第五章 ブルヘッド
ブルヘッドのドアを開けたとたんに、煙草の煙と汗の匂い、女達の安白粉の匂いに揚げ物の匂いが混ざった淀んだ空気がうわん、とぶつかってきた。思わず入るのをためらったが、すぐ後ろからやってきた数人の男にどつかれて、俺はよろよろと店の中に足を踏み入れた。
土曜日の夜。
店は忙しさのピークのようだった。客たちは、空気の悪さなど気にも留めていない。そこここにあるむき出しの木のテーブルに友人同士寄り集まって、パイントジョッキを傾けながら、大声で話している。その声の大きいこと。狭い店の中にわんわんと反響して、耳がおかしくなりそうだ。
人込みの中を泳ぐように掻き分けて、なんとか店の奥のカウンターにたどりつくと、そこでもいっぱいの男女が、ごちゃごちゃと固まって注文の順番を待ち、そのついでにあたりの知り合いとしゃべっている。カウンターの内側では店の親父と女将、手伝いの若い女給二人が次から次へと機械のようにビールをジョッキに注ぎ、その合間に代金を受け取り、客が注文を叫ぶと大声で怒鳴り返している。それでも、後から後から新しい客が詰め掛けてくる。戦場のような騒ぎだった。
これじゃ、いつになったらビールにありつけることかと心細くなった時、後ろからぽん、と肩をたたかれた。
「珍しいじゃないか」
蛇使いが首に腕を回して、酒臭い息を吹きかけてきた。大分、出来上がっているようだ。
「お前、何飲むの?」
言うなり、返事も聞かずに、ジェニー、ビター二つ、と叫ぶと、コインをポーンと若い女給に放った。すぐに細かい泡の盛り上がった二つのビールジョッキがカウンターの向こうから滑ってきた。へえ、さすがに常連は違う、慣れたもんだと感心した。蛇使いは左手にジョッキ二つ掴むと、来いよ、と数人の娼婦が集まっているテーブルの方に引っ張っていった。
「あら、お久しぶりい」
ジョッキを前にしゃべっていたネリーが歓声をあげた。
「お前の色男を連れてきてやったんだ。感謝しろよ」
蛇使いがにやにやした。俺は前に何回か、ネリーとひっかかりがあった。当惑して、もごもごと挨拶を口ごもると、まわりの女達がどっと笑った。
「今日はマエストロは来ないの?」
スズメのように小柄で丸っこい身体つきのコニーが聞く。
「来ないよ」
今日のテッサは変だった。時間ぎりぎりに楽屋入りして、ステージもなんとなく上の空。観客への挨拶もおざなりで、あやうく楽団がタイミングをはずしそうになった。その後すぐ、すかした若い男がやってきた。いつものお迎えの馬車だという。もう、断わった方が良くないか、と忠告したが、テッサは聞く耳もたなかった。いそいそと楽しげに出かけていった。面白くない。全然、面白くない。くさくさする気分をもてあましてここへ来た。
「マエストロは来なくていいよ。あいつが来ると酒代がかさんでしょうがない」
蛇使いが言った。テッサの酒量は底なしだった。
「あたしがいるんだから、淋しくないよね、三郎?」
ネリーがしなだれかかってきて、俺はビールにむせて咳き込んだ。あわてるなよ、と蛇使いが笑いながら背中をたたいてくれる。
「そうだよ、あわてなくても、夜は長い」
コニーが言った。
ネリー、コニー、キャシー、メグ。みんな、この付近の通りで稼ぐ娼婦だ。今はまだ、こうして仲間同士にぎやかにしてるけれど、もっと夜が更けて闇が深くなると、彼女たちは明るい談笑の輪を抜けて、暗い街路に出て行く。ばらばらになって客を探し、人通りのない路地や暗い倉庫の陰に引き込む。だから、ジャックの格好の獲物になってしまったんだ。警察がどんなに警戒しようとも、被害者自身が好んで暗く人目のない所へ入り込んでいくのだから。彼女たちの職業の性質上、仕方ないことではあったが。
数年前、ホワイトチャペルの事業家が、地域の風紀の悪さを嘆いて浄化運動を起こしたことがある。法律ができて、いくつもの売春宿が閉鎖された。
売春宿で働く女たちは搾取されていた。身を売って稼いだ金の八割を、ショバ代として売春宿の経営者に吸い上げられていた。ひどい話だ、そんな宿は閉めてしまった方がいい。
