第6章 ルイズの夢

「昨夜は来られなくて悪かった。予定外のお客があったんだ」

 テッサが約束を破って、お嬢さんに話しかけたのは初めてだ。ベッドに寝ているお嬢さんは黙ったまま、口元に微笑を浮かべた。気にしていない、と言ってくれているのだ、と思うことにした。

「昨夜はあいつらが縛ったんだってな」

 お嬢さんの微笑が消えた。困惑したような表情がその顔に浮かぶ。

「返事しなくていいよ。口をきくなって言われてるんだろ」

 ロープを取り出すと、お嬢さんは素直に両手を預けてきた。

 テッサは、きれいなお人形さんのような少し年上の女を気の毒に思っていた。

 眠りながら歩くのは困るけど、それでも、ベッドに縛り付けるのはひどい。このお嬢さんは身の安全のため、と説得されて同意してるんだろうけど、素直過ぎる。今だって、この部屋の中には自分達二人しかいない。しゃべったって誰にもわかりゃしない。だから、言いつけなんか守んなくたっていいのに。

 でも、良い家のお嬢さんなんてそんなものかもしれない、とも思う。

 前に奉公していた屋敷にも子供がいた。いい着物を着て、乳母と家庭教師と女中に何から何まで世話を焼かれ、大切にされてた。ピアノを習い、絵を習っていた。同じような年頃なのに、毎日、急な階段を上り下りして水汲みに励み、はいつくばって床を磨いている自分とは大違いだ。生まれる家が違ったというだけで……。不公平じゃないか。

 ある日、庭の隅で泣き声を聞いた。お屋敷のお嬢様が身体を小さく丸めてしゃがんで泣いている。召使たちはみんな、知っていて知らないふりをした。テッサも、見ないふりをしろ、と先輩女中に言われた。

「お嬢様は奥様の言いつけにそむいて、お仕置きを受けたんだよ。あたし達には関係ないことさ」

 あとで知った。お仕置きとは、鞭で尻をひっぱたかれることだ。

 お嬢様がどんな悪いことをしたのかは知らない。だけど、あんな風に一人ぼっちで、庭の隅でしくしく泣くしかないのはかわいそうだ。あたしだって殴られたことぐらいある。死んだ父親はジンが入ると悪魔になった。だけど、こっちだっておとなしく殴られてばかりじゃない。大声で泣きわめき、噛みつき蹴りとばし抵抗し、家を飛び出すとそこには必ず、どうしたんだい? と聞いてくれる人たちがいた。近所の連中が騒ぎを聞きつけて、野次馬根性丸出しで話を聞き、一緒に憤慨し、ついでに慰めてもくれた。ひとりぼっちじゃなかった。

「あんたね、縛られるのがイヤならそう言っていいんだよ。あたしは一ポンド儲け損ねちゃうけど、あんたのあの兄貴だかなんだかの言うなりになるのもイヤになってきたよ」

 お嬢さんは黙っている。あの若い男は、お嬢さんがあたしに会えなくてがっかりしたようなことを言ってたけど、ただのお世辞だったんだ。本気にして忠告するなんて馬鹿みたいだ。テッサは肩をすくめて仕事を続け、ロープを四柱寝台の柱に固定すると、立ち上がった。

「じゃ、あたしはこれで。おやすみ」

 ドアに向かった時、背後から小さな声がした。

「待って」

 振り返ると、お嬢さんがこっちを見ていた。瞳にすがりつくような光があった。

「行かないで。お願い」

「どうしたのさ」

「怖いの」

「何が?」

「霧が」

「霧?」

 お嬢さんは目でブラインドの下りた窓の方を指した。テッサは部屋を横切り、ブラインドを上げてみた。風のない、静かな夜だった。大きく枝を広げた楓の木の間から、濃い藍色の空がのぞいている。太った三日月の光が、下の芝生に影を落としていた。

「月が出てるよ。雲も無いし、今夜、霧が出るとは思えないけど」

「昨夜、霧の中に誰かがいたの。ピーターは信じてくれなかった。夢だって言うの。でも、わたし見たのよ」

「何を」

「赤い目」

 テッサはベッド脇にすわった。

「初めから話してみろよ。昨夜はどうした? あいつらが縛ったんだろ」

「ピーターが」

「あの眼鏡の方か?」

 お嬢さんは恥ずかしそうに、婚約者なのだと言った。

「ピーターが出て行った後、わたし、長い間寝つけなかった。ピーターのやり方だと、縛り方は緩いのに、変にロープに腕が引っ張られるみたいで、居心地が悪くて。随分長い間、目を開いたままじっとしてたの。それでもそのうち、眠ったんだと思う。目がさめたら、窓のブラインドが上がっていて、月の光が部屋の中にさしこんでた。変だなと思った。だって、寝る前にクエイドがちゃんと窓を閉めて、ブラインドを下ろしていったんですもの。それから、ロープが全部ほどけてるのに気がついた。それで、また病気が出たとわかった。多分、眠っている間に自分でほどいて、ブラインドを上げたんでしょう。月光はまともにベッドの上にさしこんでいて、これじゃ、眩しくて眠れないと思った。で、起き上がってブラインドを下ろしにいった。ブラインドのヒモが何かに引っかかって中々下りてくれなくて、苛々しながらしばらくヒモをいじってた。そしたら……急に部屋の中が暗くなったような気がした。窓の外を見ると、真っ白だった。今まで見たこともないような、濃い霧が渦を巻いて流れていて、空は見えない。楓の木の太い枝だけが、ぼうっと黒く浮かび上がっていた。とても恐ろしくて、でも、とてもきれいだった。わたし、窓を開けて手を霧の中に差し出した。冷たい湿った空気がすうっと裸の腕を撫でて、気持ちよかった。窓から身を乗り出して、顔全体に冷たい空気を受けた。手も、腕も、髪も細かい水滴でぐっしょりと濡れた。でも、気にならなかった。わたし、どうかしていたのかもしれない。そのまま目を閉じて、じっとしていた。その時、霧の渦の向こうに、赤い目が現われたの」

