていて、まぶたと耳、子宮と左の腎臓が持ち去られていた。ワトキンス巡査は即座に応援を呼び、数分後には四人の警察官が到着、付近の建物、路地を調べ始めた。二時二十分にはエドウズの血染めのエプロンの断片が付近の家の入口で発見された。その家の壁に、「ユダヤ人は理由なく非難されているわけではない」とチョークで書きなぐられていた。

 この夜、ジャックは十二時四十五分から一時の間にバーナー・ストリートでストレイドを殺し、一時三十五分から四十四分の間にマートル・スクエアでエドウズを殺したことになる。 

 伯爵はエドウズの死体が発見されたあたりに立つと、周りを見回した。レンガ造りの三階から四階建ての建物が取り囲み、広場を見下ろすように窓も多い。

「ここに住んでいる人間は多いんだろう? 誰か犯人を見たり聞いたりした人間はいないのか?」

「俺も意外に思ったんだが、誰もいないんだ。ここには引退した警官が一人住んでいて、犯人を見なかったことをひどく残念がってた。しかし、本当に不審な音も声も何も聞かなかった、と言う。暗い雨の夜のせいかもしれない」

「落書きはどうなった?」

「夜明け前に警察の判断で消された。ただでさえ、人種的な緊張が高まっている時に、こんな落書きが見つかったら、それこそ暴動が起きかねないと心配したんだ。ユダヤ系移民は、それでなくても石を投げられたり、暴言を吐きかけられたり、ひどい目にあっていたから」

「誰も何も見ず、聞いてもいない、か」

「十月の十六日に、自警団団長のラスク宛に手紙と小箱が郵送されてきた。小箱の中身は腎臓の一部で、医師は人間のもの、と判定した。エドウズのものかどうかはわからない。医学部の学生が、解剖実習の際に人間の腎臓を手に入れることはそれほど難しくない。警察は小箱と手紙の送り主をたどろうとしたが、失敗した」

「しかし、きわどいタイミングじゃないか。生きているエドウズが見られてから、死体が発見されるまでわずか九分か」

「それもあって、ジャックの医者説が出ている。深夜、ランプの光だけを頼りに、わずか数分で腎臓と子宮を摘出したとすると、素人ができることじゃない」

 伯爵はうなずいた。

「一理あるな」

 もう一度、ぐるりとあたりを見回してから、では、次に行こうか、と言った。

 ジャックの最後の犠牲者。

 メアリー・ケリー。

 ドーセット・ストリートからミラーズ・コートへ入る路地の入り口で馬車はとまった。

 警察の懸命な捜査も成果があがらず、ジャックの正体はわからない。ただ、ジャックはダブル・マーダーから一ヶ月以上姿を見せず、これで終わったのかもしれない、とホワイトチャペルの娼婦たちが少し気を緩めた十一月九日、ジャックの最後の殺人―それも一番残虐な殺人が起こった。

 

 メアリー・ケリーはミラーズコート十三号室に魚市場で働くジョセフ・バーレットと暮らしていた。家賃は週に四シリング。ベッドとテーブル、椅子が二つあるだけの狭い一間きりの部屋だが、ベッド一つを一晩単位で借りている女たちに比べれば恵まれた生活をしていた。それも長くは続かず、バーレットが職を失くすと、とたんに家賃が滞り始めた。バーレットが出ていき、メアリー・ケリーは売春で暮らしを立てるようになる。メアリーが死んだ時、家賃は二十九シリング滞っていた。

 十一月九日金曜日の午前零時、階上の部屋に住むアン・コックス夫人はメアリーが部屋に男を連れて入るのを見かけて「おやすみ」と声をかけたが、メアリーは返事をしなかった。泥酔しているようだった、とコックス夫人は証言している。

 午前二時、ジョージ・ハッチンソンがコマーシャル・ストリートでメアリーに会った。ハッチンソンはメアリーに声をかけ、メアリーは六ペンスを要求した。ハッチンソンは文無しだった。メアリーはあっさりと、「金が要るの」と言って歩き続けた。通りの反対側からやって来た男がメアリーの肩を叩き、話しかけた。二人は笑いながらハッチンソンを通り越してミラーズコートの方に戻っていった。未練のあるハッチンソンは二人がメアリーの部屋に入っていくのを見届け、部屋の外で四十五分ほど待っていたが、二人は出てこない。ハッチンソンは諦めて立ち去った。午前四時少し前、付近の住民は「人殺し!」の叫び声を聞いたが、喧嘩か何かだろうと無視した。

 午前十時四十五分、家主の使いが家賃の徴収にやってきて、ノックしたが返事がない。窓から中を覗き、腰を抜かし、悲鳴をあげて警察を呼びに行った。

 メアリー・ケリーは裸でベッドの上に横たわっていた。喉を裂かれ、顔は判別がつかないほどめちゃくちゃに切り裂かれていた。鼻、耳、まぶたは切り取られ、肉片がそぎとられて骨がむき出しになっていた。乳房は切り取られ、腹部は切り開かれて内臓を取り出されてほぼ空っぽだった。子宮と腎臓は片方の乳房と一緒に頭の下に、もう片方の乳房は右足の脇に、肝臓は両脚の間に、小腸は胃に繋がったまま取り出されて身体の右側に、脾臓は左側に置かれていた。心臓は持ち去られていた。脛、腿の筋肉がそぎとられてテーブルの上に置いてある。

 メアリーの服はきちんとたたまれて椅子の上に置いてあり、抵抗した後がないことから、彼女は殺人者を全く疑っていなかったと思われる。

 話しながら、声がかすれてきた。俺はメアリーの死体を見ていない。見なくて幸いだった。発見者も、その後で駆けつけてきた家主も、繊細な神経などかけらもない粗野な男たちだが、長い間、夢に見てうなされた、と聞いている。

「警察がドアを破って入ったと聞いたが、ドアはロックされていたのかね?」

「ロックされていて、鍵は部屋の中に見つからなかった。犯人が持ち去ったと思われてる。心臓と一緒に」

「ふむ。そしてこれ以後、ジャックはあらわれていないんだな」

「メアリー・ケリーの後、二件、女が殺される事件が起きてる。それをジャックの事件に含める人もいるが、多分違うだろう。ジャックが殺したのは、メアリー・ニコルズからメアリー・ケリーまでの五人だ」

「不思議な事件だな。いったい、何のために殺したのか。犯人は誰なのか。いったい、どこへ消えたのか」

「それは警察が一番知りたいだろうよ」

「いや、わたしが知りたいんだ」

 伯爵は俺に向き直って言った。

「そのためにロンドンへ来たのだからね。わたしは、切り裂きジャックを探しに来たのだよ。君にその探索を頼みたい」

 俺はしばらく口がきけなかった。


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