社会改革家はそう考えたのだろう。だが、現実はそう単純ではない。売春宿は、娼婦を食い物にしていたが、同時に保護の役目を果たしていた。訪れる客は、主人や他の娼婦の目にとまる。勝手な真似をするにも限度があった。その最低限の保護を失って、今、女たちはひとりで街に立つしかなくなった。ジャックが跳梁するのはそれから間もなくのことだ。このホワイトチャペルの事業家がやったことは、結局、弱い立場にいる人間を、さらに苦しい立場に追いやっただけだ。
世の中を正そう、社会を良くしようと考える人たちは、自分達の掲げる理想の眩しさに幻惑されて目が見えなくなるんじゃないか。人にはそれぞれ事情がある。一律に善悪を決めることはできないのだ、と俺は後悔の念と共にわが身を振り返ることがある。それがもう少し早くわかっていれば、逃げるように日本を出てくることはなかっただろうに。
蛇使いが、メグに新聞を読んでやっている。トップ一面にでかでかと載っているのは、中年の女の似顔絵だ。どこかで見た顔だ。その上の見出し「ジャック帰る!」を見て気がついた。昨日、モルグで見た女じゃないか。
「この人ね、あたしと同じ、スパイトフィールドの木賃宿にいたんだよ」
キャシーが指さして言った。
「へえ、知り合いだったのか?」
と尋ねると、ううん、と首を振った。
「キッチンで時たま一緒になっただけ」
コモンロッジングハウスと呼ばれる木賃宿は、いわゆる入れ込みの宿で、一晩のベッド代が四ペンス。一階に共同のキッチンがあって、住人はそこで簡単な料理をしたり、洗濯物を乾かしたりしながら、噂話に興じる。
「あたしたちとは違う世界の人だよ。お金持ちみたいだった」
確かに、昨日見た死体のドレスと靴は、この町の標準とはかけ離れていた。
「木賃宿に泊まってたのは、なんか理由があったんじゃないかな。誰かから逃げて隠れてるとか」
「それで見つかって殺された、か?」
俺は、ちょっと見せてくれ、と新聞を蛇使いから取り上げた。蛇使いは、おいおい、と抗議したが、ちょっとの間だよ、と言って急いで一面に目を通した。
女の身元は判明したようだ。名前はアンナ・マノーラ。スパイトフィールド近くの路地で首を切り裂かれて死んでいるのを、昨日の午前二時に巡回中の巡査が発見した。現場は血の海だったという。女の手提げがすぐそばに落ちていて、中には二ポンド六シリング入った財布が残っていたから、強盗とは考えられない。記者は、首を裂くのは、まさに切り裂きジャックの手口だと書き立て、今度こそ警察の威信にかけて、ジャックを逮捕すべきだと結んでいた。
コニーが記事を指さした。
「この人のせいで、ホワイトチャペル中、おまわりだらけになっちゃった。うちの宿にも昨日から青い制服が来て質問攻め。この女を知らないか? 仲間じゃないのか? 一昨日の夜、この女を見た者はいないか?」
ネリーが引き取った。
「あたしたちだって、ホワイトチャペル中の同業のこと知ってるわけじゃないって言ってやればいいんだよ。ここには木賃宿が三百からあるんだからね」
「アンナさんは同業じゃないよ」
キャシーが口を挟んだ。普段はおとなしい娘だが、時折、意外な強情を発揮する。信心深くて教会へもちゃんと行く娼婦だ。
「それにしちゃ、夜、よく出歩いてたじゃないか。あたしたちみたいに」
ネリーが言う。
「君も知ってるの?」
と、三郎が尋ねると、ネリーが、夜、何回か見かけたことがあるんだよ、と言った。
「マートル・スクエアとか、ドーセット・ストリートとかでさ。まあ、あっちは一人だったけどね」
つまり、ネリーの方は客と一緒だったということだ。
「アンナさんには出歩く理由があったんだよ」
と、キャシー。
ふん、とネリーは鼻を鳴らした。
「どんな理由が? 夜中にあんなとこにいる、どんな理由があるってのさ」
「そんなこと知らない」
キャシーはすねたように言った。
待てよ。
ドーセット・ストリート。ホワイトチャペルは細い路地が入り組んで交差する迷路のような町だ。住人だって全部の通りを知ってるわけじゃない。だが、俺は確かにドーセット・ストリートを知っている。歩いたことがある。なぜ?