「目を閉じていたんでしょう?」

「その時は目を開いていたんだと思う。霧の中で赤い二つの目がじっとこっちを見ていたのをはっきり見たから」

「ふくろう? 何か夜行性の動物? 大きなネズミか猫が楓の木の上にいたんじゃないか」

 お嬢さんは首を振った。

「わからない」

「それからどうした?」

「あとはよく憶えてないの。赤い目がぐるぐる回りながら頭の芯に食い込んでくるみたいで、気分が悪くなった。朝になって、メイドが起こしに来た時、わたしは窓のすぐ下の床の上で眠っていたんですって」

「窓は?」

「閉まっていた。ブラインドも下りていたって」

 お嬢さんは急に疲れたように目を閉じた。

 遠慮がちの軽いノックの音がして、ドアから眼鏡をかけた若い男が顔を覗かせた。

「ミス・ストロンボリ、終わりましたか?」

 テッサが立ち上がると、お嬢さんが、ピーター、と男に呼びかけた。

「ピーター。わたし、ミス・ストロンボリに今晩ここに泊まっていただきたいの」

 驚いたが、ピーターはそれ以上だった。泡を食った様子でどもりながら言い始めた。

「ルイズ、それはまずいよ。それは」

「わたし、怖いのよ、ピーター。一人になるのが怖いの」

「それなら、メイドをこの部屋で寝かせよう。ミス・ストロンボリだって、ご迷惑だろう」

「あんたがイヤじゃなければ、あたしは構わないけど?」

 お嬢さんは感謝に満ちた目でこっちを見た。ピーターの方は露骨にむっとした顔をした。

「お願いよ、ピーター」

 押し問答の末、ピーターはようやく折れた。お嬢さんはほっとしようだった。

ピーターは仮のベッドを用意させに出ていった。その間に、テッサは部屋の中を点検した。

 ドアは二つしかない。廊下に出るドアと、浴室に続くドア。窓は、裏庭に面して背の高い窓が三つ。どれも上下に開く型で、内側に真鍮の掛け金式の錠がついている。外から開けるのは、ガラスを破りでもしない限り無理だ。

 ミス・ストロンボリ、とお嬢さんが呼んだ。

「テッサでいいよ」

「それじゃ、わたしはルイズ。わたしの言うこと、信じてくださるの?」

「疑う理由もないと思うけど」

 このお嬢さんには嘘をつくほどの才覚も度胸もないだろう。

「なんで、あんたの婚約者は信じないんだろう」

「ピーターは常識人だから。あまり変わったことは好きじゃないの。クエイドの方は、真剣に聞いてくれたんだけど」

「クエイドって?」

「ピーターの友達。世界中を旅してまわって、色々なものを見てきたんですって。わたしの見た赤い目は、大きなこうもりじゃないかと言うの。南米にはそういう大きなこうもりがいるんですって。ピーターは全然、相手にしなかったけど。ここはロンドンだ、南米の大平原じゃないって」

 あたしも今日の夕方、ホワイトチャペルで狼を見た。狼がロンドンにいるなら、南米のこうもりがいたって不思議はない。

「テッサさんが泊まってくれるなら安心だわ。万が一、ロープがほどけても縛り直してもらえるでしょう?」

「あたしが縛ったロープは解けない」

「ごめんなさい。本当にそうね」

 お嬢さんは微笑んだ。

 なんだ、良家のお嬢さんといっても普通の若い女じゃないか。昔、メアリー・ケリーと暮らしていた頃、寝る前にあれこれ、町の噂話をしたのとたいして変わりない。

「アメイジング・ヘラクレサって有名なんですってね」

「まあね」

「今度、見に行ってもいいかしら」

「良家のお嬢さんが来るような小屋じゃないよ」

「大丈夫。変装してこっそり行くから」

 そんな度胸はないだろう。

「あんたの夢遊病、大分前からなのか?」

「子供の頃からよ。昨夜はそれでも窓を開けただけで、眠ったまま部屋から出ようとはしなかったから、まだ運が良かった。虫に刺されただけで済んだから」

「虫?」

「そう。首のところ」

 テッサが覗きこむと、お嬢さんの首に、ぽつんと二つピンで突いたような赤い痕がついていた。

「痛くないの?」

「全然」

 ノックの音がして、贅沢なドレッシングガウンを身に付けた中年の女性が入ってきた。お嬢さんは驚いた声を出した。

「お母様!」

 母親は、じろりと娘を見てから、テッサに向かいあった。

「ダーリントン卿から聞きました。今夜はわたしがここで娘と寝ることにします」

 細い低い声だったが、有無を言わさない強さがあった。

「でも、お母様……」

 お嬢さんの抗議は母親のきつい視線に会って途中で消えてしまった。

「ですから、今夜はお引取り頂いて結構です。それから、娘は明日、医者に診せますので、これ以上、ご足労をおかけすることはないと思います。ご苦労さまでした。ダーリントン卿から謝礼を受け取ってください。馬車がお宅までお送りします」

 絹の寝具を抱えたメイドが入ってきて、長椅子にベッドをこしらえ始めた。

 お嬢さんの顔は惨めに表情を失っている。逃げるようにテッサの視線を避けて、あちらを向いてしまった。

 庭の隅でひとりで泣いているお嬢様。

 やはり世界が違う。

 テッサは何も言わずに寝室を出た。

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