雷に撃たれたようだった。
ドーセット・ストリートはミラーズ・コートにつながる。メアリー・ケリーの部屋に行った時によく歩いた通りだ。それに……。
「マートル・スクエアは去年、キャサリン・エドウズが見つかったところだ」
ジャックの四番目の犠牲者。
「そしてドーセット・ストリートは……」
最後まで言う必要はなかった。その場の全員が即座に理解した。
「イヤだ、変なこと言わないでよ」
コニーが悲鳴のような声をあげた。
「アンナさんは、まさにジャックの犯行現場のすぐ近くをうろうろしてたってことだ」
俺が言うと、偶然だろ? と蛇使いが言った。
「きっと、切り裂きジャック・ツアーよ。あの人、外国人だったから。せっかくロンドンに来たんだから記念にって思ったんでしょ」
ネリーが勢い込んで言った。
去年、切り裂きジャックの事件の後、金を取ってホワイトチャペルの殺人現場を観光する悪趣味なツアーが流行った。だが最近はそれも下火になっていたし、アンナは一人だったという。ジャック・ツアーならガイドが一緒のはずだ。それに、もっと気になることがある。
「ネリー、アンナさんは外国人だったのか?」
「うん。言葉がちょっと変だった」
ねえ、とキャシーに同意を求める。キャシーもうなずいた。
「どこから来た人なんだ?」
「日本」
と言って、メグがけたたましく笑った。俺は苦笑した。自分も外国人だ。時々、それを忘れてしまう。
「その女が外国人だからどうだっていうんだ?」
蛇使いが聞いた。彼も外国人だ。褐色の肌は、中近東の人間であることを明かしている。
「ジャックだよ。切り裂きジャックは外国人風のアクセントで話してたって、目撃者が言ってただろう? 何か関係があるのかもしれない」
「その通りだな」
突然、太い声が割って入った。振り返ると、ジョージ・ハッチンソンの大きな身体が熊のように突っ立って、あたりを睥睨していた。この近辺をうろついている地回りだ。イヤなやつに出くわした。
「その通りさ。お前ら外国人のおかげで、この国はめちゃめちゃだ」
「誰もお前の意見なんか聞いてないよ」
蛇使いがやり返した。
「こっちもお前ら外国人に来てくれなんて頼んでないぜ」
「おや、この国のお偉いさんは違うこと言うぜ。安く使える優秀な外国人が来てくれて有りがたい、お前みたいな国産のクズよりよっぽど役に立つってな」
「なんだと」
「ちょっと、やめてよ!」
殴り合いに発展しそうな二人を、ネリーが辛うじて止めた。
「お前らがでかいつらしてられるのも、そう長くはないさ」
ハッチンソンは、腕につけた自警団のしるしの青いリボンを見せびらかした。去年、ジャック事件の最中に、ホワイトチャペルの有志が始めたパトロール隊だ。
「自警団は解散したんじゃなかったのか?」
俺が訊ねると、ハッチンソンは、今日、再結成したんだ、と言った。
「うさんくさい奴らが大挙して入り込んできて、物騒だからな。正直に働く英国人の暮らしを守るためさ」
警察は、と言いかけると、ハッチンソンは鼻の先で嘲笑った。
「警察になんか頼ってられねえよ。死体一つ、満足に守れないじゃないか」
「どういうことだ?」
「知らないのか? 昨日殺された女の死体が、モルグから消えちまったんだ」
テーブルの周りから驚きの声があがると、ハッチンソンは得意そうに続けた。
「マノーラとかいう外国人の女だよ。係官は確かに死体置き場に鍵をかけたって言い張ってる。ところが今朝、警察医がやってきたら、ドアに鍵がかかってない。中に入ると、女の死体が消えてる」
「誰かが盗んだのかしら」
キャシーが気味悪そうに言った。
「だろうな。死体が自分で歩いていくわきゃないんだから。とにかく、警察はあてにならねえってんで、自警団長のラスクさんが、再結成を決心なさったんだ。俺はこれからパトロールだ。お前らも気をつけな」
ハッチンソンがいなくなると、蛇使いがゲスめ、と吐き捨てるように言った。
「でも、ここんとこ、ちょっと多過ぎるかな、外国人」
コニーがつぶやいた。蛇使いが目をむくと、あんたや三郎のこと言ったんじゃないよ、とあわてて否定した。
「他の外国人」
コニーが言っているのは、迫害を逃れてロシアからロンドンに大量に流れ込んできているユダヤ系移民のことだろう。移民は慣れない異国でなんとか生きのびようと必死だ。賃金が悪くても、長時間労働を強いられても、文句言わずに働く。事業主にとっては重宝な労働力だからそっちを雇う。結果、最下層の英国人労働者の職場を奪うことになってしまった。
「あたしの弟は靴作りの職人なんだけど、五年前は週に二ポンドは稼いでた。でも今じゃせいぜい一ポンド半。ひどい時は一ポンドだって。外国人が安く働くから、こっちも料金を下げないとやってけないんだよ」
「だからって、ハッチンソンみたいなゲスの肩を持つなよ」
蛇使いが文句を言うと、コニーは肩持ってなんかいないよ、と膨れ面になった。
なんとなく気勢がそがれて、みんな黙り込んだ。コニーが立ち上がって、あたし、そろそろ行くよ、と言った。
待てよ、と俺は止めた。
「この新聞のとおりだとすると、ジャックがまた戻ってきてるかもしれないんだぞ」
「だからって、働かないわけにはいかないだろ?」
ネリーが言った。
「あたしたちだって怖いさ。でも、ベッド代はいるんだよ。それとも、三郎、あんた、四ペンス持ってるかい?」
冷たい手がすうっと首筋を撫でたような気がした。
まただ。
メアリー・ケリー。
―家賃がたまってるんだ。あんた六ペンス持ってる?
同じだ。さっきのビールで、三郎のポケットは空になった。
なんて嫌な符合なんだ。
「ほらね。やっぱり行くしかないんだよ」
キャシーとメグも立ち上がった。
俺は彼女たちが暗い街へ出ていくのを黙って見ているしかなかった。
「そんな顔すんなよ」
蛇使いが言った。
「何もジャックが戻ってきたと決まったわけじゃないんだ」
「わかってるさ。ただ、イヤな予感がするんだよ」
最後に残ったビールを飲み干した。苦い後味が舌に残った。
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